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7.彼女の憂鬱

 まるで低レベルのナンパのようなわたしの言葉に、女性がきょとんとした顔になる。浮かびかかっていた涙も、引っ込んだようだ。


「えっ?」


「ほら、こっちです!」


 うろたえている女性の腕をつかんで、ぐいと引っ張った。ひたひたと押し寄せつつある静かな波から、彼女を引き離すように大股で歩いていく。ことはさんが、ちょっぴり面白そうに目を見張って、わたしたちのあとに続いていた。


 わたしの行動が予想外だったらしく、女性はおとなしく引きずられてくれた。そのまま、大鳥居のある湾を取り巻く道へと上がる。よし、ここまでくればもう濡れることはない。


 それでもしっかりと女性の腕をつかんだまま、きょろきょろと辺りを見渡す。あった、自動販売機。流れるような足取りでそちらに向かい、スクールバッグからスマートフォンを取り出した。


 スマートフォンを構え、力強い笑みを浮かべながら、女性に問いかける。


「お姉さん、何にしますか?」


「え? その、じゃあ……そっちのお茶……?」


 女性はまだ狐につままれたような顔で、それでも素直に答えてくれた。


「はい分かりました! ことはさんも、同じものでいいですか?」


「ええ、もちろんです」


 おかしそうに笑っていることはさんに確認を取ってから、手早くお茶をみっつ買う。女性はまだ呆然としていたけれど、お茶のペットボトルを受け取って、ひと口飲んだ。


 彼女はそこでようやく我に返ったらしく、決まりの悪そうな苦笑を浮かべた。


「……私が変なこと言っちゃったせいで、迷惑かけちゃったわね。お代、払うわ」


「いえ結構です! わたしが勝手にやったことなので!」


 これならもう、彼女が水びたしになることはないだろう。まあ、場所が場所だし、放っておいてもそのうち誰かが救助に向かっただろうけど……未然に防げたのは誇らしい。


 うん、満足。女性から手を放し、自分の分のお茶をごくごくと飲む。いいことをしたあとのお茶はおいしいなあ。


 それを見ていた女性が、また悲しげに笑った。物憂げなその表情に、はっとする。あれ、油断するのはまだ早い?


「それより、その……大丈夫ですか?」


 急に心配になって問いかけたら、彼女は苦笑しながら肩をすくめる。


「ええ、もう変な真似はしないわ。悲劇のヒロインぶっても、馬鹿馬鹿しいだけだって気づけたし。あなたのおかげね」


 悲劇のヒロイン。ああ、やっぱり訳ありだったのか、この人。まあ、普通の精神状態なら、潮が満ちる干潟に残ろうなんて考えないか。


「……本当は、ふたりでここに来る予定だったの。ここは、思い出の場所だったから」


 などと納得していたら、女性は勝手に語り出した。ペットボトルを両手で握ったまま、遠い目をしている。


「でも、そんな未来は私の手からするりと逃げていった。私はこうして、ひとりきり……」


 ちょっぴりポエミー。というかそのもうひとりの人って、もうこの世の人ではない、とか? だとしたら、この人のこの態度もちょっと理解できる。


「過去と決別するために、こうしてやってきたのだけれど……駄目ね、どこを見ても懐かしくて」


 そう語る彼女の目は、とても寂しげだ。


 どうしよう。これって、何か励ましの言葉をかけたほうがいいのかもしれない。でもなんて言えばいいのかさっぱり分からない。下手なことを言って地雷を踏んだらまずい。


 助けを求めるようにことはさんをちらりと見たら、彼は涼しい顔をしてお茶を飲んでいた。あ、ひどい。困ってる女性がふたりもいるのに、その態度はどうかと思う。


 なおもことはさんを見続けていたら、女性がふと小首をかしげた。わたしとことはさんを、交互に見ている。


「そういえばあなた、学生さん? 修学旅行……とは違うみたいだけど」


「あ、いえ、わたしたちは従兄妹です。家族旅行みたいなもので」


 前にことはさんが口にしていた言い訳を、あわてて返す。話がそれたことに、ちょっとほっとしていた。


「あら、そうだったの?」


 しかし彼女は、まだ少しばかり疑っているようだった。背中を冷や汗が流れるのを感じながら、さわやかに微笑む。


「久しぶりに会えることになったので、宮島に連れていってもらうことになったんです。めったに顔を合わせないので、どうしても敬語になりがちで」


「そうなんです。もっと砕けた感じでもいいですよって言っているのですが、お互いどうにも直らなくて」


 すると、とっさにことはさんが調子を合わせてくれた。女性はまだ考え込んでいるようだったけれど、やがて納得したようにうなずいた。


「まあ、あなたたちはそれでいいんじゃないかって気がするわ。仲、よさそうだし」


「ふふ、お褒めいただき光栄です」


 どう答えていいか分からずに口を閉ざしているわたしの隣で、ことはさんがにこやかに言葉を返した。ちょっと大げさな口調に、女性は軽く目を見張っていた。


「さて、そろそろ私は行くわ。それじゃあね、親切なお嬢さん」


 けれどすぐに気を取り直したらしく、女性はそう言い残して立ち去っていった。


 その背中が遠くの人込みに消えたところで、深々と息を吐く。ああ、いろいろと疲れたなあ。


 するとことはさんが、小さく手を叩いている。満足そうな笑みを、わたしに向けていた。


「見事でした、美羽さん。私も彼女のことは気になっていたのですが、うかつに声をかけるのもはばかられまして。なにぶん、相手は妙齢の女性ですから」


 妙齢の女性……って、また古めかしい言い回しだなあ。でも、彼の言わんとすることは分かる。間違いなくイケメンの部類に入ることはさんが傷心の女性に声をかけるのは、少々危険かもしれないし。


「ふふ、君を連れてきてよかった。頼りになりますね」


「いえ、それほどでも……」


 照れて横を向いた拍子に、ふと気づく。近くの地面に、何かが落ちていた。


「あれ、もしかして落とし物?」


 ついさっきまで、そこには何もなかった。そしてこの周囲には、わたしたちしかいない。となると、あの何かはさっきの女性の落とし物かもしれない。


 近づいて、よく見てみる。はがきよりひと回りくらい小さな、長方形の紙。白いその紙は、砂ぼこりでうっすら汚れていた。


 とりあえず、拾っておこう。しかし伸ばしたわたしの手が紙をつかむより先に、シカの頭がずいっと乱入してきた。


「へ?」


 驚いたわたしの隙をつくようにして、シカはぱくりと紙をくわえると、そのまますたすたと立ち去ってしまう。


「えっ、待って!」


 とっさに呼び止めたものの、シカは紙をくわえたままこちらに背を向けた。それだけなら、まだ分からなくもない。


 しかしこのシカときたら、ちらりとこちらを振り返って……笑った。


 腹立つ! なんでシカが笑うの!


「ちょっと、それ、返しなさいよ!」


 むかっ腹が立ったのをこらえつつ、シカを驚かせないように、しかし断固とした態度で迫っていく。よし、あと少し……。


 狙い定めて、腕を伸ばす。ところがシカはひらりとわたしの腕をかいくぐると、そのまま明後日の方向に走り出した。


「こら、待ちなさーい!!」


「本当に君は……動物に、好かれていますね……」


 声を張り上げてシカを追いかけると、後ろからことはさんの声がした。明らかに、笑いをこらえている。ことはさんまで、ひどい!


「もう、行きますよ、ことはさん!!」


「はい。……ふふっ」


「だから、笑わないでくださいよ!!」


「あ、ほら、シカを見失いますよ」


「えっ、どっちに行きました!?」


「そこの道を、左へ」


 ことはさんの指示に従って、がんがん走る。観光客が少ない日でよかった。それでも、すれ違う人たちが何事かという目でわたしたちを見ている。うう、恥ずかしい。


 こうなったら、意地でもあのシカを捕まえて、紙を取り戻そう。というか、放っておいてシカがあの紙を食べられちゃったら、シカの健康にもよくない。


 開き直って、ひたすらに走ることにした。森の中を、お寺の横を、海辺の道を、ぐねぐねと走り続ける。……この島って、いろんな場所があるんだな。あとでゆっくり見て回りたいな。そのためにも、早くシカを捕まえないと……!


「さすがに……しんどい……」


 そう決意したものの、息が上がってきた。やっぱり、長い間走り続けるのは辛い。


 前は、イノシシに追いかけられて走った。今回は、シカを追いかけて走っている。どうしてわたしはこうも、動物マラソンに縁があるのか。


 明るい林に差し掛かったときには、もうすっかり足が重くなっていた。駄目、そろそろ限界……。


 立ち止まりそうになったそのとき、すぐ後ろを走っていたことはさんがするりと進み出た。彼もずっと走っていたはずなのに、息ひとつ乱れていない。


「さあ、いたずらなシカさん。そろそろそちらを、返してはもらえませんか」


 林の奥に向かって彼が呼びかけたとたん、遠くのほうで茂みががさりと揺れた。

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