第1話 婚約破棄の夜に嘘が咲く
嘘には、色がある。
それを知ったのは、この世界に目を開いた瞬間だった。
薄暗い回廊に、ノエルの声が響く。やわらかく、丁寧で、まるで花束でも渡すかのような口調だった。壁の燭台が揺れて、彼の金髪にちらちらと影を落としている。
「イヴェッタ。僕たちの婚約を、解消させてほしい」
彼の唇の端に、淡い紫色の靄が漂っていた。
他の誰にも見えない、嘘の色。
私は息を吸った。吐いた。呼吸が震えないように、背筋を伸ばした。足元の石畳の冷たさが、薄い室内靴の底を通して伝わってくる。その冷たさに意識を集中させた。感情を閉じ込めるために。
「……理由を、聞いてもいいかしら」
「シルヴィのことは知っているだろう。聖女候補として王宮に迎えられた彼女と、僕は心を通わせてしまった。君を裏切る形になって申し訳ない」
紫の靄が、濃くなる。
一文ごとに。一語ごとに。
(嘘だ)
すべてが嘘だとは言わない。シルヴィに心を寄せているのは、おそらく本当。けれど「心を通わせた」という言い方──あの淡い紫は、事実を飾りすぎている時に出る色だ。
つまり彼は、まだシルヴィとはそこまでの関係ではない。それなのに婚約を急いで破棄したい。
なぜ?
「わかったわ」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「……え?」
「婚約破棄を受け入れるわ、ノエル」
ノエルの顔に、明らかな動揺が走った。泣かれるか、怒られるか、縋られるか──そのどれかを想定していたのだろう。彼の青い目が忙しなく瞬き、それから口元を引き結んだ。用意していた台詞が宙に浮いたような、間の抜けた沈黙が落ちた。
「そ、そうか。思ったより、冷静だな」
「ええ。でも、ひとつだけ」
私は一歩、近づいた。
ノエルが半歩、退がった。
彼の襟元から、微かに甘い香水の匂いがした。以前は無香だったはずだ。シルヴィの好みに合わせたのだろうか。そんな些細な変化を、薬師の鼻は拾い上げてしまう。
「婚約破棄の正式な届け出は、王宮の記録管理局を通す必要があるの。あなたの家と私の家、双方の署名と、立会人が二名。手続きには十日ほどかかるわ」
「……そんなに?」
「法と手続きを守らない婚約破棄は無効になる。あなたの家名に傷がつくかもしれない。それは避けたいでしょう?」
ノエルの唇がわずかに引き結ばれた。この男は体面を何より重んじる。社交の場では完璧な笑顔を浮かべ、言葉遣いは常に丁寧で、誰からも好かれる仮面を決して外さない。その仮面こそが彼の鎧であり、同時に弱点でもあった。
「……わかった。正式な手続きを踏もう」
「ありがとう。では、また」
私は微笑んで背を向けた。回廊を歩き出す足音が、石畳に規則正しく響いた。一歩、二歩、三歩。背中にノエルの視線を感じながら、歩調を崩さないよう細心の注意を払った。
角を曲がった瞬間、膝が笑った。
壁に手をついて、息を殺す。
(十日。十日あれば、調べられる)
ノエルが急に婚約破棄を言い出した理由。シルヴィとの関係の真偽。そして何より、彼の言葉の裏に漂っていた──あの不自然なほど濃い紫の靄の正体。
誰かに唆されている。
確信はなかった。けれど、二十二年間この「目」と共に生きてきた経験が、警鐘を鳴らしていた。嘘の靄にも種類がある。自分から嘘をつく時と、誰かの嘘を伝達する時では、靄の揺れ方が違う。ノエルの靄は後者だった。
自分の言葉ではない嘘を、台本のように読み上げている──そんな揺れ方。
◇
薬務室に戻ると、深夜だというのに灯りが点いていた。
「遅いな。夜の散歩か」
アシェルが、書類を片手に立っていた。王太子付きの近衛騎士が、なぜ薬務室にいるのか。灰青の瞳が、私をまっすぐ見ている。
彼の口元に、靄はなかった。
いつも、ない。
この王宮で出会った人間の中で、アシェルだけが例外だった。誰もが多かれ少なかれ靄を纏う中、彼の言葉にはいつも一片の紫も見えない。嘘をつけない性格なのか、それとも嘘をつく必要がないのか。
「薬の追加発注の件で来た。殿下が眠れないらしい」
「処方は変えていないけれど。寝室の香も同じ配合のはず」
「だから確認に来た」
短い言葉。余計なことを言わない人だ。軍服の襟元まできちんとボタンが留まっていて、こんな夜更けでも着崩れがない。
私は棚から記録簿を取り出し、王太子への調合記録を開いた。分量、材料、調合日時。すべてが私の筆跡で残っている。薬師にとって調合記録は命綱だ。一つの誤差が患者の命に関わる。だからこそ、私はすべてを自分の手で記録する。
「こちらに問題はないわ。もし眠れないのなら、原因は薬ではなく環境か、精神的な負荷ね」
「精神的な負荷、か」
アシェルは小さく頷いた。何か考え込むように窓の外を見て、それから不意に私に視線を戻した。
「目が赤い」
「……え?」
「泣いたのか」
泣いてはいない。けれど、泣きたかったのかもしれない。婚約を破棄された直後に、涙ひとつ見せなかった自分が、少しだけ怖かった。三年間の婚約期間。特別な恋情はなかったかもしれないが、それでも穏やかな未来を描いていた。
「泣いていないわ」
「そうか」
それ以上、彼は何も聞かなかった。詮索しない人だ。けれど、見ている。静かに、正確に。騎士の観察力で、私の些細な変化を見逃さない。
書類を受け取り、踵を返す直前に、アシェルは棚の上の小さな硝子瓶を指で示した。
「カモミールの匂い袋、まだあるか」
「ええ、在庫はあるけれど」
「一つもらう。……殿下に渡す」
嘘の色は、見えなかった。
けれど「殿下に渡す」のくだりだけ、ほんの一瞬、彼の視線が逸れた。
カモミールには鎮静作用がある。古くから不安を和らげる薬草として知られ、「大地のリンゴ」とも呼ばれる。安眠だけでなく、胃腸の不調や肌荒れにも効くため、万能薬としてどの薬草園でも必ず栽培されていた。
(……もしかして、自分用?)
訊かなかった。代わりに小瓶を手渡す時、指先が軽く触れた。
冷たい手だった。けれど、不思議と嫌ではなかった。深夜の薬務室で、二人きりの静けさの中、その冷たさだけが確かな温度として伝わってきた。
アシェルが去った薬務室で、私はひとり、砕いた薬草の粉を掌に広げた。ラベンダーと月見草。鎮静と覚醒、正反対の薬効を持つ二つの草。
ラベンダーの名は古い言葉で「洗う」を意味する。かつて大陸の浴場で使われたのが始まりとされ、心を「洗い清める」ことから鎮静薬に転じた。一方、月見草は夕暮れに咲き、光に向かって開く性質を持つ。相反する二つの草だが、適切な比率で混ぜれば、心身のバランスを整える良薬になる。
(混ぜれば毒になる。でも、正しい比率なら──)
この王宮は、毒と薬が隣り合わせだ。人も、言葉も。
ノエルの嘘の裏に何があるのか、私は必ず暴く。
十日の猶予を使って、一歩ずつ。
棚の奥に、見覚えのない封筒が挟まっていることに気づいたのは、その直後だった。
差出人の名はなく、封蝋の紋章は──宮廷医師団。
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