表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
14/34

足跡

予選最終戦の前夜、アウェイのホテルの食堂はいつもより長く明かりがついていた。

消灯時間を過ぎても、何人かが残っていた。大声で話しているわけではなく、ただそこにいた。テーブルを囲んで、お茶を飲みながら、他愛のないことを話していた。外のプレッシャーが大きいほど、人間は近い場所に集まろうとする。その本能が、今夜この食堂に人を引き留めていた。

桐島も残っていた。


向かいに宮内、隣に柏木、少し離れたテーブルに川田と山岸がいた。欧州組と国内組の境界は、もうはっきりしていなかった。

「桐島さんって、最初に代表来たとき、緊張しましたか」と宮内が聞いた。

「しました」

「今は?」

「今も、します」

「同じくらいですか」

桐島は少し考えた。「種類が違います。最初は、ここにいていいのかという緊張でした。今は、ここにいるからこその緊張です」

宮内がその言葉を咀嚼するように黙った。

「ここにいるからこその、か」柏木が繰り返した。「なんかそれ、いいな」

「そうですか」

「だって、もうここにいることを疑ってないってことじゃないですか」柏木は言った。「俺、まだちょっと疑ってる。代表にいていいのかって」

「疑いながら、いればいいんです」と桐島は言った。「今ここにいることが大事だから」

柏木が「なんか、それって……」と言いかけて、止まった。

「なんですか」

「お父さんみたいなこと言いますよね、桐島さん。でも時々お母さんみたいなこと言う」

宮内が笑った。桐島も笑った。


「両方、少しずつあるかもしれないです」

「それ、ずるいですよ」柏木は笑いながら言った。「桐島さんはどっちにもあてはまる」

「ずるくはないと思いますが」

「いい意味でずるいってことです」

川田が立ち上がりながら「そろそろ寝ます」と言った。山岸も続いた。それを合図に、少しずつ人が散り始めた。宮内が「おやすみなさい」と言って出ていった。柏木が最後に残り、「明日、よろしくお願いします」と頭を下げてから部屋に戻った。

その頭の下げ方が、前のそれとは少し違った。

桐島は一人になった食堂で、冷めたお茶を飲んだ。


試合当日、キックオフ二時間前のロッカールームで、山岸が全員を集めた。

キャプテンスピーチは毎試合ある。しかし今日の山岸の話は、少し違った。

「一つだけ、言わせてください」山岸は言った。「桐島さんのことです」

ロッカールームが静まった。

「桐島さんは今日も後半から入ります。でも、桐島さんがいなければ、俺たちはここに来られなかった。試合の話じゃないです。この場所で、俺たちがバラバラにならずにいられたのは、桐島さんがいたからです」

誰も口を挟まなかった。

「ピッチの上で助けてもらったのは当然として、ピッチの外で助けてもらったことを、俺は忘れたくないです。今日、勝ちましょう。桐島さんのためというより、桐島さんと一緒に。それだけです」

拍手が起きた。

川田が「同じ気持ちです」と言った。

宮内が「俺も」と言った。

柏木が何か言おうとして、顔が赤くなって、「……はい」とだけ言った。

浜田監督が最後に立った。「俺も同じだ。では、行こう」

桐島は何も言わなかった。言葉が見つからなかったのではなく、言葉が必要ないと感じた。受け取った、ということだけを、黙って受け取った。

立ち上がりながら、視線を落とした。

今日はやけに自分の足が目に入った。

パンツから伸びる形のよい太腿と、ソックスに包まれた細い足首。スパイクの紐がいつもよりきつく締まっていた。


スタジアムの熱量は、これまでで最も高かった。

相手は同じグループの首位で、勝ち点は並んでいた。引き分けでも日本は突破できるが、勝てば一位通過になる。相手も同じ条件で、引き分け狙いより勝ちに来るはずだった。そういう試合だった。


前半、日本は守勢に回った。相手の中盤のプレッシャーが前回より強く、ボールを持つ時間が作れなかった。決定機は相手に三度あり、そのうち一度はポストに救われた。

ベンチで見ながら、桐島は相手の守備のリズムを読んでいた。強いチームほど、リズムが一定になる。一定であることは、逆に言えば、そのリズムを外された瞬間に対応が遅れる。どこでリズムが乱れるか。前半四十五分、桐島はその場所を二箇所、特定した。


〇対〇でハーフタイムを迎えた。

ロッカールームで浜田が指示を出した。桐島はその後に短く川田に伝えた。「相手の左センターバック、ビルドアップの最初の一手が右サイドに偏っています。逆サイドを狙えば、後半の早い時間に乱れる場面が来ます」

川田が頷いた。


後半、桐島が入った。

ピッチの空気が変わった、とスタンドから見ていた人には見えたかもしれない。桐島には、空気よりも先に、相手の選手たちの体から来る変化が届いた。警戒が高まった。それが守備のリズムを、わずかに乱した。

五十四分、川田がボールを受け、定石の右のスペースに出さずにワンフェイントを入れて逆の左へ長く展開した。相手の左センターバックが一瞬、判断を迷った。その迷いの間に、桐島が中央へ走り込んだ。

左サイドバックからパスが来た。

桐島はトラップと同時に振り向いた。前を向いた瞬間、ゴールまでの景色が開けた。センターバックが寄せてくる。合気道で覚えた予兆の感覚が働いた。重心が右に来る前に、桐島は左に流れた。

接触を避け、シュートコースが生まれた。

打った。


低く、鋭く、ゴール左隅へ。

ゴール。

一対〇。

スタジアムが割れた。

宮内が走ってきた。柏木が来た。川田が来た。山岸が来た。全員が来た。桐島はその中心で、腕が何本も重なる感触を受けた。名前を呼ばれた。何か言われた。言葉は聞き取れなかったが、熱は届いた。

七十三分、柏木が追加点を取った。二対〇。

試合終了まで、リードを守り切った。


ホイッスルが鳴った瞬間、桐島はその場に立っていた。走ることも、飛び跳ねることもしなかった。ただ立って、スタジアムの音を受けた。

ワールドカップ本大会への切符が、確定した。


試合後のロッカールームで、ひとしきりの騒ぎが落ち着いてから、桐島はシャワーを浴びて着替えた。

他の選手たちが報道陣の対応や電話に動いている間、桐島はベンチに腰を下ろしたまま、動かなかった。

自然と、視線が落ちた。

自分の足が、そこにあった。

スパイクを脱いだ後の素足。細い、白い足首。かかとから指先まで、知っているようで知らない形。サッカー選手の足特有の、爪の変色と、小指の外側のたこ。それでも全体として見ると、二十代前半の女性が持つ、きれいな足の輪郭があった。

きれい、という言葉が頭に来た瞬間、その後ろに別の感情が続いた。

申し訳ない、と思った。

桐島はしばらく、その感情をそのまま持っていた。

この足は葵のものだった。二十歳の体が持っていた、この足。バレーボールのために鍛えられた筋肉と、若さのしなやかさを持っていた足が、今は別の競技で、別の人間の意思によって、限界まで使われていた。疲労骨折の手前まで追い込んだ。永田に止められるまで、自分では気づかなかった。

無理をさせた、と思った。

さらにその奥に、もっと静かな問いが来た。

自分はここにいていいのか。

葵の体を借りて、葵が選ばなかったことをして、葵が知らなかった場所に来た。それが供養になるという思いは、今も消えていない。しかし供養という言葉で整理できるほど、単純でもなかった。この足で走り続けることは、自分にとっての意味であって、葵にとっての意味かどうかは、誰にもわからない。

葵は、何を思うだろうか。

答えのない問いだった。答えを出そうとすること自体が、おそらく間違っている。それでも問いは来た。この足を見るたびに、来た。

桐島は足先を少し動かした。

指が動いた。関節が動いた。それだけのことが、今日は少し、重かった。

「桐島さん」

声がした。宮内だった。

着替えを終えた宮内が、桐島の隣に来て座った。桐島が何を見ているか確認して、そのまま黙って座った。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

「ありがとうございました」宮内はやがて言った。「今日だけじゃなくて、ずっと」

「何がですか」

「わからないです。うまく言えないけど、全部」

桐島は返事をしなかった。しなかったが、宮内の言葉が体のどこかに届いた。

少し遅れて、柏木が来た。隣には座らず、向かいにしゃがんで、桐島と目線を合わせた。

「俺、桐島さんに謝ることがあって」と柏木は言った。

「何がですか」

「最初、桐島さんのこと、正直イロモノだと思ってました。なんか、ちゃんと見れてなかったというか。でも今は、ちゃんと見えています。それで……ありがとうございます、っていうより、ごめんなさい、が先だなって思って」

桐島は柏木を見た。二十二歳の、まっすぐな顔だった。

「謝らなくていいです」と桐島は言った。「見えるようになれば、十分です」

「それって、許してもらえたってことですか」

「許すもなにも、悪いことはしていないです」

柏木が少し考えて「でも俺、気持ちがすっきりしました」と言った。

「それなら良かったです」

川田が遠くから「桐島、取材来てるよ」と声をかけてきた。

「もう少しだけ」と桐島は返した。

川田が頷いて、距離を保ったまま、それ以上は言わなかった。

山岸が最後に来た。他の選手が散っていく中で、静かに隣に立った。

「一つだけ聞いていいですか」山岸は言った。

「どうぞ」

「桐島さんは、なんでここまでやれるんですか。体のこと、チームのこと、全部含めて。どこから来るんですか、その強さが」

桐島はしばらく考えた。

「強さかどうか、わかりません」

「じゃあ、何ですか」

「続けてきただけです」桐島は言った。「やめなかっただけで、強かったわけじゃない。ただ、やめる理由より、続ける理由の方が、毎回少しだけ多かった。それだけです」

山岸がその言葉を受け取った。受け取って、何も言わなかった。言わないことが、深く受け取った証拠だと、桐島にはわかった。

「行きましょうか」と桐島は言った。

「はい」と山岸は答えた。

*  *  *

ロッカールームを出るとき、桐島は最後にもう一度、床を見た。

自分の足が、そこにあった。今度はスニーカーを履いていた。

申し訳ないという気持ちは、消えていなかった。おそらく消えることはない。しかしその隣に、今日また積み上がったものがあった。宮内の「全部、ありがとう」。柏木の「ちゃんと見えています」。山岸の沈黙。川田の、距離を保ったまま待つ姿勢。


その全部が、この足で来た場所の重さだった。

葵へのごめんなさいは、これからも持ち続ける。

しかしそれと同じ重さで、ここに来られたことを、受け取ろうと思った。


拒まずに、受け取る。

それが今、桐島にできる、葵への最大限の誠実さかもしれないと、今日初めて思えた。

廊下に出ると、光が明るかった。

チームメートの声が、前から聞こえてきた。

桐島は、その方に向かって歩き出した。ふと背中を見ると、見えないはずの足跡が見えたような気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ