9.前を向くために
「えっ!? な、何!?」
崖っぷちにひとりで立っていた優花さんが、わたしにしがみつかれてすっとんきょうな声を上げた。振り払われないよう彼女の腰に抱きついたまま、懸命に説得する。
「生きていれば、またいいこともありますから!」
「あの、私……ただ、風景を見ていただけよ?」
頭上から降ってきたそんな言葉に、混乱する。あれ、優花さんは思い詰めてここに来てたんじゃなかったっけ? だからこそ、大鳥居のところでたそがれていたわけで。
「え、でも、優花さんはひとりになったのが辛くて、ここに来たんじゃないですか? えっと、ほら、この写真の人がいなくなったから?」
しどろもどろになりながら説明して、写真を差し出す。優花さんは目を真ん丸にして、写真を受け取った。
「あらいやだ、落としてたのね。それで、あなたは私の名前を知ってたのね。いきなり名前を呼ばれたから、びっくりしたわ」
おかしそうに笑いながら、優花さんはわたしをまっすぐに見つめる。
「拾ってくれてありがとう、かわいいお嬢さん。でもね、あなたが考えているのとは、まるで逆よ」
「逆……ですか?」
「ええ。説明するから、いったん離れましょ?」
まだ彼女に抱きついたままだったことに気がついて、あわてて飛びのいた。彼女はゆっくりと崖から離れると、大げさに肩をすくめた。
「そいつね、私の元婚約者。無事に婚約も済んで、結婚式の準備を進めて……その最中、あいつの浮気が判明した」
思いもかけない告白に、うっと言葉に詰まる。確かに予想とはまるで逆の、しかし中々に重たい話を聞いてしまった。でもこれって、今日たまたま顔を合わせただけの相手に、ほいほいと語るようなことだろうか。
ちらりとことはさんを見ると、彼は澄ました顔でたたずんでいた。どうやら彼は、ここでも様子見に徹するつもりらしい。
「……その写真は、まだ婚約する前、一緒に宮島に来たときに撮ったの。あのときは、とっても楽しかった」
そして優花さんは、わたしに向かってさらに語り出した。聞いてもいないのに、どんどん話を進めている。
どうもこの感じ、彼女はずっと誰かに愚痴りたくて仕方がなかったんじゃないかって気がする。仕方ない、おとなしく聞こう。これも、乗りかかった船というものだ。
「ここ、カップルで来ると別れるってジンクスがあるらしいって噂もあるの。ここにまつられている女神さまが嫉妬するとか、そんな感じだったかしら」
ふと、ことはさんが身じろぎする気配がした。横目でそちらを見ると、珍しくも気まずそうな顔をしていた。妙な反応だなあ。
「でも、私もあいつも、気にしてなかった。俺たちの愛の強さが勝つから大丈夫さ、なんて言ってたわ」
しかし優花さんは彼の態度には気づかなかったらしく、静かに、そしてちょっぴりあきれたように語り続けていた。
「あっちのほうにね、恋人の聖地っていうのがあるの。こう……ふたりでボタンを押して、誓いの火を灯すとかいうものよ。弥山の山頂にある、消えずの火にあやかってるのね、たぶん」
出た、観光地あるある。なぜかあっちこっちにある、恋人たちの聖地。しかも、謎の儀式付き。
神戸にも、ビーナスブリッジって恋人たちの名所がある。そっちは、メッセージを書いた南京錠をかけることで、ふたりのきずなが永遠に……みたいな感じだったかな。行ったことないから、うろ覚えだけど。
突っ込みたくなるのをぐっとこらえて、優花さんの話に耳を傾け続けた。
「でも、『俺たちにはそんな儀式は不要だな』って、あいつはそう言ってた。それも、自信満々に。根拠のない自信に満ちていて、暑苦しいやつだったのよ」
あの写真の男性なら、それくらい言いそうだなと、ふとそう思う。浮気の理由とかは分からないし知りたくもないけれど、少なくともこの写真を撮ったときは、優花さんにべた惚れだったんだろうなって感じがするし。
「……ボタン、押しておくべきだったかしら。いえ、押さなくて正解ね。おかげで馬鹿男と結婚せずに済んだのだから」
わたしには、恋愛経験はない。でも、彼女がまだきちんと割り切れていないんだなということは理解できた。悪態をついていても、その目には寂しさがひらめいているし、口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
どう声をかけていいか分からずに、ただ彼女をじっと見つめる。
「ありがとうね、お嬢さん」
すると彼女が、ぱっと花開くように笑った。
「あいつとのことにけりをつけるためにわざわざ宮島に来たのに、さっきまではずっと重苦しい気持ちのままだった。でもあなたと話せたことで、ようやく吹っ切れそう」
そうして彼女は、晴れ晴れとした顔で、下に広がる海に視線を向けた。
「もう楽しい時間は終わったんだ、過去を忘れて前を向くときがきたんだって、納得できそう」
「楽しい時間は、いずれ終わる……」
ふいに聞こえてきたことはさんの声に、思わずそちらを向く。気のせいか、その声はやけに寂しそうに響いていた。
彼は地面に視線を落とし、切なげに目を細めていた。けれどわたしの視線に気づくと、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻ってしまう。
一瞬だけのその表情が、ひどく胸を打った。優花さんの話を聞いている途中だということも忘れて、ことはさんに見とれてしまった。
「ところで、あなたたちはボタン、押していかないの? せっかくこんなところまできたんだし」
「ふへっ!?」
すると突然、優花さんがとんでもないことを言い出した。びっくりして、思い切り裏返った声が出てしまう。
「ボタンって、恋人たちの、あれですか!? わたしたち、従兄妹ですよ!?」
「従兄妹なら、別に押したって問題ないじゃない。法律上は問題ないわよ」
「いえいえ、そういうのじゃないですから!」
ことはさんは、なんだかんだいって魅力的な人ではある。変わっているけど、紳士的だし。そんな人と恋人だなんだと言われたせいで、思いっきり動揺してしまった。
その勢いで、つい力いっぱい否定してしまって、少し遅れて気がついた。
こんなにあわてふためいたら、逆に怪しまれるんじゃないか。わたしたちが従兄妹じゃないって、ばれてしまうかもしれない。それに、ことはさんにも失礼かもしれない。
「ごめんね、ちょっとからかっただけ」
次の言い訳を探していたら、優花さんが声を上げて明るく笑った。それを聞いて、深々と息を吐く。
「ああもう、心臓に悪いですよ……」
ほっとしたのと、わたしのお腹が爆音で鳴り響いたのとが同時だった。そういえば、優花さんを探していたせいで忘れていたけれど、お昼がまだだった……安心したせいで、空腹を思い出してしまった……。
「ふふっ、本当に君のお腹は元気ですね。健康的で何よりです」
「そうね」
ことはさんがくすくすと笑い、優花さんも肩を震わせながら同意している。ふ、ふたりとも、笑うことないじゃない……。
「お昼が遅くなってしまいました。よろしければ、優花さんもご一緒にどうですか?」
「ええ、そうさせてもらうわ。もうちょっと、あなたたちと話していたいし」
そしてふたりは、すきっ腹を押さえて恨めしい顔をしているわたしをよそに、さっさと話をまとめてしまったのだった。
それから三人で、島の中をぶらぶらした。
まずは山から降りて、お店が集まっている通りで遅いお昼ごはんにした。牡蠣の卵とじうどん、おいしかった……。
それからもう一度、厳島神社に寄った。優花さんのたっての願いとかで、お守りを買いにいくことにしたのだ。あ、買うじゃなくて、授けてもらう……だっけ?
最初に立ち寄ったときは潮が引いていて、本殿は何本もの柱の上に立っているように見えていた。けれど今は、床板のすぐ下を波が打ち寄せていて、本殿が海に浮かんでいるように見える。どうにも、不思議な光景だ。
優花さんは「今度こそまともな男を捕まえるのよ!」と鼻息を荒くしながら、縁結びのお守りを選んでいた。あの勢いなら、すぐにいい縁に恵まれそうな気がする。というか、いい縁を力ずくでもぎとってきそうな気もする。大丈夫そうだな、うん。
そんな彼女を横目で見ていたら、ことはさんがそっと声をかけてきた。
「何か、気に入ったものはありましたか?」
「えっと、こっちの鳥居ストラップ、かわいいなって思って……でもここ、電子マネーが使えないみたいで……」
管理が面倒なので、普段学校には小銭入れしか持っていっていない。登下校時なんかに買い物する必要が出た場合に備えて、電子マネーは持っている。でも当然ながら、神社では電子マネーが使えなかった。
無念に思っていたら、ことはさんがストラップをふたつ手に取って、宮司さんのほうに差し出した。
「すみません、これをふたつお願いします」
そうしてストラップを買ったことはさんは、そのひとつをわたしに差し出してきた。
「はい、どうぞ」
「えっ、もらっちゃっていいんですか?」
「人助けのために頑張った、ご褒美です」
たぶんこれは、彼なりの気遣いなのだろう。わたしが快くストラップを受け取れるように、という。
「わあ、ありがとうございます!」
なので、遠慮せず受け取ることにした。それを見て、ことはさんが嬉しそうに笑う。
「ところで、もうひとつはどうするんですか?」
「もちろん、自分のためのおみやげです」
ことはさんに鳥居ストラップ。ちょっと似合わないかも。どこにつけるのかな。
そうやって話していたら、視線を感じた。そちらを見ると、優花さんがにまにまと笑いながら、無言でわたしたちを見つめていた。
さらに島の中をぶらぶらして、紅葉谷にやってきた。優花さんを探していたときにも通りがかった、モミジが見事な森だ。さっきはそれどころじゃなかったけれど、こうして改めて見てみると、とても素敵な場所だ。
「せっかくだから、きれいな落ち葉、探してみましょうよ」
やけに張り切った様子の優花さんが、子どものように落ち葉を拾ってはしげしげと眺めている。やがて、その一枚を手にわたしのところに駆け寄ってきた。
「あ、ほら、美羽ちゃん。この葉っぱ、いい感じだと思わない? ほら、手を出して。あげるわ」
優花さんに言われるまま、手を出す。すると彼女は、拾ったモミジを一枚そこに載せてきた。
「わあ、形も色もパーフェクトです!」
まるで絵に描いたような、きれいな赤色のモミジだった。スクールバッグを探って、空のクリアファイルを取り出した。丁寧にそこに挟んで、これでよし、と。
「気に入った?」
「もちろんです! ありがとうございます!」
クリアファイルを掲げて、にっこり笑う。優花さんが、ほっとしたように笑い返してきた。
「いろいろ迷惑かけちゃったおわびと、たくさん励ましてもらったお礼。何か買ってもいいかもって思ったんだけど……こういうのもいいかなって」
「はい、特別感がありますよね。お金で買えない思い出っていうか。大切にしますね」
「ふふ、気が合うわね。ほんと美羽ちゃんって、いい子」
「褒められると、照れちゃいます」
照れ隠しに首を振っていたら、ことはさんが当然だと言わんばかりの顔で付け加えてきた。
「ええ、美羽さんはいい子ですよ」
「ちょっ、そこでいきなり割って入ってこないでください、ことはさん!」
「美羽ちゃん、顔赤いわよ」
「えっ、嘘っ!」
「嘘でしたー。もう、かわいいったら」
そうやってはしゃぐ彼女の声は、底抜けに明るかった。




