第19話 悪夢
――ああ、まただ。今日もまた、見たくもない最悪の夢を見る。
定期的に牙を剥くその悪夢は、現実に起きたこと。
天井のステンドグラスから差し込む陽射しに照らされた真っ白な部屋の中央で、長いプラチナブロンドの髪が目を惹く愛らしい少女が聖歌を紡ぐ。
見守る、というよりは監視するように壁際に並ぶ大人たちの視線なんて意に介することなく。
いつものように、楽しそうに、その類まれなる美しい歌声を響かせる。
当然だ。彼女はシオンの聖歌を愛してくれていたし、シオンもまた、この光景を愛していた。
離れた場所から恒例行事を見守っていたシオンの視界の先で、何の前触れもなく少女が目を瞠った。大きな瞳をぱちり、と瞬かせた少女は、ひゅ、っと息を呑んだかと思うと、苦悶の表情を浮かべて喉を抑える。
ふらり、と膝をついた彼女は冷たい床に倒れ込み、全身を駆け巡る痛みから逃れようともがき出す。
いきなりのことに何が起きたのかわからなくて。
それでも、たまらずに駆け寄ろうとしたシオンの身体が、大人たちに押し留められた。強い力で拘束されたシオンは、必死に声を上げる。
つんざくような悲鳴は悲痛で、耳を塞ぎたくなる。聞きたくなかった。こんな、苦しみに満ちた絶叫は。断末魔じみた叫びは。
見たかったのは、いつもの彼女の笑顔。それだけ。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
――くすくす、と。
耳元で、少年の密やかな笑い声が響いた気がした。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
「シオン!」
はっと目を覚ますと、目の前にはランプの明かりに照らされたルクレティアの顔があった。視線が絡むと、少女はほっとしたように息を吐く。
「起こしてごめんなさい。でも、うなされてたから……大丈夫?」
「ティ、ア?」
喉に痰が絡んで、声が上手く発せない。つぶらな瑠璃の瞳を細めて、ルクレティアは頷いた。その頰に手を伸ばすと、愛らしい顔は不思議そうな面持ちになる。
手のひらに伝わる体温は、とても温かい。
「どうしたの、シオン?」
黙ったままルクレティアの温もりに縋るシオンに、彼女はとうとう怪訝な顔になる。
手を下ろし、起き上がったシオンは何とか微笑みを作った。
「……ごめん、嫌な夢を見て。ちょっとぼうっとしてた。起こしてくれてありがとう」
「うん……大丈夫?」
シオンは今度こそ綺麗な笑みを浮かべて、はっきりと頷く。
「大丈夫だよ。汗だくだから、シャワーを浴びてくるよ」
首筋や背中に伝う寝汗はひどく気持ちが悪かった。
おずおずと頷くルクレティアに微笑みかけつつ、そっとカーテンの向こうを窺う。外はまだ薄暗く、未明といった時分だった。寝た気はしないけれど、今夜はもう眠れないだろう。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
シオンが着替えを持って浴室へと姿を消すと、ルクレティアはしばし悩んだ末に寝室を後にして、リビングへと向かった。
宿泊している宿は貴族やお金持ちの商人などが利用する高級なものだ。そのため間取りも広く、寝室とは別にリビングがある。
ランプを灯して、それからシオンの荷物をがさごそとまさぐって。使われた形跡のない譜面帳と宿に備え付けてあったインク、それから羽ペンを手にしたルクレティアは、ふかふかのソファに身体を預けた。
真っ新な譜面帳にペンを走らせ始めてから、どれくらい経ったのか。静まり返った部屋に響いた足音に顔を上げると、
「あれ、……ティア?」
シオンが、目を丸くしていた。ルクレティアはにっこりと微笑む。
「目が冴えてしまったの。シオンを待っていたわけじゃないのよ?」
シオンは何かを言いかけたけれど、思い留まったように言葉を呑み込んで。いつもどおりの柔らかな笑みを湛え、近づいてくる。ふわりと香るのは、宿に置いてあった石鹸の匂いだ。すっかり馴染みとなったシルヴァリーの甘い香り。
「何を書いていたんだい?」
隣に座ったシオンが、ルクレティアの手元の楽譜を覗き込む。
「あのね、わたしも偶には自分で曲を作ってみようかなって」
シオンの気を紛らわせるために即興で書いたものだ。聖歌を作るのは敬遠していても、普通の曲なら彼は思い悩む様子はなくて、旅のあいだも手慰みにルクレティアに作ってくれたりしていた。
ルクレティアは歌うことは得意ではあっても作る方に関しては素人。だからできあがったものは曲とも呼べない杜撰なもの。適当に音符と詩を書き込んだだけなのだから。
「食べ物のことばっかり書いてある」
詩を読んだシオンが呆れたような顔になった。音律は彼からすれば拙いものだろうし、書き込まれている歌詞は指摘通り、料理に関するものばかり。それは、曲のイメージがなかなか湧いてこなくて、ふと飛行船で出された山盛りの料理を思い出したからだった。
滅多に手に入らないという魚のチップスや、チーズの香りが芳しいお月さまみたいなまん丸のケーキは記憶に新しかった。なのでこれは、せっかくだから食べてみたかったという願望を込めて書いた詩。
嘆息混じりのシオンの言葉に、頬をふくらませる。
「だって、わたしは何を食べても味がしないのにみんな美味しそうに食べるんだもの。不公平だわ」
ルクレティアだって、羨ましく思う気持ちがないわけじゃないのだ。
「…………」
冗談混じりの台詞に、しかし、返ってきたのは重たい沈黙だった。
「……シオン?」
視線を隣に移すと、シオンはハッとしたように顔を上げてこちらを見てくる。
「あ、ごめん。何だっけ……?」
「あの、……」
よく考えたら、シオンはルクレティアが機械人形だということを気にしているのだ。彼を元気づけたい一心からのおふざけだったのだけれど、これは不謹慎だったかもしれない。
「あの、違うの。冗談のつもりで、別に本気で羨ましく思ったりなんてしてないわ」
慌てて首を横に振って、ぱたん、と楽譜を閉じる。再び満ちた沈黙は、重たい。ルクレティアの耳元で、シオンのため息がこぼれ落ちた。
「……その詩は却下、かな。いくらなんでも情緒がなさすぎるよ」
冗談めかしてそう言ってくれたシオンにほっとして、ルクレティアは彼に楽譜を差し出す。
「それなら、シオンが何か曲を作ってくれればいいわ。わたしは歌う係ね」
「……いつもどおりだね」
ぱらぱらとページを捲りながらペンを手に取った彼は、そう囁いた。




