第5話 前世の瞳が映す真実
嘘の色が見えるようになったのは、いつからだろう。
前世の記憶は断片的だ。名前も顔も思い出せない。ただ、ひとつだけ鮮明に残っている場面がある。
誰かが泣いていた。
私の手を握って、何かを告げていた。唇が動いているのに、声が聞こえない。けれど、その人の言葉に靄がなかったことだけは覚えている。
(あの人は、最後まで嘘をつかなかった)
それが誰だったのか、思い出せない。ただ、その記憶が、この能力の根元にあるのだと感じている。嘘をつかなかった誰かを失った後悔が、嘘を見抜く力となってこの世界に持ち越された──そんな予感がある。
シルヴィの第二回祝福の儀が、三日後に迫っていた。
私は薬務室の補助要員として、会場の準備に加わっていた。聖水の調合、香の配合、治癒対象の検査。すべて薬師の仕事だ。聖水と呼ばれているが、実際は蒸留水にハーブの精油を加えたもので、薬効は緩やかな消毒作用程度しかない。聖女の光が浄化するという建前があるため、聖水自体に効果がなくても問題にならない仕組みだ。
準備室で、シルヴィと初めて二人きりになった。
「あなたがイヴェッタね。ノエル様から聞いているわ」
儚げな声。紫の瞳が、私を見上げる。小柄で華奢な体は、守ってあげたいと思わせる造形をしていた。銀色の髪が肩に柔らかく流れ、動作の一つひとつが計算されたように優美だった。
「お噂はかねがね、シルヴィ様」
「元婚約者の方と、こうしてお話しできるなんて。気まずくない?」
「いいえ。お気になさらず」
シルヴィは微笑んだ。その微笑みに、靄はなかった。
(この部分は本心だ。気まずいかどうか、本当に確認しているだけ)
だが次の言葉で、色が変わった。
「私ね、聖女の力って、重荷なの。こんな力、なければよかったって思うこともあるわ」
濃い紫。ほぼ黒に近い。
彼女は聖女の力を重荷だと思っていない。むしろ、それが自分を特別にしているものだと知っている。
「大変でしょうね」
「うん。でも、皆が期待してくれるから、頑張らなきゃって」
また、濃い紫。「頑張らなきゃ」の部分ではなく、「皆が期待してくれる」に靄がかかっている。彼女が欲しいのは「期待」ではなく「依存」だ。人々が自分に依存し、自分なしでは困るという状況こそが、彼女の求めるもの。
他者から必要とされることで自分の存在価値を確認したい──それは人間の自然な欲求だ。だがシルヴィの場合、それが他者を支配する手段にまで昇華されていた。
(……怖い人だ)
悪意があるのではない。もっと根深い何かだ。
「シルヴィ様。祝福の儀で使われる聖水の配合を、確認させていただけますか。薬師として成分をお聞きしておきたいのですが」
「聖水? あれは私の光で浄化するから、成分は関係ないわ」
「そうですか。では、事前にお肌に触れる軟膏の成分だけでも」
「それは侍女に聞いて」
会話は自然に終わった。シルヴィは微笑んで去っていった。
(聖水の中身を知りたがらない。いや、知る必要がないと思っている。なぜなら──)
聖水そのものには効果がないからだ。効果を生み出しているのは、別のもの。
薬務室に戻り、私は古い魔道具の資料を引っ張り出した。
王宮の書庫には、かつて製造された魔道具の記録が残っている。その中に、「模倣の宝玉」と呼ばれる道具の記述があった。
使用者の魔力を増幅し、本来持たない属性の魔法を短時間だけ再現する道具。副作用として、使用者の身体に負荷がかかり、長期使用は危険──。
魔道具という技術は、もともと魔力の弱い者を補助するために開発された。杖や護符がその原型だ。だが時代と共に、その用途は「補助」から「偽装」へと拡大していった。持たない力を、持っているように見せかける道具。模倣の宝玉は、その最たるものだった。
資料をさらに読み進めると、模倣の宝玉の製造は百年以上前に禁止されたと記されていた。理由は「使用者の魔力核を不可逆的に損傷するため」。つまり、長期間使い続ければ、わずかに持っていた魔力さえ失う可能性がある。
シルヴィがどの程度そのリスクを理解しているかは分からない。だが、あの指先の震えは、既に身体が限界に近づいている証拠かもしれない。
「イヴェッタ」
アシェルが入ってきた。珍しく、少し息が上がっていた。
「どうしたの」
「ノエルが、婚約破棄の手続きを早めたいと言い出した。十日の期限を待たず、明日には処理したいと」
「……なぜ急に」
「理由は言わなかった。だが、ジルベールと話した直後だった」
ジルベール。あの男が動いている。
「手続きを急がせる理由──ノエルの体面を潰すつもり?」
「いや、逆だ。正式な手続きを待たずに破棄を成立させれば、お前に異議申し立ての権利がなくなる」
なるほど。婚約破棄そのものは受け入れるつもりだ。だが、手続きの中で婚約者としての権利を行使できる期間が私にはまだ残っている。例えば、相手の家の財務記録の閲覧権。
婚約中の財務閲覧権は、実は多くの人が知らない権利だ。もともとは婚姻前に相手の家の経済状態を確認するための制度だが、婚約破棄の際にも有効期間内であれば行使できる。
この制度が生まれた背景には、かつて婚姻詐欺が横行した時代があったと文献に記されている。財産を偽って婚約し、持参金を騙し取る手口が貴族社会で問題になったため、婚約者に財務を確認する権利が法的に保障された。皮肉なことに、今回はその制度が不正を暴く鍵になろうとしている。
(そこに、何か見られたくないものがある)
「アシェル。ノエルの家──子爵家の財務記録を、私は婚約者として閲覧できる?」
「法的には可能だ。婚約が有効な間は」
「では、今日中に閲覧請求を出すわ。レナートに書式を確認する」
アシェルの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。笑ったのだと気づくまで、少し時間がかかった。彼の笑顔は、目の形がわずかに変わるだけの、ごく小さなものだ。
「やはり、お前は薬師より法務官の方が向いているかもしれないな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
記録管理局でレナートに閲覧請求の書式を受け取る。彼はいつも通り事務的だったが、書式を手渡す時、小声で言った。
「子爵家の財務記録、五年分が先月閲覧制限に変更されています。閲覧には貴族院の許可が必要です」
「先月? 誰が制限をかけたの」
「制限の申請者は──子爵家の顧問弁護士です。顧問契約先は、侯爵家」
ジルベールの家だ。
すべてが繋がり始めていた。ジルベールは子爵家の財務を管理し、何かを隠している。ノエルの婚約破棄は、私を財務記録から遠ざけるための手段。
そしてベネディクトの処方箋──魔力を奪う毒の処方──の発注者も、おそらく。
夜、窓辺で月を見ていると、前世の記憶がまた断片的に蘇った。
泣いていた人の手は、冷たかった。
アシェルの手に、似ていた。
偶然だろう。けれど、その偶然に、心臓が少しだけ速く打った。
翌日、シルヴィの侍女から、祝福の儀で使用する軟膏の成分表が届いた。
その中に、一つだけ見慣れない成分名があった。「月銀粉」──模倣の宝玉の構成素材と、同じ名前だった。




