第2話 薬師の指先が暴く綻び
封筒の中身は、一枚の処方箋だった。
見た瞬間、指先が冷えた。
記されていたのは、ある薬の調合記録。日付は三年前。患者名は黒く塗り潰されていたが、薬の配合を見れば用途は明らかだった。
マンドレイクの根、月光蘚、銀杏の蒸留液──長期的に服用すれば、魔力の源である「核」を徐々に弱らせる処方だ。
マンドレイクは古来より「悲鳴の根」と呼ばれてきた。引き抜く時に悲鳴を上げるという伝承は有名だが、薬学的に重要なのはその根に含まれるアルカロイドだ。微量であれば鎮痛薬として機能するが、配合を誤れば神経毒に変わる。用量が命を分ける草──それを「魔力を弱らせる」方向に調合した者は、相当の知識を持っている。
(これは治療薬じゃない。誰かの魔力を、意図的に奪うための毒だ)
処方箋の末尾に、署名があった。宮廷医師団長──ベネディクト。
私は処方箋を元通りに封筒に戻し、薬務室の二重底の引き出しに隠した。証拠は、確保した。けれど、これを誰が、なぜ私の棚に入れたのかが分からない。
味方か。罠か。
どちらにせよ、この処方箋の存在を知っている人物が、王宮の中にいる。それだけは確かだった。
◇
翌日の薬務室は、いつも通りの喧騒だった。薬草を潰す乳鉢の音、蒸留器の水が滴る音、調合師たちが交わす確認の声。
「イヴェッタ、今日の納品分の調合リスト、確認してもらえる?」
フェリスが笑顔で近づいてくる。猫のように細い目。穏やかな声音。彼は私の同僚であり、この薬務室で最も付き合いの長い相手だった。入室した時期は彼が先だが、調合の技術では私が先に認められた。そのことを、彼はいつも「すごいね」と笑って受け入れていた。
「ええ、見せて」
リストを受け取る。フェリスの字は端正で読みやすい。私が分量を確認している間、彼はさりげなく私の作業台を覗き込んでいた。
(また、見ている)
最近、フェリスの視線が私の手元に留まる時間が長くなった。以前は気にならなかった。同僚が互いの技術を観察するのは自然なことだ。でも、昨夜の処方箋を見つけてから、すべてが違って見える。
「問題ないわ。ただ、三番目のアカツキソウの分量、少し多くない?」
「あ、本当だ。ごめん、書き間違えた」
彼の唇に靄はなかった。本当に書き間違えたのだろう。でも──
「最近、調合の研究を始めたって聞いたけど」
「うん。師匠がいないからさ、独学で。イヴェッタの調合は参考になるよ。見ていると、手順が理にかなっていて美しい」
褒め言葉の中に、ほんの微かな紫が混じった。
「美しい」という言葉だけ。
(本心は「悔しい」、かな)
責めるつもりはなかった。薬師にとって調合技術は命だ。私より経験が長いフェリスが、後から入った私の腕前に複雑な感情を抱くのは自然なことだった。
問題は、その感情を誰かに利用されていないかどうか。
午後、ベネディクト医師団長が薬務室を訪れた。温厚な笑顔と、額に浮かぶ薄い汗。丸い体型にゆったりとした白衣を纏い、一見すると人当たりの良い上司にしか見えない。
「イヴェッタ君、少しいいかな。王太子殿下の処方について、確認したいことがある」
「はい、団長」
「最近、殿下の睡眠の質が落ちているそうだ。処方を見直す必要があるかもしれない」
「私の調合に問題があると?」
「いや、君の腕は信頼している。ただ、上からの指示でね」
額に汗。右手が自然と額に伸び、拭う動作。
(出た。嘘の前触れだ)
人間の嘘には、必ず前兆がある。目が泳ぐ、声の高さが変わる、身体の一部が不自然に動く。ベネディクトの場合は額の汗だった。発汗は自律神経の反応であり、本人の意志では制御できない。薬師の目から見れば、これほど正直な身体反応はない。
「上からの指示、というのは?」
「宮廷全体の薬務を見直す方針が出ていてね。君の担当分も含めて、一度すべての調合記録を提出してもらうことになる」
紫の靄が、薄く、しかし確かに漂った。
宮廷全体の見直しは本当かもしれない。だが「すべての調合記録の提出」は、おそらく私だけが対象だ。
(あの処方箋を、探しているのかもしれない)
「承知しました。いつまでに?」
「三日後で構わない」
「分かりました」
ベネディクトが去った後、私は記録簿の棚に目を向けた。二重底の引き出しに隠した封筒は無事だ。だが、三日後までに内容を写し取り、原本は別の場所に移す必要がある。
誰に預ける?
信頼できる人間を、指折り数えた。
薬務室の同僚は不安が残る。フェリスの微かな嫉妬の色。他の薬師たちとは、まだ関係が浅い。
アシェルの顔が浮かんだ。嘘をつかない男。けれど、彼は近衛騎士だ。王太子の側近に、宮廷医師団の不正疑惑を持ち込むことの重さを考えると、まだ早い。証拠が足りない。
夕刻、私は王宮の回廊を歩いていた。記録管理局の場所を確認するために。
婚約破棄の手続きで、近いうちに訪れることになる場所だ。下見をしておいて損はない。夕陽が回廊の窓から差し込み、石造りの壁を橙色に染めていた。この王宮は、光の角度によって表情が変わる。美しいが、その美しさの下に何が隠されているかは、誰にも分からない。
記録管理局は、王宮の東棟の奥まった一角にあった。古い石造りの部屋。埃っぽい空気。棚に整然と並ぶ革表紙の記録簿。壁一面を覆う書架には、王宮の建設以来の公文書が分類されて保管されている。
「何か御用ですか」
声に振り向くと、地味な容姿の青年が立っていた。度の強い眼鏡の奥から、警戒するような目が覗いている。腕には書類の束。背は私より少し高いくらいで、全体的に目立たない印象の人物だった。
「婚約解消の手続きについて、事前に確認したくて」
「ああ、それなら書式は三号様式です。双方の署名と、身元確認の証人が二名。提出後、十営業日で受理されます」
淡々とした口調。事務的で、感情が見えない。
けれど、私が「薬務室のイヴェッタです」と名乗った瞬間、彼の瞳がわずかに揺れた。
「……薬務室の」
「ええ。何か?」
「いえ、何も」
紫の靄はなかった。だが、明らかに何かを知っている目だった。知っているけれど、言えない。そういう類の沈黙だ。
彼の胸元の名札に目をやる。レナート。宮廷書記官。
帰り道、私は東棟の回廊で足を止めた。壁際の小さな棚に、一冊の古い本が無造作に置かれていた。『王宮薬草誌・改訂版』──私が薬師の修行時代に使っていた教科書と同じものだ。
手に取ると、ある頁に栞が挟まれていた。
「マンドレイクの根」の項目。
偶然にしては、出来すぎている。
レナートが「うっかり」置いたのだとしたら──彼は私に、何を伝えたいのだろう。
薬務室に戻り、窓から夕暮れの空を見上げた。ノエルの婚約破棄、ベネディクトの処方箋、レナートの不審な反応。
点と点が、まだ繋がらない。
けれど、一つだけ確かなことがある。この王宮には、隠された毒がある。そして誰かが、私にそれを見つけさせようとしている。
翌日の早い時間に、棚を整理していたフェリスが振り向いた。いつもの穏やかな笑顔で。
「ねえイヴェッタ。今度の休日、シルヴィ様の祝福の儀に招待されてるんだけど、一緒に行かない?」
その言葉の端に、薄い紫が纏わりついていた。




