重力
富山から戻った翌週、所属クラブのリーグ戦が再開した。
桐島は、試合に戻ることが今の自分には必要だと思っていた。考えすぎるより、体を動かす方が向いていた。ピッチの上では判断が速く求められる。前の出来事を引きずっている暇がない。それが今は、ありがたかった。そして、精一杯生きると誓った結果、次のステップ、ワールドカップ本戦のことを考えるようになった。
それに伴い、クラブでのプレーの中身も変わっていた。変わった、というより、焦点が絞られた、という感覚に近かった。
アジアでは、自分のプレーが代表のスタイルにはまっていることを理解していた。引いた相手のブロックをどう崩すか。ボールを動かしながら、相手の重心が傾いた瞬間に差し込む。また自分のところでボールを奪いきろうとする相手がバランスを崩して、それがチャンスに変わる。四十八年分の経験が、狭いスペースの使い方として出てきた。それが機能していた。
しかし世界は違う。
強豪国と戦うとき、日本は受け手に回る時間が長くなる。ボールを持たせてもらえない。ならば守備の強度が問われる。監督が代表に求めているのは、プレスバックの速さとボールを奪いきる強度、切り替えの速さ、そしてフィジカルコンタクトで負けないことだった。
桐島は、自分の体を見た。
細い腕。細い脚。骨格が、チームメイトの誰より小さかった。女性の体は、どれだけ鍛えても出力の上限が違う。相手が良い体勢でボールをもっていれば、ボールを奪いに行くと逆に弾き飛ばされる。それは努力で埋められる差ではなかった。
リーグ戦の試合後、ロッカールームで一人残って、桐島はテーピングを巻き直していた。体の使い方を変えなければならない、と思っていた。フィジカルで劣る分を、ポジショニングで補う。コースを切る。相手より先に立つ。ボールを奪うのではなく、奪わせる形を作る。できることとできないことを、もう一度仕分けし直す時期だった。
* * *
宮内から連絡が来たのは、リーグ戦の中断期間に入ったころだった。
宮内悠斗は、アジアカップとワールドカップ予選をともに戦った代表のチームメイトだった。年齢は22歳。守備的ミッドフィールダーで、縦への推進力とボール奪取を武器にしていた。代表では桐島の右隣でプレーすることが多く、ピッチの外でも練習後に言葉を交わす機会があった。海外クラブへの移籍が決まったという話は、黒川経由で桐島の耳にも入っていた。
メッセージには「移籍の前に、一度話したいことがある」とだけあった。
待ち合わせは、都内の静かなカフェだった。
宮内はすでに来ていた。桐島が向かいに座ると、しばらく何も言わなかった。桐島も待った。
「直接言いたかったんです」と宮内は言った。「桐島さんのことが、好きです」
声は落ち着いていた。告白というより、報告するような言い方だった。
「全部、知っています。四十八歳で、家族がいて、男性として生きていることも。それでも、伝えないで行くのが嫌だと思って」
桐島は宮内を見た。揺れていなかった。答えを求めているわけでもなかった。ただ、言葉を置きに来た、という顔だった。
「ありがとう」と桐島は言った。「でも、応えられない」
「わかっています」
「それでも言いたかった、ということか」
「はい」
短い返答だった。それ以上でも以下でもなかった。
二人はしばらく、コーヒーを飲んだ。会話は続かなかったが、気まずくもなかった。宮内は移籍先の街のことを少し話した。桐島は相槌を打った。別れ際、宮内は「ワールドカップ、一緒に行きましょう」と言った。桐島は頷いた。
カフェを出て、一人になってから、桐島は少し立ち止まった。
自分がそういう目で見られている、ということを、今まで意識したことがなかった。ピッチでは関係ない、と思っていた。実際、試合中にそれを考える余裕はなかった。しかし今日、それが現実として目の前に来た。
嫌悪はなかった。宮内を責める気持ちもなかった。ただ、自分がこの体でプレーすることが、また別の角度から複雑になった、という感覚があった。
男性のチームに、女性の体で交じっている。そのことの複雑さを、桐島はこれからも引き受けていくしかなかった。他に方法がなかった。
* * *
ワールドカップ本大会のメンバー発表まで三週間を切ったころ、代表監督の浜田から個別に呼ばれた。
場所はナショナルトレーニングセンターの会議室だった。浜田はテーブルの向こうに座って、戦術ボードを広げていた。五十代の、がっしりした体格の男だった。話し方は短く、感情が表に出ない。
「座ってくれ」
桐島は椅子を引いた。
「率直に話す」と浜田は言った。「お前のフィジカルの限界は、わかっている。世界を相手に、守備強度でチームを助けることは難しい。それは織り込み済みだ」
桐島は何も言わなかった。
「ただ、一つ考えていることがある」
浜田は戦術ボードに手を伸ばした。
「お前が出場できる時間帯を、限定する。先発ではなく、ゲームの流れが変わる瞬間に投入する。そのために、お前を前提にしたフォーメーションを一つ用意している」
桐島は戦術ボードを見た。通常とは異なる配置が描かれていた。
「まず、相手が守りを固めてきたとき、守備ブロックの前に起点を置く。お前にはそこに入ってもらう。ボールを受けてからのトランジション、相手のラインが下がった瞬間にボランチの背後を突く崩し、その二点に絞って使う」
「切り札として、ということですか」
「そうだ。フルタイム使うつもりはない。だが、局面を変える三十分として、お前の動きをそのまま武器にするフォーメーションを作った。アジア予選でやってきたことを、もっと純化する」
桐島は少し考えてから、言った。
「仮に守備に回る時間が長い展開になれば、どう動けばいいですか」
「ポジショニングで相手のコースを消せ。フィジカルで奪おうとするな。相手の選択肢を削って、味方が奪える形を作る。それだけでいい。奪った瞬間のボールを引き出し、前線に繋げるのが、お前の仕事になる。お前のゲームの流れを読む力は、欧州組を含めても突出しているが、それに賭ける」
浜田はボードから目を離して、桐島を見て苦笑した。
「アジア予選で、お前がチームをまとめてチームを突破させたことはそれ以上に大きい。ベテランの目線で若い選手を動かせる。本大会では必ず必要になる要素だし、何より...チームから外せば川田や山岸が黙っていない」
「わかりました」と桐島は言った。
「リーグ戦の残り試合、見ている」
それで話は終わった。
桐島は会議室を出て、廊下を歩いた。正直に言えば、外されることも覚悟していた。しかし、居場所を作ってくれた。フィジカルの限界を欠点として扱うのではなく、それを前提にした使い方を考えてくれていた。
それに応えるには、走るしかなかった。
* * *
その夜、桐島は一人でグラウンドに残った。
照明はついていなかった。空に薄い月があった。ピッチの芝が、暗い中でも青く見えた。
富山で受け取ったもの。宮内の言葉。浜田の問い。それぞれが、別の角度から同じ場所を指していた。自分は今、この体で、何を背負って、どこに向かっているか。
葵の人生を全部は知れない。応えられない期待もある。できないことは、これからも出てくる。
それでも、ピッチには立てる。
桐島は立ち止まって、空を見た。
ワールドカップに行く。行って、そこで戦う。それが今の自分にできる、最も遠くまで届く答えだった。
月が、雲の端から出てきた。
桐島は、歩くのをやめて、走り始めた。




