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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
16/34

指先

富山行きの新幹線は、朝の早い便だった。


車窓を流れる景色が、東京のそれから徐々に変わっていった。田んぼの面積が増え、山の稜線が近くなった。桐島は窓の外を見ながら、何度か確認したはずのことを、また確認していた。


田村葵の実家は、富山市内の住宅街にあった。姉からメッセージで送られてきた地図には、最寄り駅から徒歩十分ほどと書かれていた。電車の本数が少ないので、乗り換えには余裕を持ってほしい、とも。

桐島は姉のメッセージを読み返した。「来てください。話せることは、全部話します」。その言葉に、嘘の気配はなかった。それでも、手が落ち着かなかった。


嫌悪されているのではないか、という考えが、出発前からずっと頭の隅にあった。

二十歳の娘の体を、見知らぬ男が使っている。テレビの中で走り回り、代表のユニフォームを着て、世界を相手に戦っている。そのことを、葵の両親がどう受け取っているか。感謝しているとは限らない。怒りを抑えているだけかもしれない。会えば娘の面影が重なって、かえって辛いだけかもしれない。


何を言われても仕方がない、と思っていた。どんな言葉も、受け取るつもりでいた。

駅から歩いて、住宅街に入った。古い木造の家と、新しい建売住宅が混在していた。桐島は地図を確認しながら、細い道を曲がった。

表札に「田村」とあった。

インターフォンを押した。

しばらくして、扉が開いた。

出てきたのは、五十代と見える女性だった。小柄で、髪を短く切っていた。桐島を見て、一瞬だけ目を細めた。それが驚きなのか、別の感情なのか、読めなかった。

「桐島さん」と女性は言った。「よく来てくださいました」

声が、穏やかだった。


玄関に入ると、廊下の奥から男性が出てきた。父親だった。母親より少し背が高く、無言で頭を下げた。桐島も頭を下げた。

居間に通された。テーブルの上に、お茶と菓子が用意されていた。

姉は今日は来られなかった、と母親が言った。仕事が抜けられなかった、でも両親から話してほしいと言っていた、と。

最初の数分間、会話は互いに遠回りをした。

天気のこと、新幹線の時間のこと、富山に来たのは初めてかということ。桐島は正直に答えた。来たことがない土地だった。山が近くて、空気が違う気がした。

父親はほとんど喋らず、お茶を飲んでいた。母親が話の軸を持ってくれていた。


桐島は頃合いを見て、切り出した。

「突然お邪魔してしまって、すみません。ずっと連絡できずにいました。何から話せばいいかも、正直わからなくて」

母親が首を振った。「こちらこそ」と言いかけて、一度止まった。

「葵の体で、生きてくださっていることが、ずっとわかっていましたから」

テレビで見ていたのだという。

代表に選ばれたときのニュース。試合の映像。インタビューで、桐島が口を閉ざしてドナーの話をしないとき。それらを見ていたと母親は言った。

「葵のことを守ろうとしてくださっているんだと、わかりましたから」


父親が、初めて口を開いた。

「本当は」と父親は言った。声が低かった。「葵には、葵の人生を生きてほしかった。それだけでした」

桐島は何も言えなかった。

「でも、それはかなわなかった」。父親は続けた。「かなわなかったのなら、せめて、その体が精いっぱい生きてくれることを願うしかない。今も、そう思っています」

母親が立ち上がって、隣の部屋に入った。しばらくして、小さなアルバムを持って戻ってきた。

「よかったら」と母親は言った。「葵のこと、少し話せますか」

桐島は頷いた。


葵は小学校からバレーボールを始めた。背が高くなかったから、最初はリベロを任されていた。大学でようやくアタッカーになれた、と嬉しそうに話していたという。よく笑う子だった、と母親は言った。声が大きくて、家にいると居場所がすぐわかった。

料理だけは最後まで苦手で、大学に入って一人暮らしを始めてからも、週末に帰ってきては冷蔵庫を空にして帰った。食べることは好きだったから、食べる分には一向に文句を言わなかった。

父親が、アルバムをめくりながら一枚の写真を指差した。高校の部活の集合写真だった。後列の端で、葵が笑っていた。ユニフォームのまま、目が細くなるくらい笑っていた。

「この笑い方は、小さい頃から変わらなかった」と父親は言った。

桐島はその写真を見た。

製作会社から送られてきた写真と、同じ笑い方だった。

話がひとしきり落ち着いたころ、母親がふと言った。葵はいずれ子供を持ちたがっていた、と。将来の話をするとき、子供の名前まで考えていた。女の子なら何、男の子なら何、と。

母親は笑いながら言ったが、笑いの奥に何かがあった。父親は視線を落としていた。

言葉にはならなかった。しかし桐島には、伝わった。


この体が産んでくれる命を、二人はどこかで待っていた。葵の続きを、もう少しだけ見ていたかった。そういう気持ちが、部屋の空気の中に静かにあった。

桐島は、自分が男性として生きていることを、今この瞬間に初めてはっきりと申し訳なく思った。葵の体を受け取ったことへの後ろめたさとは、また別の感覚だった。この体で子を産むことは、自分にはできない。両親が言葉にしなかったのは、そのことを知っていたからかもしれない。知っていて、それでも会いたいと言ってくれた。

桐島は何も言えなかった。何かを言うべき場面でもなかった。ただ、その重さを、静かに受け取った。

*  *  *

帰り際、玄関で母親が言った。

「一つだけお願いします」

桐島は待った。

「抱きしめてもいいですか」

声は静かだった。問うというより、確かめるような言い方だった。

桐島は少し間を置いた。その間が、拒否の間ではないことは、自分でもわかっていた。ただ、何かが動くのを待っていた。

「はい」

母親の腕が、桐島の背中に回った。力は強くなかった。でも、しっかりしていた。

桐島は、どうすればいいかを考える前に、自分も腕を回していた。

母親の肩が、小さかった。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

父親は玄関の端に立って、こちらを見ていなかった。

「ありがとう」と母親が言った。誰に言ったのか、桐島にはわからなかった。桐島に言ったのかもしれない。葵に言ったのかもしれない。あるいは、その区別を、母親自身もしていなかったのかもしれない。

桐島は「いいえ」とだけ言った。それ以外の言葉は、見つからなかった。

*  *  *

帰りの新幹線の中で、桐島は長い時間、何も考えなかった。

正確には、考えようとすると何かが邪魔をした。頭ではなく、体の方が先に疲れていた。体というより、もっと奥のところが。

窓の外が、また変わっていった。山が遠くなり、田んぼが減り、高い建物が増えた。

桐島は、自分の左手を見た。

細い指。葵の指。さっきまで、その母親の背中に触れていた。

葵は、この腕で、あの母親と何度も触れあっていた。料理が苦手で、声が大きくて、目が細くなるくらい笑っていた葵が。週末に帰るたびに、冷蔵庫を空にした葵が。子供の名前まで考えていた葵が。


自分はそのどれも知らない。この体に宿っていた人生を、引き継ぐことは誰にもできない。今日、そのことを改めて、正面から受け取った。

喪失とは少し違った。悲しいとも違った。

ただ、重かった。持つべきものを、ようやく持った、という重さだった。

子を持てないことも。孫を待っていた二人の気持ちも。葵が生きるはずだった未来も。全部、この体の中にある。外に出す方法はない。けれど、なかったことにもできない。

東京が近づいてきた。

桐島はシートに深く背を預けて、目を閉じた。

背負えるかどうかではない、と思った。もう背負っている。今日の前から、ずっとそうだった。ただ、その重さから目を逸らしていただけだった。

ならば、それを抱えたまま、走るしかない。ピッチで、生活で、この体が生きていられる時間の全部で。それが、父親の言った「精いっぱい生きる」ということの意味だと、今の桐島には思えた。葵への応答は言葉ではなく、生き方でしか返せない。

目を開けると、窓の外に夕暮れの光が広がっていた。

桐島は、前を向いた。


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