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新人狩人

ノカス公爵領を出て、三日。

初夏の風が街道脇の草原を揺らし、馬の蹄が乾いた土を静かに叩いていた。

リュークは手綱を緩め、前方へと伸びる街道を見つめる。

隣ではケーユーが同じ速度で馬を進めていた。

戦争が終わってから、まだ日は浅い。

敗戦。

父トルベルアの戦死。

母を奪ったワイバーン。

そして兄ドンモイレの裏切り。

短い期間に失ったものは、あまりにも多かった。

だからこそ、振り返らないと決めた。

今はただ、前へ進むだけだ。

戦争では何度も領外へ出たことがある。

だが、それは軍の一員としてだった。

街の外で野営し、夜が明ければ次の戦場へ向かう。

城壁の中へ入ることはほとんどなく、人々の暮らしを見る余裕もなかった。

ノカス公爵領の外の世界。

リュークにとって、それは地図の上でしか知らない未知の土地だった。

「リューク様」

静かな呼び掛けに、リュークは苦笑する。

「それはやめろ」

ケーユーは首を傾げた。

「では、何とお呼びすればよろしいでしょうか」

「リュークでいい」

少し困ったように笑う。

「……それは無理です」

「どうしてだ」

「幼い頃からずっと『リューク様』と呼んできましたから。今さら呼び捨てにはできません」

「旅では目立つ」

「それは……そうですね」

ケーユーは少し考え込む。

やがて何か思いついたように顔を上げた。

「では、人前だけ『リュークさん』とお呼びします」

「それでいい」

ようやく話がまとまり、二人は顔を見合わせて小さく笑った。

そんな穏やかな時間も長くは続かない。


街道の先に、高い木柵が見えてきた。

アミヘボ王領との国境である。

以前は簡素な検問所だった場所は、すっかり要塞のような姿へ変わっていた。

高さ三メートルほどの木柵。

街道を塞ぐ頑丈な門。

見張り台には弓兵が立ち、矢を番えて周囲を警戒している。

門の内外には二十名以上の兵士。

さらに騎士が数名、馬上から旅人を監視していた。

戦争が終わったとはいえ、帝国はまだ混乱の最中にある。

国境警備が厳しくなるのも当然だった。

「止まれ!」

鋭い声が飛ぶ。

同時に十数本の槍が二人へ向けられた。

リュークとケーユーは素直に馬を止める。

「馬から降りろ!」

二人は無言で従った。

すぐに兵士が近づき、武器へ手を伸ばす。

「剣には触れるな」

騎士が低く告げた。

「少しでも抵抗すれば、その場で取り押さえる」

「分かっています」

リュークは静かに両手を上げた。

兵士たちは二人の荷物を調べ始める。

背負子。

保存食。

毛布。

砥石。

替えの衣服。

不審な物は見当たらない。

しかし、隊長格らしい騎士は二人から目を離さなかった。

「名前は」

「リュークです」

「ケーユーです」

「所属は」

一瞬だけ沈黙が流れる。

「……現在は、どこにも属しておりません」

騎士の眉がぴくりと動く。

「元は」

「答える必要がありますか」

空気が変わった。

周囲の兵士が一斉に槍を構え直す。

「質問しているのはこちらだ」

騎士の声は冷たい。

「戦時下に所属を隠す武装した二人組を、そのまま通せると思うか」

ケーユーも思わず息を呑む。

リュークは数秒考え、小さく息を吐いた。

「……ノカス公爵軍です」

兵士たちがざわめいた。

「ノカス公爵軍だと?」

「解散命令は出ているはずだ」

「はい」

リュークは頷く。

「命令により軍を離れました」

騎士はしばらく二人を見つめていた。

やがて鎧の傷や、何度も修理された装備へ目を移す。

使い込まれた鎧。

刃こぼれした剣。

何度も縫い直された外套。

どれも戦場を生き延びた者だけが持つ傷だった。

騎士は小さく息を吐く。

「……いいだろう」

兵士へ命じた。

「通してやれ」

槍がゆっくり上がる。

二人が礼をして馬へ乗ろうとした、その時だった。

「待て」

騎士が最後に呼び止める。

「一つだけ忠告だ」

「何でしょう」

「夜は絶対に街道を歩くな」

騎士は森の奥を見つめる。

「あの森では、この一月だけで旅人が十七人消えた。巡回隊も何度か襲われている。日が暮れる前に村へ入れ。それが無理なら野営ではなく、街道沿いの監視小屋を使え」

リュークは真剣な表情で頷いた。

「忠告、感謝します」

重い門がゆっくりと開き、二人はアミヘボ王領へ足を踏み入れた。


国境を越えてから二日。

二人は南へ続く街道をひたすら歩き続けた。

街道沿いには小さな村が点在し、畑では農民たちが鍬を振るっている。

戦争中とは思えないほど穏やかな景色だった。

「帝国の中央に近いからでしょうか」

ケーユーが麦畑を見渡す。

「ノカス公爵領より平和に見えます」

「前線から遠い。だから戦火も届きにくい」

リュークはそう答えた。

しかし街道を歩く旅人の多くは武器を携えている。

傭兵。

行商人。

巡礼者。

難民。

戦争の影は、確かにこの地にも落ちていた。

やがて街道が大きく右へ曲がる。

その先で、二人は思わず馬を止めた。

「……大きい」

リュークの口から自然と言葉が漏れる。

遥か前方。

巨大な石造りの城壁が朝日に照らされていた。

幾本もの尖塔が空を突き刺すようにそびえ立ち、その周囲には無数の家々が広がっている。

城壁の外側にまで町が形成され、人と荷馬車が絶え間なく行き交っていた。

「ハラプ……」

ケーユーも目を丸くする。

「これがアミヘボ王国の王都ですか」

リュークは静かに頷いた。

ノカス公爵領の城下町も決して小さくはない。

だが、それとは比べものにならない。

まるで一つの世界が城壁の中へ収められているようだった。

「人が多いですね」

「ノカスの十倍……いや、それ以上かもしれない」

城門へ近付くにつれ、人波はさらに増えていく。

商人が荷馬車を引き、修道士が祈りを捧げ、羊飼いが群れを追い、各地の言葉が入り混じって飛び交う。

「こんな場所……初めてです」

ケーユーが小さく呟く。

リュークも同じだった。

二人は長い列へ並ぶ。

ようやく順番が回ってきた。

門番が手を差し出す。

「入市税だ」

「一人、ニピエ銀貨一枚」

リュークは財布を開く。

旅へ出て初めて支払う税だった。

「二人分です」

銀貨二枚を渡す。

門番は慣れた手つきで確認すると頷いた。

「武器は街中で抜くな。喧嘩を起こせば衛兵が飛んでくる」

「承知しました」

重々しい城門が開く。

馬を進めた瞬間、二人は同時に息を呑んだ。

城門の向こうには、まったく別の世界が広がっていた。

石畳の大通りは馬車が三台並んでも余裕があるほど広い。

左右には三階建て、四階建ての建物が立ち並び、その一階では商人たちが威勢よく客を呼び込んでいる。

「焼き立てのパンだ!」

「南海産の香辛料だ!」

「今日は新鮮な川魚が入ったぞ!」

呼び込みの声が四方八方から飛び交う。

大道芸人が火を吹き、

吟遊詩人が竪琴を奏で、

子供たちが笑いながら走り回る。

「あっちを見てください」

ケーユーが指差す。

噴水だった。

白い石で造られた巨大な噴水から、澄んだ水が何段にも流れ落ちている。

その周りでは旅人たちが喉を潤し、子供たちが水遊びをしていた。

「水をあんなふうに使うのか」

ノカス公爵領では考えられない光景だった。

「リュークさん」

ケーユーが苦笑する。

「きょろきょろし過ぎです」

「迷子になりますよ」

「その可能性は否定できない」

「まずは宿ですね」

「そうだな」

二人は表通りを離れ、旅人向けの宿が集まる一角へ向かった。

何軒か見て回り、一番手頃な宿へ入る。

恰幅の良い女将が笑顔で迎えた。

「いらっしゃい」

「一泊十四ニピエだよ」

リュークは思わず聞き返した。

「十四ニピエ?」

「高いと思うかい?」

「正直に言えば」

女将は豪快に笑った。

「王都だからねぇ。これでも安い方さ」

ケーユーが小声で囁く。

「パン十四個分ですね」

「毎日泊まったら、すぐ財布が空になる」

「働かないと駄目ですね」

リュークは苦笑しながら宿帳へ名前を書いた。

「その前に行きたい場所がある」

「図書館ですね?」

「よく分かったな」

「もう慣れました」

ケーユーは肩をすくめる。

「リュークさんが新しい町へ来ると、最初に向かう場所は本屋か図書館ですから」

リュークは少し照れくさそうに鼻を掻いた。

「知識は力になる。剣だけでは勝てない相手もいる」

ケーユーは優しく笑う。

「その姿勢、私は好きですよ」


翌朝、まだ朝靄の残る王都ハラプを、リュークとケーユーは歩いていた。

石畳は朝露に濡れ、行き交う人々もまだ少ない。

それでも市場ではパン屋が窯へ火を入れ、肉屋は店先へ肉を並べ始めている。

王都は、夜明けとともに目を覚ます街だった。

「図書館は王宮の近くだそうです」

ケーユーが地図を見ながら言う。

「王宮の近くなら迷わないな」

「あまり自信があるようには聞こえませんけど」

「……半分くらいはある」

「半分ですか」

二人は顔を見合わせ、小さく笑った。

やがて視界が開ける。

王宮へ続く大通りの一角に、他の建物とは明らかに格の違う建物が建っていた。

高さ三階。

白い石を積み上げた重厚な外壁。

正面には六本の大理石の柱が並び、入口の上には一冊の本を象った巨大な紋章が彫られている。

王立図書館。

「これが……」

リュークは思わず息を呑んだ。

「図書館か」

ノカス公爵家にも蔵書庫はあった。

しかし比べることすら失礼なほど規模が違う。

建物へ一歩足を踏み入れた瞬間、紙と革の香りが鼻をくすぐった。

静寂。

聞こえるのは、ページをめくる音だけ。

天井まで届く本棚が何十列も並び、その一本一本に無数の本が収められている。

「……すごい」

リュークは思わず呟いた。

ケーユーも辺りを見回しながら感嘆の息を漏らす。

「これだけの本、誰が読むんでしょう」

「読む人がいるから置いてあるんだろう」

受付では初老の司書が二人を迎えた。

「閲覧ですか」

「はい」

「初めてのご利用ですね」

司書は木札へ名前を書き込み、二人へ手渡した。

「館内での飲食は禁止です。本は館外への持ち出しもできません」

「承知しました」

司書が微笑む。

「ようこそ、王立図書館へ」


それからというもの。

リュークは時間を忘れて本棚を巡った。

帝国建国史。

諸侯列伝。

各地の地誌。

軍制。

築城術。

兵法。

魔術理論。

薬草学。

鉱物学。

水利工学。

橋梁建築。

見つけた本を片っ端から机へ積み上げていく。

「読むんですか、それ全部」

ケーユーが呆れたように尋ねる。

「全部だ」

「今日中にですか」

「今日は無理だ」

「一週間あれば読める」

「一週間でも十分おかしいと思います」

リュークは苦笑しながら最初の本を開いた。

ページをめくるたび、新しい知識が頭へ流れ込んでくる。

帝国はどのように成立したのか。

なぜ諸侯は互いに争うのか。

川へ橋を架ける技術はどう発展してきたのか。

どれも戦場では知ることのできなかった内容だった。

(面白い)

自然と口元が緩む。

剣を振るう時とは違う高揚感だった。

知識を得ることそのものが楽しい。

「リュークさん」

ケーユーが一冊の本を差し出す。

「これ、面白そうですよ」

表紙には《ドワーフ鍛冶技術概論》と書かれていた。

「……」

リュークの目が輝く。

「それを先に読む」

「やっぱり」

ケーユーは笑いを堪え切れなかった。


昼を過ぎても、リュークは席を立たなかった。

夕方になっても、本を閉じる様子はない。

閉館を知らせる鐘が鳴って初めて、彼は顔を上げた。

「もうそんな時間か」

司書が近付いてくる。

「熱心ですね」

「勉強不足を痛感しました」

リュークは素直に答えた。

「戦場では剣だけ振っていればいいと思っていましたが、知らないことがあまりにも多い」

司書は穏やかに頷く。

「知識は財産です。盗まれることも、失われることもありません。若いうちに学びなさい。必ず人生の助けになります」

リュークは深く頭を下げた。

「ありがとうございます」


宿へ戻る道すがら。

夕日に染まる王都を歩きながら、ケーユーが口を開いた。

「今日は楽しそうでしたね」

「ああ」

「久しぶりに心から楽しかった」

戦が始まって以来、初めてだった。

誰かを斬るためではなく。

誰かに勝つためでもない。

純粋に、自分のためだけに時間を使えた一日だった。

リュークは夕焼けに染まる王都を見上げる。

「この街で、もっと学ぼう」

「一か月くらいでしょうか」

「いや」

少し考え、笑みを浮かべる。

「一か月では足りないくらいだ」

ケーユーは肩をすくめた。

「宿代が心配ですね」

「……それは確かに問題だ」

二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。

王都での穏やかな日々は、こうして始まった。


それから一か月。

リュークの生活は、驚くほど規則正しいものになった。

朝、宿を出る。

図書館が開くと同時に席へ着く。

昼食も簡単に済ませ、閉館まで本を読み続ける。

夜は宿へ戻り、その日学んだことを紙へ書き写しながら整理する。

そして眠る。

翌朝になれば、また図書館へ向かう。

そんな毎日だった。

「リュークさん」

ある日の昼。

本の山へ埋もれているリュークへ、ケーユーが呆れたような声を掛ける。

「昼食ですよ」

「……もうそんな時間か」

顔を上げたリュークは窓を見る。

いつの間にか太陽は真上まで昇っていた。

「今読んでいるところだけ」

「その『少し』が毎回一時間なんです」

ケーユーは苦笑しながら本を閉じた。

「本は逃げませんから」

「俺の記憶は逃げる」

「逃げません」

「忘れるだけです」

「同じだ」

結局、ケーユーに腕を引かれ、図書館の外へ連れ出された。


昼食は市場近くの小さな食堂だった。

パン。

野菜の煮込み。

燻製肉。

ビール。

どれも豪華ではない。

だが、素朴で温かい味だった。

「王都は食べ物も美味しいですね」

ケーユーが嬉しそうにスープを口へ運ぶ。

「ああ」

リュークも頷く。

食事を終えると、市場を少し歩く。

香辛料屋。

時計職人。

ガラス細工。

楽器店。

見たこともない品々が並んでいた。

リュークは何でも興味深そうに眺める。

「本だけじゃなく、実物を見るのも勉強になる」

鍛冶屋では新しい剣の鍛造法を見学し、薬屋では乾燥薬草の保存方法を教わり、石工の工房では建物の基礎について質問を繰り返した。

職人たちは最初こそ怪訝な顔をしたものの、真剣に耳を傾ける青年を見ると、いつしか嬉しそうに話し始める。

「若いのに物好きだな」

鍛冶職人が笑う。

「普通は剣だけ買って帰るもんだ」

「どう作るか知りたい」

リュークが答える。

「知れば壊し方も分かる」

職人は一瞬きょとんとしたあと、大笑いした。

「なるほど!戦う奴らしい発想だ!」


王都ハラプで過ごした一か月は、瞬く間に過ぎていった。

旅立ちの日の朝。

宿の女将が荷物をまとめる二人を見送りに来る。

「もう行くのかい」

「ああ」

「ずいぶん本を読んでいたねぇ」

「おかげで勉強になりました」

女将は笑いながら、小さな包みを手渡した。

「旅の途中で食べな」

中には焼き立ての黒パンと干し肉が入っていた。

「これは……」

「餞別さ」

「また王都へ来ることがあったら、うちへ泊まりな」

リュークは深く頭を下げる。

「ありがとうございます」

ケーユーも続いて礼をした。

宿を出る。

朝日に照らされた王都ハラプが、静かに二人を送り出していた。

リュークは一度だけ振り返る。

高くそびえる王城。

王立図書館。

活気あふれる市場。

この一か月で得たものは、剣では手に入らない財産だった。

「行こう」

「はい」

二人は再び馬へ跨る。

目指すはさらに南。

グンビラウトス伯領。

そして、その先にある人類最前線――トッシャドンラ公爵領、前線都市ヘンミュだった。


王都ハラプを発ってから五日。

二人はアミヘボ王領を抜け、グンビラウトス伯領へ入っていた。

領境には小さな関所が築かれている。

王都ほど厳重ではない。

だが、街へ入る者は一人残らず足を止められていた。

「次!」

門番が声を張る。

リュークとケーユーは馬を進めた。

「旅人か」

「はい」

「入市税だ。一人ニピエ銀貨一枚」

リュークは財布から銀貨を二枚取り出す。

門番は受け取ると木札へ印を押した。

「通ってよし」

二人は礼をして街へ入る。

城門を抜けた途端、ケーユーが財布を開いた。

「……また減りましたね」

「旅は金が掛かる」

リュークも苦笑する。

「王都だけかと思ったが、ここも取るのか」

「都市を維持するにはお金が必要なんでしょうね」

「分かってはいるが、財布には優しくない」

二人は顔を見合わせて笑った。


グンビラウトス伯領は、商人の往来が盛んな土地だった。

街道には荷馬車が絶えず行き交い、宿場町も活気に満ちている。

宿へ入る。

「一泊十四ニピエになります」

「やっぱりか」

リュークは肩を落とした。

「どこへ行っても同じですね」

「王都より少し安いかと思ったんだが」

「期待し過ぎです」

夕食は黒パンに野菜の煮込み、それに燻製肉。

「二人で四ニピエになります」

店主が笑顔で言う。

リュークは銀貨を渡しながら、小さく息をついた。

「働く前に金が減るな」

ケーユーが笑う。

「リュークさん、公爵家にいた頃は値段なんて気にしたことありませんでしたよね」

「ああ」

「財布を持つことすらほとんど無かった」

「今は一ニピエでも惜しい」

「いい経験ですね」

「まったくだ」


旅は順調だった。

朝早く宿を出る。

昼は街道沿いで簡単な食事を取る。

夕方には次の町へ入り、一泊する。

そんな毎日を繰り返した。

ある日、街道脇で老人が荷車を押していた。

しかし車輪がぬかるみにはまり、身動きが取れなくなっている。

「困っているようですね」

ケーユーが馬を止めた。

「ああ」

二人は荷車へ近付く。

「手伝います」

リュークが声を掛けると、老人は驚いたように振り返った。

「悪いねぇ」

「車輪が抜けなくて」

リュークは荷車の後ろへ回る。

「せーの」

力を込める。

荷車は簡単に持ち上がり、そのままぬかるみから抜け出した。

老人は目を丸くした。

「兄ちゃん、見た目よりずっと力があるな」

ケーユーは思わず吹き出す。

「見た目より、ではありません。この人、ものすごく強いですよ」

「そうなのか?」

老人は何度も礼を言いながら去っていった。

リュークは照れくさそうに頭を掻く。

「大したことじゃない」

「でも喜んでいました」

「困っている人を助けるのは気分がいいですね」

リュークは小さく頷いた。

「戦場では助けられなかった命が多過ぎた。だからせめて、助けられるものは助けたい」

ケーユーは何も言わなかった。

ただ静かに、その横顔を見つめていた。


さらに数日。

街道の景色が少しずつ変わり始める。

広大な畑は減り、代わりに針葉樹が目立つようになった。

空気も冷たい。

風には山の匂いが混じり始めている。

「近付いてきましたね」

ケーユーが前方を指差す。

遥か南に雲を突き抜けるような巨大な山々が連なっていた。

山肌は黒く、ところどころ白い雪が残っている。

「スプルア山脈……」

リュークは思わず見入った。

帝国最大の魔境。

人類と魔物を隔てる巨大な壁。

そこにはオーガも、ワイバーンも、ヒュドラも生息しているという。

普通の人間なら、一生近付くことすらない場所だった。

しかしリュークの胸は、不思議なほど高鳴っていた。

「ようやくだ」

剣の柄を軽く握る。

「俺はあそこで強くなる」

ケーユーも真剣な表情で頷いた。

「私も、一緒です」

「リュークさんの背中を守れるくらい強くなります」

リュークは少しだけ笑う。

「その言い方だと、今は守れていないみたいだな」

「……少しだけです」

「正直だな」

「嘘はつけませんから」

二人は笑い合う。

そして再び馬を進めた。


グンビラウトス伯領を抜けると、空気が変わった。

乾いた風ではない。

冷たく湿った風が、山の匂いを運んでくる。

見上げれば、スプルア山脈はもう目の前だった。

山々は幾重にも連なり、その頂は雲へ隠れている。

黒い岩肌。

切り立った断崖。

深い針葉樹林。

人の手など到底及ばない大自然が、静かな威圧感を放っていた。

「大きい……」

ケーユーが思わず呟く。

リュークも目を細めた。

「これほどとは思わなかった」

地図では何度も見た。

本でも読んだ。

しかし、実際に目の当たりにすると、その迫力はまったく別物だった。

まるで大地そのものが立ち上がっているようだった。


街道をさらに進む。

すれ違う人々にも変化が現れ始めた。

王都では商人や巡礼者が多かったが、この辺りでは違う。

全身を傷だらけにした剣士。

巨大な戦斧を背負った男。

魔術師らしいローブ姿の男。

弓を何本も背負った狩人。

皆、強そうだった。

そして全員、鋭い目をしている。

「雰囲気が違いますね」

ケーユーが小声で言う。

「ああ」

リュークも頷く。

「ここまで来る者は、戦える者ばかりなんだろう」

誰もが命を懸けて魔物と戦う。

そんな土地だった。


さらに半日。

ようやく目的の都市が姿を現した。

「見えた」

リュークが前を指差す。

森の向こう。

巨大な石造りの城壁がそびえ立っていた。

高さ十メートルを超える外壁。

そのさらに外側には、幅広い堀が二重に巡らされている。

堀の水面には逆茂木が浮かび、簡単には渡れない造りになっていた。

一定間隔で築かれた監視塔では、弓兵たちが絶えず山脈の方向を警戒している。

塔の屋根には見張り鐘。

城壁には大型弩弓まで据え付けられていた。

「あれほどの備えを……」

ケーユーが息を呑む。

「魔物相手だからな」

リュークは静かに答える。

「人間なら攻城兵器を用意するが魔物は違う。数で押してくる。だから城壁そのものが武器になる」

近付けば近付くほど、その巨大さが分かる。

石には無数の傷跡が刻まれていた。

巨大な爪で引き裂かれたような跡。

何かに叩き付けられて砕けた跡。

黒く焦げた跡。

長い年月、この都市が魔物の侵攻を受け続けてきた証だった。

「ここが……ヘンミュ」

ケーユーが静かに呟く。

「人類最前線」


城門の前には長蛇の列ができていた。

荷馬車。

商隊。

狩人。

傭兵。

魔術師。

そして、討伐帰りらしい狩人たち。

荷車には巨大な牙。

魔石。

角。

毛皮。

見たこともない魔物の素材が山積みにされている。

その中には、片腕を失った男もいた。

足を引きずる者もいる。

誰もが傷だらけだった。

それでも、その表情に悲壮感はない。

生きて帰ってきた。

その誇りだけが漂っていた。

「王都とは正反対ですね」

ケーユーが辺りを見回す。

「ああ」

リュークも静かに頷く。

「ここでは強さだけが価値なんだろう」

列が少しずつ進みようやく二人の番になった。

門番は二人を見るなり眉を上げた。

「初めてか」

「はい」

「狩人ギルドか」

「その予定です」

門番は頷く。

「なら歓迎する。最近、中層まで行ける狩人が減っていてな。新人でも腕があるならありがたい」

「ようこそ、ヘンミュへ」

二人は馬を進めた。

門をくぐった瞬間熱気が押し寄せる。

鍛冶場から響く槌の音。

酒場から聞こえる笑い声。

荷車を引く怒号。

商人の呼び込み。

「新しい治療薬が入ったぞ!」

「鉄剣の修理ならこっちだ!」

王都のような華やかさはない。

だが、この街には命があった。

明日も生きるために今日を戦う者たちの熱気だった。

リュークは街の中心を見据える。

そこには、一本の剣と魔物の角を組み合わせた大きな紋章が掲げられていた。

「狩人ギルドですね」

ケーユーが笑う。

リュークは小さく息を吸う。

胸の奥で、血が沸き立つのを感じた。

「行こう」

「ここからが、本当の始まりだ」

二人は並んで歩き出す。


翌朝。

まだ朝日が城壁の上から顔を覗かせたばかりだというのに、ヘンミュの街はすでに動き始めていた。

鍛冶場からは絶え間なく槌を打つ音が響き、炭火の熱気が通りへ流れ出している。

鎧姿の狩人たちは酒場から出てくると、そのまま武器屋へ向かい、刃こぼれした剣を修理へ預けていた。

逆に、夜明けとともに森へ向かう者たちは、無言で城門を抜けていく。

誰も無駄話はしない。

今日、生きて帰れる保証などどこにもないからだ。

二人は街の中央へ向かう。

そこには昨日見た石造りの大きな建物があった。

狩人ギルドだ。

重い木製の扉を押し開ける。

途端に熱気と喧騒が押し寄せた。

広いホールには百人近い狩人が集まっている。

討伐帰りなのだろう。

鎧は泥と血で汚れ、肩や腕には新しい包帯が巻かれている。

奥では巨大な熊のような魔物の毛皮を何人がかりで運び込み、その隣では長さ三腕はありそうな牙が並べられていた。

受付では次々と素材が査定されている。

「オーク三匹!」

「魔石十二個!」

「コボルトの皮二十枚!」

帳簿を書く職員の手は止まらない。

その隣では治療師が負傷者へ回復魔法を掛けていた。

「すごい……」

ケーユーが小さく呟く。

「まるで軍の補給所ですね」

「いや」

リュークは静かに首を振る。

「ここは戦場そのものだ」

その言葉どおりだった。

ここでは毎日が戦争だった。

敵が人間ではなく魔物というだけである。


二人は受付へ向かった。

受付には三十代ほどの女性が座っている。

栗色の髪を後ろで束ね、慣れた手つきで帳簿をめくっていた。

「いらっしゃいませ。ご用件は?」

「登録をお願いします」

女性は顔を上げる。

「新規ですね」

「はい」

「では、お一人につき登録料はトッカダ金貨一枚になります」

その瞬間リュークの動きが止まった。

「……一枚?」

「はい」

受付嬢はにこやかに頷く。

「お二人ですので二枚ですね」

リュークは財布を開いた。

旅へ出る時持ってきた金貨。

戦場では大金だった。

だが、この旅では違う。

王都での生活。

宿代。

食費。

入市税。

気付けば、財布はずいぶん軽くなっていた。

そこからさらに金貨二枚。

財布の中が急に寂しくなる。

「痛い……」

思わず本音が漏れる。

ケーユーも財布を覗き込み、小さく肩を落とした。

「宿代を節約した意味がなくなりましたね」

「働く前から赤字だ」

受付嬢は思わず吹き出した。

「皆さん最初はそう言いますが、一人前になればすぐ取り返せますよ」

「そう願いたい」

リュークは苦笑しながら金貨を二枚差し出した。

受付嬢は一枚ずつ光にかざし、本物であることを確認すると帳簿を開く。

「では、お名前をお願いします」

「リューク」

「ケーユー」

それだけだった。

家名も出身も身分も一切聞かれない。

受付嬢は名前を書き終えると、小さな銅札を二枚差し出した。

片面には剣と角の紋章。

裏面には登録番号だけが刻まれている。

「これが狩人証です」

「依頼を受ける時、素材を売却する時に必要になります」

リュークは木札を裏返した。

「ずいぶん簡素なんですね」

「ええ」

受付嬢は微笑む。

「この街では肩書きより実力です。強い人は、すぐ皆が覚えますから」

リュークも自然と笑みを浮かべた。

「嫌いじゃない」

「私もです」

ケーユーが頷く。

余計な身分など関係ない。

剣一本で評価される。

そんな世界は、二人にとって心地よかった。

受付嬢は壁に掛けられた巨大な地図を広げる。

「それでは、狩場の説明をします」

地図にはスプルア山脈が大きく描かれていた。

「ここが浅層」

指が最も外側を示す。

「ゴブリン、コボルト、オークが主に出没します」

さらに奥。

「ここが中層」

「オーガ、トロール、ハーピー、トレント」

受付嬢の声が少し真剣になる。

そして一番奥。

黒く塗られた地域へ指が止まった。

「ここが深層です。サイクロプス、ワイバーン、ヒュドラ、その他、確認されていない大型魔物も多数」

受付嬢は真っ直ぐリュークを見る。

「新人の方へ言うことは一つだけです。深層へは行かないでください。帰って来られません」

リュークは地図を静かに見つめた。

その黒く塗られた場所から、目を逸らさない。

やがて小さく頷いた。

「まずは浅層から始めます」

受付嬢は安心したように笑う。

「それが賢明です」

だが、その言葉を聞いたケーユーだけは、小さく苦笑していた。

(リュークさんが"まずは"と言った時は、大抵その先まで行くんですよね……)

そんな予感が、胸の奥で静かに膨らんでいた。


翌朝。

夜明け前のヘンミュは静かだった。

城壁の上では見張りの兵士が交代し、監視塔の鐘が低く鳴る。

薄暗い空の下、二人は宿の一階で朝食を取っていた。

黒パン。

干し肉。

温かな野菜のスープ。

豪華ではないが、前線都市らしい腹にたまる食事だった。

「今日は浅層ですね」

ケーユーがパンをちぎりながら尋ねる。

「ああ」

リュークは地図を広げる。

昨日、受付嬢から借りて写した地図だった。

「街道を半日進めば浅層に入る。まずは地形を覚える。焦って奥へ行く必要はない」

「珍しいですね」

ケーユーが少し笑う。

「慎重ですね」

「敵を知らずに戦うほど馬鹿じゃない。図書館で読んだ兵法にも書いてあった」

「その通りですね」

朝食を終えると、二人は武器を確認した。

剣。

短剣。

水袋。

解体用の簡易ナイフ。

最低限の保存食。

そして空になった荷袋。

今日は魔石と素材を持ち帰るため、それらを入れる必要があった。


ヘンミュ南門にはすでに多くの狩人が集まっていた。

ある者は四人組。

ある者は十人近い集団。

魔術師を含む大所帯もいる。

新人らしい若者は緊張した顔で先輩の後ろを歩いていた。

その中で二人だけだった。

荷物も少なく仲間も二人だけ。

門番が二人を見る。

「お前たち新人か」

「はい」

「二人だけで行くのか」

「そうです」

門番は少し驚いた顔をした。

「普通は四、五人組むんだがな」

「大丈夫です」

リュークは静かに答える。

「危険だと思ったら引き返します」

門番は少しだけ笑った。

「その言葉を忘れるな。新人は『自分だけは死なない』と思って山へ入る。そして帰って来ない」

リュークは真剣な表情で頷く。

「覚えておきます」

門番は門を開けた。

「生きて帰れ」

「はい」


城門を出ると、景色は一変した。

人の気配が消える。

石畳も終わり、踏み固められた土の道だけが森の奥へ続いている。

巨大な針葉樹が空を覆い、朝だというのに薄暗い。

風が吹くたび枝葉が擦れ合い、不気味な音を立てた。

「静かですね」

ケーユーが小声で言う。

「ああ」

リュークは辺りを見回す。

「静かな森ほど危険だ」

鳥の鳴き声も虫の羽音もしない。

あるのは風だけ。

それが逆に異様だった。

一時間ほど歩いただろうか。

リュークが突然立ち止まる。

「どうしました」

「……気配だ」

剣の柄へ手を置く。

ケーユーも息を殺した。

草むらが揺れる。

ガサリ。

ガサガサ。

小さな影が次々と姿を現した。

緑色の皮膚。

黄色い目。

腰布だけを巻いた小柄な人型。

棍棒を手にしている。

ゴブリンだった。

一匹。

二匹。

三匹。

まだ増える。

十匹。

十五匹。

二十匹近い。

ギャギャギャッ!

耳障りな叫び声を上げながら、一斉に飛び掛かってくる。

ケーユーが剣を抜く。

「来ます!」

リュークは一歩前へ出た。

その目に迷いはない。

「まずは――」

静かに息を吸う。

「実力を見せてもらおうか」

剣を抜く音だけが、静かな森へ鋭く響いた。

ゴブリンたちは獲物を見つけた獣のように叫びながら、一斉に突進してきた。

先頭の一匹が棍棒を振り上げる。

リュークは動かない。

棍棒が頭上へ振り下ろされた、その瞬間。

キィン――。

銀色の軌跡が森を駆け抜けた。

次の瞬間、ゴブリンの首が宙を舞う。

胴体は二、三歩よろめくと、そのまま地面へ崩れ落ちた。

しかし、残りのゴブリンは怯まない。

むしろ仲間の死体を踏み越え、狂ったように飛び掛かってくる。

「数で押すつもりか」

リュークは低く呟いた。

一歩踏み込む。

剣閃が走る。

一匹。

返す刃でもう一匹。

さらに身体をひねり、三匹目の喉を切り裂く。

鮮血が朝日にきらめき、赤い霧となって宙へ散った。

「ギャアアッ!」

背後から飛び掛かってきた一匹。

だが、その棍棒が届く前に風が唸る。

シュッ!

透明な刃が一直線に走った。

ゴブリンの首が音もなく落ちる。

「リュークさん!」

ケーユーだった。

風の刃。

まだ細く小さい。

それでも十分な威力を持っていた。

「いいぞ!」

リュークは短く声を掛ける。

その声だけで、ケーユーの表情が明るくなる。

「はい!」

ケーユーも剣を抜き放つ。

一匹が真正面から飛び込んできた。

横薙ぎ。

剣先が喉元を裂く。

さらに身体を回転させ、その勢いのまま二匹目の首筋へ刃を走らせる。

二匹同時に倒れた。

「上達したな」

「先生が良かったので」

「まだ余裕があるな」

「少しだけです!」

二人が言葉を交わす間にも、戦いは続く。

ゴブリンたちは統率などない。

ただ数だけを頼りに突っ込んでくる。

それでは二人には届かない。

リュークは最小限の動きだけで攻撃をかわし続ける。

斬る。

避ける。

踏み込む。

斬る。

まるで剣術の演武だった。

十数秒後。

森は再び静寂を取り戻した。

辺りには二十匹近いゴブリンの死体が転がっている。

ケーユーは軽く息を吐いた。

「終わりましたね」

「ああ」

リュークは剣に付いた血を払い、鞘へ納める。

「戦闘は終わった」

そう言うと、腰へ提げた短刀を抜いた。

ケーユーが苦笑する。

「ここからが本番ですね」

「その通りだ」

リュークは最初のゴブリンを仰向けへ寝かせる。

胸の中央へ短刀を当てる。

真っ直ぐ刃を走らせると、皮膚と筋肉が左右へ開いた。

続いて胸骨へ刃を差し込み、力を込める。

メリメリッ。

鈍い音を立てながら胸骨が左右へ割れた。

肋骨を押し広げる。

赤黒い心臓が姿を現した。

その少し上。

心臓へ覆いかぶさるように、小さな青白い結晶が埋まっている。

「これか」

短刀の先で慎重に切り離す。

親指ほどの大きさの魔石だった。

陽の光を受け、青く輝いている。

「思ったより小さいですね」

ケーユーも隣で同じ作業を始める。

「大きさより純度なんだろう」

「たぶん」

「たぶんですか」

「俺も初めてだからな」

二人は笑い合った。

しかし、その笑顔はすぐ消える。

解体は想像以上に重労働だった。

一匹。

二匹。

三匹。

胸を開き。

魔石を取り出し。

袋へ入れる。

それを延々と繰り返す。

額から汗が流れ落ちた。

戦闘では一滴も汗をかかなかったというのに。

三十分後。

ようやく最後の一匹が終わる。

リュークは腰を伸ばし、大きく息を吐いた。

「……疲れた」

ケーユーが思わず笑う。

「戦うより疲れてますね」

「ああ」

「狩人は剣士じゃない。解体師だ」

二人は顔を見合わせ、大笑いした。

その笑い声が、静かな森へ心地よく響いていた。

解体を終えた頃には、すっかり日が高くなっていた。

木漏れ日が森の地面へまだら模様を描いている。

リュークは袋の口を縛る。

中には二十個近いゴブリンの魔石が入っていた。

「思ったより重いですね」

ケーユーも自分の袋を持ち上げる。

「魔石だけでこれだけあるとは」

「これが金になる」

リュークは袋を荷馬へ積み込む。

「だが、まだ帰らない」

「ええ」

ケーユーも頷く。

「今日は初日ですからもう少し狩りましょう」

二人は再び森の奥へ歩き始めた。


それから三十分ほど進んだ頃だった。

ガサガサッ!

右手の藪が大きく揺れる。

リュークが右手を上げた。

「止まれ」

ケーユーもすぐ足を止める。

音は一つではない。

複数。

それもかなり速い。

次の瞬間、灰色の毛並みをした影が木々の間から飛び出した。

犬の頭に人間の身体。

コボルトだった。

一匹。

二匹。

三匹。

あっという間に二十匹近い群れになる。

だが、ゴブリンとは違う。

先頭が突撃しない。

左右へ散開した。

「囲む気ですね」

ケーユーが小声で言う。

「ああ」

リュークも頷いた。

「少し知恵がある」

コボルトたちは低く唸りながら少しずつ距離を詰める。

飛び込めば斬られる。

それを理解しているのだ。

一匹が囮となって正面へ出る。

その瞬間。

左右から同時に三匹が襲い掛かった。

「連携か」

リュークの目が細くなる。

しかし。

遅い。

一歩踏み込む。

正面の一匹を袈裟斬り。

返す刃で左。

身体を半回転させ、その勢いのまま右側の首筋を薙ぐ。

三匹がほぼ同時に倒れた。

「ガァッ!」

残ったコボルトたちが一斉に飛び掛かる。

リュークはその中心へ飛び込んだ。

剣閃が何度も走る。

まるで銀色の嵐だった。

首が舞う。

腕が飛ぶ。

鮮血が木々を赤く染める。

わずか十数秒。

リュークの周囲には十数匹の死体が積み重なっていた。

その頃ケーユーも三匹に囲まれていた。

一匹が正面。

二匹が左右。

「ふっ!」

ケーユーは一歩退く。

その瞬間、三匹が同時に飛び込んできた。

待っていた。

風魔法を剣へ纏わせる。

「《風刃》!」

横薙ぎ。

圧縮された風が刃先から放たれる。

先頭の一匹の首が飛ぶ。

勢いは止まらない。

後ろの二匹の喉まで切り裂いた。

三匹が同時に倒れる。

「やりました!」

「油断するな!」

リュークの声が飛ぶ。

その瞬間背後から一匹が飛び掛かる。

ケーユーは反射的に身体を沈める。

頭上を棍棒が掠めた。

そのまま振り向きざまに剣を振る。

首が飛ぶ。

最後の一匹だった。

森が静かになる。

リュークは周囲を見渡した。

「怪我は」

「ありません」

「リュークさんは」

「かすり傷一つない」

ケーユーは苦笑する。

「分かっていましたけど」

「本当に強いですね」

リュークは肩を竦めた。

「お前も十分強くなっている。以前なら風刃は一発しか撃てなかったが今日は四発撃った」

ケーユーは驚いたように自分の手を見る。

「本当ですね……。魔力が増えてる」

「戦い続ければ増える。昨日読んだ本にもそう書いてあった」


ここからが本当の仕事だった。

リュークは短刀を取り出す。

「また解体ですね」

「そうだ」

コボルトは魔石だけではない。

皮も高く売れる。

リュークは腹ではなく、四肢の内側へ慎重に刃を入れる。

皮へ傷を付けないよう少しずつ剥がしていく。

筋膜を切り、皮を引き、また切る。

一枚剥ぐだけでも数分掛かる。

「ゴブリンより大変ですね」

ケーユーも額の汗を拭った。

「皮が商品だからな。傷を付けたら値段が下がる。だから慎重に」

「なるほど」

二人は無言で作業を続けた。

戦う時間はほんの一瞬、しかし解体は一時間近く掛かる。

リュークは思わず苦笑した。

「狩る時間より、解体している時間の方が長いな」

ケーユーも吹き出す。

「本当に狩人というより解体屋ですね」

二人は最後の皮を背負子へ積み終えると、再び森の奥へ視線を向けた。

まだ日は高い。

体力も魔力も十分残っている。

リュークは剣の柄へ手を添え、静かに笑った。

「今日は百匹くらい狩れそうだな」

ケーユーは一瞬きょとんとした後、小さくため息をついた。

「普通の新人は十匹で帰るそうですよ」

「俺たちは新人だからな」

「その理屈、絶対おかしいです」

二人は笑いながら、さらに森の奥へ歩き出した。

森へ入ってから、どれほど時間が過ぎただろうか。


太陽は頭上へ昇り、木漏れ日が森の中へ幾筋もの光を落としている。

リュークとケーユーは、休むことなく魔物を狩り続けていた。

ゴブリンの群れ。

二十匹。

また別の群れ。

十五匹。

さらに十匹。

見つけるたびに剣を抜き、一瞬で決着がつく。

戦闘そのものは長くても十秒。

だが、その後の解体は何倍もの時間を要した。

胸を開き。

魔石を取り出し。

袋へ入れる。

血を洗い流し、また次の獲物を探す。

その繰り返しだった。

「……ようやく百匹を超えましたね」

ケーユーが汗を拭う。

「まだ昼過ぎだ」

魔石の袋はすでに三つ目。

「帰りますか」

「いや」

リュークは森の奥を見据えた。

「今日は初日だ」

「どこまで狩れるか試してみたい」


それからさらに二時間。

途中でオークとも遭遇した。

二メートルを超える巨体。

灰色の皮膚。

牙を剥き出しにし、巨大な棍棒を担いでいる。

普通の新人なら逃げる相手だった。

しかしオークが咆哮を上げるより早く、リュークが踏み込む。

ズンッ。

地面を蹴る音。

一瞬で間合いを詰める。

オークが棍棒を振り上げる。

遅い。

剣閃が走った。

巨大な首がゆっくりと宙を舞う。

切断面から鮮血が噴き上がり、巨体が大地を震わせながら倒れた。

「一撃……」

ケーユーが小さく呟く。

「動きはずっと遅い。これなら問題ない」

リュークは死体を見下ろした。

その後も二匹、三匹とオークを討ち取っていく。

どれも勝負は一太刀だった。


気付けば、空が赤く染まり始めていた。

森の中も薄暗くなり始める。

門番の言葉が脳裏をよぎった。

――夜は移動するな。

――魔物が増える。

リュークは空を見上げる。

「今日はここまでだ」

「はい」

ケーユーも頷いた。

背負子を見る。

オーク三匹。

ゴブリン百四十三匹。

コボルト二十三匹。

解体もすべて終えている。

魔石は一つ残らず回収した。

コボルトの皮も傷一つない。

背負子は素材で山のようになっていた。

「これ……運べますか」

ケーユーが苦笑する。

「重いな」

リュークは背負子の取っ手を握る。

ギシッ。

木が軋んだ。

「次は背負子も丈夫な物を買わないと駄目ですね」

「そうだな」

「解体用の道具も欲しい」

「今日は短刀だけだったから時間が掛かった」

「骨を割る道具も必要ですね」

「皮を剥ぐ専用のナイフも」

二人は歩きながら、次々と改善点を挙げていく。

初日だけで多くの課題が見つかった。

だが、それが面白かった。

狩人という仕事は、ただ魔物を倒せば終わりではない。

狩り。

解体。

運搬。

換金。

すべてが一つの仕事だった。


夕暮れ。

ヘンミュの巨大な城壁が見えてくる。

見張りの兵士が背負子を見るなり目を見開いた。

「おい……」

「新人じゃなかったか?」

別の兵士も近寄ってくる。

背負子を覗き込み、思わず息を呑んだ。

「ゴブリン……こんな数を?」

「コボルトまでいるぞ」

「しかもオークが三匹……」

門番はゆっくりとリュークへ視線を向ける。

「お前たち……本当に初日か?」

「はい」

リュークは何でもないことのように答えた。

「浅層を回ってきました」

門番は頭を掻いた。

「普通、新人はゴブリン十匹狩れたら祝杯なんだが……」

隣の兵士が苦笑する。

「ギルドがひっくり返るぞ」


狩人ギルドへと移動し、扉を押し開けた瞬間だった。

ガヤガヤと響いていた話し声が、ぴたりと止む。

酒を飲んでいた狩人も、受付へ並んでいた狩人も皆、一斉に入口へ視線を向けた。

理由はすぐ分かった。

二人が背負う背負子だった。

山のように積まれた魔物の素材。

袋いっぱいの魔石。

丁寧に畳まれたコボルトの皮。

そして、一番上にはオークの巨大な魔石が三つ並んでいた。

「……おい」

一人の狩人が呟く。

「新人じゃなかったか?」

「昨日登録した二人組だろ」

「浅層へ行くって言ってた奴らだ」

「あれ全部、今日の獲物か?」

ざわめきが広がる。

受付嬢も顔を上げると、一瞬動きを止めた。

「え……」

帳簿を持ったまま固まる。

「全部、お二人で?」

「はい」

リュークは何事もないように頷く。

「今日一日の成果です」

受付嬢は背負子へ近付く。

まずオークの魔石を持ち上げる。

ずっしりと重い。

間違いなく本物だった。

続いてコボルトの皮を広げる。

傷一つない。

見事な解体だった。

「こんなに綺麗に……」

思わず呟く。

さらに袋を開く。

中には青白いゴブリンの魔石がぎっしり詰まっていた。

受付嬢は思わず息を呑む。

「数えますね」

帳簿を開き、一つずつ確認していく。

「ゴブリン百四十三体」

周囲がどよめく。

「コボルト二十三体」

さらにざわめきが大きくなる。

「オーク三体」

ギルド中が静まり返った。

「嘘だろ……」

「一日で?」

「浅層だけで?」

一人のベテラン狩人が荷車の前へ歩いてくる。

コボルトの皮を手に取った。

「皮に傷がねぇ」

「新人の解体じゃないぞ」

「誰かに教わったのか?」

リュークは首を振る。

「今日覚えました」

その一言で、また空気が止まる。

「今日?」

「今日だと?」

「嘘つけ……」

ベテラン狩人は苦笑した。

「本当らしい」

「この解体は慣れてない」

「だが筋はいい」

「経験が増えりゃもっと速くなる」

リュークは素直に頷いた。

「時間が掛かり過ぎました」

「半分くらいは解体していた気がします」

ベテラン狩人は吹き出した。

「違いねぇ!」

「狩人ってのはな!」

「剣を振る時間より、解体してる時間の方が長ぇ仕事なんだ!」

ギルド中から笑い声が上がる。

張り詰めていた空気が一気に和らいだ。

受付嬢も笑いながら帳簿を書き終える。

「査定が終わりました」

算盤を弾き、もう一度素材を確認する。

「ゴブリンの魔石百四十三個」

「コボルトの魔石二十三個」

「コボルトの皮二十三枚」

「オーク三体分の魔石・牙」

計算が終わる。

受付嬢は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。

「合計――二トッカダ金貨と百三十三ニピエになります」

リュークは思わず目を見開いた。

「そんなにですか?」

「はい」

受付嬢は笑顔で頷く。

「新人の初日としては、私も初めて見る金額です」

ケーユーは思わず顔を輝かせた。

「宿代十四日分どころじゃありませんね!」

「いえ」

受付嬢はくすりと笑う。

「二人なら、一か月以上は十分暮らせますよ」

周囲の狩人たちがざわつく。

「新人が一日で二枚半近く……」

「俺の十日分だぞ……」

「何者なんだ、あいつら」

「本当に新人か?」

リュークは受け取った金貨を見つめ、小さく息を吐いた。

「ようやく旅の資金ができたな」

ケーユーは満面の笑みで頷く。

「これでしばらくは、宿代を気にしなくて済みますね」

しかし、そのやり取りを、二階から静かに見下ろしている一人の男がいた。

白髪混じりの髭。

鍛え上げられた巨体。

左頬を斜めに走る古傷。

狩人ギルド長――クードュだった。

彼は腕を組みながら、小さく笑った。

「……面白い新人が来たな」


ギルド中の視線を浴びながら、リュークは受付嬢から革袋を受け取った。

ずしり、と重みが手に伝わる。

革紐を緩めると、中には金貨が二枚。

その周りを大量のニピエ銀貨が埋め尽くしていた。

金貨は陽の光を受けて鈍く輝き、銀貨同士が触れ合って心地よい音を立てる。

「これだけの銀貨を見るのは初めてですね」

ケーユーが感心したように覗き込む。

「確かに」

リュークも苦笑した。

「金貨より銀貨の方が重いな」

リュークは革袋を腰へ提げた。

ずっしりとした重みが心地よい。

これでしばらく旅の資金に困ることはない。

「まずは買い物ですね」

ケーユーが言う。

「そうだ」

リュークは頷いた。

「今の装備じゃ、解体に時間が掛かり過ぎる。専用の道具が必要だ」

「あと背負子もですね。壊れそうでした」

「それも買う」


二人はその足で鍛冶屋通りへ向かった。

ヘンミュの鍛冶屋は王都とはまるで違う。

店先へ並ぶのは装飾剣ではない。

実戦だけを考えて作られた武器だった。

肉厚な剣。

大型の斧。

長槍。

盾。

どれも無骨だが頑丈そうだった。

「いらっしゃい」

煤だらけの髭を生やした鍛冶職人が顔を上げる。

「何が欲しい」

「解体用の道具だ」

「それと丈夫な背負子」

職人は二人をじっと見た。

「新人か?」

「昨日登録した」

「ああ」

職人は笑った。

「ギルドで噂になってる二人組だな」

「初日にゴブリン百四十三匹狩ったとか」

ケーユーが苦笑する。

「もう広まってるんですね」

「ヘンミュじゃ珍しいことは半日で街中へ広まる」

職人は店の奥から何本かナイフを持ってきた。

「これは皮剥ぎ用」

細く反った刃。

「これは解体用」

刃渡り二十センチほど。

「骨割りはこれだ」

片手斧ほどの大きさの道具だった。

「胸骨なら一撃で割れる」

リュークは手に取る。

重心が良い。

振りやすい。

「これをもらおう」

「全部で四十八ニピエだ」

「安いですね」

「命を守る道具だからな」

鍛冶職人は真面目な顔になる。

「惜しむ金じゃねえ」

リュークは素直に頷いた。

「確かに」

続いて背負子屋へ向かう。

頑丈そうな背負子が並んでいた。

「これならオークを積んでも壊れませんよ」

店主が胸を張る。

「いくらだ」

「三十五ニピエ」

「買おう」

ケーユーが笑う。

「即決ですね」

「毎日使う物だからな。壊れたら困る」

店主は嬉しそうに頷いた。

「毎度!」


夕方。

宿へ戻る。

一階の食堂は今日も狩人たちで賑わっていた。

二人が入ると、一瞬だけ視線が集まる。

「おい」

「今日の新人だ」

「あいつらか」

「化け物新人」

そんな声が聞こえてくる。

リュークは少し居心地悪そうに頭を掻いた。

「目立ち過ぎたな」

「仕方ありませんよ」

ケーユーは笑う。

「百四十三匹も狩れば誰だって覚えます」

二人は隅の席へ腰を下ろした。

料理が運ばれてきた。

焼きたての黒パン。

香ばしく焼かれた鹿肉。

湯気の立つ野菜の煮込み。

そして、黄金色のビールが並々と注がれた木製ジョッキ。

泡が縁からあふれ、麦の香りがふわりと漂う。

リュークは興味深そうにジョッキを持ち上げた。

「これが酒か」

「初めてですか?」

ケーユーが尋ねる。

「ああ。父上が厳しくてな。剣を握るなら飲むなと」

「では、本当に初めてなんですね」

「そういうことになる」

二人はジョッキを掲げる。

「初仕事に」

「乾杯」

「乾杯」

コツン、と木製のジョッキが軽い音を立てた。

リュークは恐る恐る口を付ける。

冷たい。

苦い。

思わず眉をしかめる。

「……苦い」

「最初はみんなそうですよ」

「こんな物を好き好んで飲むのか」

そう言いながらもう一口。

さらにもう一口。

鹿肉を頬張り、またビールを飲む。

不思議と苦味が気にならなくなってきた。

「……あれ」

リュークが首を傾げた。

「なんだか……体が熱い」

ケーユーは苦笑する。

「飲むの、少し早くありませんか?」

「そうか?」

リュークは笑う。

普段の凛々しい笑みではない。

年相応の、どこか幼さの残る笑顔だった。

ケーユーは少し驚く。

(酔うの、早い……)

それから十分もしないうちだった。

リュークは頬を赤く染め、ぼんやりとケーユーを眺めている。

「ケーユー」

「はい」

「お前は……いいやつだな」

「え?」

「いつも一緒にいてくれる。ありがとう」

真っ直ぐ見つめられ、ケーユーは思わず固まる。

「い、いきなりどうしたんですか」

「思ったから言った」

にこっと笑う。

その笑顔があまりにも無防備で、ケーユーは慌てて辺りを見回した。

幸い、周囲の狩人たちは酒盛りに夢中でこちらを見ていない。

「リュークさん。もう十分です」

「えーまだ飲める」

「駄目です」

ジョッキを取り上げようとすると、リュークは子どものように抱え込んだ。

「これは俺の」

「分かってますから」

「返して。あと一口だけ」

「駄目です」

ケーユーは苦笑しながらジョッキを取り上げる。

「むぅ……」

リュークは不満そうに唇を尖らせた。

その表情を見たケーユーは思わず吹き出す。

(こんな顔もするんだ……)

普段は冷静沈着で、戦場では誰よりも頼もしい。

そんなリュークの年相応な姿を知っているのは、自分だけだった。

「……部屋へ戻りましょう」

「んー……」

「歩けますか?」

「歩ける」

そう言って立ち上がった瞬間だった。

ふらり。

身体が大きく傾く。

「危ない!」

ケーユーは慌てて腕を掴む。

リュークは抵抗することもなく、そのままケーユーへ身体を預けた。

「……あったかい」

「リュークさん?」

「ケーユー、あったかい」

頬をすり寄せるように肩へ頭を乗せる。

ケーユーの心臓が跳ねた。

(ち、近い……!)

普段のリュークなら絶対にしない。

酒が完全に回っている。

「ほら、部屋へ行きますよ」

「んー」

「歩いてください」

「歩いてる」

「半分くらい私が支えてます」

「そうか?」

どこか楽しそうに笑う。

その笑顔は戦場で見せる鋭いものではない。

年相応の、無邪気な笑顔だった。

階段を上り、二階へ。

途中ですれ違った狩人が笑いながら声を掛けてくる。

「おう、新人!」

「もう潰れたのか!」

ケーユーは愛想笑いだけ返し、足早に通り過ぎた。

(駄目です……)

(この顔は誰にも見せたくない)

部屋へ入ると、静かに扉を閉める。

ようやく一息ついた。

「はい、ベッドです」

「ん……」

リュークは素直に腰を下ろした。

だが次の瞬間。

「ケーユー」

「はい?」

「今日はありがとう」

「……え?」

「楽しかった」

真っ直ぐ目を見つめながら言われる。

酔っているからなのか。

普段よりずっと素直だった。

「お前と旅に出て良かった」

その一言で、ケーユーの顔が一気に赤くなる。

「な、何を急に……」

「本当だ」

「一人だったら、多分こんなに笑ってない」

ケーユーは視線を逸らした。

胸が熱い。

鼓動が速い。

「そ、それは……私もです」

小さな声で答える。

「リュークさんと一緒だから、ここまで来られました」

リュークは満足そうに頷いた。

「うん」

それだけ言うと、ごろんとベッドへ横になる。

数秒後。

「すぅ……すぅ……」

静かな寝息が聞こえ始めた。

「……寝るのも早いんですね」

ケーユーは思わず笑ってしまう。

靴を脱がせ、剣を壁へ立て掛け、毛布を肩まで掛ける。

眠るリュークは、いつもの凛々しい表情ではない。

どこか幼く、安心しきった寝顔だった。

ケーユーはベッドの脇へしゃがみ込み、その寝顔をしばらく眺める。

「こんな顔……私しか知らないんでしょうね」

自然と笑みがこぼれる。

そっと前髪を整え、小さく呟いた。

「おやすみなさい、リュークさん」

返事はない。

規則正しい寝息だけが静かな部屋に響いていた。

その夜以来、ケーユーは心に決める。

――リュークがお酒を飲むときは、自分が必ずそばにいよう。

こんな無防備な姿を、誰にも見せたくなかったからだ。


翌朝。

窓から差し込む朝日が、部屋を柔らかく照らしていた。

リュークはゆっくりと目を覚ます。

「……」

頭が少し重い。

だが痛むほどではない。

昨日、初めて飲んだ酒。

そこまでは覚えている。

しかし、それ以降の記憶が曖昧だった。

「何があった……?」

眉をひそめていると、部屋の扉が静かに開く。

「おはようございます」

朝食を載せた盆を持ったケーユーが入ってきた。

いつも通りの穏やかな笑顔だった。

「おはよう」

リュークは起き上がる。

「昨日の俺は……どうなった?」

ケーユーは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。

「酔われました」

「それは分かる。そのあとだ」

ケーユーは少し考えるような仕草をしてから、優しく笑った。

「そのまま眠ってしまわれたので、お部屋までお連れしました」

「そうか」

リュークは胸を撫で下ろす。

「迷惑は掛けなかったか?」

「いいえ」

ケーユーは首を横に振る。

「何も問題ありませんでしたよ」

その笑顔が、妙に優しかった。

リュークは首を傾げる。

「……本当か?」

「本当です」

「何か隠していないか」

「隠していませんよ」

即答だった。

だが、その口元には小さな笑みが浮かんでいる。

(怪しい……)

リュークはじっと見つめる。

ケーユーは視線を逸らし、お茶を注ぎ始めた。

肩がほんの少し震えている。

笑いを堪えているようにも見えた。

「ケーユー」

「はい?」

「本当に何もなかったんだな?」

「ええ」

また優しく笑う。

「安心してください」

その笑顔を見ていると、逆に不安になってくる。

(絶対に何かあった)

しかし証拠がない。

問い詰めても、ケーユーは穏やかに微笑むだけだった。

結局、リュークは小さく息を吐く。

「……まあ、迷惑を掛けていないならいい」

「はい」

ケーユーは嬉しそうに頷いた。

(抱きついてきたり、『ありがとう』って何度も言ってくれたり……)

(そんなこと、教えません)

胸の中だけでそっと呟く。

あの無防備で甘えた姿は、自分だけが知っていればいい。

誰にも教えるつもりはなかった。

ケーユーはリュークへ温かなスープを差し出す。

「さあ、朝食にしましょう」

「今日は中層へ向かうんですから」

「ああ」

リュークはまだ少し怪訝そうな表情を浮かべながら頷いた。

その様子がおかしくて、ケーユーはまた小さく笑う。

もちろん、その理由は最後まで教えなかった。


朝食を終えると、二人は装備を整え始めた。

革鎧の留め具を締め直し、剣を腰へ差し、昨日買った解体用ナイフを確認する。

骨割り用の鉈、皮剥ぎ用の細身のナイフ、新しい背負子。

どれも使い込まれてはいないが、今日から二人の命を支える道具になる。

リュークは剣を鞘へ納めると、小さく息を吐いた。

「今日は昨日より奥まで行く」

「中層との境界付近までは様子を見たい」

「はい」

ケーユーは背負子へ道具を積み込みながら頷いた。

「昨日より解体は速くなりそうですね」

「骨割り用の鉈があるだけでかなり違う。皮ももっと綺麗に剥げるはずだ」

二人は宿を出た。

朝のヘンミュは既に活気に満ちている。

昨日とは違い、何人もの狩人が二人へ視線を向ける。

「あいつらだ」

「昨日の新人」

「百四十三匹狩ったっていう」

「今日はどこまで行くんだ?」

そんな声があちこちから聞こえてきた。

リュークは気にも留めず歩く。

「少し目立ちますね」

ケーユーが苦笑する。

「昨日の成果なら当然だ」

「すぐ飽きられる」

「そうでしょうか」

二人が城門へ向かって歩いていると、後ろから大きな声が飛んだ。

「おーい!」

振り返ると、昨日ギルドで見かけた白髪混じりのベテラン狩人が歩いてくる。

筋骨隆々の大男だ。

肩には巨大な木製棍棒がぶつけた跡の残る盾を背負っている。

「昨日の新人だな」

「はい」

「忠告だ」

男は真面目な顔になる。

「中層へ入るなら気を付けろ。浅層とは別世界だ」

「オーガは人間より速ぇし、トロールは首を落とさなきゃ何度でも立ち上がる」

「ハーピーは空から攫っていきて、トレントは普通の木と見分けが付かねぇ。それで新人が毎年何十人も死ぬ」

リュークは静かに頷いた。

「ありがとうございます。無理だと思ったら引き返します」

男は少しだけ笑う。

「その言葉を忘れるな。生きて帰れば、また酒が飲める」

そう言って去って行った。

ケーユーが小さく笑う。

「いい人でしたね」

「ああ」

リュークも頷く。

「強い人ほど忠告してくれる」

「そういうものなんだろう」

二人は城門を抜ける。

朝日が森を黄金色に照らしていた。

昨日よりも少しだけ足取りは軽い。

新しい道具。

十分な旅費。

そして、昨日より少しだけ強くなった自分たち。

リュークはスプルア山脈の森を見据え、剣の柄へ手を置いた。

「行こう」

「はい」

ケーユーは笑顔で頷く。

その笑顔の奥には、昨夜の出来事を思い出して少しだけ頬を緩める自分がいた。

もちろん、その理由をリュークが知ることはなかった。


森へ入って一時間。

昨日歩いた場所はすでに通り過ぎていた。

踏み固められた獣道も少なくなり、木々はさらに太く、高くなる。

枝葉が空を覆い隠し、昼間だというのに森の中は薄暗かった。

「昨日より静かですね」

ケーユーが声を潜める。

「ああ」

リュークも周囲へ目を配る。

「魔物の縄張りが変わったんだろう。浅層の奥だ。油断するな」

「はい」

二人は歩幅を揃えながら慎重に進む。

昨日とは違い、会話も少ない。

風が枝葉を揺らす音。

遠くで木が軋む音。

それだけが森へ響いていた。

突然。

ゴォンッ。

鈍い衝撃音が森の奥から響く。

何か巨大な物が木へぶつかったような音だった。

「聞こえましたか」

「ああ」

リュークは腰を低くする。

音の方向へゆっくり近付いていく。

やがて木々の隙間から広場が見えた。

そこでは十数人ほどの狩人たちが戦っていた。

相手は――。

「オークだ」

三体。

どれも二メートル半はある巨体。

灰色の筋肉質な身体。

腰へ獣皮を巻き、両手には人の胴ほどもある巨大な木製棍棒を握っている。

その一撃は人間など簡単に押し潰せそうだった。

「押されてます!」

ケーユーが息を呑む。

狩人たちは六人ほど倒れている。

立っている者も肩や腕から血を流していた。

一人の男が叫ぶ。

「駄目だ!」

「下がれ!」

その瞬間。

一体のオークが棍棒を振り上げた。

狙われた若い狩人は転倒し、立ち上がれない。

「まずい!」

リュークは地面を蹴った。

風が弾ける。

次の瞬間には、オークの目前まで踏み込んでいた。

棍棒が振り下ろされる。

リュークは半歩だけ身体をずらす。

轟音とともに棍棒が地面へめり込んだ。

土と石が四方へ飛び散る。

その勢いが止まるより早く。

リュークの剣が閃く。

ザンッ――。

銀色の軌跡が横一文字に走る。

オークの右腕が肩口から切り離され、宙を舞った。

「グオオオォォ!」

絶叫。

しかしリュークは止まらない。

踏み込み。

返す刃。

巨体の首を深々と斬り裂く。

一瞬遅れて首が滑り落ちた。

ドォンッ。

地面が揺れるほどの音を立て、オークは崩れ落ちる。

「なっ……!」

狩人たちが息を呑んだ。

「一撃……」

残る二体のオークが咆哮を上げる。

仲間を殺された怒りか、棍棒を振り回しながら同時に突っ込んできた。

「ケーユー!」

「はい!」

ケーユーはすぐさま横へ走る。

二体の注意が一瞬だけ分かれる。

その隙だった。

リュークは一体目の懐へ潜り込む。

棍棒が頭上を掠める。

風圧だけで髪が揺れた。

剣が斜めに振り上げられる。

右脇腹から左肩まで。

巨体が真っ二つに裂けた。

血飛沫が霧のように舞う。

残る一体が背後から棍棒を振り抜く。

「危ない!」

狩人が叫ぶ。

しかし。

ケーユーの左手が前へ突き出された。

「《風刃》!」

圧縮された風が一直線に走る。

オークは反射的に顔を背ける。

その一瞬、棍棒の軌道がわずかに逸れた。

十分だった。

リュークは身体を反転させる。

剣が稲妻のように閃く。

首。

肩。

胴。

三本の斬撃がほぼ同時に走った。

巨体は二歩、三歩とよろめき――崩れ落ちた。

森が静まり返る。

さっきまで響いていた怒号が嘘のように消える。

狩人たちは呆然と立ち尽くしていた。

誰一人、言葉を発することができない。

やがて年長の狩人がゆっくり口を開いた。

「……助かった」

その一言だけだった。

リュークは剣に付いた血を払い、静かに鞘へ納める。

「怪我人を先に。解体はその後です」

その落ち着いた声に、ようやく狩人たちは我に返った。

「あ、ああ!」

「回復薬だ!」

「腕を貸せ!」

狩人たちは慌てて仲間のもとへ駆け寄る。

肩を砕かれた男。

肋骨を折られた男。

脚を骨折した若い狩人。

幸いにも死者はいなかった。

あと一歩遅ければ、あの若者は棍棒で押し潰されていただろう。

年配の狩人が深々と頭を下げた。

「本当に助かった。礼を言う」

リュークは首を横へ振る。

「気にしないでください。同じ狩人です。困っていたら助けます」

その言葉に、男は驚いたような表情を浮かべた。

「普通はそうはいかねぇ。獲物の取り合いになることも多い。自分の命が一番だからな」

リュークは静かに答えた。

「目の前で死ぬ人を見捨てる趣味はありません」

男は数秒黙り込む。

やがて大きく笑った。

「違ぇねえ!若いのに立派なもんだ!」

周囲の狩人たちも笑顔になる。

緊張がようやく解けた。


一人の若い狩人が、おそるおそる近付いてきた。

まだ二十歳にも届いていないだろう。

先ほど助けられた青年だった。

「ありがとうございました。俺……死ぬと思いました」

リュークは青年の肩へ軽く手を置く。

「次は周りをよく見ろ。一体へ夢中になるな。魔物は一匹だけとは限らない」

青年は何度も頷いた。

「はい!勉強になります!」


その間に、ケーユーはオークの死体を眺めていた。

「リュークさん解体しますか」

「ああ」

リュークは頷く。

「せっかくだ見てもらおう」

新しく買った骨割り鉈を取り出す。

短刀で胸の中央へ切れ目を入れ、

鉈を胸骨へ当てる。

コンッ。

軽く打ち込む。

昨日まで苦労していた胸骨が、あっさりと左右へ割れた。

「速い……」

ケーユーが目を見開く。

「やっぱり専用の道具ですね。昨日の半分も掛からない」

胸郭を開く。

大きな心臓が姿を現した。

そのさらに頭側。

拳ほどもある赤黒い魔石が埋まっている。

「これがオークの魔石ですか」

「大きいな」

リュークは慎重に取り出す。

青白かったゴブリンの魔石とは違い、深い紅色だった。

周囲の狩人たちも集まってくる。

「綺麗な解体だ」

「新人とは思えねぇ」

「筋がいいな」

リュークは苦笑した。

「昨日一日やっただけです」

「昨日?」

男たちは顔を見合わせる。

「昨日始めてこれか?」

「飲み込みが早ぇ……」

今度はケーユーが二体目へ向かう。

皮膚を切り、胸骨を割り、魔石を取り出す。

昨日より明らかに手際が良かった。

「上達したな」

リュークが言う。

「昨日、たくさん練習しましたから」

「その成果です」

リュークは満足そうに頷いた。

「いい調子だ」

その一言だけで、ケーユーの表情がぱっと明るくなる。

年配の狩人がその様子を見て笑った。

「兄弟か?」

「いや」

リュークが答える。

「幼い頃から一緒に育った仲です」

「なるほどな」

男は納得したように頷く。

「息が合ってるわけだ」


解体が終わる頃には、負傷者の応急処置も終わっていた。

年配の狩人が革袋を差し出す。

「受け取ってくれ」

中には銀貨が入っている。

「助けてもらった礼だ」

リュークは袋を押し返した。

「受け取れません」

「どうしてだ?」

「魔石は私たちがいただきました。それで十分です」

男はしばらくリュークを見つめていた。

やがて豪快に笑う。

「はっはっは!気持ちのいい若者だ!なら今度ヘンミュで酒を奢らせろ!」

リュークも笑った。

「その時は遠慮なく」


年配の狩人たちと別れた後、リュークとケーユーはさらに森の奥へ足を進めた。

「助けて良かったですね」

ケーユーが荷車を押しながら言う。

「ああ」

リュークは頷く。

「助けられる命は助ける。それだけだ」

「リュークさんらしいです」

二人は再び静かな森を歩き始めた。

昼を過ぎると、木々はさらに密集し、光がほとんど届かなくなる。

空気までひんやりとしていた。

「……ここから先は」

ケーユーが周囲を見回す。

「中層との境ですね」

「ああ」

リュークは足を止めた。

地面には巨大な足跡が残っている。

人間の三倍近い大きさ。

踏み締められた土は深くえぐれ、周囲の草は押し潰されていた。

「オークでしょうか」

「いや」

リュークはしゃがみ込み、足跡を観察する。

「これは昨日見たオークより一回り大きい。オーガか」

その時だった。

ズシン。

ズシン。

地面が震える。

二人は同時に顔を上げた。

木々の向こうから、重い足音が近付いてくる。

一歩。

また一歩。

枝葉が大きく揺れた。

やがて一本の巨木を押し退けるように姿を現す。

身長は三メートルを超える。

全身を覆う赤黒い筋肉。

額から突き出た一本角。

右手には、人間の胴ほどもある巨大な木製棍棒を握っていた。

オーガ。

その黄色の瞳が二人を捉える。

「グオォォォォッ!!」

森全体を震わせる咆哮。

周囲の鳥が一斉に飛び立つ。

ケーユーは自然と剣を抜いた。

「これが……オーガ」

「思っていたより大きいですね」

リュークは静かに頷く。

「気を抜くな」

「オークとは別物だ」

オーガは棍棒を肩へ担ぐと、ゆっくりと歩き始める。

その歩幅は大きい。

三歩。

四歩。

距離が一気に縮まる。

そして突然だった。

ドンッ!!

地面を蹴った。

巨体とは思えない速度で一直線に突っ込んでくる。

「速い!」

ケーユーが目を見開く。

受付嬢の言葉は本当だった。

巨体に似合わない。

いや、巨体だからこその凄まじい踏み込み。

一瞬でリュークの目前まで迫る。

棍棒が唸りを上げて振り下ろされた。

ブォォォンッ!!

空気そのものが裂ける。

リュークは半歩だけ身体をずらした。

次の瞬間。

ドゴォォンッ!!

棍棒が地面へ叩き付けられる。

土が爆発し、小石が弾丸のように飛び散る。

地面には大人が寝転べるほどの大穴が開いていた。

「……重い」

リュークは静かに呟く。

まともに受ければ、鎧ごと押し潰される。

だが棍棒を振り下ろした瞬間こそ、最大の隙だった。

リュークは一気に懐へ潜り込む。

剣が閃く。

ザンッ!

右腕。

肩口から切り飛ばされた。

巨大な腕と棍棒が轟音を立てて地面へ転がる。

「グアアアアアッ!!」

オーガが絶叫する。

しかし倒れない。

残った左腕で殴り掛かってくる。

「まだ動くか」

リュークは一歩踏み込み直した。

返す刃。

銀色の軌跡が首筋を走る。

一瞬の静寂。

やがて。

ゴトリ。

巨大な首が地面へ落ちた。

胴体は数歩よろめき、木々を何本もなぎ倒しながら崩れ落ちる。

ズゥゥン……。

森が大きく揺れた。

静寂が戻る。

ケーユーはゆっくり息を吐いた。

「……終わりましたね」

「ああ」

リュークは剣を鞘へ納める。

「だが」

オーガの巨体を見下ろし、小さく笑った。

「ここからが、本当の仕事だ」

ケーユーも苦笑する。

「また解体ですね」

「今度は大仕事だ」


解体が終わる頃には、すでに夕方が近付いていた。

「思った以上に時間が掛かったな」

リュークは腰を伸ばく。

ケーユーも肩を回しながら苦笑した。

「オーガ一体でこれですからね。サイクロプスなんて想像もできません」

「その時になれば分かる」

リュークは笑う。

「今日はこれで帰ろう。あまり遅くなると危ない」

「ええ」

二人は持ってきた背負子を地面へ下ろした。

丈夫な木枠で組まれた狩人用の背負子だ。

オーガの角、魔石、牙、爪。

売れる素材を丁寧に縄で固定していく。

「重いですね」

ケーユーが背負子を持ち上げようとして苦笑する。

「これは……昨日とは比べ物になりません」

「無理するな」

リュークは自分の荷を背負うと、ケーユーの背負子へも手を伸ばした。

「少し分けよう」

「大丈夫です」

「鍛えるためにも、自分で運びます」

リュークは一瞬だけ考え、頷いた。

「分かった」

「だが、無理だと思ったらすぐ言え」

「はい」

二人は背負子を背負い直す。

ずっしりとした重みが肩へ食い込んだ。

森を歩くたび、角や牙がかすかに音を立てる。

「狩るより運ぶ方が疲れますね」

ケーユーが息を吐く。

「その通りだ」

リュークも苦笑した。

「狩人というのは、最後まで仕事だな。解体して終わりじゃない。街へ持ち帰って、ようやく終わりだ」

二人は肩へ食い込む重みに耐えながら、夕日に染まる森をゆっくりと歩き始めた。


ヘンミュへ戻った頃には、空は赤く染まり始めていた。

門番が二人へ気付き、笑いながら近付いてくる。

「今日は何を背負って帰ってきた?」

そう言って背負子を見るなり、表情が固まった。

「……おい」

隣の門番を呼ぶ。

「見てみろ」

もう一人の門番も近付き、目を見開いた。

「オーガの角じゃねえか!」

「まさか……」

「中層へ行ったのか?」

「少しだけです」

リュークは静かに答える。

「運よく一体だけでした」

門番は呆れたように笑う。

「運よく、だと?普通の狩人なら『運悪く』オーガに遭うんだよ。新人がその日に帰って来る相手じゃねえ」

門番は大きくため息をつき、城門を開けた。

「ギルドがまた大騒ぎになるぞ」

二人は顔を見合わせ、小さく笑う。

背負子を担ぎ直し、そのまま狩人ギルドへ向かった。


狩人ギルドの重い扉を押し開ける。

ギィ――。

軋んだ音がホールへ響いた。

「いらっしゃ――」

受付嬢が顔を上げる。

そのまま言葉が止まった。

背負子には、巨大な一本角。

赤黒く輝く拳大の魔石。

太い牙。

そしてオーガの素材が縄で丁寧に固定されている。

受付嬢は目をぱちぱちと瞬かせた。

「……え?」

周囲にいた狩人たちも視線を向ける。

「またあの新人だ」

「今日は何を持ってきた?」

一人が近付く。

背負子を見る。

数秒、固まった。

「……オーガ?」

その一言でギルド中が静まり返った。

「嘘だろ」

「新人が?」

「中層へ行ったのか?」

「いや、素材が本物だぞ」

受付嬢は慌てて査定台を空けた。

「こちらへお願いします!」

二人は背負子を降ろす。

ドスン。

重い音が床へ響く。

受付嬢は慎重に素材を確認し始めた。

まず一本角。

傷一つない。

次に魔石。

光へかざす。

深紅の輝き。

純度も高い。

「……すごい」

思わず漏れた。

「こんな綺麗な魔石、久しぶりに見ました」

牙。

爪。

どれも欠けがほとんどない。

「解体されたのは……」

「私です」

リュークが答える。

受付嬢は驚いたように顔を上げた。

「まだ二日目ですよね?」

「はい」

「信じられません……」

帳簿を書きながら苦笑する。

「普通は一年やっても、ここまで綺麗に取れませんよ」

ケーユーが嬉しそうにリュークを見る。

リュークは少し照れくさそうに頭を掻いた。

「本で勉強しました」

「本だけでここまで……」

受付嬢は半ば呆れていた。

・・・

その時だった。

二階へ続く階段から、ゆっくりと足音が響く。

コツ。

コツ。

コツ。

ホール中の狩人が振り向いた。

「ギルド長だ」

「クードュさん」

白髪混じりの短い髪。

日に焼けた顔。

左頬には古い刀傷。

六十近い年齢とは思えないほど大きな体躯だった。

ギルド長クードュは背負子の前まで歩いてくる。

無言で素材を見る。

魔石を手に取る。

角を撫でる。

そして静かに頷いた。

「間違いなくオーガだ」

低い声が響く。

ギルド中が静まり返る。

クードュはリュークを見る。

「名前は」

「リュークです」

「そっちは」

「ケーユーです」

クードュは二人をしばらく見つめた。

その目は鋭い。

戦場で何百人もの人間を見てきた者の目だった。

「オーガは一体か」

「はい」

「苦戦したか」

リュークは少し考えた。

「棍棒は重かったです。まともに受ければ危険でしたが隙は大きかったので」

クードュは口元をわずかに緩める。

「なるほど」

短い返事だった。

しかし、その一言だけで十分だった。

「査定を続けろ」

受付嬢が頷く。

「はい!」

算盤を弾く。

素材を書き込む。

魔石。

角。

牙。

爪。

すべて計算し終える。

受付嬢は帳簿を閉じた。

「合計……」

周囲の狩人たちも固唾を飲んで見守る。

「一トッカダ金貨と百九十八ニピエになります」

「おお……」

あちこちから感嘆の声が漏れる。

オーガ一体だけでこれほどの金額になる。

それだけ危険な魔物なのだ。

リュークは静かに頷いた。

「ありがとうございます」

受付嬢が革袋を差し出そうとした、その時だった。

クードュが口を開く。

「待て」

再びホールが静まり返る。

クードュは真っ直ぐリュークを見据える。

「査定が終わったら、二階へ来い。話がある」

ギルド中の狩人たちがざわめいた。

「ギルド長が直接?」

「新人を?」

「何の話だ?」

リュークは一瞬だけケーユーを見る。

ケーユーも首を傾げていた。

「……分かりました」

リュークは静かに答えた。

クードュはそれだけ聞くと踵を返し、再び二階へと上がっていく。

重い足音が遠ざかるまで、誰一人として口を開かなかった。


リュークは受付嬢から革袋を受け取った。

中には金貨一枚と、大量のニピエ銀貨が入っている。

銀貨同士が触れ合い、心地よい音を立てた。

「確かに受け取りました。ありがとうございます」

受付嬢は笑顔で頷く。

リュークは軽く会釈すると、二階へ続く階段へ向かった。

その後ろをケーユーが続く。

階段を上る途中でも、下から多くの視線を感じた。

「あの二人だ」

「ギルド長に呼ばれたぞ」

「何の話だ?」

「引き抜きか?」

「いや、そんな訳ないだろ」

ざわめきは二人が見えなくなるまで続いていた。


二階は一階とはまるで別世界だった。

酒場の喧騒も届かない。

長い廊下が静かに伸び、その両側には木製の扉が並んでいる。

壁には歴代ギルド長の肖像画。

魔物の角。

巨大な牙。

歴戦の狩人たちが仕留めた獲物が飾られていた。

ケーユーが小声で言う。

「一階とは雰囲気が違いますね」

「ああ」

廊下の突き当たり。

他の部屋より一回り大きな扉があった。

金属製の銘板には、

ギルド長室

そう刻まれている。

リュークは軽く扉を叩いた。

コンコン。

「入れ」

低く落ち着いた声が返ってきた。

扉を開ける。

部屋の中は質素だった。

大きな机。

本棚。

壁にはスプルア山脈一帯の詳細な地図。

その中央には無数の木札が刺さっている。

討伐地点なのだろう。

机の向こうでは、クードュが腕を組んで座っていた。

「座れ」

二人は椅子へ腰を下ろす。

クードュはしばらく黙って二人を見つめていた。

その沈黙だけで、部屋の空気が張り詰める。

やがて口を開いた。

「まず聞く。お前たちは本当に新人か」

「はい」

リュークは迷わず答えた。

「狩人としては今日で二日目です」

「……そうか」

クードュは小さく息を吐いた。

「新人とは、とても信じられん」

リュークは苦笑する。

「狩りは初めてですが、剣は幼い頃から教わっていました」

「誰にだ」

「父です」

「騎士だったのか」

一瞬だけ間が空く。

「昔、戦場にいたことはあります」

それだけ答えた。

クードュはリュークの顔を見つめる。

それ以上は聞かれたくない――そんな空気を察したのだろう。

「……そうか」

静かに頷く。

クードュは静かに頷く。

「理由は聞かん。人には事情がある。だが、お前たちの腕は本物だ」

そう言って立ち上がる。

壁へ掛けられた地図の前へ歩いた。

一枚の木札を指差す。

「ここだ」

ヘンミュの南東。

スプルア山脈へさらに深く食い込む位置。

そこには一つの都市が描かれていた。

グルブスグウア自由都市。

「ここから早馬が来た」

クードュの声が低くなる。

「ワイバーンの群れが現れすでに被害が出ている。討伐隊も何度か出したが、数が多すぎて押し返せていない」

部屋の空気が一気に重くなった。

リュークは地図を見つめる。

「何匹ですか」

「およそ五十」

ケーユーが息を呑んだ。

「そんな数……普通の狩人では無理だ」

クードュも頷く。

「だから各地へ応援を求めている。ヘンミュにも正式な救援要請が届いた」

リュークは静かに地図から目を離した。

「……ワイバーン」

その名を聞いた瞬間。

胸の奥が締め付けられる。

東棟。

炎。

血。

母の最期。

脳裏へ鮮明に蘇る。

無意識に拳を握り締めていた。

その小さな変化を、隣に座るケーユーだけは見逃さなかった。

ケーユーは横目でリュークを見る。

拳を握り締めている。

表情は変わらない。

だが、長年一緒にいた彼には分かった。

母のことを思い出している。

「リュークさん」

小さく呼び掛ける。

リュークはゆっくりと息を吐いた。

「……大丈夫だ」

そう答えたものの、胸の奥の痛みは消えない。

リュークは目を閉じ、一度だけ深呼吸する。

そして、ゆっくりと顔を上げた。

迷いは消えていた。

「一度だけワイバーンは倒したことがあります」

クードュの眉がわずかに動く。

「ほう」

「単独でか」

「はい」

「……そうか」

それ以上は聞かなかった。

聞く必要もない。

リュークの表情だけで、その戦いがどれほど重いものだったか伝わってきたからだ。

ケーユーが静かに口を開く。

「私も行きます」

「もちろんだ」

リュークは笑う。

「一人じゃ行かない」

その言葉に、ケーユーも微笑んだ。

クードュは二人を見つめ、小さく頷く。

「話が早いな」

机の引き出しから、一通の封蝋付きの羊皮紙を取り出した。

封蝋には、ヘンミュ狩人ギルドの紋章が刻まれている。

「紹介状だ。これを持ってグルブスグウア自由都市のギルドへ行け。向こうのギルド長へ宛ててある」

リュークは丁寧に受け取った。

「分かりました」

クードュはさらに地図を指差す。

「ヘンミュから南東へ三日。山道を越えれば見えてくる。ただし」

指先が赤い印の付いた場所で止まる。

「この辺りからワイバーンの目撃情報が増えている。気を付けろ」

「はい」

リュークは力強く頷いた。

「……それと」

クードュは椅子へ座り直す。

「報酬の話だ」

リュークは首を傾げた。

「聞かなくていいのか」

「あ」

少し考える。

「……そうでした」

思わず苦笑する。

ケーユーも横で笑った。

「リュークさんらしいですね」

クードュは豪快に笑う。

「はっはっは!命懸けの依頼で報酬を忘れる奴は初めて見た!」

笑い終えると、真剣な顔へ戻る。

「討伐に成功したらアダマンタイトのインゴットを一つ渡す」

その瞬間、部屋の空気が止まった。

「……アダマンタイト?」

リュークが思わず聞き返す。

「本物ですか」

「ああ。グルブスグウアのギルドの秘蔵品だ。それだけ困っているらしい」

ケーユーも驚きを隠せない。

「そんな物が……」

リュークは少し考え、口を開いた。

「ですが人族に鍛えられる鍛冶師はいるんですか」

クードュは首を横へ振る。

「少なくとも、俺は知らん。打てるのはドワーフだけだ。ドワーフ王国へ行け」

その一言で、リュークの胸が高鳴る。

世界最高の鍛冶師。

ドワーフ。

一度は訪れてみたいと思っていた国だった。

「……面白い」

小さく笑う。

「この依頼受けます」

クードュは満足そうに頷いた。

「決まりだな」

こうして二人は、ヘンミュを旅立って以来、初めて正式な大規模依頼を受けることになった。


ギルド長室を出ると、二人はしばらく無言で廊下を歩いた。

扉が閉まる音が背後で響く。

階段を下り、一階の喧騒が聞こえてきても、どちらも口を開かなかった。

やがてギルドの外へ出る。

夕暮れの風が火照った頬を撫でた。

リュークは空を見上げる。

赤く染まった雲がゆっくりと流れていた。

「……ワイバーンか」

静かな声だった。

ケーユーが隣へ並ぶ。

「大丈夫ですか」

「分からない」

リュークは正直に答えた。

「戦うことは怖くない」

「だが、あの日を思い出す」

東棟。

燃え上がる屋根。

崩れ落ちる柱。

血の匂い。

そして。

動かなくなった母。

「あの時の俺は弱かった」

「母上を守れなかった」

ケーユーは何も言わない。

ただ静かに隣を歩く。

リュークは拳を握った。

「ワイバーンも過去も全部乗り越える」

ケーユーはようやく口を開いた。

「一人じゃありません」

「え?」

「今回は私もいます」

その一言だけだった。

リュークは少しだけ笑った。

「ああ」

「そうだったな」

「一人じゃない」

二人は宿へ向かって歩き出す。


宿へ戻ると、主人が二人を見るなり笑顔になった。

「帰ったか!」

「今日はまた大物を仕留めたそうじゃないか!」

「もう噂になってるんですか」

ケーユーが驚く。

「当たり前だ!」

主人は豪快に笑う。

「ヘンミュじゃ、オーガ討伐なんて半日で街中へ広まる!」

「今夜は腕によりを掛けて料理を作ってやる!」

「ありがとうございます」

二人は席へ着いた。

しばらくすると、大皿が次々と運ばれてくる。

香草を利かせた猪肉のロースト。

焼きたての黒パン。

野菜の煮込み。

焼き茸。

そして大きな木製ジョッキに入ったビール。

リュークはジョッキを見つめた。

昨日の記憶がない。

そのことだけは、妙に引っ掛かっていた。

「……」

ケーユーがその視線に気付き、にこりと笑う。

「今日はやめておきますか?」

リュークは少し考える。

そして静かに首を振った。

「いや」

「昨日は負けた気がする」

「今日は負けない」

ケーユーは思わず吹き出した。

「お酒に勝ち負けはありませんよ」

「ある」

真剣な顔で答える。

「今日は酔わない」

「ほどほどにしてくださいね」

「分かってる」

そう言ってジョッキを持ち上げる。

「ワイバーン討伐に」

「乾杯」

「乾杯」

コツン。

ジョッキが触れ合う。

リュークは昨日よりゆっくりと口へ運ぶ。

一口。

二口。

三口。

「……」

ケーユーはじっと観察していた。

「どうです?」

「昨日より苦くない」

「慣れましたか?」

「少しだけ」

そう言って肉を頬張る。

二人は他愛もない話をしながら食事を続けた。

そして三十分後。

リュークがぽつりと呟く。

「ケーユー」

「はい」

「……眠い」

ケーユーは一瞬だけ目を閉じた。

(やっぱり弱い……)

口元を押さえ、笑いを堪える。

「今日はこの辺にしておきましょう」

「そうだな……」

リュークは素直に頷いた。

昨日ほどではない。

だが頬はほんのり赤くなり、どこか表情も柔らかい。

ケーユーは心の中で小さく笑う。

(今日はまだ大丈夫ですね)

(昨日ほど甘えん坊にはなっていません)

そう思いながら、そっとリュークを自分の方へ寄せた。

リュークはそれに何も言わない。

少し眠そうに目をこすりながら、静かに食事を続けるのだった。


翌朝。

まだ朝靄が街を包む頃、リュークとケーユーは宿を出た。

背負子には四日分の保存食。

黒パン。

干し肉。

水袋。

最低限の調理道具。

そして剣と解体道具。

ワイバーン討伐のため、しばらくヘンミュへ戻ることはない。

宿の主人が店先まで見送りに出てきた。

「もう出るのか」

「ああ」

リュークは頷く。

「グルブスグウア自由都市へ向かう」

主人の表情が少し曇った。

「あそこか……。最近は毎日のようにワイバーンが現れるって話だ。気を付けろよ」

「ありがとうございます」

二人は頭を下げた。

「必ず戻ります」

主人は笑った。

「その言葉が聞けりゃ十分だ。帰ってきたらまた旨い飯を食わせてやる」

「ああ」

リュークも小さく笑った。

「楽しみにしている」


ヘンミュ南東門。

朝早いにもかかわらず、多くの兵士が城壁の上を行き来していた。

監視塔では双眼鏡代わりの青銅製望遠鏡を覗く兵士の姿も見える。

ワイバーンの襲撃に備えているのだ。

門番が二人を見る。

「もう出発か」

「はい」

リュークは封蝋の付いた紹介状を見せる。

ヘンミュ狩人ギルドの紋章。

門番は一目見て頷いた。

「グルブスグウア行きだな。道中、気を付けろ。ここ数日、街道でもワイバーンが目撃されている」

「昼でもですか」

ケーユーが尋ねる。

「ああ」

門番は真剣な表情で頷いた。

「空だけ見るな。奴らは崖や山肌へ張り付き、上空から急降下してくる。木の陰も油断するな」

「分かりました」

二人は礼を言い、門をくぐる。


ヘンミュを離れると、街道は次第に細くなっていった。

両側には針葉樹の森。

さらにその向こうには、黒々としたスプルア山脈が連なっている。

その姿は圧倒的だった。

「近いですね」

ケーユーが山を見上げる。

「ヘンミュから見た時より、ずっと大きく感じます」

「ああ」

リュークも視線を上げた。

「グルブスグウアは、もっと山に近い。つまりワイバーンの縄張りにも近い」

二人は自然と周囲への警戒を強める。

街道には旅人の姿が少ない。

時折すれ違うのは、武装した隊商や騎士だけだった。


ヘンミュを発って三日。

街道は次第に険しさを増していった。

左右には切り立った岩壁。

その向こうには、スプルア山脈の黒い峰々が幾重にも連なっている。

空を見上げれば、時折、大きな影が遠くを横切る。

鳥ではない。

ワイバーンだ。

「遠いですね」

ケーユーが空を見上げる。

「ああ」

リュークも目を細める。

「まだこちらには気付いていない。高度も高いが近付けば話は別だ」

二人は街道脇の森へ身を隠しながら進む。

不用意に開けた場所へ出ることは避けた。

ワイバーンは空から獲物を探す。

見付かれば、一気に急降下してくる。

その日の夕方。

山を回り込んだ瞬間だった。

遠くに石造りの巨大な城壁が見えた。

「あれが……」

ケーユーが息を呑む。

「グルブスグウア自由都市」

ヘンミュほどではないが十分に大きい都市だった。

高い城壁。

見張り塔。

城壁の上では弓兵たちが絶えず空を警戒している。

だが街には活気がなかった。

市場は閉まり、城門の外には荷馬車がほとんどない。

まるで町全体が息を潜めているようだった。


城門へ近付く。

門番が槍を構えた。

「止まれ!」

「何者だ!」

リュークは紹介状を取り出す。

「ヘンミュ狩人ギルドより参りました」

門番は封蝋を見るなり、顔色を変えた。

「応援か!」

「そうです」

門番はすぐに部下へ叫ぶ。

「ギルドへ知らせろ!」

「ヘンミュから応援が来た!」

城門がゆっくり開く。

二人は都市へ入った。


街の様子は異様だった。

通りに人はいる。

しかし皆、空を気にして歩いている。

屋根には大きな穴が開いた家もあった。

焼け焦げた建物。

崩れた倉庫。

巨大な爪痕が石壁へ刻まれている。

「酷いですね」

ケーユーが小さく呟く。

「ああ」

リュークは焼け跡を見つめる。

「襲撃を何度も受けている」

そこへ鐘が鳴った。

カン!

カン!

カン!

街中へ緊張が走る。

「空だ!」

「ワイバーンだ!」

誰かが叫ぶ。

住民たちは一斉に建物へ駆け込む。

商人は商品を放り出し、

子どもを抱えた母親が泣きながら走る。

門番たちは弓を構えた。

リュークも反射的に空を見上げる。

黒い影。

「十匹……」

一直線に街へ向かって滑空してくる。

ワイバーンだった。

巨大な翼を広げ、鋭い鉤爪を光らせながら一気に高度を下げる。

「来る!」

ケーユーが剣を抜く。

門番たちは青ざめていた。

「多すぎる!」

「防ぎ切れん!」

その瞬間リュークは静かに左手を前へ突き出した。

「下がっていてください」

門番たちは思わず振り返る。

「何を――」

最後まで言わせなかった。

リュークの周囲へ青白い魔力が渦を巻く。

十本いや、それ以上。

透明な槍が空中へ次々と現れた。

「《水槍》」

その一言と同時に。

ドンッ!!

十本の水槍が空へ向かって一直線に撃ち出された。

まるで青い流星だった。

一匹目。

胸を貫く。

二匹目。

首を貫通。

三匹目。

翼を貫き、そのまま心臓まで達する。

空中で次々と血飛沫が舞う。

四匹。

五匹。

六匹。

七匹。

八匹。

九匹。

十匹。

わずか数秒。

空を覆っていたワイバーンは、一匹残らず地面へ墜落した。

ドォン!!

ドォン!!

ドォォン!!

巨大な死体が街の外へ次々と叩き付けられる。

鐘の音だけが虚しく響いていた。

街中が静まり返る。

誰一人、声を出せない。

門番は弓を構えたまま固まっていた。

「……え?……終わったのか?」

一人が震える声で呟く。

もう一人が恐る恐る城壁の上から外を覗く。

そこには、巨大な翼を広げたワイバーンの死体が十体、折り重なるように倒れていた。

どれも胸や首を正確に貫かれている。

一撃だった。

「ほ、本当に全部……」

城壁の上から歓声が上がる。

「助かった!」

「街が助かったぞ!」

避難していた住民たちも恐る恐る建物から顔を出した。

「もう大丈夫なの?」

「ワイバーンは?」

「全部倒れています!」

その言葉が街中へ広がる。

やがて一人また一人と通りへ出てきた。

誰もが空を見上げる。

もう黒い影はない。

ようやく皆が安堵の息を漏らした。


その時だった。

「おい!」

鎧姿の男が馬で駆け寄ってくる。

五十代ほどだろう。

胸にはグルブスグウア自由都市の紋章。

後ろには十数人の騎士が続いていた。

男は馬から飛び降りる。

「誰が討った!」

門番が震える手でリュークを指差した。

「こ、この二人です!」

男は驚いた表情でリュークを見る。

「二人だけだと?」

「ヘンミュ狩人ギルドから参りました」

リュークは紹介状を差し出した。

男は封蝋を確認すると、すぐに姿勢を正す。

「私はグルブスグウア市長、ゼットンだ。応援、感謝する」

リュークは首を横に振った。

「まだ終わっていません」

「え?」

リュークは山脈の方角を見つめた。

「この十匹は偵察でしょう。群れがいるはずです」

ゼットンの表情が引き締まる。

「その通りだ。斥候の報告では、およそ四十匹。街から半日ほどの岩山へ巣を作っている」

ケーユーが地図を広げる。

「ここですね」

ヴァルグは頷く。

「何度も討伐隊を送ったが近付く前に空から襲われる」

リュークは静かに地図を見つめる。

「なるほど。だから街へ来た個体だけ倒しても意味がない」

ゼットンは頷いた。

「その通りだ。だが四十匹だぞ。普通の狩人ではどうにもならん」

リュークはケーユーを見る。

「どう思う」

ケーユーは少し考えてから答えた。

「街へ来た十匹は問題ありませんでした。なら残りも数が多いだけです」

リュークは微笑んだ。

「同意見だ」

ヴァルグは二人を見比べる。

「……本気で言っているのか」

「はい」

リュークは即答した。

「明日の朝、巣を叩きます」

周囲の騎士たちはざわめいた。

「二人で?」

「四十匹だぞ!」

「無茶だ!」

リュークは静かに首を振る。

「数が多いだけです。一度に相手をしなければ問題ありません」

その落ち着いた声には、一切の迷いがなかった。

ゼットンはしばらく黙っていた。

やがて苦笑する。

「ヘンミュのギルド長が推薦する理由が分かった。好きにやってみろ」

リュークは静かに頷いた。

「承知しました」

だが、その瞳はすでに岩山の方角を見据えていた。


翌朝。

まだ太陽が山の向こうから顔を出す前。

リュークとケーユーは静かにグルブスグウア自由都市を出発した。

見送りはゼットンとその供回りだけだった。

「案内は付けよう」

ゼットンが申し出る。

しかしリュークは首を横に振った。

「必要ありません。巣の位置は教えていただきました。それだけで十分です」

「……そうか」

ヴァルグは少し迷った末、小さく頷いた。

二人は山道へ入っていく。


スプルア山脈は想像以上に険しかった。

切り立った岩壁。

崩れやすい足場。

谷底から吹き上がる冷たい風。

木々も少なく、身を隠す場所はほとんどない。

二時間ほど歩いた頃。

リュークが足を止めた。

「着いた」

目の前には切り立った断崖がそびえていた。

高さは百メートルを優に超える。

その中腹には黒い穴が幾つも口を開けている。

「洞窟……」

ケーユーが息を呑む。

「全部、巣ですか」

「ああ」

リュークは静かに頷いた。

そして岩陰へしゃがみ込む。

「まだ見付かっていない。今のうちだ」

二人は崖を観察する。

洞窟は大小合わせて十ほど。

その周囲にはワイバーンが翼を休めていた。

岩棚で眠るもの。

羽繕いをするもの。

空へ飛び立とうとしているもの。

ざっと数えて四十匹以上。

「多いですね」

ケーユーが小さく呟く。

「ああ」

リュークの視線は一点を見つめていた。

洞窟の最も奥。

他より二回りほど大きな個体がいる。

翼を畳んでいても、その身体は他のワイバーンより明らかに大きい。

首には古傷。

左翼の膜も一部裂けていた。

「群れの長か」

「おそらく」

リュークはゆっくり立ち上がる。

「ケーユー」

「はい」

「少し離れろ」

「……分かりました」

ケーユーはすぐ後方の岩陰へ下がる。

何をするのかもう理解していた。

リュークは両足をしっかり地面へ付ける。

右手をゆっくり前へ突き出した。

周囲の空気が震え始める。

風が渦を巻く。

砂利が浮き上がる。

魔力だった。

膨大な魔力が右腕へ集まり始める。

ケーユーは思わず息を呑む。

(ここまでの魔力……)

(今までで一番だ)

空気が唸る。

地面が震える。

遠くのワイバーンたちも異変に気付き始めた。

一匹また一匹と顔を上げる。

「ギャアアア!」

警戒の鳴き声。

群れ全体が騒ぎ始める。

だがもう遅い。

リュークは静かに呟いた。

「《炎嵐》」

次の瞬間、轟音とともに巨大な炎の渦が生まれた。

それはまるで火山の噴火だった。

紅蓮の嵐が山肌を飲み込みながら一直線に巣へ突き進む。

ワイバーンたちは一斉に飛び立とうとするが間に合わない。

炎の嵐は洞窟ごと飲み込み、岩肌を焼き砕きながら駆け抜けた。

ドォォォォォォン!!

山全体が激しく揺れる。

巨大な爆発音が谷へ何度も反響した。

洞窟は崩れ落ち、岩壁は砕け、紅蓮の炎が空高く噴き上がる。

飛び立ったワイバーンも、炎へ飲み込まれていく。

断末魔の悲鳴が山へ響いた。

「ギャアアアアアッ!」

「ギィィィィ!」

やがてすべての声が消えた。

炎だけが燃え続けている。

ケーユーは言葉を失っていた。

目の前にあった巣は、跡形もなく消えていた。

岩壁そのものが崩れ落ち、巨大な瓦礫の山へ変わっている。

リュークは静かに魔法を解き、ゆっくりと息を吐いた。

「……終わった」

その一言だけが、静まり返った山へ響いた。

ケーユーはただ、その光景を見つめていた。

「……すごい」

思わず漏れた一言だった。

リュークは荒い息を整えながら炎を見つめる。

「あれだけ魔力を使ったのは初めてだ」

額には汗が滲んでいた。

魔力切れではない。

だが、身体の奥から力が一気に抜けていく感覚がある。

「大丈夫ですか」

ケーユーが駆け寄る。

「問題ない」

リュークは笑う。

「まだ剣は振れる」

「それなら安心しました」

しかし二人とも警戒は解かない。

これほどの爆音だ。

生き残りがいれば、必ず飛び出してくる。

十分。

二十分。

谷には炎の燃える音しか響かない。

やがてリュークは立ち上がった。

「行こう。確認する」

「はい」

二人は慎重に崩れた岩場へ近付く。

辺りには焦げた臭いが立ち込めていた。

巨大な岩が崩れ、巣穴は完全に埋まっている。

ところどころにワイバーンの翼や爪が岩の隙間から見えていた。

「……全滅ですね」

ケーユーが静かに言う。

「ああ」

リュークは周囲を見回す。

「生きている気配はない」

その時だった。

ガラッ。

小さく岩が崩れる音。

二人は同時に振り向いた。

瓦礫の奥から、一匹のワイバーンが這い出してくる。

全身は焼け焦げ、

左翼は半ば千切れ、

右目も潰れている。

それでも獣の執念だけで前へ進んでいた。

「ギィィ……」

弱々しい鳴き声。

それでも敵意だけは消えていない。

リュークはゆっくり剣を抜く。

ワイバーンも最後の力を振り絞り、飛び掛かろうとした。

しかしその動きはあまりにも遅い。

リュークは静かに一歩踏み込む。

銀色の刃が一閃した。

ザシュッ。

首が宙を舞う。

今度こそ、本当に終わった。

リュークは剣の血を払い、鞘へ納める。

「これで終わりだ」

ケーユーは大きく息を吐いた。

「街は助かりましたね」

「ああ」

リュークは空を見上げる。

青空だった。

三日前、街の人々が怯えながら見上げていた空。

今は一匹の影も飛んでいない。

「帰ろう。報告しないと」

「はい」

二人は来た道を引き返す。

谷を下り、山道を歩く。

昼を過ぎる頃には、グルブスグウア自由都市の城壁が見えてきた。

その時、見張り台の兵士が二人へ気付く。

「あっ!」

「帰ってきたぞ!」

城門が大きく開く。

兵士たちが次々と外へ駆け出してくる。

「どうでした!」

「群れは!」

リュークは静かに答えた。

「討伐しました」

その一言で、その場にいた全員が息を呑んだ。

「……全部?」

「はい」

「巣ごと壊しました」

兵士たちは顔を見合わせる。

そして次の瞬間、大歓声が上がった。

「ワイバーンがいなくなった!」

「街は救われた!」

歓声は城壁の上へ伝わり、やがて街中へ広がっていく。

窓が開き、人々が顔を出す。

市場の人々が空を見上げる。

子どもたちが飛び跳ねる。

誰もが笑顔だった。

リュークはその光景を静かに見つめる。

胸の奥の重い痛みは消えていない。

母は戻らない。

それでも。

「……少しだけ」

小さく呟く。

「今度は、守れたかな」

その声は歓声にかき消され、ケーユーにしか聞こえなかった。

ケーユーは何も言わず、小さく頷いた。


歓声はいつまでも止まなかった。

「万歳!」

「狩人様、ありがとう!」

城門の前はあっという間に人で埋め尽くされる。

商人。

職人。

兵士。

老人。

子ども。

誰もが笑顔だった。

昨日まで閉ざされていた店の扉が次々と開く。

市場にも活気が戻り始める。

「本当に……終わったんだ」

誰かが涙を流していた。


そこへ、ゼットン市長が騎士たちを従えて現れた。

「リューク!」

「ケーユー!」

二人の前まで来ると、深く頭を下げる。

市長が人前で頭を下げた。

周囲がざわつく。

「ゼットン様!おやめください!」

しかしゼットンは顔を上げない。

「礼を言わせてくれ」

「この街は、お前たちに救われた」

リュークは慌てて首を振る。

「頭を上げてください」

「私たちは依頼を果たしただけです」

ゼットンはゆっくり顔を上げる。

その目には安堵が浮かんでいた。

「それでも礼は礼だ」

「ありがとう」


ゼットンは二人を見渡した。

「今日は街を挙げて祝いを開く。ぜひ出席してほしい」

リュークはケーユーと顔を見合わせた。

市長であるヴァルグが穏やかに笑った。

「一晩くらい構わんだろう。街を救ってくれた恩人に、礼も言わず帰すわけにはいかん」

そこまで言われて断る理由はなかった。

リュークは頭を下げる。

「……分かりました。お招きいただき、ありがとうございます」

ヴァルグは満足そうに頷いた。

「決まりだ。今夜は存分に飲んで食べてくれ」


日が沈む頃には、広場は祭りのような賑わいとなっていた。

長机が何列も並べられ、焼き上げられた猪肉や鹿肉、大鍋いっぱいの煮込み料理、焼きたての黒パン、樽から注がれるビール。

街の人々は笑い合い、歌い、子どもたちは広場を走り回る。

「英雄だ!」

「乾杯!」

何度も杯を勧められ、リュークとケーユーは苦笑しながら応じた。

宴も終わりに近づいた頃。

ヴァルグが広場の中央へ進み出る。

「皆、静かに」

歓声が止み、人々の視線が集まった。

ヴァルグはリュークたちへ向き直る。

側にいた職員が、布に包まれた細長い荷を運んできた。

布を外す。

深い赤い光を放つ金属。

アダマンタイトのインゴットだった。

「これはグルブスグウア自由都市からの謝礼だ。街を救ってくれた英雄へ贈る。」

周囲から歓声が上がる。

リュークは目を見開いた。

「これは……。」

リュークはしばらくインゴットを見つめた後、深く頭を下げた。

「ありがとうございます。大切に使わせていただきます。」

ヴァルグは満足そうに頷いた。

「その金属が、いつか名剣となる日を楽しみにしている。」

広場は再び大きな拍手と歓声に包まれた。


次の日、二人は再び街道へ出た。

背中には軽い背負子。

食料だけを詰め直してある。

街の門まで、多くの住民が見送りに来ていた。

「また来てください!」

「ありがとうございました!」

子どもたちは大きく手を振っている。

リュークも小さく手を振り返した。

「また縁があれば」

ケーユーも笑顔で会釈する。

「皆さん、お元気で」

二人は街道を歩き始める。

振り返ると、グルブスグウア自由都市の人々は見えなくなるまで手を振り続けていた。

ケーユーが静かに言う。

「嬉しかったですね」

「ああ」

リュークも頷く。

「たくさんの人を守れた」

ケーユーは優しく笑う。

「きっと奥様も喜んでいます」

リュークは空を見上げた。

青く澄んだ空には、もうワイバーンの影は一つもなかった。

その空を見ながら、二人はヘンミュへの帰路についた。


ヘンミュへ向かう帰路。

来るときとは違い、二人の足取りは軽かった。

街道には荷馬車が戻り始め、商人たちも安心した表情で行き交っている。

「もうワイバーンはいないそうですね。さっき追い越した隊商が話していました」

ケーユーが言う。

「ああ」

リュークも頷いた。

「街道もまた賑わうだろう」

二人は野営を挟みながら歩き続けた。

途中で何組もの隊商とすれ違う。

誰もが、安心したように街道を進んでいた。

ワイバーンの群れに怯え、護衛を何倍にも増やしていた頃とはまるで違う。

討伐の知らせは、すでに周辺の村や宿場町にも伝わっているようだった。

「助かったよ」

「これで安心して商売ができる」


そして三日後。

巨大な城壁が視界へ現れる。

ヘンミュだった。

二人は門をくぐると休むことなく狩人ギルドへ向かった。

ギルドの扉を開ける。

中にいた狩人たちが一斉に振り返った。

「帰ってきたぞ」

そんな声が上がる中、リュークは真っ直ぐクードュのもとへ向かう。

リュークは部屋へ入り、ヴァルグ市長から預かった手紙を差し出した。

クードュは黙って封を切り、一行一行ゆっくりと目を通していく。

部屋には紙をめくる音だけが響いていた。

やがて手紙を閉じる。

リュークを見た。

その口元がわずかに緩む。

「ご苦労だった」

その短い一言には、深い満足と労いが込められていた。

ギルド中の狩人たちは静まり返っている。

ワイバーン五十匹。

しかも二人だけで群れを壊滅させた。

誰もが信じられない思いで二人を見つめていた。

やがて一人の年配の狩人が苦笑する。

「初めて見たぜ……」

「俺ァ三十年狩人をやってるが、ワイバーンの群れを壊滅させたなんて話ァ聞いたこともねぇ」

別の狩人も笑う。

「二人で五十匹だ。」

「もう化け物だな」

ギルド内に笑いが広がった。

そこに嫉妬はない。

あの依頼がどれほど危険だったか、全員が知っていたからだ。

クードュは静かに頷く。

「この依頼はこれで正式に完了だ」

受付嬢が帳簿へ大きく一行を書き込む。

『ワイバーン群れ討伐依頼――達成』

その文字を書き終えると、ギルド内から自然と拍手が起こった。

誰かが拍手を始めたわけではない。

気が付けば、全員が二人へ拍手を送っていた。

リュークは少し照れたように頭を下げる。

「ありがとうございます」

クードュは椅子へ腰掛けた。

「それで、これからどうする」

リュークは迷わず答える。

「ドワーフ王国へ向かいます」

「アダマンタイトを鍛えてくれる鍛冶師を探しに」

クードュは静かに笑った。

「そうか。なら、お前たちの本当の旅はこれからだな。」

「なるほど」

クードュは小さく笑った。

「人族で打てる鍛冶師はいない。選択は正しい」

ケーユーが尋ねる。

「ドワーフ王国までは遠いですか」

「ここから一月弱だ。途中で帝国西部の諸侯領をいくつも通る。盗賊も出るし魔物もいるが、お前たちなら問題ないだろう」

リュークは頷いた。


ギルドを出る頃には、すでに夕暮れだった。

リュークは夕日に染まるヘンミュの街を見渡した。

「次はいよいよドワーフ王国だ。アダマンタイトを剣に変えて、もっと強くなる」

ケーユーは力強く頷く。

「どこまでも、お供します」

リュークは笑った。

「ああ。行こう、相棒」

その言葉に、ケーユーは少し照れながらも嬉しそうに笑った。

「はい、相棒」

二人は夕日に照らされながら宿への道を歩いていく。


翌朝。

ヘンミュの街はいつも通り活気に満ちていた。

その中を、リュークとケーユーはゆっくり歩いていた。

背中の背負子の中には厳重に布へ包んだアダマンタイトのインゴットが入っている。

何よりも大切な荷物だった。

「まずは旅の準備ですね」

ケーユーが言う。

「ああ」

リュークは頷く。

「ドワーフ王国まで二十五日ほど。保存食も買い足そう」

二人は市場へ向かった。


最初に保存食屋。

黒パン。

干し肉。

干し果物。

塩。

旅では野菜が不足するため、干した豆まで買い込んだ。

「買いましたね」

ケーユーが笑う。

「道中、街もある」

「全部食べる訳じゃない」

「念のためだ」

「リュークさんらしいです」


市場で必要な買い物を終えた二人は、狩人ギルドへ立ち寄った。

明日の朝にはヘンミュを発つ。

その前に、ギルド長クードュへ挨拶をしておこうと思ったのだ。

二階のギルド長室。

扉を叩くと、低い声が返ってきた。

「入れ」

「失礼します」

リュークとケーユーは部屋へ入る。

クードュは机で書類に目を通していたが、二人を見ると手を止めた。

「もう出発か」

「はい」

リュークは頷く。

「ドワーフ王国へ向かいます」

クードュは満足そうに頷いた。

「そうか。若いうちに世界を見てこい。それがお前たちの糧になる」

しばらく考え込むと、机の引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出した。

そこには街道だけが簡潔に描かれている。

都市と宿場町。

河川。

主要な峠。

それだけだった。

「これは……」

リュークは目を見開く。

クードュは羊皮紙を机へ広げた。

「ギルドで使っている街道図だ。詳細な地形は載せていないし軍の地図ほど正確でもないが主要街道を進むには十分だ」

クードュは街道図を指でなぞる。

「ヘンミュから西へ」

「グルブスグウア自由都市」

「ムルウ自由都市」

「ベーヴュシュ公領」

「スザルア司教領」

「ヌーレロ公領」

「ニューパンシャ伯領」

「そこからドワーフ王国へ入れ」

「主要街道を進めば迷うことはない」

リュークは両手で羊皮紙を受け取る。

「……ありがとうございます」

羊皮紙を防水用の革筒へ丁寧に収める。

大切な荷物が、また一つ増えた。


翌朝。

夜明け前のヘンミュは、まだ静かだった。

東の空がわずかに白み始め、城壁の上では夜番の兵士と朝番の兵士が交代している。

リュークとケーユーは宿の前に立っていた。

背負子には保存食。

水袋。

解体道具。

替えの衣服。

そして何より大切なアダマンタイトのインゴット。

宿の主人が大きく欠伸をしながら外へ出てきた。

「もう出るのか」

「ああ」

リュークは頷く。

「長い旅になります」

主人は二人を見回し、少し寂しそうに笑った。

「最初に来た時は、金がねえって困ってたのにな」

ケーユーも笑う。

「宿代十四ニピエが高いって話していましたね」

「今思えば懐かしいです」

主人は豪快に笑った。

「はっはっは!今じゃ英雄様だ。ワイバーン退治までしやがって」

リュークは苦笑する。

「英雄なんて柄じゃありません」

主人は静かに頷いた。

「そういうところが、お前さんらしい」

厨房へ戻ると、小さな布袋を持ってきた。

「持ってけ」

中には焼きたての黒パンが何個も入っている。

「これは……」

「餞別だ」

「旅の途中で食え」

「ありがとうございます」

主人は照れ臭そうに頭を掻いた。

「無事に帰って来い」

「また泊まりに来るんだぞ」

「はい」

二人は深く頭を下げた。


そのままヘンミュ西門へ向かう。

門番は二人を見るなり笑顔になった。

「ドワーフ王国か」

「ああ」

リュークは答える。

「行ってきます」

門番は城門を開けながら笑う。

「次に帰って来る頃には、もっと強くなってるんだろうな」

リュークは少しだけ笑った。

「そうなれるよう努力します」

「よし!」

門番は拳を軽く胸へ当てる。

「道中、武運を祈る!」

「ありがとうございます」

重い城門がゆっくりと開く。

朝日が街道を黄金色に照らした。

リュークは一度だけ振り返る。

ヘンミュ。

初めて狩人になった街。

初めて自分の力で金を稼いだ街。

初めてギルドへ所属し、多くの仲間と出会った街。

そしてワイバーン討伐という大仕事を任された街。

「世話になったな」

小さく呟く。

二人は再び前を向く。

街道は西へ続いている。

その先にはムルウ自由都市。

さらに帝国西部。

そしてドワーフ王国。

リュークは革筒へ収めた街道図を軽く叩いた。

「まずはムルウまで四日」

「焦らず行こう」

「はい」

ケーユーは笑顔で頷いた。

「いろいろな街を見て回れますね」

「ああ」

リュークも少し楽しそうに笑う。

「旅らしい旅の始まりだ」

朝日に照らされた二人の影が、長く街道へ伸びる。

こうしてリュークとケーユーは、アダマンタイトを携え、世界最高の鍛冶師が待つドワーフ王国王都リパへ向け、新たな旅路を歩み始めた。

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