第7話 裏切りの名を持つ味方
オリヴィエ王太子の「検討」は、穏やかな口調で告げられた。
薬務室の体制見直し。すなわち、私の異動だった。
「イヴェッタ殿には、王都の外──カルーセ領の薬草園への転任を考えている」
「理由をお聞かせいただけますか」
「……ベネディクト殿の死後、薬務室の管理体制に不安がある。君には現場よりも研究の方が向いていると、周囲から進言があった」
紫の靄が、「周囲から進言」の部分に濃く絡みついていた。王太子自身がそう判断したのではない。誰かに吹き込まれたのだ。進言した人物の候補は複数いる。ジルベール、ハインツ、ダリオ──あるいはその全員。
「その進言をされたのは」
「……複数の方からだ」
窓の外を見る癖。決断に迷っている時の仕草。この人は、自分の判断ではないと分かっているのだ。けれど、複数の有力者から同じ意見を言われれば、若い王太子には抗し難い圧力になる。
「殿下。私が薬務室を離れれば、殿下の処方を管理できる薬師がいなくなります。今の調合は私以外に配合を知りません」
これは事実だった。王太子への睡眠導入の調合は、患者の体質に合わせて微調整した独自の配合だ。一般的な処方とは異なり、殿下のアレルギーや体重、季節による変動まで考慮して作っている。処方を引き継ぐには、最低でも数週間の観察期間が必要だ。
オリヴィエの目が、初めて私を正面から見た。
「それは……困るな」
「はい。困ります」
小さな沈黙。王太子は、良い意味で素直だった。論理的に説明すれば、理解する力がある。問題は、その素直さを他人に利用されることだ。
「少し考えさせてくれ」
「はい。殿下のご判断を待ちます」
部屋を出ると、廊下にダリオが立っていた。腕を組み、壁に背を預けて。まるで出待ちのように。筋肉質の腕が軍服の袖を張り詰めさせている。
「殿下と何を話していた」
「人事の件です」
「ほう。転任の話か。薬師風情が王宮に長居しすぎたな」
靄はない。彼は本心からそう思っている。
「副団長は、私の異動を望まれているのですか」
「俺が望んでいるのは秩序だ。身分に応じた場所に収まることが、秩序を保つ」
「そうですか。では、実力に応じた場所はどうお考えですか」
ダリオの目が一瞬、鋭くなった。挑発と受け取ったのだろう。顔の傷跡が、表情の変化に合わせて引きつった。
「──気の強い女だ」
彼はそう言い残して去った。今、この瞬間、私は彼の敵リストに入ったのだと理解した。ダリオという人間は、自分に歯向かう者を決して忘れない。
◇
薬務室に戻ると、フェリスの姿がなかった。
「フェリスは?」
他の薬師に聞くと、「朝から外出している。侯爵家の依頼で、特注の薬を届けに行った」と返ってきた。
侯爵家。ジルベールの家。
嫌な予感がした。
フェリスが戻ってきたのは夕刻だった。いつもの穏やかな笑顔。だが、目の奥に疲労が見えた。眼の下にうっすらと隈がある。
「おかえり。侯爵家のお仕事?」
「うん。特注の滋養強壮剤。ジルベール様は体が弱いらしくて」
靄がなかった。本当に滋養強壮剤を届けたのだろう。だが──
「フェリス。最近、侯爵家の依頼が増えていない?」
一瞬、彼の表情が固まった。すぐに笑顔に戻ったが、その一瞬を私は見逃さなかった。微表情──瞬間的な感情の漏出。人は意識的に表情を作れるが、最初の零コンマ数秒だけは制御が及ばない。
「そうかな。気にしすぎじゃない?」
薄い紫。「気にしすぎ」の部分に靄がかかった。
フェリスは何かを隠している。
その夜、私は決心した。信頼していた同僚が、敵側と繋がっている可能性。それを確かめなければ、次に動けない。
翌日、フェリスが外出している間に、彼の私物の調合ノートを確認した。──盗み見だ。褒められたことではない。だが、背に腹は代えられなかった。
ノートの後半に、私の調合の配合比が正確に記録されていた。王太子への処方も含めて。分量、手順、加熱温度、撹拌の回数──私の技術のすべてが、一行の漏れもなく書き写されていた。
(やはり。フェリスは、私の調合を誰かに報告している)
心が軋んだ。友人だと思っていた。一番近くにいた人が、一番危険な位置にいた。差し入れの茶も、穏やかな笑顔も、「手伝おうか」という言葉も──すべてが近づくための手段だったのかもしれない。
いや、それは違う。フェリスの優しさには靄がなかった。彼の心配は本物だった。ただ、その優しさと、裏切りが、同じ人間の中に共存していたというだけのことだ。
人間は単純ではない。善と悪を明確に分けられるほど、心は単純にできていない。友情と嫉妬、信頼と裏切り、優しさと弱さ──相反するものが同時に存在する。それが人間だ。
フェリスを憎むことはできなかった。けれど、信頼することもできなくなった。その中間の、名前のつかない感情が胸の中に沈んでいた。
けれど、今は感情を挟む余裕がない。
レナートのもとを訪れた。
「閲覧した子爵家の財務記録から、聖女候補の身元保証に関する覚書を見つけました」
レナートの眼鏡の奥で、瞳が揺れた。彼は書類を握りしめたまま、長い間黙っていた。
「……あなたは、どこまで知っているんですか」
「あなたが知っていることを、教えてほしい」
長い沈黙。レナートの手が、抱えた書類を握りしめていた。指の関節が白くなるほどに。
「──前任の薬師長、セバスティアン殿は、健康上の理由で辞めたのではありません」
声が震えていた。けれど、握りしめた書類を手放さなかった。この人は、怯えながらも逃げなかった。
「セバスティアン殿は、ある患者──本物の聖女候補──が魔力を失っていることに気づいた。原因を調べようとして、上層部と対立した。結果、追放された」
「本物の聖女候補は」
「王宮から消えました。行方は記録に残っていません。ただ──」
レナートが、書類の山から一枚の紙を引き抜いた。
「七年前の退去記録です。名前と行き先が記載されています」
その紙を受け取った時、手が震えた。
本物の聖女候補の名前。そして退去先。
退去先は──カルーセ領。私の故郷だった。
記録管理局を出ると、夜の風が頬に触れた。アシェルが東棟の柱に背を預けて待っていた。
「何かあったか」
「……ええ。少し」
言葉を選べなかった。だから、黙った。
アシェルも黙っていた。ただ、隣を歩いてくれた。歩幅を合わせて、何も聞かずに。夜の王宮は足音がよく響く。二人分の足音が、石畳に静かに重なっていた。
薬務室の前で足を止めた時、彼が言った。
「明日、少し時間を作れるか」
「何のために」
「あの匂い袋が切れた。補充を頼みたい」
嘘の色は見えなかった。本当に切れたのかもしれない。あるいは、私と話す口実が欲しかっただけかもしれない。
どちらでもよかった。
「明日、用意しておくわ」
部屋に戻り、本物の聖女候補の退去記録を読み返した。七年前にカルーセ領に送られた女性。
私が薬師の修行を始めたのも、七年前だ。カルーセ領の薬草園で。
(あの薬草園の隅にいた、静かな女性──まさか)
記憶の断片が、少しずつ形を成し始めていた。
翌日、ジルベールから正式な通達が届いた。
「薬務室の臨時監査を行う。対象は、過去三年間のすべての調合記録」──署名はジルベールと、もう一つ。
ハインツ公爵の名が、そこに並んでいた。




