漆話
―― 帝国暦334年:帝国商都・某所 ――
「……というわけで、買収その他の工作を行っている様子はなく、聞き込み程度に留まっているものと思われます。民家を利用した我々の監視体制には気づいているようですが、積極的な妨害や干渉はありません」
近くに立てばようやく相手の顔がわかる程度の暗がりのなか。
外回りの偵察行から戻ってきたダナン・ギィは、議事堂の周囲に配置した部下達からの情報を集めて報告を行っていた。座ったままそれを聞いていた青年――ルシュ=ファルは、軽く頷いた。
「その程度なら、当面はここは見つかるまいな。殿下の方は?」
「街区が灼かれたのを間近で見られてからは、おとなしくされています。「出るのも退くのもいかんのだろう」と」
「さすがは皇弟殿下、わきまえておられる」
敬意の欠片も感じられない口調で言った青年は、しかしダナンの表情に眼を留めると訊ねた。
「どうした? 言いたいことがあるか?」
「いいえ。……はい。奴らは総勢二百人に満たぬでしょう。不意を突いて一気にやれぬものかと」
無念の籠もった言葉がダナンの口から流れ出す。
「「あれ」の起点らしき人物は特定できています。議事堂の隠し通路を使えば直接狙えますし、最悪、周囲の者を人質に取る手も……」
「やめておけ」
ルシュ=ファルの声はぞっとするほど冷たかった。
「こちらからは手を出さない。町民を含めて帝国臣民に死者が出れば、同数の奴らの首を取って晒す。その方針に変更はない」
「……はい」
ダナンは頭を下げた。ルシュ=ファルの次の言葉は、しかし笑いを帯びていた。
「まあ、急くな。犠牲者がでてしまえば上も色々介入してくるだろう。幸い王国の連中も阿呆ではないようだ、こちらが提示した暗黙の条件を理解して踊ってくれている。何とか出し抜こうとも頑張っているようだが」
椅子に背を預け、透かし見るように窓から外を眺める。
「こちらの尻尾は掴めまい。持久戦になれば我らの勝ちだ」
ダナンは顔を上げて問いかけた。
「何か手を打ってあるので?」
「まあな」
ダナンの問いに、ルシュ=ファルは薄笑いを浮かべたまま答えた。
「さほど遠いことでも無かろう」
* * *
そして「アラク」の伝説は事実上、ここで終わる。そんな中途半端な状態が半月あまり続いたあと、「帝国軍立つ」の知らせが商都に舞い込んだのだ。経路は帝都を発し海嶺の町を経由、山路を経て王国首都を直接狙う模様。あくまで「アラク」は狙いの外。
撤退は速やかだったと伝えられる。見えぬ敵を探して日々奔走し、夜は不意の襲撃に備えてうたた寝、あげく海千山千の商人との埒の明かない交渉に明け暮れていればそうもなろう。都を去る間際に姿を現した「アラク」は不満げに吠え、その巨大な拳で文字通りに城門を粉砕していった。それが彼がこの市に残した、唯一の爪痕だった。




