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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
18/34

出発

ワールドカップ本大会の出場メンバー26人が発表された日、桐島の名前はリストの中にあった。桐島は自宅のテレビで発表を見ていた。クラブの方で記者会見などとセットにされ、目立ちたくないという思いを受け入れてもらっていた。背番号は控えゴールキーパー二人を除いた最後の24番だった。


発表から、SNSの通知が止まらなくなった。黒川が「見ない方がいい」と言った。桐島は「見ていません」と答えた。半分は嘘だったが、大体の予想はできたので半分は本当だった。


リーグ戦は、代表発表後も続いた。

FC東都は、別のチームになった。正確には、後半四十五分に別のチームになった。

監督の伊藤は、前半をあえて抑えた布陣で戦わせた。守備ブロックを低く保ち、カウンターを狙いつつ、相手に体力を使わせる。その代わり、後半の頭から桐島を投入する。桐島が入ると同時に、チームのプレスラインが一段上がった。

桐島を軸に据えた中盤の配置は、いつしかスポーツメディアで「桐島フォーメーション」と呼ばれるようになっていた。

仕組みは単純だった。桐島が守備ブロックの前に立ち、相手のボール回しのコースを切る。強引に奪いには行かない。立つ位置と重心の向きで、相手の選択肢を一つずつ削っていく。やがて相手のパスコースが詰まり、苦し紛れの横パスかバックパスになる。その瞬間に、周囲の選手が一斉にプレスをかける。

ボールが奪われると、桐島はすでに動いていた。

相手のラインが整う前に、背後のスペースへ。四十八年分の経験が、走るコースとタイミングを教えていた。どこに走れば使ってもらえるか。どの瞬間に動けば相手のDFが追いつけないか。体の速さではなく、判断の速さで抜け出した。桐島が前に出るか、桐島からの縦パスが裏に通るか。そのどちらかで、後半の東都は何度も決定機を作った。

試合後、伊藤監督が短く言った。「本物だ」

それが一番の言葉だった。

*  *  *

ドキュメンタリーが放送されたのは、代表の出発二週間前だった。

深夜の枠だったが、SNSでの反響が大きく、翌朝には各ニュースサイトのトップに桐島の名前が並んでいた。本編では、取材の過程で見つかった過去の映像も使われ、四十八年分の軌跡がひとつの線として描かれた。

桐島は、完成した映像を試写室で一度見た。それ以降、見ていない。

放送の翌日、恵子が言った。「拓海が泣いてた」

桐島は「そうか」と言った。

「あなたは?」

「見てない」

恵子は何も言わなかった。それが正解だと桐島は思った。

世間の反応は、桐島の予想を超えていた。スポーツの文脈だけではなく、医療、倫理、アイデンティティ、そういった切り口でも記事が出た。全部を追う気にはなれなかった。ただ、製作会社のディレクターから「反響の多くは、プレーそのものへの驚きです」という連絡が来た。それは素直に、うれしかった。

*  *  *

問題が起きたのは、その後だった。

桐島が外出できなくなった。

コンビニに入るだけで声をかけられた。駅のホームで写真を撮られた。ジョギングをしていると、走りながらスマートフォンを向けてくる人間がいた。黒川に相談すると、「しばらくは外出を最小限に」という答えが返ってきた。「しばらく」がいつ終わるのかは、黒川にもわからないようだった。


そんな状況に陥った二日目の夜、夕食の後で恵子が言った。

「一つ、試してみてもいいですか」

テーブルに、美鈴のものらしき服が畳まれていた。タイトなジーンズ。体のラインに沿うトップス。それから、かかとのある女性用の靴。

「やるなら徹底的にやらないと意味がない。美鈴に借りてきた」

...嫌だった。控え目に言っても、かなり嫌だった。服への嫌悪というより、そうしなければ外を歩けないという状況そのものが、腑に落ちなかった。四十八年間、男として生きてきた。今もそのつもりでいる。それなのに、この体に合わせた格好をしなければ身を隠せない、という現実が、気持ちの上では引っかかった。

しかし、外に出られないのも事実だった。背に腹は代えられない。

「……わかった。やる」

恵子は小さく頷いて、椅子を引いた。


三十分後、桐島は鏡の前に立っていた。

最初に目に入ったのは、シルエットだった。

ジーンズが脚のラインに沿い、トップスが腰の丸みを出していた。肩の幅の狭さ、ウエストの細さ。男性の体には出ないはずの線が、鏡の中に映っていた。それが自分の体だった。頭ではわかっていたはずのことが、服を通じて初めて視覚として届いた。

気持ちの悪さとは違った。ただ、知らない人間を見ているような感覚があった。この輪郭は自分のものではない気がした。しかし確かに、自分の体だった。

ふと思った。

葵は二十歳だった。もしかしたらこういう服を着て、街に出ていたのだろう。好きな男性に会いに行く日には、鏡の前でこういうふうに自分を確かめていたかもしれない。いずれ誰かと出会って、恋をして、結婚を考える時間があったかもしれない。

その時間が、なくなった。

この体に残っているのは、その可能性の器だけだった。桐島はそれを借りて、全く別の人生を生きている。

鏡を、もう少し見た。

「どう?」と恵子が聞いた。

「……自分じゃないみたいだ」

「それが目的だから」

恵子の声は明るかったが、桐島の顔を読んでいるようでもあった。「眉を整えれば、もっとわからなくなる」

桐島は「頼む」と言った。


翌日、近所のスーパーに行った。

誰も振り返らなかった。レジでも、駐車場でも、声をかけてくる人間はいなかった。桐島は牛乳と豆腐と納豆を買って、帰った。帰り道、少しだけ遠回りをした。川沿いの道を歩いた。かかとのある靴の感触が、歩くたびに足に伝わった。既にこの身体と2年近く付き合いながらも、「女装」して歩くのは初めてで、色々な人間に見られながら歩くことに最初は羞恥を感じた。ジーンズも、男物とは違って体に張り付き、平らな股間部分を晒しながら歩く。体全体に、特に男性の視線が突き刺さる。

だが、誰も自分を「桐島」とは認識しない。その事実は安堵であると同時に、妙な宙づり感をもたらした。自分は今、何者として歩いているのか。男でも女でもなく、術後の桐島のライフスタイルからも離れた偽りの姿で、川沿いを歩いている。

悪くはなかった。悪くはなかったが、これが自分だとも思えなかった。

それでいい、とも思った。仮の姿でも歩けるだけで、十分な気分転換だった。


瀬川に見破られたのは、その翌日だった。

瀬川が、術後の自分をサッカーにまた誘ってくれた。この身体ではできないと決めていた自分を後押ししたのは確かに彼だ。

今も瀬川はアマチュアでボールを蹴り続けていた。Jリーグでも草サッカーでも、プレーの場所は関係なかった。老いていく身体と付き合いながら、サッカーへの情熱を燃やし続けていた。


その瀬川と、駅前の商店街でばったり会った。桐島は、例の「女装」に加えて、恵子が整えてくれた眉と簡単な化粧をして、念入りにセミロングのウィッグまで被っている。自分でも鏡をみたが、日焼けをした肌は隠せず、モデルのような美女とはいえないものの、明らかに男性とは一線を画し、違う意味で目を引くヴィジュアルに仕上がっていた。


桐島は、昨日から自分が桐島だと見抜かれず、少し気を抜いて歩きはじめたところで知り合いと出会って心臓がはねた。が、向こうは気づいていない、と判断して視線を外した。


「桐島?」

振り返ると、瀬川が立っていた。

「違います」

「目元でわかるわ」

「人違いです」

「その声で言われても」

桐島は観念した。


瀬川はしばらく桐島を見ていた。笑いをこらえているのか、真顔を保とうとしているのか、判別しがたい顔だった。

「……似合ってるよ」

からかう声ではなかった。ただ、言った後で瀬川は少し肩を揺らした。

「笑うな」

「笑ってない笑ってない」


二人はそのまま近くの定食屋に入った。向かい合って座ると、瀬川は変装の話にそれ以上触れなかった。

「久しぶりだな」と瀬川は言った。「あの練習試合からもう2年になる」

「あのとき、最初の試合で縦パス一本出しただろ。あれで、こいつは本物だと思ったんだよ」

桐島は苦笑した。「体が変わっても、頭だけは残っていたらしい」

瀬川は少し間を置いてから、言った。「一番驚いたのは、続けたことだよ。俺だったら無理だったと思う。それでも蹴り続けて、代表に入って、ワールドカップに行く」

桐島は何も言わなかった。

「俺はずっとアマチュアだし、これからもそうだ。でも、お前が代表で走っているのを見るのは、なんか、いい。俺たちが蹴ってきた時間が、あそこにつながってる気がして」

桐島は、瀬川を見た。


もし手術をしていなかったら、自分も瀬川と同じように、週末にグラウンドでボールを蹴り続ける人間だったかもしれない。膝が痛くなって、少しずつ走れなくなって、それでも仲間とピッチに立つことを楽しみに生きていたかもしれない。

それが悪い人生だとは、少しも思わない。

しかし自分は今、別の場所にいる。葵の体を得たことが、ただの重荷ではなかった。あの日、あの出来事が自分を再生させた。新しい形で、もう一度走らせた。それが今、ワールドカップへと続いている。

重さは、ある。後ろめたさも、まだある。しかし今この瞬間、桐島は、この体で生きていることを肯定していることを実感した。


「行ってこい」と瀬川は言った。「見てるから」

定食が来た。二人はしばらく何も言わずに食った。

店を出るとき、瀬川が「ところで」と言った。

「その格好で帰るのか?」

「帰る」

「・・・気をつけてな」

それだけだった。

*  *  *

出発の前日、桐島は家の中をゆっくり歩いた。

特に理由はなかった。ただ、しばらくここには戻らないという感覚があった。

リビングに恵子がいた。美鈴がソファで丸まっていた。拓海はもう自分の部屋だった。

恵子が「何か忘れ物でも?」と聞いた。

「いや」

「じゃあ、座れば」

桐島は恵子の隣に座った。テレビがついていた。スポーツニュースで、ワールドカップの特集が流れていた。

恵子がリモコンで音を少し下げた。

「怪我せずに戻ってきてね」と恵子は言った。

「ああ」

「約束」

「約束だ」

恵子はそれ以上何も言わなかった。桐島も言わなかった。テレビが、対戦国の映像を流していた。


翌朝、成田空港には報道陣が来ていた。黒川が先に出て、取材の対応をしていた。桐島はチームメイトの列に並んで、ターミナルを歩いた。

見送りは、黒川と恵子だけだった。恵子は手を振らなかった。桐島も振らなかった。目が合っただけだった。

搭乗ゲートを抜けると、後ろが見えなくなった。

桐島は前を向いて、歩いた。

メキシコまでは十四時間の空の旅だった。


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