合宿地にて
メキシコシティの空港を出ると、熱気が体に貼りついた。
湿度ではなかった。乾いた、重い暑さだった。太陽が近い。標高が高いせいで、空気が薄く感じられた。チームバスに乗り込む前に、桐島は一度深呼吸した。肺に入ってくる空気の量が、日本と違う気がした。
合宿地のホテルは、市内から車で四十分ほどの郊外にあった。グラウンドと隣接した施設で、代表チームが使うために一棟ごと押さえてあった。選手二十六人、サポート選手、コーチ陣やトレーナー、分析スタッフを合わせると百人近い大所帯だった。バスの中では、ほとんどの選手が無言だった。窓の外の景色を見るか、イヤホンをして目を閉じるか。桐島は窓の外を見ていた。
チームに新顔が何人かいた。新顔、と言っても桐島が日本代表に参加する前からずっと招集されていたが、アジア予選には参加できなかった欧州組だった。ドイツ、フランス、オランダのクラブに所属する四人で、代表では実績のある選手ばかりだ。彼らは桐島を見ると、特に構えた様子もなかった。「テレビで見ました」と言った選手が一人いた。それだけだった。
桐島はその反応に、少し拍子抜けした。色々複雑な環境の自分はもっと距離を置かれるかと思っていた。しかし欧州のクラブには様々な背景を持つ選手が混在している。桐島の事情は、彼らにとってそれほど特異な話ではないのかもしれなかった。
宮内とは、荷物を運ぶ廊下で一度目が合った。宮内は軽く頷いた。桐島も頷いた。それだけだった。ピッチに入ればいつもの宮内だった。守備の強度とボール奪取、縦への推進力。何も変わっていなかった。あの日のことは存在しなかったことになっている。
* * *
暑熱対策は、初日から始まった。
気温三十八度を超える中での試合になる。フィジカルコーチの指示のもと、チーム全員で暑熱順化のトレーニングが組まれた。日中は負荷を抑えながらも屋外でボールを動かし、体を高温環境に慣らしていく。水分補給のタイミングと量も細かく管理された。
「コンディションへの順化は短期決戦の鍵になる」と浜田監督が言った。
浜田は五十代後半で、現役時代は守備的ミッドフィールダーだった。口数は少ないが、指示が明確だった。選手に余計なことを考えさせない戦術設計を好む監督だと、桐島は短い合宿でそう理解した。
夕方になると、ホテルのプールで体をほぐす時間がトレーニングとレクリエーションを兼ねて設けられた。
その話を聞いたとき、桐島は一瞬、固まった。
プール。水着。チームメイトの前で。
男性の体だったころ、プールに入ることに何の感情もなかった。しかし今は違う。女性の体で、しかもこの体で水着を着て泳ぐのは、手術から今日まで、一度もなかった。
トレーナーに確認すると「スポーツタイプのものを用意しています」と言われた。体のラインを抑えた競泳寄りのデザインだという。それは少しだけ助かったが、根本的な問題は解決しなかった。
桐島は更衣室で水着を手に持ったまま、しばらく立ち止まった。
着た。
鏡は、見なかった。
更衣室の扉を開けると、プールサイドの明るさと熱気が一緒に来た。
すでに何人かが水に入っていた。残りはプールサイドで準備体操をしていた。桐島はできるだけ自然に歩こうとした。しかし体が動かなかった。足が、扉のそばで止まった。
男性の水着とは違う。それは頭でわかっていた。しかし実際に体に着けてみると、肩から胸にかけての形が、明らかに違う輪郭を作っていた。スポーツタイプとはいえ、この体の形を隠しきれるものではなかった。身体に張り付く生地の感触が、羞恥を加速させる。
視線を感じた。
宮内だった。こちらを見ていた。桐島と目が合った瞬間、宮内はすぐに視線を水面に移した。一秒あるかないかだった。ただ、確かにあった。
桐島は何も言わなかった。宮内も何も言わなかった。
扉のそばに立ったまま動けずにいると、プールの中から声が上がった。
「桐島さん、早く入ってください」
川田だった。
「水、気持ちいいですよ」と別の声。
「待ってたんで」とまた別の声。
そのうちに、水から上がった山岸が2人連れて、桐島の両脇と背後に回った。
「いや、待てキャプテン」
「せーの」
「待て、待て待て——」
ざぶん、と大きな音がした。
水の中に投げ込まれた桐島は、数秒、水面の下にいた。
浮き上がると、プールサイドが笑い声に包まれていた。水の中にいた選手たちも笑っていた。宮内も、口元に笑いがあった。
桐島は水を一度吐き出して、笑った。
おかしかった。自分でも笑えた。四十八歳の自分が、こういう形でプールに突っ込まれることになるとは思っていなかった。
水の中に入ると、体が軽くなった。
浮力が、体重を消してくれた。腕を動かすと、水が流れた。女性の体で水の中を動くのは初めてだった。胸の浮力が余分にあって、最初は姿勢を保つのに戸惑った。慣れるまで少し時間がかかった。だが、水は体をリラックスさせてくれた。
ゆっくり体を伸ばしながら、桐島はふと考えた。
葵もプールに入ることがあっただろう。夏に、友人と海に行ったかもしれない。この体で波の中に入って、笑いながら水をかけ合ったりしたかもしれない。水着を選ぶことを、楽しんでいたかもしれない。
自分は今、その体で、ワールドカップの合宿地のプールに浮いている。
おかしな話だ、と思った。おかしいが、現実だった。
* * *
合宿2日目の夜、ミーティングルームに選手全員が集まった。
浜田が前に立ち、スクリーンにFC東都の試合映像を映した。
「全員、これを見てくれ」
後半から桐島が投入される場面だった。チームのプレスラインが上がり、相手のボール回しが詰まっていく。桐島が前に出て、縦パスが通り、決定機になる。その場面が三度繰り返された。
「桐島を前提にしたフォーメーションを、ここで試したい」
ミーティングルームが静かになった。
最初に口を開いたのは、欧州組のベテランDFだった。「特定の選手がいることを前提にしたシステムは、その選手が使えなくなった瞬間に崩れる」
「正しい指摘だ」と浜田は言った。「だから切り札として使う。先発の戦術ではなく、局面を変える手段として設計する。これはあくまでJリーグの試合だが、俺の目では、そのまま今の最高レベルの試合でも切り札になりうる。」
別の選手が言った。「守備の穴はどうカバーするんですか。桐島さんのフィジカルで、日本より更に強く当たってくる相手に守れますか」
桐島は黙っていた。言い訳はしたくなかった。
浜田が答えた。「守備の穴はチームで塞ぐ。桐島に当たり負けさせるんじゃなく、桐島が奪わせる形を作る。映像をもう一度見てくれ」
スクリーンの映像が戻った。今度は守備の場面に焦点を当てた。桐島が直接ボールを奪う場面はほとんどなかった。コースを切り、パスを誘導し、周囲が奪う。そのサイクルが繰り返されていた。
ルームの空気が少し変わった。
「一度試してみないことには判断できない」と宮内が言った。静かな声だった。「紅白戦でやってみましょう」
異論は出なかった。
翌日の紅白戦は、マスコミ非公開で行われた。
桐島フォーメーションを試すのは後半からだった。前半は通常の布陣で動き、後半の頭から桐島を投入した。
最初の十分間は、相手チームに対応された。さすがにワールドクラスの選手が多く、国内とはレベルの違うスピードのパスとビルドアップで逃がされる。しかし十分を過ぎたころから、流れが変わった。相手の判断が遅くなった。パスコースを消されることへの意識が、プレーを窮屈にさせていた。
二十分過ぎ、宮内がボールを奪った。桐島はすでに動いていた。ラインの裏へ。DFが追いつけなかった。桐島からのボールを受けたFWがシュートを打った。ゴール。
紅白戦の後、相手側でプレーしていた選手たちが口々に言った。「やりにくかった」「どこに立たれても嫌だった」「奪いに行けないのに、なんとなく前に出られなくなる」
新たに加わった欧州組のDFが浜田監督と桐島を見て頷いた。
桐島も頷いた。
* * *
初戦の前日、チームは午前中に軽い調整練習を終えて、午後は各自の時間になった。
桐島はホテルの部屋で、少し横になった。深く眠れはしなかったが、体が落ち着いた。
夕方、一人でグラウンドの端を歩いた。試合前日の芝は静かだった。遠くにメキシコの山並みが見えた。空の色が、日本より濃い青だった。
明日の会場は、グアダラハラのスタジアムだった。収容人数五万。初戦の相手はオランダ。フィジカルと組織力を兼ね備えた、ワールドカップの常連だった。
グラウンドの隅に、日本の旗が立っていた。
風が吹いて、旗が広がった。
48歳の経験。富山で受け取ったもの。瀬川の言葉。葵の体。家族の応援に、浜田の戦術。それらはこの場所に全て持ってきた。
桐島は旗を見上げたまま、しばらく動かなかった。




