第6話 壊れた歯車と銀の鍵
月銀粉は、通常の薬学書には載っていない。
だが魔道具の製造記録には、「魔力の伝導率を高める粉末」として記載がある。聖女の軟膏に混ぜれば、わずかな魔力でも光として増幅できるはずだ。
月銀粉の原料は、月光を浴びた銀鉱石を特殊な溶液で溶かし、再結晶させたものだ。純粋な銀とは異なり、魔力を通す性質を持つ。古い魔道具職人の記録によれば、加工には満月の夜が最適とされていた。迷信のようだが、月光に含まれる微弱な魔力が結晶構造に影響するという説がある。
(シルヴィの聖癒の光は、魔道具の補助で生み出されたもの。彼女自身の魔力ではない)
仮説は立った。次は検証だ。
祝福の儀の当日。私は補助要員として、控えの間で準備を手伝っていた。シルヴィの手に塗られる軟膏の瓶を、間近で見る機会を待った。
「イヴェッタさん、軟膏はこちらに」
侍女が差し出した瓶を受け取る。蓋を開け、香りを確認するふりをして、少量を指先に取った。
指先がわずかに熱を帯びた。魔力伝導の反応だ。通常の軟膏では起きない現象。銀鉱石由来の成分は、体温に触れると微弱な熱を発する。薬師でなければ気づかない程度の、ごくわずかな変化。
証拠を、もう一つ。
「シルヴィ様、軟膏の塗布量を少し減らしてもよろしいですか。肌への負担を考えると──」
「減らす? なぜ」
シルヴィの声に、初めて硬さが混じった。紫の靄が、一瞬だけ濃くなった。
「成分の中に、長期使用で肌荒れを起こすものが含まれています。薬師としての助言です」
「……私の肌は丈夫だから、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
微笑み。だが目が笑っていなかった。虹彩の収縮がわずかに速い。警戒の兆候だ。
軟膏の量を減らされたら困る。なぜなら、光の強さが落ちるから。
仮説が、また一つ裏付けられた。
祝福の儀は滞りなく終わった。シルヴィの掌から白い光が溢れ、列席者たちは歓声を上げた。
だが私は見た。光が消えた瞬間、シルヴィの指先が微かに震えていたことを。魔道具の反動。本来の魔力を超えた出力の代償だ。身体は正直だ。いくら演技が上手くても、筋肉の微細な震えまでは制御できない。
式後、回廊でオリヴィエ王太子とすれ違った。
「ああ、薬師のイヴェッタ殿か。本日はご苦労だった」
端正だが幼さの残る顔。赤銅色の髪。彼はいつも丁寧だった。身分に関わらず、同じ口調で人と話す。侍従にも、掃除係にも、薬師にも。それは教育の成果ではなく、この人の天性だろう。
「恐れ入ります、殿下」
「シルヴィ殿の祝福の光、見事だっただろう。あの力があれば、民の信頼も得られる」
靄はなかった。王太子は本心からそう思っている。彼にとって聖女は「国の希望」であり、その真偽を疑う発想がない。
善良な人だ。だからこそ、利用される。
「殿下。一つお伺いしてもよろしいですか」
「何だ」
「聖女の認定基準に、光の色の規定はございますか」
オリヴィエが少し考え込んだ。窓の外に視線を向ける。彼の癖だ。
「色? 古い文献には金色と記されていたはずだが……実際の認定では、光が出ればよいとされている。色についての議論は、ここ数十年されていないな」
「ありがとうございます」
数十年。つまり、基準が曖昧になったのは、意図的かもしれない。基準を緩めれば、偽者を通しやすくなる。
制度の形骸化は、どの世界でも起きる問題だ。最初は厳格な目的を持って作られたルールが、時間と共に慣習に飲み込まれ、本来の意味を失っていく。聖女の認定基準も同じだ。「金色の光」という明確な基準が、いつの間にか「光が出れば良い」という曖昧なものに変わった。その変化を誰かが意図的に導いたとすれば、計画は数十年前から始まっていたことになる。
(この陰謀は、ジルベール一人の仕業ではない。彼の父親、あるいはさらに上の世代から続いている)
根が深い。けれど、根が深ければ深いほど、崩す時の衝撃も大きくなる。
遅くまで棚を整理していると、フェリスが顔を出した。
「イヴェッタ、明日の調合の下準備、手伝おうか」
「ありがとう。助かるわ」
フェリスは手際よく薬草を分類し始めた。その動きは丁寧で正確だった。彼は優秀な薬師だ。ただ、私とは得意分野が違う。彼は既存の処方を正確に再現することに長けている。私は、新しい配合を考案することに強い。どちらが優れているという話ではなく、資質の違いだ。
「イヴェッタ」
「何?」
「最近、いろいろ調べ物をしているみたいだけど。ベネディクト団長の件?」
心臓が一拍、早くなった。けれど表情は変えなかった。
「引き継ぎの整理よ。記録が膨大で」
「そう。大変だよね」
靄はなかった。フェリスの質問は、純粋な心配から出たものだ。
──今のところは。
翌日、レナートから封書が届いた。中身は、子爵家の財務記録の閲覧制限を解除するための法的根拠をまとめたものだった。
添えられた付箋に、一行だけ。
『婚約者の閲覧権は、王室法典第十七条に基づく。貴族院の制限よりも優先される──判例あり』
レナートは臆病な人だ。直接協力すると言う勇気はない。だが、正しいことをしたいという気持ちが、こうして「うっかり」という形で表に出る。臆病さと正義感の間で揺れ動きながら、それでも行動に移す。それは彼なりの勇気の形だった。
私は記録管理局を訪れ、正式に子爵家の財務記録の閲覧を請求した。
三日後、閲覧が認められた。
子爵家の財務記録。そこに記されていたのは、過去五年間にわたる侯爵家──ジルベールの家──からの「顧問料」の支払い記録だった。
顧問料の名目で、子爵家に多額の資金が流れている。年間の額は、子爵家の通常収入の三倍近い。これほどの金額が正当な顧問料であるはずがない。その見返りに、子爵家は何をしていたのか。
資金の流れを追うことは、不正を暴く最も確実な方法の一つだ。人は嘘をつけるが、金銭の動きは記録に残る。古い諺に「金の流れを追え」というものがあるが、これは財務調査の基本原則でもある。どれほど巧妙な隠蔽工作を施しても、金の出入りは必ずどこかに痕跡を残す。
記録の中に、一つの契約書の写しがあった。「聖女候補の身元保証に関する覚書」。署名は、ノエルの父と、ジルベールの父。
シルヴィの聖女候補としての地位は、子爵家と侯爵家の合意によって作られたものだった。
(これが、ノエルが婚約破棄を急いだ理由。この契約を、私に見られたくなかった)
パズルのピースが、音を立てて嵌まる。
ベネディクトの処方箋──魔力を奪う毒──は、本物の聖女候補から魔力を奪い、偽の聖女を立てるための道具だったのではないか。
では、本物の聖女候補は誰なのか。
そして、その人物は今どこにいるのか。
夜、薬務室の窓を開けると、回廊の向こうに見慣れた軍服の背中が見えた。
私は窓から手を振った。
アシェルは一瞬だけ立ち止まり、それから微かに──本当に微かに──手を上げた。
信頼が、静かに深まっていく。言葉ではなく、こうした小さな行為の積み重ねで。
そしてジルベールが、私の閲覧請求を知った時、どう動くか。
答えは、翌日のオリヴィエ王太子の態度に現れた。
「イヴェッタ殿。薬務室の人事について、改めて検討したいことがある。少し話せるか」
王太子の目は、窓の外を見ていた。




