足跡
予選最終戦の前夜、アウェイのホテルの食堂はいつもより長く明かりがついていた。
消灯時間を過ぎても、何人かが残っていた。大声で話しているわけではなく、ただそこにいた。テーブルを囲んで、お茶を飲みながら、他愛のないことを話していた。外のプレッシャーが大きいほど、人間は近い場所に集まろうとする。その本能が、今夜この食堂に人を引き留めていた。
桐島も残っていた。
向かいに宮内、隣に柏木、少し離れたテーブルに川田と山岸がいた。欧州組と国内組の境界は、もうはっきりしていなかった。
「桐島さんって、最初に代表来たとき、緊張しましたか」と宮内が聞いた。
「しました」
「今は?」
「今も、します」
「同じくらいですか」
桐島は少し考えた。「種類が違います。最初は、ここにいていいのかという緊張でした。今は、ここにいるからこその緊張です」
宮内がその言葉を咀嚼するように黙った。
「ここにいるからこその、か」柏木が繰り返した。「なんかそれ、いいな」
「そうですか」
「だって、もうここにいることを疑ってないってことじゃないですか」柏木は言った。「俺、まだちょっと疑ってる。代表にいていいのかって」
「疑いながら、いればいいんです」と桐島は言った。「今ここにいることが大事だから」
柏木が「なんか、それって……」と言いかけて、止まった。
「なんですか」
「お父さんみたいなこと言いますよね、桐島さん。でも時々お母さんみたいなこと言う」
宮内が笑った。桐島も笑った。
「両方、少しずつあるかもしれないです」
「それ、ずるいですよ」柏木は笑いながら言った。「桐島さんはどっちにもあてはまる」
「ずるくはないと思いますが」
「いい意味でずるいってことです」
川田が立ち上がりながら「そろそろ寝ます」と言った。山岸も続いた。それを合図に、少しずつ人が散り始めた。宮内が「おやすみなさい」と言って出ていった。柏木が最後に残り、「明日、よろしくお願いします」と頭を下げてから部屋に戻った。
その頭の下げ方が、前のそれとは少し違った。
桐島は一人になった食堂で、冷めたお茶を飲んだ。
試合当日、キックオフ二時間前のロッカールームで、山岸が全員を集めた。
キャプテンスピーチは毎試合ある。しかし今日の山岸の話は、少し違った。
「一つだけ、言わせてください」山岸は言った。「桐島さんのことです」
ロッカールームが静まった。
「桐島さんは今日も後半から入ります。でも、桐島さんがいなければ、俺たちはここに来られなかった。試合の話じゃないです。この場所で、俺たちがバラバラにならずにいられたのは、桐島さんがいたからです」
誰も口を挟まなかった。
「ピッチの上で助けてもらったのは当然として、ピッチの外で助けてもらったことを、俺は忘れたくないです。今日、勝ちましょう。桐島さんのためというより、桐島さんと一緒に。それだけです」
拍手が起きた。
川田が「同じ気持ちです」と言った。
宮内が「俺も」と言った。
柏木が何か言おうとして、顔が赤くなって、「……はい」とだけ言った。
浜田監督が最後に立った。「俺も同じだ。では、行こう」
桐島は何も言わなかった。言葉が見つからなかったのではなく、言葉が必要ないと感じた。受け取った、ということだけを、黙って受け取った。
立ち上がりながら、視線を落とした。
今日はやけに自分の足が目に入った。
パンツから伸びる形のよい太腿と、ソックスに包まれた細い足首。スパイクの紐がいつもよりきつく締まっていた。
スタジアムの熱量は、これまでで最も高かった。
相手は同じグループの首位で、勝ち点は並んでいた。引き分けでも日本は突破できるが、勝てば一位通過になる。相手も同じ条件で、引き分け狙いより勝ちに来るはずだった。そういう試合だった。
前半、日本は守勢に回った。相手の中盤のプレッシャーが前回より強く、ボールを持つ時間が作れなかった。決定機は相手に三度あり、そのうち一度はポストに救われた。
ベンチで見ながら、桐島は相手の守備のリズムを読んでいた。強いチームほど、リズムが一定になる。一定であることは、逆に言えば、そのリズムを外された瞬間に対応が遅れる。どこでリズムが乱れるか。前半四十五分、桐島はその場所を二箇所、特定した。
〇対〇でハーフタイムを迎えた。
ロッカールームで浜田が指示を出した。桐島はその後に短く川田に伝えた。「相手の左センターバック、ビルドアップの最初の一手が右サイドに偏っています。逆サイドを狙えば、後半の早い時間に乱れる場面が来ます」
川田が頷いた。
後半、桐島が入った。
ピッチの空気が変わった、とスタンドから見ていた人には見えたかもしれない。桐島には、空気よりも先に、相手の選手たちの体から来る変化が届いた。警戒が高まった。それが守備のリズムを、わずかに乱した。
五十四分、川田がボールを受け、定石の右のスペースに出さずにワンフェイントを入れて逆の左へ長く展開した。相手の左センターバックが一瞬、判断を迷った。その迷いの間に、桐島が中央へ走り込んだ。
左サイドバックからパスが来た。
桐島はトラップと同時に振り向いた。前を向いた瞬間、ゴールまでの景色が開けた。センターバックが寄せてくる。合気道で覚えた予兆の感覚が働いた。重心が右に来る前に、桐島は左に流れた。
接触を避け、シュートコースが生まれた。
打った。
低く、鋭く、ゴール左隅へ。
ゴール。
一対〇。
スタジアムが割れた。
宮内が走ってきた。柏木が来た。川田が来た。山岸が来た。全員が来た。桐島はその中心で、腕が何本も重なる感触を受けた。名前を呼ばれた。何か言われた。言葉は聞き取れなかったが、熱は届いた。
七十三分、柏木が追加点を取った。二対〇。
試合終了まで、リードを守り切った。
ホイッスルが鳴った瞬間、桐島はその場に立っていた。走ることも、飛び跳ねることもしなかった。ただ立って、スタジアムの音を受けた。
ワールドカップ本大会への切符が、確定した。
試合後のロッカールームで、ひとしきりの騒ぎが落ち着いてから、桐島はシャワーを浴びて着替えた。
他の選手たちが報道陣の対応や電話に動いている間、桐島はベンチに腰を下ろしたまま、動かなかった。
自然と、視線が落ちた。
自分の足が、そこにあった。
スパイクを脱いだ後の素足。細い、白い足首。かかとから指先まで、知っているようで知らない形。サッカー選手の足特有の、爪の変色と、小指の外側のたこ。それでも全体として見ると、二十代前半の女性が持つ、きれいな足の輪郭があった。
きれい、という言葉が頭に来た瞬間、その後ろに別の感情が続いた。
申し訳ない、と思った。
桐島はしばらく、その感情をそのまま持っていた。
この足は葵のものだった。二十歳の体が持っていた、この足。バレーボールのために鍛えられた筋肉と、若さのしなやかさを持っていた足が、今は別の競技で、別の人間の意思によって、限界まで使われていた。疲労骨折の手前まで追い込んだ。永田に止められるまで、自分では気づかなかった。
無理をさせた、と思った。
さらにその奥に、もっと静かな問いが来た。
自分はここにいていいのか。
葵の体を借りて、葵が選ばなかったことをして、葵が知らなかった場所に来た。それが供養になるという思いは、今も消えていない。しかし供養という言葉で整理できるほど、単純でもなかった。この足で走り続けることは、自分にとっての意味であって、葵にとっての意味かどうかは、誰にもわからない。
葵は、何を思うだろうか。
答えのない問いだった。答えを出そうとすること自体が、おそらく間違っている。それでも問いは来た。この足を見るたびに、来た。
桐島は足先を少し動かした。
指が動いた。関節が動いた。それだけのことが、今日は少し、重かった。
「桐島さん」
声がした。宮内だった。
着替えを終えた宮内が、桐島の隣に来て座った。桐島が何を見ているか確認して、そのまま黙って座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「ありがとうございました」宮内はやがて言った。「今日だけじゃなくて、ずっと」
「何がですか」
「わからないです。うまく言えないけど、全部」
桐島は返事をしなかった。しなかったが、宮内の言葉が体のどこかに届いた。
少し遅れて、柏木が来た。隣には座らず、向かいにしゃがんで、桐島と目線を合わせた。
「俺、桐島さんに謝ることがあって」と柏木は言った。
「何がですか」
「最初、桐島さんのこと、正直イロモノだと思ってました。なんか、ちゃんと見れてなかったというか。でも今は、ちゃんと見えています。それで……ありがとうございます、っていうより、ごめんなさい、が先だなって思って」
桐島は柏木を見た。二十二歳の、まっすぐな顔だった。
「謝らなくていいです」と桐島は言った。「見えるようになれば、十分です」
「それって、許してもらえたってことですか」
「許すもなにも、悪いことはしていないです」
柏木が少し考えて「でも俺、気持ちがすっきりしました」と言った。
「それなら良かったです」
川田が遠くから「桐島、取材来てるよ」と声をかけてきた。
「もう少しだけ」と桐島は返した。
川田が頷いて、距離を保ったまま、それ以上は言わなかった。
山岸が最後に来た。他の選手が散っていく中で、静かに隣に立った。
「一つだけ聞いていいですか」山岸は言った。
「どうぞ」
「桐島さんは、なんでここまでやれるんですか。体のこと、チームのこと、全部含めて。どこから来るんですか、その強さが」
桐島はしばらく考えた。
「強さかどうか、わかりません」
「じゃあ、何ですか」
「続けてきただけです」桐島は言った。「やめなかっただけで、強かったわけじゃない。ただ、やめる理由より、続ける理由の方が、毎回少しだけ多かった。それだけです」
山岸がその言葉を受け取った。受け取って、何も言わなかった。言わないことが、深く受け取った証拠だと、桐島にはわかった。
「行きましょうか」と桐島は言った。
「はい」と山岸は答えた。
* * *
ロッカールームを出るとき、桐島は最後にもう一度、床を見た。
自分の足が、そこにあった。今度はスニーカーを履いていた。
申し訳ないという気持ちは、消えていなかった。おそらく消えることはない。しかしその隣に、今日また積み上がったものがあった。宮内の「全部、ありがとう」。柏木の「ちゃんと見えています」。山岸の沈黙。川田の、距離を保ったまま待つ姿勢。
その全部が、この足で来た場所の重さだった。
葵へのごめんなさいは、これからも持ち続ける。
しかしそれと同じ重さで、ここに来られたことを、受け取ろうと思った。
拒まずに、受け取る。
それが今、桐島にできる、葵への最大限の誠実さかもしれないと、今日初めて思えた。
廊下に出ると、光が明るかった。
チームメートの声が、前から聞こえてきた。
桐島は、その方に向かって歩き出した。ふと背中を見ると、見えないはずの足跡が見えたような気がした。




