第二十一章 またね
第二十一章 またね
修平は地べたに座り込み、しばらく動けなかった。
病院の玄関を人が出入りしている。
目の前の車寄せには、迎えを待つ車が並んでいた。
誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが家へ帰っていく。
修平には、もうそのすべてを眺める力も残っていなかった。
深く息を吐き、俯く。
視界の端に、赤いものが映った。
赤色に、白い水玉のワンピース。
小さな膝。
白い靴下と、赤い靴。
修平は息を止めた。
ゆっくりと顔を上げる。
おかっぱ頭の小さな女の子が、目の前に立っていた。
三歳のまま。
あの日のまま。
けれど、修平の記憶の中にいる妹よりも、少しだけ穏やかな顔をしている。
修平の顔が、くしゃりと崩れた。
笑ったつもりだった。
けれど、同時に涙がこぼれた。
「よく、来たね」
女の子は、少し不満そうに頬を膨らませた。
「ずっといたよ。お兄ちゃんが見てなかっただけ」
「そうか」
修平は涙を拭った。
「そうだな」
ずっと探していた。
事故で死んだ両親を見つけたあとも、妹だけはどこにもいなかった。
知らない霊に会うたび、小さな影を見るたび、紗季ではないかと目で追った。
探しているつもりだった。
けれど、紗季の言うとおりなのだろう。
修平は、見ていなかった。
会えば、自分が言わなければならないことから逃げていた。
「あのとき、事故が起きるって分かってたのか?」
紗季は首を傾げた。
「分からない。忘れちゃった」
「そっか」
三歳だった。
覚えていなくても不思議ではない。
それでも修平は、訊かずにはいられなかった。
「ごめんな。あの日、僕が早く帰ろうなんて言わなければ」
「それ、気にしてたの?」
「あの日、僕が帰ろうって言わなければ、みんな事故に遭わずに済んだかもしれない」
紗季は難しいことを考えるように、腕を組んだ。
「かも、でしょ?」
「うん」
「んーと、きっと結果は一緒だったとか、言うつもりはないよ」
子供の姿のまま、紗季はゆっくり言葉を選んだ。
「違ってたかもしれないし、同じだったかもしれない。私には分からない」
「うん」
「だけど、私はにいちゃんに会えて、やっと見つけてくれて嬉しいよ」
修平は声を出せなかった。
両手で顔を覆う。
三十年分の言葉があったはずなのに、一つも出てこない。
ずっと謝りたかった。
許してほしかった。
自分のせいではないと言ってほしかった。
けれど紗季は、許すとも許さないとも言わなかった。
分からないと言った。
そのうえで、会えて嬉しいと言った。
それだけで、胸の奥に固まっていたものが、少しずつほどけていく。
「にいちゃん、泣いてるの?」
「泣いてない」
「泣いてるよ」
「うん。泣いてる」
紗季が笑った。
修平も、顔を覆ったまま笑った。
しばらくして顔を上げると、紗季の足元が薄くなっていた。
「もう、行くのか?」
「うん。これから行くところがあるの」
「どこへ?」
「分からない」
「また、それか」
「忘れちゃった」
紗季は悪びれもせずに笑う。
修平は立ち上がろうとした。
けれど足に力が入らず、地面へ片手をついた。
紗季に触れようと、もう片方の手を伸ばす。
届かない。
初めから、触れられるはずはなかった。
「紗季」
「なあに?」
「ごめんな」
紗季は首を横に振った。
「ううん。にいちゃん、ありがとう」
「僕は、何もしてない」
「見つけてくれた」
田所も、宗一も同じことを言った。
修平はいつも、何もしていないと思っていた。
話を聞いただけ。
そこにいると知っただけ。
けれど、それを待っていた者がいた。
「私、もう行かなきゃ」
「うん」
「じゃあ、ばいばい」
紗季が右手を振る。
小さな手の甲に、三つのほくろが並んでいた。
「またね」
修平も手を上げた。
「またな」
紗季は笑ったまま、夜の中へ溶けるように消えた。
修平は、誰もいなくなった場所を見つめ続けた。
悲しいはずなのに、胸の中は不思議なほど静かだった。
紗季がいなくなったのではない。
ようやく、行けたのだと思った。
どこかは分からない。
それでも、これから行くところがあると言っていた。
なら、きっと大丈夫だ。
今度こそ立ち上がる。
足はまだ重かった。
それでも、一歩ずつ駅へ向かった。
家へ帰ると、奈緒が玄関まで出てきた。
「遅い」
「ごめん」
「連絡くらいしてよ。何かあったのかと思った」
「いろいろあった」
「それは顔を見たら分かる」
奈緒が修平の頬に触れる。
「泣いた?」
「泣いた」
「誰か、いたの?」
「うん」
修平は奈緒の手に、自分の手を重ねた。
「紗季に会った」
奈緒が目を見開く。
「妹さん?」
「ずっといたって。僕が見てなかっただけだって言われた」
「そっか」
「謝った。あの日、僕が帰ろうって言わなければって」
「うん」
「でも、分からないって。違う結果になったかもしれないし、同じだったかもしれないって」
「うん」
「会えて嬉しいって言ってくれた」
奈緒は修平の頭を胸元へ引き寄せた。
「よかったね」
「うん」
修平は目を閉じた。
「よかった」
それから数か月後。
修平は、病院の個室で小さな命を抱いていた。
腕の中の赤ん坊は、目を閉じて眠っている。
奈緒はベッドの上で、疲れ切った顔をしながら笑っていた。
「抱き方、固いよ」
「怖いんだよ」
「落とさないでね」
「それを今、言わないでくれ」
「力を抜いて」
「抜いたら落としそうだ」
「落とさないから」
奈緒に笑われ、修平は肩の力を抜こうとした。
赤ん坊が小さく身じろぎする。
包まれていた右手が、白い布の間から出た。
修平の呼吸が止まる。
小さな手の甲に、三つのほくろが並んでいた。
「奈緒」
「どうしたの?」
「ここ」
修平は赤ん坊の右手を奈緒へ見せた。
「ほくろ?」
「紗季にもあった。右手の甲の、同じところに三つ」
奈緒は、赤ん坊の手をじっと見つめた。
「そう」
やがて、そっと人差し指を近づける。
赤ん坊の小さな指が、奈緒の指を握った。
「行くところがあるって、言ってたんだよな」
修平が呟く。
赤ん坊が目を開いた。
まだ何も映していないような目で、修平を見る。
その子が紗季なのか、修平には分からない。
確かめる方法もない。
それでも今度は、見落とさなかった。
腕の中にいる。
ここにいる。
修平は泣きながら、破顔した。
「よく、来たね」




