表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/20

14.救われたもの

 風が吹き抜けたあと、庭に立っていた人を見て、驚かずにはいられなかった。


 光彦さんの姿は、影も形もなかった。イーゼルや木箱も、きれいさっぱりなくなっている。


 けれどその隣、さっきまでつよし君が立っていたところに、さっきの老人がたたずんでいたのだ。モネの絵を見て悪態をついていた、裕福そうなあの老人だ。


 面影はまるで残っていないし、身なりもびっくりするくらいに違うけれど、この老人はつよし君なのだと、すぐに分かった。その手には、さっき光彦さんから受け取った絵がある。


 つよしくん……いや、片山さんと呼ぶべきかな。彼はこちらに背を向けたまま、じっと立ち尽くしていた。


 どう声をかけていいか分からなくて、ただはらはらしながら、じっと彼を見守る。隣にいることはさんを見ると、彼もちょっぴり心配そうな目を片山さんに向けていた。


「……父ちゃん、よかったな」


 やがて、老人のかすれた声で、子どもの柔らかな口調で、片山さんはつぶやいた。


 その温かな声に、ほっとする。この絵の中に引きずりこまれたときはどうしようかと思ったけれど、どうやらなんとかなったみたいだ。


 父親を探してさまよっていたつよし君は、無事に光彦さんと再会することができた。光彦さんは、つよし君に自分の思いを伝えることができた。たぶん、これであの謎の青年からの依頼はこなせただろう。


 よかった、と思ったのと同時に、片山さんがふんと鼻を鳴らしてこちらに向き直る。とってもふてぶてしい表情は、最初に出くわしたときのまんまだ。あれ……なんか、予想と違う……?


「あ、あの、それ、とっても素敵な絵ですね」


 気まずさに耐えかねて、とっさにそんなことを口走る。しかしそれを聞いた片山さんの眉間のしわが、さらに深くなった。あれ、おかしなこと、言っちゃったかな?


「あいにくと、わしはそう思わん」


「え?」


「わしは、絵が憎い。父を狂わせ、家族を不幸にした。こんなものがなければよいと、今でもそう思っておる」


 彼の声音には、やはり拒絶の響きがあった。うーん、これでは光彦さんも、浮かばれないかも……。


「だが、父の心残りが消えたことは、喜ばしいと思う。それに、この絵だけは……」


 しかしそのとき、片山さんが肩を落とす。


「この絵だけは、憎むことができん。悔しいがな」


 あ、やっと認めた。よかった。


 と思ったら、片山さんはまたきりりと眉をつり上げ、大きく息を吸った。


「誰がわしをこんなところに連れてきたのか知らんが、とっととこの気味の悪い場所から出せ! お前の目的は、もう果たされたのではないか!?」


 どすのきいた叫び声が、美しい庭に響き渡る。もうちょっとしんみりした気分に浸っていてもいいと思うんだけど、強情なのかも?


 彼の声にこたえるように、ひときわ強い風が吹き抜ける。思わず腕で顔をかばって、背中を丸めた。


 ……ふう、風、止んだみたい。


 目を開けて、驚きに声を上げる。わたしたちは元通りに、睡蓮の絵の前に立っていた。あ、戻れた。すぐ隣では、ことはさんが安心したように胸に手を当てていた。


 えっと、片山さんは……あ、後ろにいた。彼はひたすらに厳しい顔で、睡蓮の絵を見つめていた。その手に、光彦さんの絵はない。


「父は、あの小屋の中で亡くなっていた」


 こちらを見ないまま、彼は語る。こわばった、重々しい声で。


「床には、それまでに描いた絵が散らばっていて……それらの絵に囲まれた父は、ひどく悲しげな顔をしていた。何を思っていたのか、知りたいとも思わなかったが……」


 そうしてまた、ふんと鼻を鳴らした。あの純粋なつよし君からは想像もつかないふてぶてしい姿に、過ぎ去った年月を感じずにはいられなかった。


「さっきのは、白昼夢だったのか。ずいぶんと、わしに都合のいい夢だった」


「いえ、あれは」


 きっと、夢じゃなかったんですよ。わたしがそう言い終えるより先に、片山さんがさらりととんでもないことを言い出した。


「……この程度の絵、わしが本気を出せば買い取ることくらい造作もない。わしにとっては、結局その程度のものでしかないのだ」


 彼の視線の先には、モネの睡蓮の絵。まさかと思うけど、彼は睡蓮の絵について語ってる……?


 しかも、この程度、って……こういうのって、オークションに出たら百億とかいっちゃうんじゃないだろうか。今の片山さんは間違いなくお金持ちなんだろうなと思っていたけれど、どうやら、けた違いだったみたい。


 つよし君も、そして光彦さんも、けっして豊かとはいえない身なりだった。あの時代の平均的な暮らしがどんなものかは知らないけれど、たぶんふたりとも、貧しい部類に入っていたんだと思う。


 そんなつよし君が、百億ぽんと出せるくらいに出世するなんて。片山さんはこれまでに、どれほどの苦労を積み重ねてきたのだろう。


「富豪となった者の義務として、形ばかり文化活動とやらに寄付をすることもあった。だがずっと、はらわたが煮えくり返るような思いを抱えておった。どうしてこんなものに、わしの財を注ぎ込まねばならんのか、と」


 文化活動に寄付って、つまり美術館とかそういうところに寄付をしたってことだろう。ずっと絵を憎んできた彼にとって、それはどれだけ辛かったのか、想像もつかない。


「だがまあ、これからは、多少なりとも心安らかに過ごせそうだ。その点だけは、よかったとしておこう」


 さっきまでの剣幕が嘘のように、片山さんがゆったりと息を吐いた。かすかに苦笑したその表情に、つよし君の面影が見て取れる。


「ともかく、お前たちに手間をかけさせたのも事実だな。……ついてこい」


 彼は仏頂面で言い放つと、わたしたちの返事を聞くより先に、さっさと歩き出してしまう。


 訳も分からないまま、片山さんのあとを追いかける。彼は少しも迷うことなく歩き続け、ミュージアムショップに入っていった。よく見えるところに飾られていた何かを手に取り、ちょうど追いついてきたわたしに差し出してくる。


「口止め料だ。お前たちは、こういうのが好きそうだからな」


 そんな言葉とともに手渡されたのは、この美術館に収録されている絵画が刷られたポストカードのセットだった。彼は遅れて入ってきたことはさんにも、無理やりそれを押しつけている。


「あの、口止めも何も、わたしはあなたがどこの誰だか知りませんし……」


 苗字は片山、名前はつよし。漢字は分からない。還暦は過ぎていて、とってもお金持ち。わたしが彼について知っているのはそれだけだし、そもそも住む世界が違う。ごく普通の女子高生が彼について何か話したところで、困るようなこともないと思うのだけれど。


「それでもだ。先ほどのことは、口外するな」


「……ええ、まあ……はい」


 さっきのことを誰かに話したところで、まず信じてはもらえないだろう。それなのにわざわざ口止めするなんて、よっぽど知られたくないんだな。


「私も、沈黙を貫くとお約束します。……ああ、ですが、私たちふたりの間で話すことだけは、許してもらえるでしょうか」


 いつも以上に丁寧に、ことはさんが申し出る。すると片山さんは、にやりと笑ってみせた。


「ああ、構わん。思い出を語りたくなることも、あるだろうからな。それに、父のところまで運んでもらった礼もある」


 さらりとそう答えながら、片山さんは会計を済ませていた。……意外にも、普通に現金で支払っていた。こう、黒いカードとかそういうのが出てくるんじゃないかって思ってたんだけど。


「ありがとう、ございます」


 ショップを出て、改めて礼をいった。ついでに小声で、ちょっとだけ付け加える。


「ただ……光彦さんの絵、なくなっちゃって残念でしたね」


 怒られるかな、と思ったけど、言わずにはいられなかったのだ。あの夢のような庭の中で、光彦さんの絵を見つめていた片山さんは、とても優しい顔をしていたから。


「そうかもしれんな。まあ、気が向いたら再現を試みるのも悪くはないかもしれないな。父の、そして母の供養のために」


 すると、意外な言葉が返ってきた。さっきまで不機嫌そうにむっつりとしていたとは思えないくらいに、肩から力が抜けている。


「お母さま、ですか?」


「信じられんことに、母はあれだけ苦労させられても、なおも父のことを大切に思っておったのだ」


 自然な態度で語る片山さんに、つい笑顔になってしまった。普通のおじいちゃんと話しているのと同じ感じで、相槌を打つ。


「夫婦の絆……ってやつですか? 男女の仲って、不思議なことがたくさんありますね」


「まあ、お前にはまだ早い話だったか。とはいえ、いずれは理解するだろうて。頼れる相手がいるのだから、な」


 すると片山さんは、くつくつと小さく声を上げて笑った。その視線は、わたしを通り越してことはさんに向けられている。


 ん? この意味ありげな視線、見覚えが……あ、そうだ。優花さんがわたしたちをからかってたときの、あれだ。


「あ、えと、わたしたち、そういうのじゃないので……」


 あわてて否定すると、片山さんが手を挙げて言葉をさえぎった。


「どういうのかは知らんが、仲がいいことだけは確かだろうが。では、な。もう会うこともないだろうがの」


 あきれたように肩をすくめると、片山さんはゆったりと歩み去っていく。遠ざかっていく姿に、つよし君の姿が重なって見えた。その背中は、どことなく嬉しそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ