参話
―― 帝国暦334年:王国内・嘆きの平野 ――
耳に残る咆哮。
再び響き渡るそれを聞いて、ダナン・ギィは意識を取り戻した。
“いったい……何が……?”
思考が回らないなか、頭を押さえながら上体を起こす。本能的に握りしめた長弓を杖代わりにして、立ち上がろうと試みた。
「生き残りがいたか。逃げるぞ、急げ」
そんな声が斜め前方から飛んできた。片膝をついたままそちらに顔を向けると、騎士とその従者らしき一団――ただし騎馬ではなく徒だ――が、足を止めたところだった。先頭の騎士が駆け寄ってくる。
「何が……起きた? 軍はどう……なった?」
混乱したまま、しわがれ声で問いを返す。
騎士は立ち止まり、無言でダナンの後方を指し示した。
「…………っっ!!」
振り向いたダナンの視界に、想像を超えた光景が映り込んだ。
視線の先、本陣のあった場所、その中央に立つ雄大な光の巨人。勝利の雄叫びを終えたか、背を向けたまま両腕を広げている。足下に転々と散らばっているのは輜重の馬車の残骸か、そこから兵士たちが秩序無く四方に逃げ散っている。表情までは見えないが、おそらく恐怖に引きつっているだろう。
そしてそこにいたはずの将軍たちと、護衛の騎士たちの姿は見えなかった。
跡形も無く消し去られたのだろうと推測できたが、頭が理解を拒否していた。
「まるで神話の光景だな。神々が差し向けた裁きの巨神によって、人の軍勢はひとたまりも無く崩れ去った。そんな感じか」
横合いから騎士が淡々と言った。振り向く前にぐい、と腕を引かれた。
「敵も味方も呆然としている間に戦場を抜けるぞ。今は「あれ」を、どうしようもない」
走り出す。足がついていかず、よろめいた。
「走れないか」
肩を貸された。ダナンの速さに合わせたか、小走りになる。騎士にしては兵士に優しい方だとぼんやり思ったところで、鎧に留められた徽章に目が吸い寄せられた。
“名誉男爵!?”
急に意識がはっきりした。改めて相手を注視する。
年の頃は20代の後半ぐらいか。中肉中背、だがしっかりと筋肉がついている。肩に届かない程度に切りそろえられた黒髪に黒い目は、帝国でも東方の出身と思われた。よく見れば身につけた鎧も装束も実用本位ながらもしっかりした造りで、ただならぬ階層の出身であることを示している。
そんなことを考えつつ何とか足を動かしているうちに、身体の調子も戻ってきた。従者の一団と合流する。
「ありがとうございました。どちらへ?」
身体を離しながら、ダナンは青年騎士に問いかけた。青年は従者たちに声を掛けてから振り向き、無造作に答えた。
「右翼だ。押していた左翼には「あれ」が行く可能性がある。生きて退却するにはそれしかない」
敗走ではなく退却。この状況で、右翼の軍だけでも救う。そういう判断か。
号令と共に再び一団となって味方の軍へと向かいながら、青年は首を巡らせた。
「それとだ」
その眼が遙か遠くの光の巨人の背に向けられる。微妙に口角が上がっていた。
“笑っている?”
魔導弓を抱え、忙しく足を動かしながら、ダナンは衝撃を受けたように青年を見た。青年はその表情のままダナンに眼を移した。そして、彼が終生忘れぬであろう言葉を発した。
「「あれ」を倒してみたい。力を貸せ」
* * *
若干筆が逸れるが、ルシュ=ファルについても触れておくべきであろう。
ルシュ=ファル。最終官位は帝国名誉伯爵、近衛軍臨時参謀、監察部“牧神の笛”王国方面統括。性格は傲岸不遜なれど部下には篤く、直接会った者の評価は二分される。名誉子爵の家に生まれ、帝国士官学校を次席で卒業した彼の名が歴史に登場するのはこのときからである。
敗退する軍の中、「アラク」のおそるべき力を見た彼は考えたのであろう。
勝てぬ敵とどう相対すべきか。勝てぬ敵といかに渡り合うか。
これより先、彼の思考と行動はただその一事に捧げられる。それに半ば翻弄される形になったシライ・マサトは、しかし自らの敵の名すら知らなかったのではあるまいか。
旧都の次は、旧領の回復。となれば次の目標は「森の都」。旧都を回復した王国軍はしばしの間駐屯して彼の地を慰撫し、その後、森林地帯へと進軍した。「アラク」が陣頭に立つ限り、さほど急ぐ征途ではない。むしろ帝国側から和平を申し出る時間を与えるべき。そんな心づもりだったに違いない。だが森の中を進み始めて間もなく、そんな楽観は吹き飛ぶこととなった。
森の中の道は切り倒された木々によって塞がれ、河にかかる橋は壊され、通りに沿って点在する宿はそのことごとくが燃やされていた。埋められた井戸を掘り返すべく足を止めると側面の森から火矢が飛んで補給物資を燃やし、しかし射手を追って森の中に分け入り深追いした者は戻ってこない。森の中の街道、決して太くない一本道となれば、必然的に隊列は長大になる。仮に「アラク」が迎撃に出たとしても、森の中から現れては消える奇襲、そして夜襲に対して全体を守り切ることは困難を極める。かような妨害工作により行軍は遅れに遅れ、最終的に「アラク」が工兵のごとく路上の障害物を排除して森の都に辿り着いた時には、通常は五日の行程に対して九日目の朝を迎えようとしていた。




