8.落とし物と探し人
「あのー、ことは……さん?」
すっかり上がってしまった息を整えながら、そろそろとことはさんに声をかける。彼はまっすぐに、林の奥を見つめていた。
どうやら彼は、逃げたシカに呼びかけているらしい。でもここまでさんざん逃げ回っていたシカが、そんなことで戻ってくるとは思えない。
たださっき、奥の茂みのほうでがさり音がしたような……。
「え、うそ」
わたしたちが見つめる中、茂みをかきわけてシカが姿を現した。あごをつんと上げて、澄ました足取りで。その口には、あの紙をしっかりとくわえている。
その場にへたり込んだまま、呆然とシカを見つめる。ことはさんが振り返って、笑いを含んだ声で言った。
「ほら、返してくれるようですよ」
まだぽかんとしたまま、そろそろとシカに近づいていく。手を伸ばして、紙をつかもう……としたところで、シカがぷいと横を向いた。
宙をかいた自分の手を見つめ、そっぽを向いたままのシカを見る。今度は狙いを定めて、もう一度紙をひったくろうと……ああ、またかわされた!!
「もー!! 何よこのいたずらシカ!! ここならジビエにされっこないからって、人間をなめてるし!!」
思わずそんな罵倒が口から飛び出る。宮島は神の島だから、当然島の中での殺生はアウトだろう。自信はないけど、たぶんそんな気がする。
シカをにらみつけていたら、横からことはさんのおかしそうな声がした。
「美羽さん、顔が怖いですよ」
「だって! この子のせいで、あちこち走り回るはめになったんですから! しかも、わたしの言うことはちっとも聞かないし!」
悔しさに頬を膨らませるわたしを、ことはさんはまあまあといってなだめてくる。それから彼は、シカにもう一度向き直った。
「ほら、いたずらはそのくらいにしておきましょう。ね?」
するとシカは、くわえていた紙をことはさんに差し出した。ことはさんが受け取ったのを見届けて、シカはしなやかな足取りで立ち去っていく。
「なんでことはさんの言うことは、素直に聞くんですか……」
遠ざかっていくシカのお尻を恨めしい思いでにらみながら、ぼそりとつぶやく。
「不思議ですね?」
あからさまにとぼけながら、ことはさんは手にした紙を裏返した。
「おや、これは写真のようですね」
わざわざプリントアウトしてるってことは、きっと大切な写真なんだろうな。そう思いつつ、彼の手元をのぞき込んだ。
どうやら、どこかの山の上で撮ったものらしい。遠くに海が、近くには岩場が写り込んでいる。写真の中央には、さっきの女性と、同世代くらいの男性が笑顔で写っていた。ちょっとへらへらした感じの男性だ。鼻の下が長いというか……にやけてるのかな。
女性の見た目は、さっき会ったときとほぼ変わらない。ここ数年以内に撮られたもののようだ。
「ことはさん、一応裏も確認してみませんか」
「そうですね。……おや、これは」
写真の裏、下のほうに『愛しい優花へ。永遠の愛を誓って』と小さい字で記されていた。シカのよだれでちょっとにじんでいるけれど、まあ読める。
「……これ、こっちの男性が書いたんでしょうか……優花って、たぶんさっきの女性の名前ですよね」
「おそらくは、そうでしょう」
なんとなくそんな気はしてたけど、このふたり、恋人同士だ。で、優花さんは「前はふたりだった、今はひとりきり」って涙ながらに言っていた。
つまり、この男性がいなくなってしまって、彼女はそのことを悲しんでいる。
納得できたところで、もう一度写真をじっくりと見てみた。うん、確かにこの感じ、ふたりは恋人同士で間違いないと思う。
……ただ、気のせいかな。優花さんはともかく、男性のほうが若干自分に酔っているようにも見える。わたしの学校にもいるんだよね、こういう感じのカップル。ほんのり温度差があるっていうか。
でも、優花さんはひとりになったことを、あんなにも嘆いていた。だったら、やっぱりふたりは仲がよかったんだろう。
うん、これ以上詮索するのは止めよう。それよりも、これを早く優花さんに返してあげないと。きっと今ごろ、探してる。あるいは、落としたことに気づいてすらいないかも。
写真をスクールバッグにしまい、来た道を大急ぎで引き返す。まずはさっき彼女と別れたところまで戻り、それから彼女が向かっていったほうへ進んでみた。
「こっちに行ったのは、間違いないんですけど……いないですね」
きれいに紅葉した木々に囲まれた森の小道を歩きながら、首をかしげる。ことはさんは立ち止まると、遠くを見つめるように顔を上げている。
「あの場所からこちらに向かったのであれば、もしかすると……ロープウェーに乗ったのかもしれませんね」
「ロープウェー?」
宮島って、海のそばだけが観光地で、あとは立ち入り禁止的な感じだとばかり思ってた。山、入れるんだ。
「はい。そちらの山は弥山というのですが、そこにも様々な見どころがあるのですよ。……そういえば、その写真の背景は、山上のものに似ていますね」
「でしたら、行ってみましょう!」
ことはさんに案内されて、ロープウェー乗り場に向かう。そこにいた職員に尋ねてみたら、優花さんらしき女性が少し前の便に乗っていたと教えてもらった。よし、こっちで合ってた。
ロープウェーをふたつ乗り継いで、どんどん上に向かう。やがてわたしたちは、山のてっぺんに立っていた。
周囲には丈の低い木々がわさわさと茂っていて、足元は岩肌がむき出しになった地面だ。確かに、写真の光景に似ているかも。
「この山の上に、優花さんがいるはず……なんですよね」
きょろきょろと辺りを見渡してみたけれど、彼女の姿はない。そもそもここからだと、岩が邪魔で遠くのほうがよく見えない。
「あ、あそこに展望台っぽいものがありますよ」
ひとまず、近くにあった建物に上がってみる。そこの屋上から、山上を見渡し……うわあ、海までよく見える……島もたくさん……すごーい……。
「見える範囲に、彼女はいないようですね」
壮大な風景に見とれてしまって、ことはさんの声に我に返る。いけない、優花さんを探してる途中だったんだ。観光は、あとだあと。
「だったら、山の上をぐるっと歩いてみませんか? なんとなくですけど、優花さんはどこかでじっとしていそうな気がするんです」
遠い目をしたあの人が、生き生きと山の上を歩き回って、元気に山を下りていくという姿がどうにも想像できなかった。たぶん彼女は、この山上のどこかでたそがれているんだろう。だったら、こちらから探しにいったほうがいい。
「そうですね、そうしましょうか」
展望台を出て、そのまま山上をうろうろと歩き回る。
岩がむき出しの道は、意外にも歩きやすい。人も多すぎないし、秋の風が涼しくて気持ちいい。中々の観光日和だ。自然と、鼻歌なんかももれてしまう。
「楽しいですか、美羽さん?」
それが聞こえてしまったのか、隣のことはさんが笑顔で尋ねてきた。ちょっぴり決まりが悪いなと思いつつ、素直にうなずいておく。
「あ、はい」
それから、周囲の風景にぐるりと目を向けた。
「行ったことのないところに行って、見たことのないものを見て……これは夢だって分かってるんですけど、それでも十分すぎるくらいに楽しいです」
「夢……ええ、そうですね」
あれ、気のせいかな。今一瞬、ことはさんが寂しそうな顔をしたような。この旅は夢のようなものだって言いだしたのは、彼なのに。
「おや、あちらに」
しかしすぐに、彼はいつもの表情に戻り、目を見張った。
彼の視線の先をたどると、ごつごつした岩の崖っぷちに優花さんが立っているのが見えた。
彼女は長い髪を風になびかせて、物憂げな目で遠くを見つめている。今にも、ここからいなくなってしまいそうなたたずまいに、ひゅっと背筋が冷たくなる。
「あ、優花さん!! 早まっちゃ駄目です!!」
考えるより先に駆け出して、彼女に飛びついていた。




