第4話 古い盟約が目を覚ます
ダリオ副団長は、人を褒める時に必ず毒を混ぜる男だった。
今日も例外ではなかった。
「アシェル、昨日の巡回報告、よくまとまっていた。もっとも、速さでは他の騎士に劣るがな」
訓練場の端で、私はその光景を遠目に見ていた。薬務室の定期納品──近衛騎士団への外傷薬の補充が、私の仕事の一つだ。
アシェルは無言で頷いただけだった。ダリオの言葉に靄はない。本心から「褒めつつ貶す」のが、この人の流儀なのだ。悪意というより、支配の手法。上に立つ者が部下の自尊心を少しずつ削り、自分への依存を高めるやり方は、歴史上の将軍や為政者にも見られる。
褒めと叱責を不規則に繰り返すことで、相手が常に自分の評価を気にするよう仕向ける──古くから知られた支配の手法だ。
「おや、薬師殿。ご苦労なことだ」
ダリオの視線が私に向いた。精悍な顔に走る古い傷跡。眼差しは値踏みするようで、品定めの対象を「人」ではなく「道具」として見ている色があった。
「外傷薬の納品に参りました」
「ああ、頼む。──しかし、薬務室も大変だろう。団長が急逝して」
「後任が決まるまで、通常業務は私たちで回します」
「殊勝だな。男爵家の娘が、宮廷でこれだけ働くとは」
身分を確認してから態度を決める。ハインツ公爵と同じ種類の人間だ。けれどダリオの場合、さらに厄介なのは、身分の低い者を「使える駒」と見なすところだった。駒には丁寧に接する。壊れるまでは。
納品を終え、訓練場を出る。回廊でアシェルが追いついてきた。
「ダリオには気をつけろ」
「……あなたの上司でしょう」
「だから言っている」
短い沈黙。アシェルの歩幅が、少しだけ私に合わせて狭くなっていた。普段の彼は大股で歩く。この人の不器用な優しさは、いつもこういう形で現れる。
「彼は何を狙っているの」
「騎士団長の座だ。そのために、殿下の信頼を得たい。殿下の信頼を得るには、殿下に近い人間を支配下に置く必要がある」
「つまり、あなたを」
「俺を使うか、排除するか。どちらかだ」
彼の言葉に靄は浮かばなかった。アシェルは常に、状況を淡々と分析する。自分の危機さえ、他人事のように語る。
(この人は、自分のことになると鈍い)
「それで、私を利用する線は?」
「あり得る。お前は殿下の睡眠を管理している。薬を通じて殿下に影響を与えられる立場だ」
「私が王太子を操っている、と?」
「そう見せかけることはできる。お前を陥れれば、俺の信用も落ちる」
冷静な分析だった。そして、おそらく正しい。ダリオにとって、私とアシェルを同時に排除できる策略は一石二鳥だろう。
訓練場を離れながら、ふと外傷薬の納品箱に目を落とした。整然と並んだ薬瓶。止血剤、消毒液、打撲用の湿布薬。どれも私が調合したものだ。
外傷薬の調合には、意外と繊細な技術が求められる。特に止血剤は、凝固促進と抗菌作用のバランスが重要になる。ヤロウという薬草は、かつて大陸の戦場で兵士の傷に使われたことから「兵士の傷薬草」とも呼ばれてきた。戦場の薬草が、今も騎士団の外傷薬に使われている。
こうした地道な仕事が、王宮で私の居場所を作ってきた。身分では勝てない。けれど、技術と知識なら、誰にも負けない自信がある。
薬務室に戻ると、予想外の来客がいた。
ハインツ公爵。白髪交じりの壮年、葉巻の残り香。彼が薬務室に来ること自体が異例だった。公爵家の当主が、平民の調合師が働く部屋にわざわざ足を運ぶ理由は一つしかない。圧力をかけに来たのだ。
「男爵家のイヴェッタか」
「はい、公爵閣下」
「ベネディクト殿の後任について、貴族院から推薦を出すことになった。薬務室の人事は本来、医師団の管轄だが、今回は特例だ」
「特例、でございますか」
「聖女シルヴィ様の祝福の儀が近い。宮廷の医療体制に不備があってはならん。貴族院として、信頼できる人物を医師団長に据える」
言外の意味は明らかだった。「平民上がりの薬師に任せる気はない」。ハインツのような旧体制の人間にとって、能力よりも血統が重要だ。優秀な平民は脅威であり、排除すべき対象でしかない。
「承知いたしました」
ハインツは満足げに頷いた。だが、去り際に付け加えた。
「それと。婚約破棄の件、耳に入っている。身の程を弁えた判断だと思うが──あまり騒がぬことだ」
相手の格を測り、見下ろし、牽制して去る。
一連の動作が、あまりにも手慣れていた。
(この人は、私を黙らせたいのではない。私の存在自体が、邪魔なんだ)
公爵が去った後、薬務室に残った葉巻の残り香を窓を開けて追い出した。冷たい夕風が入り込み、乾燥させていた薬草の束を揺らした。
棚に並ぶ薬瓶を眺める。一つひとつに私の手で書いたラベルが貼られている。薬効、用量、禁忌事項。正確な記録こそが薬師の命綱だ。この習慣は、カルーセ領の薬草園で師匠から叩き込まれた。
「記録を怠る薬師は、いつか必ず人を殺す」
師匠の言葉が蘇る。あの頃は厳しいだけの人だと思っていたが、今なら分かる。記録の正確さが、命を守る盾になることを。
消灯後の薬務室に残り、棚の奥から古い記録簿を引き出した。
ベネディクトの死後、引き継ぎのために過去の調合記録を遡っている。その中に、一つ奇妙な記録を見つけた。
七年前。王宮薬務の人事記録。前任の薬師長セバスティアンが「健康上の理由」で退任した後、薬務室は医師団の管轄に組み込まれ、ベネディクトが医師団長として薬務を統括するようになった、とある。
だが、セバスティアンの退任時期と、あの処方箋の日付が近い。
三年前の処方箋。七年前の退任。
(三年前にも何かがあった……七年前に始まり、三年前にも繰り返された、ということか?)
レナートが残した栞の意味を、もう一度考える。マンドレイクの項目。魔力を弱らせる毒。処方箋を書いたのはベネディクト。では、誰に命じたのか。
扉が叩かれ、フェリスが入ってきた。手に、二杯の茶を持って。
「遅くまでお疲れ様。差し入れ」
「ありがとう」
温かい茶を受け取る。菩提樹の花茶だった。この茶は古くから風邪の初期症状に使われてきた。発汗を促し、体を温める効果がある。フェリスはこういう気遣いが上手い。
「次の祝福の儀、薬務室から補助要員を出すらしいよ。イヴェッタも手を挙げる?」
「出るわ」
即答した。フェリスが少し驚いた顔をした。
「早いね。何か理由が?」
「近くで見たいの。聖女の光を」
嘘ではなかった。近くで見れば、あの白い光の正体を確かめられる。
フェリスは「そっか」と笑って、自分の茶を啜った。
その夜、薬務室を出ると、回廊の角にアシェルが立っていた。見張りのように。
「何か用?」
「いや。巡回の途中だ」
「薬務室の前を巡回するの?」
「今日から経路を変えた」
紫は見えなかった。本当に巡回経路を変えたのだ。おそらく、私の安全のために。言葉にはしない。けれど、行動で示す。この人は、いつもそうだ。
感謝の言葉は飲み込んだ。代わりに、持っていた小瓶を差し出した。
「ラベンダーの練り香。巡回は長いでしょう。眠気覚ましにはならないけれど、気分転換にはなるわ」
アシェルは無言で受け取った。指先が触れた時、前回よりも少しだけ、温かかった。
彼が去った後、私は星を見上げた。
この王宮で起きていることの全体像は、まだ見えない。けれど、糸口は三つ。処方箋。セバスティアンの退任。そして、シルヴィの白い光。
すべてが繋がった時、何が見えるのだろう。
翌日、記録管理局を訪れると、レナートが「うっかり」机の上に置いた書類の山の中に、七年前の薬師長人事の決裁文書が紛れていた。
決裁者の署名は、ジルベールの父──先代侯爵の名だった。




