10.白壁の町並み
今日は島に泊まるのだという優花さんと別れ、フェリーに乗って宮島をあとにした。海も島も、もうすっかり夕焼け色に染まっていた。
近くの駐車場に姿を現していた電車に乗り込み、座席に腰を下ろす。すぐに、電車は走り出した。
「今回も、いい経験ができましたね」
ことはさんは、大変満足そうだった。しかしわたしには、さっきから気になっていることがあった。隣に座った彼に、そろそろと尋ねる。
「はい。あの、今回の仕入れって……どうなったんでしょうか」
物珍しさにきょろきょろして、優花さんとばたばたして。そうしているうちに、本気で観光を楽しんでしまっていた。途中から、仕入れだのなんだのということを、きれいに忘れていた。
気まずさに視線をそらしていたら、ことはさんがさらりと答えてきた。
「優花さんにもらったモミジを、見せてもらえませんか」
「構いませんけど……」
そんなもの、どうするんだろう。不思議に思いながら、クリアファイルを取り出し、ことはさんに渡す。
彼はまるで宝物でも扱っているかのような手つきでクリアファイルを手に取ると、モミジを中にしまったまま、そっと外から手で触れた。そうしてすぐに、わたしのほうに返してくる。
「ありがとうございました。どうぞ、大切にしまっておいてください」
「もしかしてこれを、商品にするんですか?」
クリアファイルをしまいながら尋ねると、彼はええ、と短く答えてきた。ううん、これはたぶん、モミジに着想を得た何かを作って商品にする……とか、そんな感じかな?
「だったら、もっときちんと観察するとか、写真を撮るとかしておいたほうがいいんじゃないですか?」
「いえ、これで十分です。君と優花さんの友好の証は、しっかりと記憶しましたから。お気遣い、感謝します」
どうやら本当に、さっきので十分らしい。どんな商品を作るつもりか知らないけれど、彼がそう言うのなら、そうなのだろう。
半ば強引に自分を納得させつつ、改めて座席にきちんと座り直す。かたんことんという心地よい揺れを感じながら窓の外の海を見ていたら、ふとあくびが出てしまった。
「ふあ……あ」
たくさん走って、お腹も満たされたせいか、ちょっぴり眠い。さっきまでずっとはしゃいでいたからというのもあるかも。
ううん、でも、頑張って起きていないと。大丈夫、わたしはできる……まだまだ、仕入れの旅は続くんだし……。
「お疲れのようですね。どうぞ遠慮せず、眠っていていいですよ。目的地に近づいたら、起こしますから」
しかしことはさんが、とっても優しい声でささやいてきた。お母さんのような温かい微笑みに、強がろうという気持ちが吹っ飛んでいく。
「それじゃ、お言葉に甘えて……」
一瞬だけ、座席に横たわっちゃおうかなとも思った。一両だけのこの電車に乗っているのはわたしとことはさんだけで、あとの座席は全部空いている。誰か他の人が乗ってくる心配もなさそうだし、ことはさんも気にしなさそうだし。
でも、止めておこう。さすがにそこまで、子どもっぽいところは見せたくないし。
行儀よく座ったまま、そっと目を閉じた。
かたんことん、かたんことん。電車の中で眠るのって、どうしてこんなに気持ちいいんだろう。
それに、右肩があったかくて気持ちいい。安心できる温もり……ん? 温もり?
何か、おかしい。何かが引っかかる。疑問に思ったのとほぼ同時に、意識がまどろみから現実に一気に引き戻された。
はっと目を開けて、状況を確認して、青ざめる。
いけない、ことはさんにもたれて眠ってた!
「わ、すみません!」
あわてて離れると、すぐ近くでことはさんがくすくすと笑う。気を悪くしていないようでよかったけれど、ちょっと……面白がられてる?
「いいんですよ。よく眠れましたか?」
どうにも照れ臭いものを感じながら、もごもごと答えた。
「あ、はい、それはしっかりと……」
「だったら、よかったです。次の目的地も近づいてきましたので、そろそろ起こそうかと思っていました」
そうなんですね、と言葉を返したとき、おかしなことに気づく。
眠る前、確かにオレンジ色に染まる空と海を見た。けれど今、窓の外に広がっているのは青空と青い海。えっ、どういうこと!?
あわてて取り出したスマートフォン、そこに表示された時刻を見て、さらに混乱する。
「あれ? 十五時?」
そんなまさか。しかも、日付はそのままだ。時間が逆戻りしている。スマートフォン、壊れた?
「不思議なことが、ひとつ増えましたね」
首をかしげまくっているわたしに、ことはさんがのんびりと声をかけてくる。不思議なこと。兵庫から福岡まで移動できる店。他の人には見えない、どこでも好き勝手に走る電車。海底トンネルの幻。シカを従えることはさん、を追加してもいいかな。
うん、不思議なことが多すぎる。今さらひとつ増えたところで、問題ない気がしてきた。しかしこのままいくと、いずれ七不思議になってしまうかもしれないな。
「……ああ、確かにそうですね……?」
まだちょっぴりとまどいつつ、言葉を返した。夢だと分かっているのに、つい常識でものを考えてしまう。
「ああほら、到着しましたよ」
そんなことを話している間に、わたしたちを乗せた電車は、大き目の駅に停まっていた。使われていないホームなのか、辺りには誰もいない。
「倉敷駅……あ、岡山まで来たんですね」
広島から岡山なら、ものの数時間で着くはずだ。なのに、夕方から午後に逆戻りしてるって……。
ふと、旅に出る前のことはさんの言葉を思い出した。この仕入れの旅は数分で済むから、帰りの時間を気にしなくてもいい。彼は確か、そんな感じのことを言っていた。
それってもしかして、こういうことだったのかな。あの店が場所を飛び越えるように、この電車は時間を飛び越えるのかもしれない。だとしたら、納得だ。
「さあ、降りましょう。目的地はこの近くです。せっかくですから、のんびり歩きましょうか」
ホームに降りて、そのまま改札をくぐる。なぜか、改札の機械はわたしたちをそのまま通してくれた。まあ、この程度じゃもう驚かない。
駅の外には、美しく整備された、けれどのどかな町並みが広がっていた。
「ここから、どこに向かうんですか?」
「倉敷美観地区です。岡山には、他にも見どころはたくさんありますが……ここは、ひときわにぎやかですから」
ことはさんが仕入れたいものは、誰かの思いがこもったものだ。だったら、人の多いところのほうがいいのだろうな。
「美観地区って、いろんなものを売ってますよね。仕入れもですけど、普通のお買い物もしたいです」
宮島でも少しだけおみやげを買ったけれど、まだお小遣いは残っている。比較的新しい観光地であるここなら、電子マネーもしっかり使えるだろうし、また何か買いたいな。
「いいですね。少なくともここでは、シカと追いかけっこをすることはないでしょうし、ゆっくり時間をかけて店を回れますよ」
そう語ることはさんの目は、いたずらっぽくきらめいていた。どうやらこれは、からかわれているのだろう。
「もう、忘れてくださいよー! 優花さんの落とし物を取り返すためとはいえ、ちょっぴりおとなげなかったなとも思ってるんですから」
「ですが一生懸命になっている君は、生き生きとしていましたよ。とても微笑ましかったです」
そうやって話しながら歩いていると、やけに視線を感じた。じきに、その正体に気づく。すれ違う女性たちが、ちらちらと彼を見ていたのだ。
人がほとんどいなかった関門トンネルや、比較的空いていた宮島とは違い、ここは町のど真ん中だ。そんなこともあって、人通りは多い。しかも、若い人も結構いる。
だからなのか、ことはさんはやけに人々の目を引いていた。気持ちは分かる、かっこいいし。
わたしたち、周囲の人たちからはどう見えてるのかな。ふと、そんなことが気になった。
表向きは、従兄妹ということにしてある。でも実際は、ついさっき知り合ったばかり。ことはさんが親切だからこうして楽しく過ごせているけれど、そもそもそんなに親しい関係ではない。
それなのになぜ、余計なことが気になるのか。周囲の女性たちの視線に、むずむずするような奇妙な気分になるのか。
うーん、なんだか調子が狂うなあ。たぶん、優花さんにあれこれからかわれたせいだ。でもことはさんはまったく気にしていない、というか周囲の視線にも気づいていないみたいだし、わたしも考えるのは止めておこう。
どうにかこうにか気持ちを切り替えるのに成功したのとほぼ同時に、行く手に和風の建物がいくつも見えてきた。
壁は白い漆喰で、下のほうには板が張られている。屋根には重厚な瓦がふかれていて、伝統的な雰囲気ではあるけれど、同時に真新しい清潔さも感じさせる建物だ。それが、ずらりと並んでいる。
通りにはお堀が掘られていて、その中を小舟がゆったりと進んでいた。お堀沿いに植えられた柳の枝が風に揺れているのが、風情があって素敵だ。
ここの一角だけ、タイムスリップしたような雰囲気だ。行き来する観光客の姿がなかったら、本当にそう思っていたかも。……この旅、何が起こってもおかしくはないし。
白壁の建物は、それぞれがお店になっているようだった。その店先に並ぶ商品をちらちら見ながら歩いていると、ことはさんが向かい側の岸を指し示した。
「大原美術館の閉館時間が迫っていますから、そちらから先に回りましょうか」
「はーい」
お店はそこそこ遅くまで開いているけれど、美術館とかは夕方になると閉まってしまう。せっかくここまで来たのだし、確かにそっちも見てみたい。
大原美術館は、周囲の建物とはまるで違って、ギリシャの神殿みたいな建物だ。でも、意外と違和感はない。外観の、清らかな白さが共通しているからかな。
てっきり中も古めかしいのかなと思ったけれど、中は近代的でおしゃれだった。平日の午後だからなのか、人はほとんどいない。貸し切りに近いかも。ちょっとぜいたくな気分。
はしゃぎそうになってしまうけれど、美術館ではお静かに、だ。
精いっぱいしとやかに、そろそろと歩きながら、飾られている美術品を鑑賞していく。けれどじきに、こっそりと小首をかしげるはめになっていた。
……どうしよう。ちょっぴり、飽きてきた。
たぶん、ここにあるのはかなりすごい美術品ばかりなんだろう。けど、いまいちぴんとこない。古い絵だと、人の顔の描き方とかがほんのり怖いからかもしれない。現代アートは、鑑賞ポイントがとにかく謎だし。
困惑を顔に出さないように気をつけながら歩いていたら、ほわほわふわふわした色使いの絵に、目が留まった。題名を見て、はっとする。
「モネの『睡蓮』、美術の教科書で見ました」
よかった。知ってる絵だ。……でも気のせいかな、なんだか覚えてるのとちょっと違うような?
するとすかさず、ことはさんが解説してくれた。
「睡蓮の絵は、たくさんあるんです。モネは同じモチーフをたくさん描く画家でしたから」
「ああ、そういうことだったんですか。……同じものを飽きずにたくさん描けるって、すごいですね」
「ええ。その熱意には、頭が下がります」
そんなことをささやき合って、また絵に向き直る。
「きれいですね……わたし、絵のことはさっぱり分からないんですけど、幻想的だなって思います」
そういえば、こうして油絵の実物を鑑賞するのって初めてかもしれない。せっかくなので、近づいてじっくりと眺めてみる。
「それに、絵の具の盛り上がり、細かな混ざり具合とか……印刷では分からないことって、あるんですね」
小声で感想をつぶやくわたしを、ことはさんはにこにこしながら見守ってくれていた。それが嬉しくて、ついつい長々と語ってしまう。格好つけているみたいだなと思わなくもないけれど、今は彼しか聞いていないし、別にいいんだ。
「思いっきり近くで見るとただの絵の具の塊なのに、離れてみるとちゃんと池に見える……不思議だなあ」
「ふん、何が睡蓮だ」
うっとりしながら絵を見つめ続けていたら、少し離れたところから不服そうな声がした。え、誰!?
「ただの絵の具の塊ではないか。馬鹿馬鹿しい」
びっくりしてそちらを見ると、眉間に深々としわを刻んだ老人が立っていた。
真っ白な髪はきちんと整えられていて、ひと目で上等だと分かる背広をぴしりと着こなしている。袖口からちらりと見えている腕時計、たぶんあれも高級品だろう。
ぱっと見は、裕福な老紳士といった感じだ。しかし彼は親の仇でも見るような目で、睡蓮の絵をにらんでいる。
うわ、感じ悪っ。この人、芸術とか嫌いみたいだけど、だったらどうして、わざわざこんなところに来てるんだろう。それも、たったひとりで。
「あれ?」
関わらないほうがよさそうだ。そう考えて、そろそろと彼から離れようとしたそのとき……彼の姿が、ぱっとかき消えた。びっくりして辺りを見渡したけれど、どこにも見当たらない。
驚異的なジャンプ力でどこかに跳んでいったのか、猛ダッシュでどこかに隠れたか……いや、お年寄りだしそれはない。
だったらあるいは何かのイリュージョンとか、人体消失マジックを仕掛けてきた、とか? こう、ドッキリ企画のノリで。でも、あんな人がこんなところでそんなことをする意味が、まったく分からない。
ということは……神隠し、とか。まさかね、と思いたいけれど、否定しきれない。一番非常識な選択肢が一番ありうるってどういうことだろうと、思わず首をかしげて考え込んでしまう。
「美羽さん!!」
いきなり腕を引かれて、我に返った。わたしの名前を呼ぶことはさんの声は、いつになくせっぱつまっていた。
「えっ!?」
きょとんとしたときにはもう、目の前が青一色に染まっていた。




