13.遠き日の記憶
少年は肩で息をしながらわたしたちを見つめていたけれど、やがてがっくりとうなだれてしまった。
「父ちゃんじゃ、なかった……」
その落ち込みっぷりに、こちらまで申し訳なさを感じてしまう。
「えっと、その、ごめんね? ここ、君の家?」
「……そうだよ」
この子は八歳くらいかな、関門トンネルで出会った颯太君よりは年上に見える。ただ、その身なりはどうにも不思議なものだった。
着ているものは汚れた白いタンクトップと、暗い緑色の短いズボン。髪は丸刈りで、足元は草履だ。今どき見ない格好……というか草履をはいてる子なんて、初めて出会った。
「父ちゃん、見なかった?」
黙って子どもを観察していたら、彼はすがるような目で尋ねてきた。父ちゃん。あの金髪イケメンがこの子の父親ってことは、まずありえないし……。
「ごめんね、見てないの」
そう答えると、その子はぐっと唇を噛んでしまった。どうやら、涙をこらえているらしい。
「あ、その、お父さんってどんな人? 教えてもらえたら、探すのを手伝えるかも」
あわてて笑顔を作り、軽くかがみ込んでその子と視線を合わせる。
あの謎の男性が言っていた『救ってやってほしい子ども』というのは、きっとこの子のことだろう。そう確信していた。
だったら、まずは何がどうなっているのかを知らなくては。泣きそうな少年をなだめて、どうにかこうにか事情を聞き出す。
そうして、少しずつ彼の抱えていた問題が明らかになった。
少年の名前は、つよし。彼の一家は、ずっとこの古い小屋で暮らしていた。けれど彼の父親である光彦さんが、ある日唐突に絵を描き始めたことから、彼らの日々は変わっていった。
「父ちゃん、畑仕事の合間に、田んぼのそばの泥に棒で絵を描いたりして……何してるんだろうって、みんな不思議がってた」
つよし君はぎゅっとこぶしを握り締めながら、震える声で説明している。
「しばらくして、父ちゃんはあの絵具とキャンバスとかいうのを、持って帰ってきた。友達の友達からもらったとか言ってたけど、それが誰なのか、俺は知らない」
彼の視線は、小屋の床に置かれた木箱に向けられていた。幼い面差しには似合わない、強い憎しみのこもった視線に、びっくりしてしまう。どうして、そんな目をしているのだろう。
「それから父ちゃんはちょくちょく、ひとりきりで絵を描くようになったんだ。絵具を使った、油絵とかいうのを」
けれどつよし君はわたしのとまどいに気づいていないらしく、ぼそぼそと語り続けていた。
「どんどん、絵を描いている時間が長くなって……母ちゃんも俺も弟たちも、みんな心配してた。父ちゃんは何かにとりつかれたんじゃないかって、近所の人たちも噂してた」
そこまで話したところで、つよし君が言葉を切った。
「ここ、もともとはみんなで暮らしてたんだ。でも父ちゃんが絵ばっかり描くようになってから、よそで暮らすようになった。ずっと絵の具の臭いがしてるせいで、母ちゃんが体を壊したから」
表札がかかっているのに、生活感のない小屋。その理由が、ようやくはっきりした。きっとこの小屋の中には、彼ら親子の家財道具が置かれていたのだろう。
「俺は毎日、父ちゃんの様子を見に、ここに来てた。でも……父ちゃんがいなくなって……」
うつむいてしまったつよし君に、ことはさんがそっと声をかけた。
「それで君は、懸命に父親を探していたのですね」
優しいその声に、つよし君は小さくうなずいている。
どうやら、やるべきことが見つかったようだ。わたしたちはこれから、つよし君の父親を見つけてやればいい。
「よし、だったらみんなで探そうか。ねえ、お父さんについて、もっとくわしく教えてくれる?」
「う、うん」
そうして、彼の父親について教えてもらう。片山光彦、今年二十七歳になる、ほっそりとして優しげな人なのだとか。つよし君の父親としては、かなり若い。
ともかく、辺りを歩き回ってみよう。三人並んで、来た道を戻ってみる。
「ねえ、つよし君は、どの辺りを探してみたの?」
ふと尋ねてみたら、つよし君はまたしても暗い顔になってしまった。
「……分かんないんだ。気づいたら、来た道がなくなってるし……というか、ここ、どこなんだよ……小屋は俺んちのなのに、周りの山も川も、全部知らないものばかりだし……どこまで行っても、知ってる場所に出られない」
どうやら彼にとっても、ここは謎の空間なのだろう。そしてここで、彼は心細い思いをしていたようだった。
「そもそも、どうして俺がここにいるのかも、思い出せないんだ……ただ、父ちゃんを探さなくちゃって、それだけしか覚えてない……」
「そうなんだ……大丈夫、お父さんに会えたら、きっと全部解決するよ」
歩きながら励ましていたとき、おかしなことに気がついた。
つよし君が進むにつれ、周囲の風景がふわりと姿を変えるのだ。モネの庭そっくりの幻想的なものから、日本の野山のものに。
けれど彼が離れていくと、また庭は元の姿を取り戻していく。しかもどうやら、本人はその変化に気づいていない。
なんともおかしな現象を観察しながら、これまでに聞いたことをまとめてみる。
つよし君は、光彦さんを探してずっとこの庭をさまよっている。でもどこまで行っても、父親には会えていないらしい。
うーん、これってもしかして。
少し考えて、隣のことはさんに小声で呼びかける。
「あの、ことはさん。その、この変化する風景のこと、ですけど……」
「君も気づいていましたか。たぶん、つよし君の困りごとと関係しているとは思うのですが」
彼の言葉は、わたしの推測とぴったり合っていた。そのことに勇気づけられながら、さっき考えたことをさらに話していく。
「つよし君のお父さん、モネの庭のどこかにいるんじゃないかなって気がします」
光彦さんは、絵を描くことに夢中になっているらしい。しかも彼の画風は、ちょっとモネのものに似ている。
そんな彼がこの庭を目にしたら、喜び勇んで出かけてしまってもおかしくはない。
「でも、つよし君はこっちの、日本の里山しか探していない。というか、探すことができないのかも。だから、親子は出会うことができない。……んじゃないかな、って」
「可能性はありますね」
わたしの話に耳を傾けながら、ことはさんがうなずいてくれる。
「だったら、このまま歩いていてもらちは明かない気がします。わたしたちだけでお父さんを探しにいくとか、どうにかしてつよし君をモネの庭に連れ出すとか、そんな感じの手を打ってみてもいいと思います」
「試してみる価値はあるでしょう。……絵の世界を塗り替える手段、となると……」
今度は、ことはさんが考え込む。そうして、少し前を行くつよし君に声をかけた。
「すみません、つよし君。一度立ち止まってもらえませんか」
「え? どうしたの?」
「少し、失礼しますね」
言うが早いか、ことはさんはさっとつよし君を抱え上げてしまう。驚いたつよし君が身じろぎしたけれど、ことはさんはびくともしない。細身なのに、意外と力が強いようだ。
「兄ちゃん、なにすんだよ!」
「ちょっとした実験です。……ああ、こちらで正解だったようですね」
ことはさんに食ってかかっていたつよし君の顔に、驚きの色が浮かぶ。わたしもぽかんとしながら、辺りを眺めていた。
つよし君の周りだけに広がっていた里山の風景が、つよし君のほうに向かって縮んでいく。そのさまは、まるで絵を描いた薄布をたぐり寄せているかのようだった。
やがて、里山の風景が完全に消える。わたしたちは、みんなでモネの庭に立っていた。
「えっ、これ、なんなんだ……?」
どうやらようやく、つよし君も風景の変化に気づいたらしい。ことはさんに抱えられているからかな。でもそのせいで、すっかり混乱してしまっていた。
「君が地面に足をつけている場所は、君の世界……日本の里山の風景になってしまうようですね」
ことはさんが説明したものの、つよし君はことはさんにしっかりとしがみついたまま、目を白黒させている。あれって、余計に訳が分からなくなっているような。
「あなたのお父さんは、たぶんこの庭にいるの。こうしていれば、きっと会えるよ」
たぶん、つよし君にはこまごまと説明するより、こう話したほうが通じるだろう。そう思って声をかけると、彼はまだ不安そうではあったものの、分かった、と返事をしてくれた。
ようやく落ち着きを取り戻したつよし君を見て、ことはさんがほっとしたように微笑んだ。そのまま、わたしに目配せしてくる。ありがとうございます、という意味だろう。
「さあ、急いでお父さんを探そう。……ただことはさん、つよし君を抱えたままで大丈夫ですか?」
「はい、問題ありませんよ」
「なんか、ちっちゃい子みたいで、落ち着かないんだけど……」
そんなことを話しつつ、さっきより少し早足でモネの庭を歩き回る。子どもひとり抱えているというのに、ことはさんの足取りはしっかりしたものだった。
感心しながら、さらに周囲を見渡して、どこかに人の気配がないか耳を澄ませる。そうしていたら、茂みの向こう、池のほとりに何かがちらりと見えた。木でも橋でもない。あれ、たぶん人間だ!
ばっと駆け出して、茂みを回り込む。わたしの目に飛び込んできたのは、木箱に座った男性が絵を描いている姿だった。彼は粗末なイーゼルに立てかけたキャンバスに向かって、のびのびと絵筆を走らせている。
「父ちゃん!」
ことはさんに抱えられたままのつよし君が、悲鳴にも似た声を上げた。やっぱりあの男性が、光彦さんなんだ。
その声に、光彦さんがこちらを向く。彼はわたしたちを見て少し驚いたように目を見張っていたけれど、すぐにゆったりと会釈してきた。
光彦さんは、線の細い儚げな人だった。どことなく浮世離れしているというか、生活感がないというか。それに、年の割にかなり若々しいし、高校生でも通るかも。
「ああ、つよしか。どうしたんだ、こんなところまで」
「父ちゃんが、どこにもいないから……」
もどかしげに地面に降り立つと、つよし君は光彦さんのところまで駆けていった。けれど周囲の風景は、モネの庭のままだった。
「父ちゃん、もう絵なんて止めよう。俺たちと一緒に、家に帰ろう」
つよし君は、光彦さんの腕にしっかりとしがみついている。まるで、手を離したら父親がまたいなくなってしまうと思っているかのような、必死の形相だ。
「そもそも、どうして父ちゃんは絵なんか描き始めたんだよ! そんなもの、食べていくにはいらないって、近所のおばさんたちが噂してるよ!」
光彦さんは目を丸くしていたけれど、すぐにつよし君の頭に手を置いて、寂しげに微笑んだ。
「……そうだね。今なら、話してしまってもいいのかもしれない」
「父ちゃん? 何のこと?」
「僕が絵に触れた、きっかけについてだよ。……あの日僕は、内職でこさえた足袋を納品しに、仲間たちと一緒に町に行ったんだ」
光彦さんは、どこか遠くを見るように顔を上げ、ぽつぽつとつぶやき始める。つよし君はとまどい顔で、父親の顔を食い入るように見つめていた。
「先の戦争のせいで、みんなすっかり貧しくなってしまって……でもここから立て直すんだって熱気が、あちこちに満ちてた。何もかもが、目まぐるしく変わっていった」
彼の語りに、やっぱりな、と納得する。このふたり、どうもわたしたちと同じ時代の人間とは思えなかったのだ。大正とか昭和初期とか、それくらいの雰囲気だなとこっそり考えていた。
ここは、絵の中の世界。だったら、過去の人間に出会ったとしても、おかしくはない。
改めて、つよし君と光彦さんをじっくりと見てみる。ふたりの身なりは、とても質素なものだった。あちこちにつくろいの跡があるし、色あせている。生地そのものも半ばすりきれて、落ち切らない汚れがこびりついている。戦後の貧しさって、こんな感じだったんだ。
「でも僕は、その熱気にたじろぐことしかできなかった。僕は、おいてけぼりだったんだ」
わたしにとっては、戦後の復興は歴史の中のできごとだ。みんなが頑張って、ぼろぼろの国土を立て直していったんだっていう、そんなイメージしかない。
でも中には、光彦さんのように、目まぐるしい変化についていけない人もいたのかもしれないな。誰もがみんな、エネルギッシュに生きられたわけでもないのだし。
「そうしたら、納品先の社長さんが、気まぐれに絵を見せてくれたんだ。西洋の珍しい絵を手に入れたとかで、自慢したくてたまらなかったみたいだ」
語っている彼の目に、ふわりと夢見るような色が浮かぶ。
「モネという人の描いた、睡蓮の咲く庭の絵だった。僕には、絵の良し悪しなんて分からない。そもそも西洋画を見たのが、生まれて初めてだったんだ」
つよし君の顔には、不安がありありと浮かんでいた。父親のただならぬ様子に、おびえているようでもあった。
「なのにあの絵は、一瞬で僕の心をくぎづけにしてしまったんだ」
光彦さんは、つよし君を見ていない。彼はただ、美しい庭を眺めている。
「もう一度、あんな絵を目にしたくて……そうしたら自然と、自分でも絵を描くようになっていた」
「父ちゃんは、きれいな、ちゃんとした絵を描けるようになっただろ? きっと、そのなんとかいう人の絵に負けないくらいの絵が描けてるよ。だからもう、帰ろうよ……」
つよし君が泣きそうな声で、光彦さんに呼びかける。光彦さんはようやくつよし君を見て、悲しげに首を横に振った。
「ごめん、つよし。僕はもう、帰れない。お前にも、分かっているだろう?」
このふたりがこの姿だったのは、ずっとずっと昔のこと。たぶんもう、光彦さんはこの世の人ではない。現実の世界で、このふたりは、既に別れている。そう実感したら、鼻の奥がつんとした。
「僕はみんなに迷惑ばかりかけていた。悪い父親だった」
「父ちゃん……」
「……それでも、幸せだった。お前たち家族が、いてくれたから」
ふわふわとしていて地に足がついていない印象だった光彦さんが、力強いまなざしでつよし君をまっすぐに見つめた。
「でも、そのことをきちんと伝えられなかったのが、心残りだった。……だから、お前が僕を探しにきてくれたのが、嬉しくてたまらない」
そう告げて、光彦さんが泣き笑いに顔をゆがめる。つよし君が唇をわななかせているのが、少し離れていてもはっきりと見て取れた。
「つよし、これが僕の気持ちだ。受け取ってくれるね」
光彦さんは、イーゼルに載せていた絵を慎重に手に取ると、そっとつよし君に差し出す。
ちらりと見えたその絵は、小屋にあった絵と似ていて、けれどもっとはじけるような、命の輝きに満ちているような、そんな作品のように思えた。
「……さよなら、つよし。元気でな」
短いひと言とともに、光彦さんの姿が消えてしまった。跡形もなく、一瞬で。
優しい風が、庭を吹き抜ける。ざあっという音の中、目を見張った。




