11.睡蓮が見せた夢
とにかく、青い。透き通った、青。
関門トンネルの中でも、こんなふうに一面の青に包まれたなあと、ふとそんなことを思い出す。
「大丈夫ですか、美羽さん!!」
ぽかんとしていたら、体を揺さぶられた。その声に、少しずつ頭がしゃきっとしてくる。
ぱちぱちと目をまたたくと、ぼやけていた視界がはっきりしてきた。一面の青が、少しずついろんな色に分かれていく。水の青、葉の緑、花の桃色、光のきらめきの白や黄色。
わたしが見ていたのは、大きな池だった。睡蓮が咲き誇る、静かな水面だ。
「庭……睡蓮が、咲いてる……」
さっきまで見ていた絵とそっくりの美しい風景に、ぼんやりと見とれる。
いや、ちょっと待って。今は秋だ。睡蓮が咲いているはずがない。実際、美術館にある池の睡蓮も、もうすっかり枯れていた。
というかそもそも、どうしてわたしたちは屋外にいるのか。あと、美術館の建物はどこにいったのか。右を見ても左を見ても、建物はひとつもない。ここ、どこ。
「その……美羽さん、どうか気を確かに」
ことはさんの声が、やけに近くから聞こえる。ふとそちらを見て、かっと顔に血が上るのを感じた。ことはさんが、近い!
わたしは、池のほとりに座り込んでいた。そしてことはさんは、わたしを守るように、わたしをしっかりと抱きしめていたのだった。
びっくりしすぎて硬直していると、ことはさんがそっと離れてくれた。けれどその手は、わたしの腕にかけられたままだった。どうやら彼は、まだ何かを警戒しているらしい。
どきどきしている心臓をなだめながら、そっと問いかける。
「あの、ことはさん、これっていったいどういうことですか!? ことはさん、何かしたんですか?」
「それが……この事態については、私も何が起こっているのかは分からないんです。ただ私たちは、睡蓮の絵の中にいるようですね」
ことはさんは珍しくも困惑しながら、それでもとんでもないことをさらりと言ってのけた。
彼は店を移動させたり謎の電車を走らせたりしているから、てっきりこれも彼の仕業に違いない。そう納得しかけていたところだったのだけど、どうやらこの件については違うらしい。
「ひとまず、様子を見てみましょう。嫌な感じはしないので、危険はないと思うのですが……」
いきなり絵画の中に引きずり込まれた時点で、割と危険な気もするけれど、彼がそう言うのならそうなのだろう。
と、どこかでがさりという音がした。びっくりして、ことはさんにしがみつく。
「……どなたです?」
ことはさんは警戒もあらわな声で、物音がしたほうに声をかけていた。
「驚かせてしまったかな、東の友人よ」
場違いなくらいに朗らかな声が、池を取り巻く森の奥から返ってくる。続いて、草を踏む音が近づいてきた。
ことはさんの後ろに隠れるようにしながら、固唾を呑んで、そちらを見守る。少しして森の奥から現れた姿を見て、あ、と小さく声を上げた。
やってきたのは、まるで予想もしていなかったいでたちの人物だったのだ。あまりのことに、あんぐりと口を開けてその人をまじまじと見つめてしまう。
金色の髪に鮮やかな青色の目、彫りの深い顔。すらりと背が高い筋肉質の体に、しなやかな布を巻いただけの姿。頭には木の枝でできた冠をかぶっていて、手には小さなハープを持っている。
彼は間違いなく、イケメンではある。ただ、ことはさんとは違い、西洋系の濃い顔だ。東西イケメン対決、という謎の言葉が、一瞬だけ頭に浮かんで消える。
どう見てもコスプレでしかないその格好は、彼にはとてもよく似合っていた。違和感がまるでない。というか、こんな感じの彫刻、どこかで見たような気もする。
「……ああ、あなたでしたか。さすがに驚きました。どうして私たちを、ここに呼んだのでしょう?」
ぽかんとしっぱなしのわたしをよそに、ことはさんはほっとしたように息を吐いていた。
え、この謎の人、知り合いなの!? そういえばこの人、東の友人がどうとか言っていたような……もしかしてそれって、ことはさんのこと?
「すまないね。苦しみに目が曇って芸術から顔を背けているあわれな子どもを、助けてやってほしくて、君たちを招待したんだ」
ここはどこ、あなたは誰、子どもってどういうこと。
「でしたら、あなたがご自分で彼に手を貸せばいいのでは……」
しかしことはさんは納得したような顔で、平然と話を続けている。うん、わたしだけ蚊帳の外。あとで、ことはさんに説明してもらうしかないかな。
そう腹をくくって、ひとまずふたりの会話にじっと耳を傾けることに専念する。
「それも考えたんだが、君たちのほうが適任だと思ったんだ。僕のこの姿ではあの子に警戒されてしまうだろうし、君には、素敵な助手がいるからね」
男性はそう言って、わたしにばちんとウインクをよこしてきた。ものすごくきざなしぐさだけれど、やけに似合っている。
というか、警戒されるって自覚があるのなら、まずは着替えればいいと思うのだけれど。
そもそも彼は、どうやってわたしがことはさんの手伝いをしているのだということを見抜いたのか。ああ、突っ込みたいところが多すぎて、考えがまとまらない。
ことはさんも困惑気味に、そろそろと口を挟む。
「いえ、彼女は……」
しかし男性は、白い歯を見せたさわやかな笑みで、彼の言葉をさえぎってしまった。
「みなまで言わずともいい。僕には分かる。君は、いい人を見つけたね。これだけのめぐり合わせは、なかなかない。末永く、大切にするんだよ」
彼の物言いに、つい首をかしげてしまう。
わたしは確かに、ことはさんの助手のようなものだ。でも何をどうしたら『いい人』なんて言い回しになるんだろう。しかも「末永く大切に」って。その言い方だと、ちょっと……ううん、かなりニュアンスが違ってくる気がするんだけど。
どうにもむずむずするものを感じながら、澄ました顔を作って耐える。とにかく今は、様子見だ、様子見。
「ともかく、あの子を助けてやってくれ。頼んだよ」
言うだけ言って、男性はくるりと背を向ける。軽く手を挙げてひらひらと振りながら、きびきびとした足取りで立ち去っていった。やがて、彼の姿が周囲の木立の中に消えていく。
そうして、睡蓮の庭に静けさが戻ってきた。さらにもうしばらく待ってから、ことはさんのほうを向いて、声をひそめて尋ねる。
「あの、さっきの人って、お友達……なんですよね?」
いったいどこで、あんな妙な人と知り合ったのか。まずはそこが、気になって仕方がなかった。
ことはさんは苦笑しつつ、そっと視線をさまよわせる。あ、困ってるみたい。珍しい反応だ。
彼もまた、ひそひそ声で答えてきた。
「いえ、彼は……そうですね、私とは共通する部分もあるといいますか、ある意味同僚のようなものといいますか……といっても、一緒に働いたことはなくて……」
「……ややこしい関係みたいなので、これ以上詮索しないでおきます……」
「そうしていただけると助かります」
わたしの言葉に、ことはさんは心底ほっとしたように息を吐いた。
「……きれいですね、ここ」
「そうですね。静かで、穏やかで……」
そのままふたり、ぼんやりする。
あの男性によれば、わたしたちはこれから、どこかの子どもを助けてやらなくてはならないらしい。たぶんその仕事を終わらせなければ、この絵の中から出られないのだろうなという気がする。
でも、どうにも動く気にはなれなかった。
静かな池、優雅に咲き誇る睡蓮、しなやかに揺れる柳の木、向こうのほうにかかっている繊細な橋。まるで絵のような……というか、本当に絵なんだけど……美しい光景だ。
けれど、ここはただの絵ではなかった。初夏のさわやかな風が肌をなで、髪をなびかせていく。揺れる木々の枝が、さわさわと音を立てている。水と緑の香りが、風に乗って運ばれてくる。
モネがたくさん睡蓮の絵を描いた気持ち、分かる気がする。この場所そのものを、どうにかして留めておきたかったんだろうな。光景だけじゃなくて、音も、風も、香りも、全部。
「……こうしていてもなんですし、ひとまず動いてみましょうか」
ちょっぴり名残惜しそうに、ことはさんが口を開いた。
「何が起こるか分かりませんので、私のそばを離れないでくださいね」
そうして、わたしに手を差し伸べてくる。えっと、これは……つかまれ、ってこと?
とまどいつつ彼の目を見たら、彼はにっこりと笑ってうなずいた。ちょっぴり緊張するけれど、緊急事態みたいだし……それに、他に誰もいないし、照れている場合じゃないな。
「あ、はい……」
そっと彼の手を取る。大きくてしっかりした手の感触に、やっぱり緊張してしまう。考えてみたら、男の人と手をつなぐのって、いつぶりだっけ? 小学生?
ああもう、それより周囲を観察しよう。あの謎の男性が言っていたように、たぶんこの庭のどこかに子どもがいるはずだ。その子を探し出さないことには、何も始まらない。
ふたり並んで、丈の低い草を踏みしめて、どんどん進んでいく。
「あのー……ここ、だいぶ広くないですか? 思ってたのと、違うような……」
しかし進めども進めども、同じような景色ばかりが続く。木々の間の小道を抜けたら、そこにはまた池があった。橋を渡った先にも、また別の森が広がっている。
「そうですね。きっとここは、モネが描いた庭そのものとは、また違う場所なのでしょう」
「ここはあくまでも絵の中だから、ということですか?」
「ええ。……あ」
こくんとうなずいたことはさんが、ふっと眉間にしわを寄せた。やけに深刻そうな顔だけど、どうしたのかな。
「絵の中、と聞いてふと思いついたのですが……今までモネが描いた全ての睡蓮の絵がつながって、この場所を形成している可能性もありますね。だとすると、この広さもうなずけます」
その言葉をゆっくりとかみしめながら、きょろきょろと辺りを見渡す。つまり今、わたしたちは、絵から絵へと歩き回っている、ってことなのかな。
「あの、モネの睡蓮って、何枚くらいあるんですか?」
「確か、百は越えていたはずですが……いえ、二百以上ありましたね」
その返答に、うっと言葉に詰まる。二百枚の風景画が寄り集まってできた空間、確かにそれは広そうだ。
そんな中を、子どもを探してうろつきまわる……しかも、その子どもを助けるにあたって、具体的に何をどうすればいいのだろうか。そもそも、その子がどんな子なのかすら知らないのに。
これは、かなり面倒な事態に巻き込まれてしまったのかもしれない。
「せめて、ヒントくらい教えてくれてもよかったのに……」
勝手に依頼して言いたいことだけ言ってさっさと立ち去った金髪イケメンにぼそりと恨み言をつぶやいていたら、右奥のほうから澄んだ音が聞こえてきた。ぽろんぽろんという、ハープの音だ。
それを聞いて、ことはさんがくすりと笑う。
「ヒント、いただけたようですよ」
「……このタイミングで、って……何考えてるんだろう……」
まるでわたしたちの話を聞いていたかのような見事なタイミングにちょっぴり引っかかるものを覚えつつ、ひとまずそちらに向かう。
進むほどに、森が深くなっていく。じきに、睡蓮が咲き乱れていた辺りとは、雰囲気が変わってきた。
なんというか、こう……うまく言えないけれど、見慣れた感じの景色っぽくなってきたのだ。西洋の庭ではなく、日本の野山のような、そんな感じ。木とか草とか、見覚えのあるものが増えてきた気がするのだ。
不思議に思いながら、木々の間の細い道を抜ける。その先には、小さな空き地があった。そこにあるものを見て、目を丸くする。




