漆話
暴威は去った。しかし戦いは続いていた。
「ネズレ」のいない、ある意味では通常の状態に戻った戦場。
帝国軍は隊形を崩され士気も低下していたが、兵士の数では勝っていた。
王国軍は攻勢を維持し士気も高かったが、兵数で劣る状況は変わらなかった。
いずれが勝るか。
それぞれの軍はそれぞれの優位を生かして戦い続けた。だが戦いが長引き疲労が蓄積すれば、兵数の優位が効いてくる。戦いの天秤は幾度かの揺り返しを経ながら、徐々に帝国側へと傾いていった。
そして戦況が誰の目にも明らかになるその少し前に、戦場全体に鐘の音が響き渡った。
王国側の退き鐘。そう帝国が認識する前に、王国軍が一斉に退き始めた。明らかに事前に指示していた行動と見られ、戦いのさなかにあった部隊すら、追撃を覚悟しつつ帝国軍に背を向けて後方の、山へと向かう道を目指して走り始めた。
鮮やかな転進に一瞬虚を突かれはしたものの、帝国は即座に撤退する軍を追った。戦において最大の死傷者が出るのは撤退戦においてである。次の戦いに備える意味でも、ここで可能な限りの首を取っておくのは至上命題と言えた。
まず王国の騎兵が先に山道に入り、続く歩兵部隊の後尾に帝国の騎士達が追いついた。逃げるその背を槍が貫き、振り下ろされる刀が首筋を裂く。逃げる歩兵と追う騎兵が渾然一体となった状態で山へと続く坂道を駆け上がる。
唐突に、剣を振りかぶった帝国の騎士が馬ごと宙に舞った。さらに続けざまに何体もの騎馬が斬り伏せられ、鎧ごと砕かれた騎士が吹き飛ばされて路傍の木々に叩きつけられる。
わずかに遅れて、奥から鋼の巨体が姿を顕した。
「ネズレ」が再度、起動したのだ。
先ほどとは違い、その手には長大な刀がそれぞれに握られていた。逃げる兵士達の流れに逆らうように前進し、その群れの中から黒の鎧の帝国騎士だけを正確に狙って切っ先を突き立て、あるいは擦れ違いざまに馬ごと薙いで潰していく。
そして少し道が狭まり、頭上を木々の枝葉が覆う隧道めいた地点で、二体の「ネズレ」は停止した。往来の多さに合わせて整備され、馬車が対面で通行するに十分な広さがあるとはいえ、山の一部を均して造られた街道の幅は40フレド(12.2メートル)に満たない。そこに体長27フレド(8.2メートル)の巨人2体が立ち塞がったのである。握った双の巨刀を翼のように広げ、何者も通さぬとでもいうように。
勝ち戦に調子づき、撤退する王国軍を勇ましく追っていた帝国軍の空気が瞬時に冷えた。追撃が止まった。後方から押し出される形で止まりきれなかった一部の不運な騎兵と歩兵だけが、そのまま突っ込む形になった。
皆、死んだ。
「ネズレ」の脇を通り過ぎようとする者はすべて巨刀に斬られ砕かれ、あるいは踏み潰されて、ただの肉塊と成り果てた。味方が殺されている間にその反対側を通り抜けたごく一部の騎馬だけが何とか生き延びたが、後続のない状態で進んだ先に待ち構える王国軍に押し包まれて、結局は屍をさらすことになった。
最後に蛮勇を発揮した騎士が半ば山中に踏み込む形での突破を試みたが、無造作に腕を伸ばした「ネズレ」が刀を一閃させると、下半身だけを乗せた馬が街道の先へと走って行くことになった。
そして二体の巨人……いや血刀を下げた魔神と帝国軍の無言の対峙の時が続き。
やがて山の奥から再度の退き鐘が響き渡ると、「ネズレ」は帝国軍を一瞥するかのようにその紅い眼を光らせ、ゆっくりと踵を返して街道の奥へと消えていった。帝国の者たちは、ただそれを見送ることしか出来なかった。
形の上では両軍の痛み分けであり、暫定的な国境線が動いたわけではない。だが撤退していく帝国軍にはまったくそのような意識はなかった。「ネズレ」の振るった恐るべき力のみが、その脳裏に刻み込まれていた。
またそれは、隠れて観戦していた周辺諸国の者たちにとっても同様であった。
そしてそのような状況下で、以後実に9ヶ月の長きに及ぶ停戦交渉が開始されることになったのである。
* * * * * *
―― 帝国暦386年:帝都・史学部執務室 ――
「いやあ、筆が乗ってるねえ!」
帝都の官庁街、史学部の一室。原稿を一通り読み終えた黒髪の娘は、向かい合って座る金髪の少女に、素敵な笑顔で声を掛けた。原稿の一部をわざとらしく指でなぞってみせる。
「特にこの下りなんか、いい感じじゃない。なになに、“一部の不運な騎兵と歩兵だけが、そのまま突っ込む形になった。皆、死んだ”――」
決まり悪そうな顔で若干身体を引いた少女に、娘は意地の悪い笑みを浮かべてなおも言い募った。
「直接の描写もないのに、兵士の恐怖感も伝わってくるしね。りっちゃん、小説家に転向したほうがいいんじゃないの?」
「ええい、うるさい!」
顔を紅くした少女は、気恥ずかしさを誤魔化すように両手で軽く机を叩いた。
「頼んだのは通史としての評価じゃぞ? そっちはどうなんじゃ!」
「え? ああ、ふんふん。ま、いいんじゃないの?」
娘は浮かべた笑みはそのままに、原稿を持った手を伸ばして全体を眺めるようにした。
「若干の装飾過多、過剰描写の感じはあるけど、戦場でのこの時点における“ろぼっと”の絶対的な優位性はわかるし、相手陣営に与えた衝撃の大きさも明確。真面目な審査員なら多少顔をしかめるでしょうけど、不合格にはならないでしょ」
「そうか。それならいいんじゃが」
少女は安堵の息を吐き出した。若干、不安があったらしかった。
「それよりこの先、りっちゃんの好物の外交交渉でしょ。どう描くつもり?」
軽い口調で水を向けた娘の問いに、少女はぼやくように返した。
「それなんじゃがなあ。実質的に省こうかと思っておる」
「へえ?」
娘は姿勢を正して身を乗り出すと、視線で説明を促した。
「紆余曲折はあれど、最終的には決裂するという明確な結果になるわけじゃ。外交の教科書ならともかく、あくまでも“ろぼっと”の歴史の話で、主役はそちらじゃ。経過については端折らざるを得まい」
面白くもなさそうに少女は解説した。
「ついでに言うと実はこの時期、裏では「連邦」が王国に接触しておってな。両方の話を平行で進めようとして右往左往する王国の迷走振りが大層面白いんじゃが、そちらも帝国にばれてしまって、戦闘再開で中断じゃ。きちんと書くならその件にも触れねばならん、合わせて省略するしかなかろう」
「連邦ね。そんな初期から“ろぼっと”に絡んでたんだ、早いわね」
少々驚き顔になる娘に、少女は肩をすくめてみせた。
「先見の明があったのは確かじゃろ。この先しばしの間、むしろ連邦が“ろぼっと”開発では先んじる形になるでな」
「帝国が逆転するのはしばらく先、か」
娘はその事実を反芻するように視線を上向けた。
「でも珍しいわね。帝国が外交絡みで後手に回るなんて」
「いや、最終的に結果につながらなかっただけで、きちんと動いてはおるよ」
少女の答えは明確だった。
「例えばこの時期、例のルシュ=ファル周りじゃがな……」




