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ドワーフの傭兵

ヘンミュを出発して四日。

帝国西部へ向かう街道は、これまでとは景色が大きく変わっていた。

険しい山道は次第に緩やかな丘陵へ変わり、街道沿いには小さな村が点在している。

小麦畑が風に揺れ、羊の群れが草を食んでいた。

「平和ですね」

ケーユーが辺りを見回す。

「ノカス公爵領とも少し違います」

「ああ」

リュークも頷いた。

「西へ来るほど商業が盛んになるらしい」

街道を行き交う旅人も多い。

隊商。

巡礼者。

鍛冶職人。

吟遊詩人。

戦場では見なかった人々ばかりだった。


昼過ぎ。

丘を越えた瞬間だった。

巨大な城壁が姿を現す。

赤茶色の煉瓦で築かれた城壁。

何本もの煙突。

天へ伸びる教会の鐘楼。

「見えてきました」

ケーユーが笑顔になる。

「あれがムルウ自由都市ですね」

「ああ」

リュークも足を止める。

街の周囲には荷馬車の列が続いていた。

東方から運ばれてきた香辛料。

南方の葡萄酒。

北方の毛皮。

様々な品物が、この街へ集まっている。


城門をくぐった瞬間。

二人は思わず足を止めた。

目の前に広がっていたのは、人、人、人。

荷馬車が何列にも連なり、商人たちが忙しく荷を運んでいる。

「道を開けてくれ!」

「ルドンラフ産の毛織物だ!」

「南方の香辛料はこちら!」

あちこちから威勢のいい声が飛び交う。

大通りの両側には巨大な商館が軒を連ね、その間を埋めるように数え切れないほどの店が並んでいた。

布地を扱う織物商。

染料を売る商人。

羊毛や綿花を積み上げた問屋。

衣服を仕立てる仕立屋。

帝国東西を結ぶ街道と南北交易路が交わる交通の要衝だけあり、各地の品々がこの街へ集まり、再び各地へ運ばれていく。

「すごい……」

ケーユーが感嘆の息を漏らした。

「まるで街全体が市場ですね」

「ああ」

リュークも目を細める。

「帝国西部最大の商業都市と言われるだけはある」

通りを歩いていると、一軒の店先に色鮮やかな布が幾重にも吊るされていた。

白。

藍。

深紅。

翡翠色。

どれも驚くほど柔らかく、美しい。

「触ってもいいですか?」

ケーユーが尋ねると、店主は笑顔で頷いた。

布へ指を滑らせた瞬間、指先がふわりと沈む。

「柔らかい……」

店主が胸を張った。

「アティスフ織だ。ムルウ自慢の逸品さ。」

綿布の裏面を丁寧にけば立てた高級織物。

軽く暖かく、肌触りも極めて良いことから、帝国中の貴族や富裕商人に愛用されている名産品だった。

「なるほど」

リュークは布をそっと撫でる。

「これほどの品質なら、高値で取引される理由も分かる」

さらに街を進むと、今度は染色工房が姿を現した。

大きな桶に布が浸され、職人たちが鮮やかな色へ染め上げていく。

隣では織機が規則正しい音を響かせ、織工たちが絶え間なく布を織っていた。

「織物だけで、一つの産業になっていますね」

ケーユーが感心する。

「ああ。商人だけじゃない。織工、染色職人、仕立屋、運送業者……多くの人間が、この織物で生計を立てている」


歩いていると、大きな広場へ出た。

大勢の人が集まっている。

中央では旅芸人が竪琴を弾いていた。

周囲には多くの観客。

子どもたちまで座り込んで耳を傾けている。

「歌ですね」

ケーユーが足を止める。

竪琴の音色が広場へ響く。

旅芸人は静かに歌い始めた。

東の空を駆けた蒼き水よ

戦火を裂き 民を守れ

名も知らぬ若き英雄よ

その剣は希望となる

リュークは眉をひそめた。

「……蒼き水」

歌は続く。

一振りで鬼を討ち

空翔ける竜すら落とす

誰もその名を知らぬまま

人々はただ"蒼水の英雄"と呼ぶ

ケーユーがリュークを見る。

「……リュークさん」

「違う」

リュークは即答した。

「偶然だ」

「でも、水魔法でワイバーンを……」

「偶然だ」

「絶対に違いません」

ケーユーは笑いを堪えている。

旅芸人は当然、リューク本人だとは知らない。

最近各地へ広まった噂を歌にしただけなのだ。

広場では拍手が起こる。

「いい歌だ!」

「蒼水の英雄、万歳!」

「今度はどこで活躍してるんだろうな!」

リュークは居心地が悪そうに頭を掻いた。

「……行こう」

「聞かれたら面倒だ」

「はい」

ケーユーは笑顔で頷く。

二人は人混みを抜けて歩き出した。

その背中を見送りながら、旅芸人はなおも「蒼水の英雄」の歌を奏で続ける。

本人がすぐ近くを歩いていたことなど、誰一人として気付かなかった。

その日はムルウで一泊することにした。

宿を決めると、荷物だけを部屋へ置き、再び街へ出る。

「もう少し見て回りましょう」

ケーユーが言う。

「ああ」

リュークも頷く。

「せっかく来たんだ。この街を見ておきたい」

夕暮れのムルウは昼間とは違う賑わいを見せていた。

酒場からは笑い声が漏れてくる。

広場では大道芸人が火を吹き、露店では焼きソーセージや香辛料を使った料理が売られていた。

「いい匂いですね」

ケーユーが笑う。

「食べてみるか」

「はい」

二人は焼きたてのソーセージを一本ずつ買う。

肉汁が口いっぱいに広がる。

「美味しいですね」

「ノカスとは味付けが違う」

「香辛料を使っている」

リュークは頷いた。

「旅をすると、食べ物まで違うんだな」


食事を終え、宿へ戻ろうとした時だった。

「きゃあっ!」

女性の悲鳴が聞こえた。

二人は同時に振り返る。

細い路地では若い女性が三人の男に囲まれていた。

男たちは酒臭い息を吐きながら笑っている。

「だからよ少し付き合えって言ってるだけだ」

「嫌です!」

女性は必死に後ずさる。

その時リュークは何も言わず歩き始めた。

ケーユーも続く。

「おい」

静かな声だった。

男たちが振り返る。

「何だ、お前」

リュークは女性と男たちの間へ立つ。

「嫌がっている。離れろ」

男の一人が鼻で笑う。

「関係ねぇだろ。痛い目見るぞ」

そう言って拳を振り上げた。

しかし次の瞬間には、男は地面へ転がっていた。

何が起きたのか、自分でも分からない。

リュークが男の腕を軽く払っただけだった。

「なっ!」

残る二人が飛び掛かる。

一人の腹へ掌底。

空気が一気に抜け、男はうずくまる。

もう一人は足を払われ、そのまま石畳へ転がった。

三人とも剣すら抜けない。

「……まだやるか」

リュークが静かに尋ねる。

男たちは青ざめながら首を横へ振った。

「す、すまなかった!」

三人は転がるように逃げていく。

ケーユーは苦笑した。

「剣も必要ありませんでしたね」

女性は何度も頭を下げた。

「ありがとうございました!本当に助かりました!」

リュークは軽く頷く。

「気を付けて帰ってください」

「はい!」

女性は深々と礼をすると、小走りで去っていった。


宿へ戻る道。

ケーユーが笑う。

「リュークさんらしいですね」

「何がだ」

「見て見ぬふりができないところです」

リュークは少し考えた。

「父上によく言われた。剣は弱い者を守るために振るえと」

ケーユーは静かに頷く。

「公爵様らしい言葉ですね」

「だからでしょうか。リュークさんは、困っている人を見ると放っておけません」

リュークは照れくさそうに笑った。

「大したことじゃない。目の前で困っていたから助けただけだ」

ケーユーは心の中で苦笑する。

(その『当たり前』が、リュークさんの一番すごいところなんですよ)

その言葉は口には出さなかった。


翌朝、朝霧が街を包む中、リュークとケーユーはムルウ自由都市を後にした。

石畳の街道は西へと真っ直ぐ延びている。

目的地はベーヴュシュ公領。

ここから五日の道のりだった。

街道には多くの旅人がいた。

東方へ向かう隊商。

巡礼者。

騎士。

荷馬車を引く農民。

帝国西部の大動脈だけあり、人の流れは絶えない。

「昨日より人が多いですね」

ケーユーが辺りを見回す。

「ああ」

リュークは頷く。


二日目。

街道は緩やかな丘陵地帯へ入る。

遠くには城が見え始めた。

白い石で築かれた城壁。

その周囲には何本もの槍が並び、騎士たちが訓練をしている姿が見える。

「もうベーヴュシュ公領ですか?」

ケーユーが尋ねる。

「まだ国境の砦だろう」

リュークは地図を広げる。

「あと三日で公都へ着く」


三日目の昼。

街道沿いの草原を歩いていると、鋭い金属音が風に乗って聞こえてきた。

カン!

カン!

カン!

「槍の音ですね」

ケーユーが耳を澄ます。

丘を登ると、その正体が見えた。

広大な演習場だった。

数百人もの騎士見習いたちが整列し、一斉に槍を突き出している。

「突け!」

教官の怒号が響く。

「ハッ!」

地面が揺れるほどの声。

槍が一斉に前へ伸びる。

その光景に、リュークは思わず立ち止まった。

「すごい……」

「規律が徹底していますね」

ケーユーも感心していた。

「ベーヴュシュ公領は帝国有数の騎士領だ。幼い頃から騎士を育てる土地らしい」

その時、一人の教官が二人へ気付いた。

「旅人か!」

大柄な騎士が演習場の端から歩み寄ってくる。

日に焼けた顔。

太い首。

鎧の上からでも分かるほど鍛え上げられた身体。

腰には使い込まれた長剣を提げていた。

「はい」

リュークが答える。

「旅の途中です」

教官は二人を一通り眺めたあと、リュークの腰へ視線を止める。

「剣士だな」

「少しは」

「少し、か」

教官は鼻で笑った。

「その立ち方を見れば分かる。街道を歩くだけの旅人じゃない」

リュークは何も答えなかった。

教官は後ろを振り返り、訓練中の騎士見習いへ声を飛ばす。

「木剣を二本持ってこい!」

ケーユーが首を傾げる。

教官は豪快に笑った。

「この土地では、腕の立ちそうな旅人を見掛けたら一度剣を交えるのが礼儀でな。もちろん木剣だ。命のやり取りをするつもりはない」

やがて騎士見習いが木剣を二本抱えて戻ってくる。

教官はその一本をリュークへ放った。

リュークは片手で受け取る。

重さを確かめるように軽く振った。

教官の目がわずかに細くなった。

「どうする?断っても構わんぞ」

リュークは少しだけ考えたあと、木剣を構えた。

「分かりました。少しだけなら」

「よし!」

教官も木剣を構える。

周囲で訓練していた騎士見習いたちが、何事かと集まり始めた。

「教官が旅人とやるぞ」

「また始まった」

「今度の相手は若いな」

ざわめきが広がる。

教官は笑ったまま言う。

「先に一本入れた方の勝ちだ」

「参ります」

リュークが静かに答える。

次の瞬間、教官が一気に踏み込んだ。

大柄な体格からは想像できないほど速い。

上段から木剣が振り下ろされる。

だが、リュークは受けなかった。

半歩だけ横へずれる。

木剣が肩先を掠めて空を切った。

「なにっ――」

教官が振り向くより早く、リュークの木剣がその胸元へ止まっていた。

静寂。

騎士見習いたちが目を見開く。

教官は木剣の先を見下ろし、やがて大きく笑い出した。

「はっはっは!見事だ!」

木剣を下ろし、リュークの肩を強く叩く。

「やはり只者ではなかったか」

リュークも木剣を下ろした。

教官はしばらく考えるように顎髭を撫でる。

そして何かを決めたように口を開いた。

「旅人」

「五日後、公都で剣術大会が開かれる」

「剣術大会?」

「ああ」

教官は誇らしげに胸を張った。

「ベーヴュシュ公家が主催する、年に一度の大会だ。公爵領の騎士だけではなく帝国各地から騎士、傭兵、旅の剣士が集まる。身分も所属も問われん。必要なのは剣の腕だけだ」

ケーユーの目が輝く。

「誰でも参加できるのですか?」

「受付さえ済ませればな」

教官は頷いた。

「優勝者には賞金も出る」

「何より、ベーヴュシュ公と筆頭騎士の前で腕を示せる。剣士なら、一度は立ちたい舞台だ」

そう言って、リュークへ鋭い視線を向けた。

「お前ほどの腕が、このまま通り過ぎるのは惜しい。大会へ出ろ」

リュークは少し迷った。

本来の目的はドワーフ王国へ向かうこと。

ここで足を止める必要はない。

だが、帝国中から剣士が集まる大会。

今の自分がどこまで通用するのか確かめるには、これ以上ない機会だった。

「面白そうですね」

ケーユーが隣で笑う。

「急ぐ旅でもありませんし」

リュークも小さく笑った。

「ああ」

そして教官へ向き直る。

「参加します。せっかくですから、出てみたい」

教官は満足そうに笑い、リュークの背中を叩いた。

「よく言った!」

「受付は城門近くの商館だ」

こうして二人は、帝国屈指の騎士たちが集うベーヴュシュ公領剣術大会へ足を運ぶことになった。


四日後。

ベーヴュシュ公領の公都が見えてきた。

高い白亜の城壁。

城門の上には、公爵家の大旗が風を受けてはためいている。

黄金の地に、三頭の黒い獅子。

ベーヴュシュ公家の紋章旗だった。

城壁のあちこちには、配下の騎士団や諸侯の旗も掲げられている。

剣術大会を目当てに各地から騎士や剣士が集まり、街は祭りのような熱気に包まれていた。

ケーユーは旗を見上げる。

「立派な紋章ですね」

リュークも頷く。

「ああ」

「この公爵家は代々、帝国でも有数の名門だ」

そう言いながらも、彼の脳裏には別の旗が浮かんでいた。

黄金と黒の縞模様。

ノカス公爵家の旗。

幼い頃から城壁に掲げられ、父と共に何度も見上げた旗だった。

リュークは静かに前を向いた。

「今は旅人だ」

小さく呟く。

ケーユーは何も言わず、その隣を歩いた。


受付を済ませると、係員に案内されて控室へ入った。

控室には、すでに十数人の剣士が集まっている。

鎖帷子を着た者。

革鎧の軽装の者。

体格の良い傭兵風の男。

年老いた剣士までいた。

皆、木剣を手に静かに身体をほぐしている。

リュークとケーユーが入ると、何人かが視線を向けた。

「若いな」

「まだ十五歳くらいか」

「顔は整ってるが、剣はどうかな」

そんな声が聞こえる。

リュークは気にする様子もなく、壁際へ座った。

木剣を膝に置き、目を閉じる。

呼吸を整える。

ケーユーはその隣に立っていた。

「緊張していますか?」

「いや」

リュークは静かに首を振る。

「試合だからな。命のやり取りじゃない」

ケーユーは笑った。

「リュークさんらしいですね」

その時、控室の扉が開いた。

「第一試合!」

「一番、二番!」

係員が大きな声で呼ぶ。

二人の剣士が立ち上がり、闘技場へ向かった。

しばらくして、

「一本あり!」

歓声が響く。

試合はあっという間に終わった。

次々と試合が進む。

中には見事な剣士もいた。

鋭い踏み込み。

正確な間合い。

しかしリュークは静かに見ているだけだった。

「どうですか?」

ケーユーが尋ねる。

「強い人もいますね」

「ああ」

リュークは頷く。

「基本がしっかりしている。さすが騎士の国だ。でもまだ本当に強い人はいない」

ケーユーも納得したように頷いた。

「筆頭騎士や騎士団長クラスは最後でしょうね」

「そのはずだ」


試合が進み、

やがて係員が声を張り上げた。

「三十二番!」

「リューク!」

「三十三番!」

「マルエン!」

ケーユーが微笑む。

「出番ですよ」

「ああ」

リュークは静かに立ち上がった。

木剣を握る。

軽く一度だけ振る。

空気を切る音が響いた。

そのまま闘技場へ足を踏み入れる。

数千人の観客席。

無数の視線が集まる。

対戦相手のマルエンは三十代半ばほど。

鍛え上げられた体格の騎士だった。

「若いな」

マルエンは笑う。

「悪いが手加減はせんぞ」

リュークも軽く礼をする。

「お願いします」

審判が二人の中央へ立つ。

「構え!」

二人が木剣を構える。

「始め!」

その声と同時にマルエンが一気に踏み込んだ。

「はあっ!」

鋭い斬撃。

しかしリュークは半歩だけ身体をずらす。

木剣が空を切る。

「なっ!」

驚く間もない。

リュークの木剣が最短距離で振り抜かれた。

パァンッ!

乾いた音が闘技場へ響く。

木剣の切っ先が、マルエンの胴へ正確に当たっていた。

静寂。

ほんの一瞬、観客席が静まり返る。

審判が我に返る。

「一本!」

「勝者、リューク!」

試合開始から、わずか一合だった。

観客席がどよめく。

「終わった?」

「今、何をした?」

「避けたのか?」

「いや、打ったのが見えなかったぞ!」

ケーユーは小さく笑う。

(いつも通りですね)

リュークは木剣を下ろし、対戦相手へ深く一礼した。

「ありがとうございました」

マルエンはしばらく呆然としていたが、やがて苦笑して頭を下げ返した。

「完敗だ」

「こんな若者がいるとはな」

リュークは何も言わず、静かに控室へ戻っていった。

しかし観客席のざわめきは、しばらく収まることはなかった。

控室へ戻ると、先ほどまで話していた剣士たちの視線が一斉に集まった。

「おい……」

「見たか?」

「一撃だぞ」

「マルエンが何もできなかった」

誰も先ほどまでのように若造扱いはしない。

リュークは何事もなかったように壁際へ腰を下ろした。

木剣を膝へ置く。

「お疲れ様です」

ケーユーが水袋を差し出す。

「ありがとう」

一口飲み、静かに息を吐いた。

その時だった。

「三十二番!」

係員が再び控室へ入ってくる。

「次の試合まで三試合!」

「準備しておけ!」

「分かりました」

リュークは立ち上がる。


試合は次々と進んでいく。

二回戦。

一人の大男が豪快な一撃で勝利した。

三回戦。

細身の青年騎士が華麗な足運びで一本を取る。

観客席からは歓声が絶えない。

「強い人が増えてきましたね」

ケーユーが呟く。

「ああ」

リュークも頷く。

「予選が終わって、本戦に近づいてきた」

その頃には観客席もさらに埋まり始めていた。

貴族席にも人が増えている。


「第四試合!」

「三十二番、リューク!」

「十五番、クムヒュ!」

再び名前が呼ばれる。

リュークは静かに立ち上がった。

対戦相手は四十代ほどの騎士だった。

右頬には古い傷跡。

長年戦場へ立ってきたことが一目で分かる。

「若いの」

クムヒュが笑う。

「さっきの試合は見せてもらった。速いな」

「ありがとうございます」

「だが」

クムヒュは木剣を構える。

「儂は速さだけじゃ負けんぞ」

審判が中央へ立つ。

「始め!」

クムヒュは動かない。

じっと構えたまま。

リュークも動かない。

観客席がざわつく。

「どうした?」

「動け!」

しかし二人とも一歩も踏み出さない。

風だけが闘技場を吹き抜ける。

次の瞬間だった。

クムヒュが一気に踏み込む。

鋭い突き。

フェイント。

さらに横薙ぎ。

経験に裏打ちされた連続攻撃だった。

ガン!

ガン!

ガン!

リュークは最小限の動きだけで受け流す。

観客席から感嘆の声が漏れる。

「受け切った!」

「うまい!」

クムヒュも目を見開いた。

(若いのに、この落ち着き……!)

攻撃が止まる。

ほんの一瞬。

その隙をリュークは見逃さなかった。

半歩。

わずか半歩だけ前へ出る。

木剣が一直線に伸びる。

パンッ!

切っ先がクムヒュの喉元で止まっていた。

完全に勝負は決している。

静寂。

クムヒュは苦笑した。

「参った」

自ら木剣を下ろす。

審判が旗を上げた。

「一本!」

「勝者、リューク!」

大歓声が闘技場を包む。

「また勝った!」

「強い!」

「何者なんだ!」

クムヒュは笑いながらリュークへ手を差し出した。

「見事だ。若い世代にも、お前のような剣士がいるなんてな」

リュークはその手をしっかり握る。

「ありがとうございました」

その礼儀正しい姿に、観客席からさらに大きな拍手が送られた。

そして貴族席では、一人の壮年の男が静かに試合を見つめていた。

胸には黄金地に三頭の黒獅子の紋章。

ベーヴュシュ公、その人であった。

その隣には筆頭騎士や家臣たちが並んでいる。

筆頭騎士が口を開いた。

「閣下」

「先ほどから勝ち上がっている旅人ですが……」

ベーヴュシュ公は視線を闘技場から外さない。

「ああ見ている」

「どう思われますか」

しばらく沈黙が流れる。

やがてベーヴュシュ公は静かに答えた。

「無駄がない。勝つためだけに剣を振っている」

筆頭騎士も頷いた。

「私も同じ感想です。命を懸けた戦場で磨かれた剣でしょう」

ベーヴュシュ公は興味深そうにリュークを見つめる。

「あの歳で、あそこまで完成された剣……。どこの出だ」

家臣が羊皮紙を確認する。

「登録は『リューク』のみ」

「姓は名乗っておりません」

「旅人とのことです」

ベーヴュシュ公は小さく笑った。

「面白い。最後まで見よう」


控室。

リュークは木剣を壁へ立て掛け、水を飲んでいた。

「二回戦突破ですね」

ケーユーが笑顔で言う。

「ああ、まだ先は長い」

「疲れていませんか」

「全く」

リュークは苦笑した。

「木剣だから軽い。本物の剣より楽なくらいだ」

その時、控室の奥でざわめきが起きた。

「来たぞ」

「優勝候補だ」

一人の青年騎士が入ってくる。

二十五歳ほど。

金髪を短く刈り込み、均整の取れた体格をしている。

周囲の剣士たちが自然と道を開けた。

「誰ですか」

ケーユーが小声で尋ねる。

近くにいた剣士が答える。

「あれはオレ・ノフ・ベーヴュシュ」

「公爵家の次男だ」

「次男?」

「ああ、現筆頭騎士の弟子でもある。去年の準優勝だ」

オレは控室を見回し、リュークへ視線を止めた。

「あなただね」

静かな声だった。

リュークも立ち上がる。

「私か」

「先ほどの試合を見た」

オレは穏やかに笑う。

「見事な剣だった」

「ありがとう」

「ぜひ決勝で戦いたい」

リュークも小さく笑った。

「そこまで勝ち上がれればな」

「勝ち上がるさ」

オレは迷いなく答える。

「私も負ける気はない」

そう言うと、自分の席へ歩いて行った。

ケーユーはその背中を見送る。

「強そうですね」

「ああ」

リュークも頷く。

「今までで一番だ」

「楽しみですか」

「少しな」

その目には久しぶりに戦士らしい光が宿っていた。


「第三回戦!」

係員の声が響く。

「三十二番!」

「リューク!」

「十八番!」

「フィジュー!」

リュークは木剣を手に立ち上がる。

闘技場へ向かう背中を、ケーユーは静かに見送った。

「頑張ってください」

「ああ」

短く答え、リュークは再び光あふれる闘技場へ足を踏み入れた。

観客席の熱気は先ほどまでとは比べものにならない。

誰もが、名もなき旅の剣士の戦いに注目していた。

闘技場へ足を踏み入れる。

観客席から一斉に歓声が上がった。

「旅の剣士だ!」

「また一撃で終わるか!」

「頑張れ!」

リュークは軽く一礼し、中央へ進む。

対戦相手のフィジューは三十代前半。

身長は百九十センチ近くある大男だった。

両腕は丸太のように太い。

木剣ですら片手で軽々と振り回している。

「へへっ」

フィジューが笑う。

「やっと面白そうな相手だ」

「よろしくお願いします」

リュークも礼を返す。

「始め!」

審判の声と同時に、フィジューが地面を蹴った。

「おおおおっ!」

豪快な袈裟斬り。

風圧だけで砂埃が舞う。

ガァン!

リュークは木剣で受け流した。

衝撃が腕へ伝わる。

(重い)

力だけなら今までで一番だった。

フィジューは笑う。

「受けたか!」

「なら、これはどうだ!」

二撃。

三撃。

四撃。

嵐のような連撃。

観客席から歓声が上がる。

「押してる!」

「旅人、防戦一方だ!」

しかし。

リュークは一歩も下がらない。

受ける。

流す。

かわす。

最小限の動きだけで、大剣のような木剣をいなしていく。

「……!」

フィジューの表情が変わる。

(当たらない!)

これだけ振っているのに、一度も手応えがない。

息が少し乱れ始める。

その瞬間だった。

リュークが初めて前へ出た。

半歩。

いや、それよりも短い。

木剣を振る。

バシィッ!

乾いた音。

木剣の腹が、フィジューの右手首へ正確に当たった。

「ぐっ!」

握力が抜ける。

木剣が宙を舞った。

続けざま。

リュークは身体を回転させる。

もう一度。

パンッ!

今度は胸へ一撃。

フィジューは大きくよろめき、尻もちをついた。

静寂。

審判が大きく旗を上げる。

「一本!」

「勝者、リューク!」

一瞬遅れて、観客席が爆発した。

「すげぇぇぇ!」

「武器を弾き飛ばした!」

「なんて技術だ!」

「力じゃ勝てねぇ!」

フィジューは座ったまま笑い出した。

「ははは!」

「参った!」

「俺の完敗だ!」

リュークは木剣を下ろし、手を差し出す。

「立てますか」

フィジューはその手を掴み、立ち上がった。

「ありがとう」

「いい勝負だった」

「いや」

フィジューは首を振る。

「勝負になってねぇよ」

苦笑しながら肩を叩く。

「優勝しろ。応援してるぜ」

リュークは少し照れ臭そうに笑った。

「ありがとうございます」


控室の奥では、オレが静かにその試合を見届けていた。

「……やはり強い」

その瞳には、闘志が宿っていた。

「決勝で会おう、旅の剣士」

そう小さく呟き、自身の試合へ向かって歩き出した。

試合も終盤に入り、闘技場の熱気は最高潮に達していた。

残っているのは、わずか八人。

その誰もが実力者である。

係員が声を張り上げる。

「準々決勝!」

「三十二番、クーリュ!」

「七番、ヒリデーロ!」

対戦相手が姿を現した。

年齢は五十代半ば。

白髪交じりの髪。

左頬には古い刀傷。

腰は少し落ちているが、隙はまったくない。

観客席がざわつく。

「あれはヒリデーロだ!」

「元近衛騎士団副団長!」

「去年はベスト四だったぞ!」

ケーユーも表情を引き締めた。

「今までで一番ですね」

「ああ」

リュークも静かに木剣を握る。

「強い」


中央で向かい合う。

ヒリデーロが静かに礼をした。

「試合は見せてもらった。見事な剣だ」

リュークも礼を返す。

「ありがとうございます」

老人は穏やかに笑う。

「遠慮はせん。私も最後まで勝ちに行く」

「望むところです」

審判が二人の間へ立つ。

「始め!」

しかし二人とも動かない。

風だけが闘技場を吹き抜ける。

観客席も静まり返る。

「……」

リュークは相手を見つめる。

(隙がない)

ローデリヒも同じことを考えていた。

(若い)

(だが、この圧力……)

(歴戦の将軍と向かい合っているようだ)

互いに踏み込めない。

数秒いや、十秒近く沈黙が続いた。

そしてヒリデーロが先に動いた。

踏み込みは小さく速くもない。

だが無駄が一切なかった。

ガンッ!

木剣同士がぶつかる。

リュークは受け流す。

ヒリデーロは流された勢いを利用し、そのまま横薙ぎへ変化させる。

さらに突き。

払い。

連撃。

一つ一つは決して速くない。

しかしすべてが繋がっている。

「……!」

リュークは初めて三歩下がった。

観客席がどよめく。

「押した!」

「あの旅人が下がったぞ!」

しかしリュークの表情は変わらない。

(なるほど)

(経験だ)

父との稽古を思い出す。

若い頃の父も、こういう剣だった。

速さではない。

力でもない。

経験で相手を追い詰める。

「面白い」

リュークは小さく笑った。

その瞬間初めて自分から踏み込んだ。

ガン!

木剣が交差する。

ヒリデーロの目がわずかに見開く。

(速い!)

リュークは打ち合わず受け流す。

半身になる。

相手の木剣を紙一重でかわす。

そしてほんの一瞬だけヒリデーロの左肩が前へ流れた。

その瞬間を逃さない。

パシィッ!

木剣の切っ先が、ヒリデーロの胸へ触れた。

静寂。

ヒリデーロは動きを止める。

ゆっくりと木剣を下ろした。

「参った」

審判が旗を上げる。

「一本!」

「勝者、リューク!」

闘技場が揺れるほどの拍手が響く。

「すごい!」

「ヒリデーロ殿まで!」

「準決勝だ!」

ヒリデーロは深く息を吐き、笑った。

「君はいずれ帝国でも名を残す剣士になる」

リュークは静かに礼をした。

「身に余るお言葉です」

ヒリデーロも礼を返す。

その礼には、一人の剣士としての敬意が込められていた。


準決勝。

闘技場の空気が変わっていた。

ここまで勝ち残ったのは四人。

旅の剣士リューク。

ベーヴュシュ公家次男、オレ・ノフ・ベーヴュシュ。

帝国南部の傭兵隊長。

そして近衛騎士団所属の若き騎士。

誰が優勝してもおかしくない顔触れだった。

係員が声を張り上げる。

「準決勝第一試合!」

「三十二番、リューク!」

「二十一番、スウラク!」

歓声が響く。

リュークは静かに闘技場へ歩み出た。

対戦相手のスウラクは三十代後半。

日に焼けた肌。

全身には無数の古傷が刻まれている。

「傭兵だ」

観客席から声が上がる。

「あいつは戦場帰りだ!」

クラウスは木剣を肩へ担ぎ、笑った。

「お前の試合は全部見た。強いな」

リュークも礼をする。

「ありがとうございます」

「だが」

クラウスは笑みを深くした。

「戦場じゃ礼儀なんて役に立たねえ。勝った奴だけが生き残る」

その言葉に、リュークの目が少しだけ鋭くなった。

「その通りです。だから私も勝ちに行きます」

審判が手を上げる。

「始め!」

その瞬間クラウスが低い姿勢で飛び込んできた。

速い。これまでで最速だった。

木剣が下から跳ね上がる。

ガンッ!

リュークは受け流す。

しかしクラウスは止まらない。

横薙ぎ。

返し。

体当たり。

木剣だけではない。

身体全体を武器にした実戦剣術だった。

「おおおっ!」

観客席がどよめく。

「旅人が押されてる!」

しかしリュークの足は乱れない。

半歩。

一歩。

紙一重で攻撃をかわしていく。

(速い)

(だが――)

(戦場ならもっと速い)

次の瞬間クラウスの腰がわずかに浮く。

(そこだ)

リュークは踏み込んだ。

木剣が閃く。

パンッ!

クラウスの胴へ正確に一撃が入る。

静寂。

クラウスは動きを止めた。

そして大きく笑った。

「ははは!参った!」

木剣を地面へ立てる。

「負けだ」

審判が旗を上げる。

「一本!」

「勝者、リューク!」

闘技場が揺れるほどの歓声が上がる。

「決勝だ!」

「旅人が決勝進出!」

「すげぇぇぇ!」

スウラクは歩み寄り、右手を差し出した。

「戦場を知ってる剣だ。俺には分かる」

リュークはその手を握る。

「ありがとうございます」

「決勝も勝て」

「はい」

二人は互いに礼を交わした。


その直後。

反対側の闘技場では、もう一つの準決勝が始まっていた。

オレ・ノフ・ベーヴュシュ。

対するは近衛騎士団所属の若き騎士。

試合開始。

わずか五合。

オレの木剣が相手の肩を捉えた。

「一本!」

勝負あり。

観客席は総立ちになる。

「決勝だ!」

「オレ様!」

「旅の剣士!」

「どっちが勝つ!」

貴族席ではベーヴュシュ公が静かに立ち上がった。

口元にはわずかな笑み。

「決まったな」

筆頭騎士も頷く。

「ええ」

「これ以上ない決勝です」

一方、闘技場の反対側。

オレもリュークへ視線を向けていた。

二人の目が合う。

言葉はない。

しかし互いに分かっていた。

ここまで来た。

次が最後。

どちらが帝国屈指の騎士領で最強の剣士となるのか。

闘技場中の視線が、その決勝戦へ注がれていた。

決勝戦まで一時間。

闘技場は昼の休憩に入り、観客たちは思い思いに食事を取っていた。

しかし、その話題は一つしかない。

「旅の剣士とオレ様、どっちが勝つ?」

「分からん」

「剣だけなら互角に見えた」

「いや、旅人の方がまだ底を見せてねえ」

「あれだけ勝って汗一つかいてねえぞ」

酒場でも。

露店でも。

街中が決勝戦の話でもちきりだった。


控室。

リュークは静かに木剣を膝へ置き、目を閉じていた。

呼吸は一定。

鼓動も乱れていない。

ケーユーが隣へ座る。

「疲れていませんか」

「大丈夫だ」

リュークは目を開けた。

「まだ身体は軽い」

「そうですか」

ケーユーは少し笑う。

「オレ様、強かったですね」

「ああ」

リュークも頷いた。

「今日一番の相手だ」

「楽しみですか」

少し考え、

「……ああ」

そう答えた。

「これほどの相手と剣を交えるのは久しぶりだ」


一方。

別の控室。

オレも木剣を見つめていた。

筆頭騎士が隣へ立つ。

「緊張していらっしゃるのですか」

「少しだけ」

オレは正直に答えた。

「ですが、負ける気はありません」

筆頭騎士は笑う。

「ただし」

表情が真剣になる。

「勝ちを焦ってはなりません。相手はあなたより多くの実戦を経験しています。勝負を急げば負けます」

「はい」

オレは深く頷いた。


やがて。

ゴォーン……

巨大な鐘が鳴る。

昼休憩の終わりを告げる鐘だった。

係員が大きく叫ぶ。

「決勝戦を開始する!」

観客たちが一斉に席へ戻る。

数千人の視線が闘技場へ集まった。

「決勝!」

「決勝だ!」

「オレ様!」

「旅の剣士!」

歓声が鳴り止まない。

審判が中央へ立つ。

「決勝戦!」

「リューク!」

「オレ・ノフ・ベーヴュシュ様!」

二人がゆっくりと歩み出る。

中央で向かい合う。

オレが先に礼をした。

「ここまで勝ち上がると思っていました」

リュークも礼を返す。

「私もです」

オレは少し笑う。

「優勝は譲れません」

「私もです」

短い言葉。

だが互いの覚悟は十分伝わった。

観客席は静まり返る。

誰一人として声を出さない。

風だけが闘技場を吹き抜ける。

審判が二人を見渡す。

「構え!」

木剣がゆっくりと上がる。

二人とも中段。

無駄のない構えだった。

審判の右手が振り下ろされる。

「始め!」

次の瞬間。

リュークとオレは、ほぼ同時に地面を蹴った。

ガンッ!!

木剣同士が激しくぶつかり合った。

これまでの試合とは比べものにならない衝撃音が、闘技場中へ響き渡る。

「おおっ!」

観客席からどよめきが起こる。

オレは間髪入れず二撃目を放つ。

右上段。

そこから流れるように横薙ぎ。

さらに踏み込み、鋭い突き。

流麗だった。

まるで教本から抜け出してきたような、美しい剣筋。

しかしリュークは、一歩も退かない。

木剣をわずかに傾け、

力を受け流し最短距離で返す。

ガン!

ガン!

ガンッ!

木剣が火花こそ散らさないものの、鋭い音を何度も響かせる。

「速い!」

「見えない!」

「どっちが押してるんだ!」

観客席から次々と声が上がる。


オレは心の中で驚いていた。

(重い……)

(受け流されているのに、こちらだけ体力を使わされる。)

これまで何百回と木剣を交えてきた。

騎士団長とも。

筆頭騎士とも。

だが、こんな剣は初めてだった。

相手は最小限しか動かないのに、攻め込めない。


一方のリュークも思う。

(速い。)

(この年齢でここまで完成されているのか。)

オレはまだ二十代前半。

あと十年経験を積めば、帝国有数の騎士になるだろう。

(才能がある。)

自然と笑みが浮かんだ。

その笑みを見て、オレも笑った。

「まだ余裕がありますか!」

「いや!」

リュークも踏み込む。

ガン!!

これまで防御一辺倒だったリュークが初めて攻めへ転じた。

木剣が一直線に走る。

オレは受ける。

重い。

思わず半歩下がる。

そこへ追撃。

上段。

返し。

胴。

三連撃。

オレは必死に受ける。

ガガガンッ!!

木剣が軋む。

観客席は総立ちになっていた。

「すごい!」

「どっちも強い!」

「こんな試合見たことねぇ!」


貴族席。

筆頭騎士は腕を組んだまま動かない。

「閣下。」

「ええ。」

ベーヴュシュ公も目を離さない。

「オレが押され始めている」

「ですが、まだ崩れてはいません」

「いや」

アルベルト公は静かに首を振った。

「押されているのではない。遊ばれている」

筆頭騎士の表情が変わる。

「まさか……。旅人は」

ベーヴュシュ公はゆっくり頷いた。

「まだ本気ではない」


その時だった。

オレが大きく踏み込む。

「はああああっ!」

渾身の一撃。

会心だった。

誰もが決まったと思った。

しかしリュークは木剣を半回転させる。

カンッ。

わずかに軌道を逸らす。

オレの木剣は空を切った。

(しまった!)

そう思った瞬間。

リュークは相手の懐へ入り込んでいた。

パンッ!

乾いた音。

木剣の切っ先が、オレの胸へぴたりと止まっていた。

静寂。

誰も動かない。

オレも、木剣を構えたまま止まっていた。

数秒後。

オレはゆっくりと笑う。

「……負けました」

木剣を下ろす。

審判が我に返る。

「一本!!」

「勝者――リューク!!」

その瞬間、闘技場全体が割れんばかりの歓声に包まれた。

「優勝だぁぁぁ!!」

「旅の剣士が勝った!!」

「すげぇぇぇ!!」

オレはリュークへ歩み寄る。

悔しさはある。

だが、それ以上に清々しい表情だった。

右手を差し出す。

「完敗です。あなたは、本当に強い。」

リュークも笑みを浮かべ、その手を握った。

「あなたも強かった。また戦いたい。」

二人は固く握手を交わす。

その光景に、観客席から惜しみない拍手が送られた。

闘技場は興奮の渦に包まれていた。

「旅の剣士!」

「優勝おめでとう!」

歓声は鳴り止まない。

リュークは少し困ったように頭を掻いた。

こういう注目は、あまり得意ではない。

その時だった。

「静まれ」

低く、よく通る声が闘技場へ響いた。

一瞬で歓声が止む。

貴族席から一人の男が立ち上がっていた。

黄金の地に三頭の黒獅子。

ベーヴュシュ公家の紋章を胸へ付けた壮年の男。

ベーヴュシュ公である。

公爵はゆっくりと立ち上がり、闘技場へ降りてきた。

数千人の観客が一斉に頭を垂れる。

「公爵閣下……」

「閣下だ」

リュークとケーユーも片膝をつき、一礼した。

アルベルトは二人の前で足を止める。

「面を上げよ」

「はい」

リュークは静かに顔を上げた。

公爵はしばらく彼を見つめる。

鋭い眼光。

戦場を幾度も潜り抜けてきた武人の目だった。

「見事な剣だった」

「ありがとうございます」

「どこで学んだ」

少しだけ沈黙が流れる。

「父から教わりました」

それだけ答えた。

嘘ではない。

父であるノカス公から教わったのだから。

アルベルトは小さく頷く。

「良い師を持ったな」

「はい」

リュークの表情は少しだけ柔らかくなった。

父を思い出したからだった。


アルベルトは係へ目配せする。

係が豪華な木箱を持ってくる。

蓋を開くと、中には黄金貨が整然と並んでいた。

「優勝賞金。百トッカダ金貨。」

係が差し出す。

リュークは両手で受け取った。

「ありがとうございます。」

続いて、銀細工が施された優勝杯も運ばれてきた。

高さ三十センチほど。

両側へ持ち手が付いた美しい杯だった。

「これは大会優勝者へ贈られる杯だ」

「受け取れ」

リュークは一瞬困った顔になる。

「……閣下」

「何だ」

「旅の途中ですので持ち歩くのは難しいかと。」

一瞬、会場が静まり返る。

次の瞬間。

「ははははは!」

ベーヴュシュ公が豪快に笑った。

周囲の貴族たちも思わず笑ってしまう。

「なるほど!」

「旅人らしい答えだ!」

オレも苦笑していた。

アルベルトは笑いながら係へ言った。

「では、代わりに記念の短剣を用意しろ。旅人ならその方が役立つ」

「承知しました」

係はすぐに飾り気の少ない一本の短剣を持ってきた。

柄にはベーヴュシュ公の小さな紋章だけが入っている。

リュークは少し嬉しそうに受け取る。

「こちらの方がありがたいです」

ベーヴュシュ公は満足そうに頷いた。

「やはり面白い男だ」

そしてベーヴュシュ公は、改めてリュークへ向き直る。

「旅人、最後に一つだけ聞こう」

「はい」

「これほどの腕を持ちながら、なぜ騎士にならぬ」

会場中が静まり返る。

誰もが答えを待った。

リュークは少しだけ遠くを見る。

ノカス公爵領。

父。

母。

ケーユー。

旅へ出た日のこと。

すべてが脳裏をよぎる。

そして静かに答えた。

「まだ、旅の途中だからです。世界を見て強くなりたい。知らないことを知りたい。その先は……」

少しだけ笑う。

「まだ決めていません」

ベーヴュシュ公はその答えを聞き、満足そうに頷いた。

「そうか。ならば旅を続けよ。帝国は広い。世界はもっと広い」

「そして」

公爵は力強く言った。

「ベーヴュシュ公は、お前の再訪を歓迎する」

リュークは深く一礼した。

「光栄です」

闘技場から大きな拍手が沸き起こる。

その拍手は、名もなき一人の旅人へ送られた、心からの賛辞だった。

大会が終わると、闘技場の出口には大勢の人々が集まっていた。

「旅の剣士!」

「握手してください!」

「弟子にしてください!」

「どこの出身なんですか!」

次々と声が飛ぶ。

リュークは苦笑しながら、一人一人へ丁寧に応じていた。

「ありがとうございます」

「弟子は取っていません」

「旅の途中ですので」

その様子を少し離れた場所で見ていたケーユーは、小さく笑う。

「人気者ですね」

「勘弁してほしい」

リュークは本気で困った顔をしていた。

その姿に周囲はさらに笑う。


翌朝、二人はベーヴュシュ公領を発った。

ベーヴュシュ公領を発って四日。

街道の先に、低い丘陵地帯が広がり始めた。

丘の斜面には、整然と葡萄の木が植えられている。

細い支柱へ蔓が絡み付き、青々とした葉の間には、まだ小さな実が房を作っていた。

「葡萄畑ですね」

ケーユーが丘を見上げる。

「ああ」

リュークも頷いた。

「スザルア司教領は葡萄酒の産地として有名らしい」

丘の麓には石造りの村が点在している。

家々は帝国中央部で見たものより屋根が急で、壁には木の骨組みが露出していた。

窓辺には花が飾られ、家の裏手には葡萄を搾るための小屋や樽を並べた倉庫がある。

一見すれば、穏やかで豊かな土地だった。

しかし、街道を進むにつれ、その印象は少しずつ変わっていった。

丘の上には石造りの見張り塔。

道の分岐には小さな砦。

村の入口には木柵が築かれ、弓や槍を持った兵士が立っている。

「警備が厳しいですね」

ケーユーが声を潜める。

「国境に近いからだろう」

リュークは西の空へ目を向けた。

この先にはヌーレロ公領。

そして、そのさらに先にはドワーフ王国がある。

スザルア司教領とヌーレロ公領は、古くから帝国とドワーフ王国の双方が領有権を主張してきた土地だった。

戦争が起これば支配者が変わり、和平が結ばれれば再び境界線が引き直される。

村人たちは人族である。

だが、街道や橋、石造りの家々には、長い交流の中で伝わったドワーフの建築技術が残されていた。

「住んでいるのは人族なのに、少しドワーフの国に近い雰囲気がありますね」

ケーユーが石橋の欄干へ手を触れる。

継ぎ目がほとんど見えないほど、精巧に石が組まれていた。

「ああ」

リュークも橋を眺める。

「領主が変わっても、職人の技術までは消えないんだろう」

二人はそのまま街道を進んだ。

やがて、道の先に石造りの検問所が見えてくる。

街道の両側には高い壁が築かれ、門の上には弓兵が立っていた。

槍を持った兵士たちの胸には、公爵家の紋章ではなく、司教杖と葡萄の蔓を組み合わせた紋章が刻まれている。

スザルア司教領の紋章だった。

「止まれ」

隊長が片手を上げる。

二人は馬を止めた。

「どこから来た」

「ベーヴュシュ公領です」

「目的は」

「西へ向かう旅の途中です」

隊長は二人の姿をじっくりと確認した。

使い込まれた鎧。

腰の剣。

背負子へ載せられた荷物。

「ドワーフ王国へ行くのか」

「はい」

リュークは素直に答えた。

その言葉を聞いた瞬間、隊長の表情が露骨に曇った。

「……ドワーフか」

吐き捨てるような言い方だった。

「はい。」

隊長は鼻を鳴らした。

「奴らは鉄と金のことしか頭にない。自分たちが山を掘ったというだけで、この辺り一帯まで昔から自分たちの土地だったと言い張る」

背後にいた兵士の一人も、不機嫌そうに口を挟む。

「国境標を勝手に動かすこともある。こちらの木こりを捕まえて、越境者扱いする連中だ」

別の兵士が続けた。

「商売となれば笑顔で酒を飲むくせに、土地の話になればすぐ斧を持ち出しやがる」

隊長は低く息を吐き、リュークたちを睨むように見た。

「向こうへ行くのは勝手だが、奴らの言葉を簡単に信じるな。金を見せれば値を吊り上げる。人族だと分かれば、腕の悪い職人を押し付ける者もいる」

ケーユーがわずかに眉をひそめた。

それが事実なのか単に長年の領土争いから生まれた偏見なのか。

今の二人には判断できない。

リュークは表情を変えず、静かに頭を下げた。

「忠告、ありがとうございます」

兵士たちは二人の荷物を調べ始めた。

不審な品は見つからなかった。

隊長は最後に二人の剣へ視線を落とした。

「街中では抜くな」

「理由もなく騒ぎを起こせば、司教領兵が容赦なく捕らえる」

「承知しました」

隊長は西の方角を見た。

その目には、警戒だけではなく、長年積み重なった憎しみがあった。

「それともう一つ。ドワーフどもに、この土地は奴らのものではないと伝えておけ」

リュークは答えなかった。

ただ軽く頭を下げる。

隊長が手を上げると、重い門がゆっくりと開いた。

「通れ」

「ようこそ、スザルア司教領へ」

少し間を置き、隊長は低く付け加えた。

「ここは帝国領だ。それを忘れるな」

二人は無言のまま検問所を抜けた。

しばらく進んでから、ケーユーが小さく息を吐く。

「ずいぶん嫌われていますね、ドワーフは」

「ああ」

リュークは背後の検問所を振り返らずに答えた。

二人は再び西へ向かって歩き始めた。


昼過ぎ。

街道脇の小さな町へ立ち寄る。

広場には葡萄酒の樽が山のように積まれていた。

樽にはそれぞれ生産地と年が焼き印で記されている。

商人たちは樽を叩き、中の音を確かめながら値段を交渉していた。

「今年は雨が少なかったから、香りが強いぞ!」

「去年の物より一樽二十ニピエは高く売れる!」

「ドワーフ王国の商人が来る前に押さえろ!」

怒鳴り声が飛び交う。

「葡萄酒の取引ですか」

ケーユーが足を止める。

「ああ」

リュークは樽の印を眺める。

「ドワーフ王国でも葡萄は作れるが、ここの葡萄酒は格別らしい」

逆にドワーフ王国からは鉄、銅、精巧な工具、武器、宝飾品などが持ち込まれる。

スザルア司教領は単なる国境ではない。

帝国とドワーフ王国の品物が行き交う、巨大な交易の窓口でもあった。

「仲が悪いのに、商売はするんですね」

「国同士が争っても、必要な物は必要だからな」

リュークは苦笑する。

「人間は剣を向けながら、反対の手で金を数えるらしい」

ケーユーも小さく笑った。

「たくましいですね」


夕方。

司教座の置かれた都市が姿を現した。

城壁は高く、塔の上では兵士が西の方角を警戒している。

門の前には大勢の旅人と荷馬車が列を作っていた。

城壁の上には、司教領の旗。

その隣には帝国皇帝の双頭の鷲旗が掲げられている。

さらに門の左右には、古い紋章が削り取られた跡が残っていた。

ケーユーがそれに気付く。

「あれは何でしょう」

「以前の支配者の紋章じゃないか」

リュークは答える。

削られた石の形は百合の紋章に見えた。

かつて、この都市がドワーフ王国の支配下にあった名残なのかもしれない。

「この街も、何度か支配者が変わったのでしょうか」

「ああ」

リュークは城壁を見上げる。

「だからこそ、帝国旗を目立つ場所へ掲げているんだろう」

ここは帝国領である。

それを、住民だけでなく国境の向こうへも示しているのだ。


門をくぐると、街並みは整然としていた。

石造りの役所。

商人組合の建物。

葡萄酒の取引所。

両替商。

巨大な倉庫街。

広場では市が開かれ、多くの商人が客を呼び込んでいる。

「新物の葡萄酒だ!」

「ドワーフ製の鑿と槌だ! 石工なら見ていけ!」

「帝国東部産の毛皮はいかが!」

人族の商人たちが、帝国語で威勢よく声を上げている。

住民も旅人も、見える範囲ではほとんどが人族だった。

ただし店先に並ぶ商品や、建物の意匠には、国境の向こう側の文化が色濃く混ざっている。

石造りの家は頑丈で、扉の蝶番は分厚く、窓枠には精巧な金属細工が使われていた。

「不思議な街ですね」

ケーユーが辺りを見回す。

「住民は人族なのに、ドワーフの技術があちこちにあります」

「長く隣り合って暮らしてきた証拠だろう」

リュークは答える。

「争っているからといって、何もかも拒絶するわけじゃない」

広場の中央には石造りの庁舎。

その隣には、司教座が置かれた大聖堂が建っている。

だが、街中に教会が密集しているわけではない。

大聖堂は信仰の中心であると同時に、

裁判、徴税、外交など政治の中心でもあった。

「司教領というより、国境の商業都市ですね」

ケーユーが言う。

「ああ」

リュークも頷く。

「司教が領主だからこそ、交易を止めるわけにはいかない。この土地が貧しくなれば、兵も雇えないからな」


宿へ荷物を置いた二人は、夕暮れの街を歩くことにした。

市場では、まだ取引が続いていた。

葡萄酒商。

鉄商人。

塩商人。

両替商。

通訳を仕事にする者までいる。

「通訳もいるんですね」

ケーユーが驚く。

「ドワーフ王国の商人と取引するためだろう」

もっとも、この街へ来るドワーフ商人の多くは帝国語を話せるらしい。

それでも契約書や高額取引では、言葉の違いが争いの原因になる。

そのため商人組合が公認する通訳と書記が立ち会うのだという。

「戦争だけでなく、商売でも国境なんですね」

「ああ」

リュークは頷いた。

「ここでは一つの言葉の間違いが、剣より高くつくこともあるんだろう」


市場を歩いていると、一軒の書店が目に入った。

木製の看板には、

『写本商』

と書かれている。

「本屋ですか」

「ああ」

リュークの目がわずかに輝く。

「寄っていこう」

店へ入る。

棚には羊皮紙へ手書きされた写本が並んでいた。

帝国史。

薬草図鑑。

司教領法。

葡萄栽培法。

ドワーフ語の会話集。

国境紛争の記録。

騎士道について書かれた本。

リュークは一冊の背表紙へ目を止めた。

『スザルア領有権論争史』

「ずいぶん直接的な題名ですね」

ケーユーが覗き込む。

白髪の店主が苦笑した。

「この土地じゃ、誰もが自分に都合のいい歴史を書くからな」

「帝国側の本を読めば、古来より帝国領だったと書いてある」

「ドワーフ王国側の本を読めば、かつて自分たちが開拓した土地だと書いてある」

リュークは興味深そうに尋ねる。

「どちらが正しいのですか」

店主は肩をすくめた。

「両方とも正しく、両方とも間違っている。昔から人族もドワーフも、この土地で商売をしてきたが、今ここで暮らしている住民のほとんどは人族だ。俺たちにとって大事なのは、明日も畑を耕せるかどうかさ」

リュークはしばらく本を見つめた。

そして、棚から別の小さな写本を取り出す。

『ドワーフ王国の風俗と交易』

「これをください」

「歴史書ではなくていいのですか」

ケーユーが尋ねる。

「今は向こうへ行くための知識が必要だ」

店主は満足そうに頷いた。

「賢い選択だ」


店を出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。

鐘楼から夕刻を告げる鐘が鳴る。

ゴォーン――。

ゴォーン――。

人々が店じまいを始める。

同時に、街の西門から帰ってきた巡回兵が通りを進んでいた。

鎧には泥が付き、何人かは包帯を巻いている。

「戦闘があったのでしょうか」

ケーユーが声を潜める。

「小競り合いかもしれない」

リュークは答える。

国境では、兵士同士の衝突だけでなく、

密輸商。

盗賊。

領有権を主張する武装集団。

そうした者たちとの争いも絶えない。

街は賑やかで豊かだった。

だが、その繁栄は常に緊張の上へ築かれている。

リュークは改めて西の空を見た。

「国境とは、線じゃないんだな」

「どういう意味ですか」

「地図では一本の線だ」

「だが、実際には人が住み、商売をし、争いながら暮らしている」

ケーユーはしばらく考えたあと、静かに頷いた。

「本で読むだけでは分からないことですね」

「ああ」

「だから旅に出て良かった」


宿へ戻ると、一階の食堂は旅人や商人で賑わっていた。

料理は牛肉の葡萄酒煮込み。

黒パン。

この地方特産の硬いチーズ。

そして薄く酸味のある赤葡萄酒だった。

「いただきます」

ケーユーが煮込みを口へ運ぶ。

「柔らかいですね」

「葡萄酒で煮ているんだろう」

リュークも一口食べる。

肉の脂と葡萄酒の酸味がよく合っている。

続いてチーズを口にする。

「少し塩気が強いですね」

「保存が利くように作ってあるんだろう」

「旅にも向いていそうだ」

「明日、少し買っていきましょうか」

「ああ」

食事をしながら、二人は明日の予定を確認した。

「明日からヌーレロ公領へ向かいます」

「ああ」

リュークは宿の部屋へ戻ってから街道図を広げた。

人目のある食堂では開かない。

簡素な地図とはいえ、街道や砦の位置が記された品である。

「ここから五日」

「その先が国境地帯だ」

ケーユーが地図を見る。

「スザルアも国境の領地では?」

「そうだ」

リュークは頷いた。

「だが、ヌーレロはさらに軍事色が強い」

「この土地が交易の窓口なら、ヌーレロは帝国を守る盾なんだろう」

そして、その先にドワーフ王国がある。

ケーユーは地図を見ながら笑った。

「少しずつ近づいていますね」

「ああ」

リュークは背負子の中に納めたアダマンタイトへ目を向ける。

「もう少しだ」

「最高の鍛冶師に、この金属を託す」


翌朝。

日の出とともに、リュークとケーユーはスザルア司教領の都市を出発した。

西門では、東側よりも厳しい検査が行われていた。

荷車は一台ずつ止められ、積荷を改められている。

商人だけではない。

巡礼者。

傭兵。

旅人。

西へ向かう者は、誰一人として素通りを許されていなかった。

二人の番が来る。

「行き先は」

門番が尋ねた。

「ヌーレロ公領です」

リュークが答える。

「その先のドワーフ王国へ向かいます」

門番の顔がわずかに曇った。

「……またドワーフ王国か」

あからさまに不快そうな声だった。

「商売なら仕方ないが、あまり奴らを信用するな」

「この土地の人間は、皆そう言いますね」

ケーユーが穏やかに尋ねる。

門番は鼻を鳴らした。

「当然だ。昔から国境を越えてきては、山も森も自分たちの物だと言い張る連中だ」

隣の兵士も苦々しく吐き捨てた。

「和平を結べば境界標を動かし、揉めれば先に斧を抜く」

リュークは反論しなかった。

長く領有権争いが続いた土地では、どちらにもどちらの言い分がある。

「忠告、ありがとうございます」

門番は二人の荷物を確認すると、門を開いた。

「街道から外れるな。国境付近では、両軍の巡回兵が出会うだけで小競り合いになることもある。巻き込まれたくなければ、旗を見た時点で道を譲れ」

「分かりました」

二人は門番へ礼をし、西へ向かった。


スザルア司教領を離れるにつれ、景色は少しずつ変わっていった。

葡萄畑は減り、

代わりに深い森と低い丘が増えていく。

街道そのものは広く整備されていた。

しかし、旅人のためというより、軍隊を素早く移動させるために造られた道のようだった。

一定の間隔で石造りの見張り塔が建ち、

丘の上には烽火台が設けられている。

敵襲を知らせる火と煙を、短時間で公都まで届ける仕組みなのだろう。

「雰囲気が変わりましたね」

ケーユーが周囲を見回す。

「ああ」

リュークも頷いた。

「スザルアは商人を守るために兵を置いていた」

「ここは戦うために兵を置いている」

街道を行き交う荷車にも、穀物や葡萄酒より武器や軍需品が目立った。

槍、矢束、鉄製の兜、乾燥させた保存食、馬の飼料。

どれも国境の砦へ運ばれる品だった。

巡回する騎兵隊とも何度もすれ違った。

騎士たちは旅人へ視線を向けるだけで、笑いかけることはない。

常に西の方角を警戒していた。


昼頃。

街道の先に、大きな石橋が見えてきた。

橋の手前には、ヌーレロ公領の関所が築かれている。

高い石壁。

二重の門。

屋上には弩砲。

街道の両側には深い堀まで掘られていた。

「国境でもないのに、すごい関所ですね」

ケーユーが呟く。

「この川を越えれば、公領の中心部へ続く」

リュークは砦の造りを観察する。

「ここで敵を止めるつもりなんだろう」

関所の門前では、槍を持った兵士たちが旅人を調べていた。

二人の順番が来る。

「止まれ」

隊長らしい騎士が前へ出る。

胸には、ヌーレロ公爵家の紋章が刻まれていた。

「名は」

「リューク」

「ケーユーです」

「どこから来た」

「スザルア司教領からです」

「行き先は」

「ドワーフ王国です」

その瞬間、周囲の兵士たちの目が鋭くなった。

「ドワーフ王国へ何をしに行く」

「鍛冶師を探しています」

隊長はリュークの腰の剣へ目を向ける。

続いて、荷鞍へ視線を移した。

「何を鍛えさせる」

リュークはすぐには答えなかった。

周囲には兵士が十人以上いる。

ここで見せるべきか、わずかに迷う。

しかし、荷を隠したまま国境へ向かおうとすれば、かえって疑われるだろう。

「人目を減らしていただけますか」

隊長の眉が上がる。

「ずいぶん大層な品らしいな」

「はい」

リュークは静かに答えた。

「非常に希少な金属です」

隊長はしばらく二人を見つめたあと、周囲の兵士へ命じた。

「門を閉じろ。荷の検査が終わるまで、次の旅人を止めておけ」

「はっ」

重い門が閉じられる。

近くに残ったのは隊長と、古参らしい兵士が二人だけだった。

リュークは荷鞍へ歩み寄る。

革紐を解き、何重にも巻かれた布を慎重に開いていく。

最後の布が取り払われた瞬間。

深い赤色の光が、薄暗い検問所の中へ広がった。。

鉄とも銀とも違う。

表面には傷一つなく、まるで内側から淡い光を放っているようだった。

隊長の表情が変わった。

「……まさか」

隣にいた兵士が息を呑む。

「アダマンタイト……?」

リュークは小さく頷いた。

「はい」

「これを剣へ鍛えてもらうため、ドワーフ王国へ向かっています」

隊長はしばらく言葉を失っていた。

やがて恐る恐る手を伸ばす。

「触れてもいいか」

「どうぞ」

隊長は両手でインゴットを持ち上げようとした。

だが、ほとんど動かない。

「重い……!」

力を込め、ようやくわずかに浮かせる。

見た目からは想像できない重量だった。

隊長はすぐに苦々しい顔を浮かべる。

「こんな物を、あの髭面どもへ渡すつもりか」

ケーユーがわずかに眉を寄せた。

リュークは表情を変えずに答える。

「鍛えられる職人が、人族にはいないと聞いております」

「だからといって、ドワーフを信用するのか」

隊長は鼻を鳴らした。

「奴らは珍しい鉱石を見ると、目の色を変える。鉄と金と酒のことしか考えておらん連中だ」

隣の兵士も口を挟む。

「アダマンタイトなんぞ見せたら、返してもらえないかもしれんぞ。これは王国の宝だと言い出して、平然と取り上げるかもしれない」

もう一人の兵士が苦々しく笑った。

「代わりに鈍らを一本渡して、これが最高傑作だと言い張るかもな」

三人の間から低い笑いが漏れる。

だが、冗談だけではない。

そこには、長年積み重ねられた不信と敵意が滲んでいた。

隊長はアダマンタイトを睨むように見つめる。

「奴らは自分たちだけが鉄を理解していると思っている。人族の鍛冶師を見下し、こちらが何を作っても粗悪品扱いだ。そのくせ、葡萄酒がなければ冬も越せん」

兵士が吐き捨てる。

「山の穴へ籠もって槌を振るうだけの石頭どもだ」

ケーユーが何か言おうとしたが、リュークは小さく手で制した。

ここで反論しても意味はない。

隊長たちの言葉が事実なのか、偏見なのか。

それは実際にドワーフ王国へ行き、自分の目で確かめればいい。

「忠告として覚えておきます」

リュークはそう答え、再びインゴットを布で包み始めた。

一枚。

二枚。

最後に革紐を固く結ぶ。

隊長はその手元を見ながら、低い声で言った。

「絶対に一人で工房へ入るな。鍛冶師へ預ける時も、完成するまで目を離すな。可能なら、領主か組合の立会いを求めろ。アダマンタイトは、金貨を積んでも手に入らん。人を殺してでも奪おうとする者はいる」

今度の言葉には、悪意ではなく本気の忠告が込められていた。

リュークは真剣に頷く。

「ありがとうございます」

隊長は小さく息を吐き、兵士へ顎を向けた。

「門を開けろ」

「通してやれ」

重い門が軋みながら開いていく。

二人が馬を進めようとすると、隊長が最後に声を掛けた。

「旅人」

リュークが振り返る。

隊長は布に包まれたアダマンタイトへ視線を向けたまま言った。

「その金属を、ドワーフどもの宝にするな。人族の剣として持ち帰れ」

リュークはわずかに笑った。

「そのつもりです」

二人は門を抜け、ヌーレロ公領の街道へ馬を進めた。


関所からしばらく離れたところで、ケーユーが小さく息を吐いた。

「スザルアよりも、ずっと敵意が強いですね」

「ああ」

リュークは前を向いたまま答える。

「ここは何度も戦場になった土地なんだろう。家族や故郷を失った者も多い。簡単に忘れろとは言えないな」

「でも、ドワーフ側にも同じような人がいるかもしれません」

「そうだろうな」

リュークは頷いた。


さらに二日。

街道沿いの村へ入る。

村の周囲には高い木柵が巡らされ、

入口には鐘楼が建っていた。

畑で働く農民たちも、腰へ短剣や手斧を提げている。

子どもたちは木剣で遊び、老人でさえ家の壁へ弓を立て掛けていた。

「住民まで武装していますね」

ケーユーが驚く。

「襲撃があった時、自分たちで村を守るためだろう」

リュークは木柵へ目を向ける。

補修された跡がいくつも残っている。

一部は黒く焦げていた。

かなり古いものだったが、火を放たれた痕跡なのは間違いない。

村の宿で休んでいると、店主が二人の行き先を尋ねてきた。

「西へ行くのか」

「ああ」

リュークは答える。

「ドワーフ王国へ向かっている」

店主の顔が曇る。

「好き好んで、あんな連中の国へ行くのか」

「鍛冶師を探しているんです」

ケーユーが説明する。

店主は鼻を鳴らした。

「鍛冶だけは確かに上手いがそれ以外は、石頭の頑固者ばかり。少しでも自分たちを侮辱されたと思えば、何十年でも根に持つ」

奥で酒を飲んでいた老人も口を挟む。

「ドワーフの恨みは岩より硬いって言うからな」

周囲から小さな笑いが起こった。

だが、その笑いには軽さがなかった。

長年の争いから生まれた言葉なのだろう。

リュークは黙って食事を続けた。


翌朝。

村を出ると、街道の左右に古い戦場跡が広がっていた。

土に埋もれた石壁。

崩れた砦。

道端には小さな慰霊碑が幾つも並んでいる。

そこには人族の名が刻まれていた。

騎士。

兵士。

農民。

女性や子どもの名まである。

ケーユーが馬を止めた。

「こんなに……」

「ああ」

リュークも慰霊碑を見つめる。

ヌーレロ公領の住民が、なぜドワーフを憎むのか。

その理由が、目の前に残されていた。

「戦争が終わっても、憎しみは残るんですね」

ケーユーが静かに言う。

「土地は取り戻せても、死んだ者は戻らない」

リュークは父と母を思い出した。

「だから、次の世代へも恨みが受け継がれる」

二人は慰霊碑へ短く祈りを捧げ、再び西へ向かった。


五日目の夕方。

ヌーレロ公領の公都が見えてきた。

街というより、巨大な城塞だった。

高い三重の城壁。

深い堀。

城門の前に築かれた半円形の防御施設。

城壁上には投石器と大型弩弓が並び、塔ごとに兵士が配置されている。

その背後には公爵の居城がそびえ立っていた。

「すごい……」

ケーユーが息を呑む。

「王都ハラプより堅そうですね」

「ああ」

リュークも城壁を見上げる。

「街を守るというより、軍そのものを守る砦だ」

城門の前には兵士の列。

荷車の多くは軍需物資を運んでいた。

穀物。

干し肉。

鉄。

木材。

矢。

馬具。

門の外には広大な練兵場まであり、何千人もの兵士が槍を揃えて訓練している。

号令が響く。

「構え!」

一斉に槍が上がる。

「突け!」

数千本の槍が同時に前へ伸びた。

地面まで震えるような声が上がる。

「ベーヴュシュが騎士の土地なら」

ケーユーが呟く。

「ヌーレロは軍隊の土地ですね」

「ああ」

リュークも頷いた。

「個人の強さではなく、軍として敵を防ぐ土地だ」


城門をくぐる。

街中にも軍事色が濃かった。

武器庫。

兵舎。

馬小屋。

矢を作る工房。

鎧の修理場。

食料を蓄える巨大な倉庫。

市場はある。

酒場もある。

人々の暮らしもある。

だが、すべてが国境防衛を支えるために存在しているように見えた。

通りでは兵士が隊列を組んで歩き、

鐘が鳴れば、住民たちが瞬時に道を空ける。

「慣れていますね」

ケーユーが言う。

「兵が生活の一部なんだろう」

リュークは答える。

「いつ戦が始まっても動けるようにしている」

広場には巨大な石像が建っていた。

剣を地面へ突き立て、

西の方角を睨む鎧姿の公爵。

台座には文字が刻まれている。

『この地より一歩も退かず』

ヌーレロ公爵家の標語だった。

「この領地らしいですね」

「ああ」

リュークは石像を見上げる。

「ここに住む者たちは、自分たちが帝国を守っていると信じている」

実際、その誇りがなければ、何代にもわたって国境を守り続けることなどできないだろう。


その夜。

宿の食堂では、兵士たちが酒を飲んでいた。

話題のほとんどは国境のことだった。

「西砦へ増援が送られたらしい」

「またドワーフの巡回隊が境界を越えたそうだ」

「連中は偵察だと言っている」

「偵察で二百人も連れてくるかよ」

兵士たちが不満を口にする。

その一方で、商人たちは小声で鉄や武器の値段を話し合っていた。

「それでもドワーフ製の工具は売れる」

「人族の物より三割高くても、倍は長持ちするからな」

「嫌いでも買う奴は買うさ」

ケーユーが小声で囁く。

「ここでも、商売は別なんですね」

「ああ」

リュークは苦笑する。

「憎みながら必要としている」

「国境という土地は、どこも複雑だな」


食事を終え、二人は部屋へ戻った。

リュークは簡易街道図を机へ広げる。

ヌーレロ公領を抜ければ、次は国境。

その向こうには、ドワーフ王国領ニューパンシャ伯領がある。

「あと何日ですか」

ケーユーが尋ねる。

「二日ほどだ」

リュークは地図上の街道を指でなぞる。

「ただし、国境検査はかなり厳しいはずだ」

「帝国側だけでなく、ドワーフ側もですね」

「ああ」

二人は地図を畳む。

窓の外では、夜になっても見張り鐘が鳴っていた。

兵士たちの足音。

馬の嘶き。

城壁上を巡回する鎧の音。

帝国西方を守る盾――ヌーレロ公領。

この土地では、眠っている間でさえ戦争への備えが止まることはなかった。


公都から離れるにつれ、街道を行く者は少なくなっていった。

軍需物資を運ぶ荷車。

巡回中の騎兵。

すれ違う者の顔には、どこか張り詰めたものがある。

道の両側には、古い戦いの痕跡が残されていた。

崩れた石壁。

焼け落ちた見張り塔。

草の中に半ば埋もれた境界標。

人族の紋章が刻まれた石もあれば、その下から削り取られた百合の意匠が覗いているものもあった。

「何度も支配者が変わったのでしょうね」

ケーユーが呟く。

「ああ」

リュークは崩れた石垣を眺める。

「旗は変えられても、傷までは消せないらしい」

昼を過ぎた頃、街道は低い森へ入った。

木々の間を抜ける細い道。

その先に、小さな脇道が伸びている。

道端には古びた石柱が立っていた。

刻まれている文字は、帝国語ではない。

角張った、深く彫り込まれた文字。

「ドワーフ文字ですね」

ケーユーが馬を止める。

リュークも石柱へ目を向けた。

図書館で何度か見たことがある。

完全には読めないが、その下に後から刻まれた帝国語があった。

旧西丘共同墓地。

さらにその下には、新しい文字が乱暴に刻まれている。

異族の墓。立入無用。

リュークは眉を寄せた。

その時森の奥から、怒鳴り声が聞こえた。

「倒せ!」

「こんな石、残しておく必要はねえ!」

続いて、硬い物へ鉄が打ち付けられる音。

ガンッ。

ガンッ。

二人は顔を見合わせた。

リュークは迷わず馬首を脇道へ向ける。

「行くぞ」

「はい」


森を抜けた先には、小さな墓地があった。

苔むした石壁に囲まれ、数十基の墓石が並んでいる。

どの墓も人族のものより低く、幅が広い。

墓石にはドワーフ文字と、槌や斧、鉱山灯を模した意匠が彫られていた。

その墓地で、五人の男が墓石を壊していた。

農具を持った若者。

斧を振るう木こり。

酒瓶を腰へ提げた男。

すでに二基の墓石が倒され、表面の文字が欠けている。

その前に、一人のドワーフが立っていた。

人族の胸ほどしかない身長。

だが、その身体は岩を削り出したように太く、頑丈だった。

煤けた鎖帷子。

背中には巨大な戦斧。

長く伸びた赤褐色の髭は、戦場帰りらしく荒れ、ところどころ革紐で束ねられている。

ドワーフは倒された墓石の前へ立ち、低い声を上げた。

「もう一度言う。その斧を下ろせ」

男たちの一人が笑った。

「ここはヌーレロ公領だ」

「ドワーフの墓なんざ、もう必要ねえ」

「畑を広げるのに邪魔なんだよ」

別の男が吐き捨てる。

「お前らの痕跡全て壊してやる」

ドワーフの手が戦斧の柄へ伸びた。

その動きを見て、男たちも鍬や斧を構える。

「やる気か?」

「ここで俺たちに手を出せば、ドワーフがまた帝国人を襲ったってことになるぞ」

ドワーフの指が止まった。

殴り倒すことはできる。

おそらく、五人まとめて相手にしても負けない。

だが、ここで武器を抜けば、墓を守るどころか、墓地そのものを破壊する口実を与えることになる。

そのことを理解しているからこそ、動けないのだろう。

男の一人が勝ち誇ったように笑う。

「どうした?」

「斧を抜けよ、髭面」

そう言って、再び墓石へ斧を振り上げた。

「やめろ」

静かな声が森へ響いた。

男たちが振り返る。

リュークとケーユーが墓地の入口に立っていた。

「何だ、お前ら」

リュークはゆっくり歩み寄る。

視線は男たちではなく、倒された墓石へ向いていた。

「ここは墓地だ。死人の眠る場所を壊すな」

斧を持った男が鼻で笑う。

「ドワーフの墓だぞ。帝国の敵だ」

リュークは男を見る。

「墓の下にいる者が、今のお前に何をした」

「昔、こいつらがこの土地を――」

「その者たちがしたのか」

男は言葉に詰まる。

リュークは倒された墓石を示す。

「そこに眠っている者が、お前の家を焼いたのか」

「家族を殺したのか」

「……知らねえよ」

「ならば、敵かどうかも知らない相手の墓を壊しているだけだ」

男の顔が赤くなる。

「旅人が偉そうに口を出すな!」

「ここは俺たちの土地だ!」

「違う」

低い声が割り込んだ。

ドワーフだった。

怒りに震えながらも、戦斧から手を離している。

「ここは墓地だ。人族の土地でも、ドワーフの土地でもない。死者の土地だ」

男たちは一瞬ひるんだ。

だが、人数では自分たちが上だと気付くと、再び強気な表情へ戻る。

「うるせえ!」

一人がリュークへ掴み掛かった。

その腕が届く前に、リュークは手首を取った。

捻る。

男の身体が宙を回り、柔らかい土の上へ背中から落ちた。

「ぐっ!」

残る四人が一斉に動く。

ケーユーが前へ出た。

振り下ろされた鍬の柄を掴み、そのまま引く。

男が体勢を崩したところへ足を掛け、地面へ転がした。

リュークは斧を持った男の懐へ踏み込む。

肘を押さえ、肩をひねる。

斧が地面へ落ちた。

もう一人の胸へ軽く掌底を当てる。

息を詰まらせ、男が膝をつく。

最後の一人は動けなかった。

わずか数秒。

五人全員が地面へ転がっている。

リュークは落ちた斧を拾い上げ、男たちから離れた場所へ投げた。

「帰れ。次に墓を壊せば、衛兵へ突き出す」

最初に倒された男が歯を食いしばる。

「ドワーフの味方をするのか」

リュークは首を振った。

「墓を守っただけだ」

男は何か言い返そうとした。

だが、リュークの目を見て口を閉ざす。

「……行くぞ」

五人は農具を拾い、森の奥へ逃げていった。


墓地に静けさが戻る。

ドワーフはしばらく男たちが消えた方向を見ていた。

やがて、リュークへ視線を向ける。

「なぜ止めた」

声には警戒が残っていた。

「俺がドワーフだから、助けたわけではあるまい」

「ああ」

リュークは倒された墓石の前へしゃがみ込む。

「墓だったからだ」

欠けた石へ手を添える。

「誰の墓でも同じことをした」

ドワーフは黙った。

リュークは墓石を持ち上げようとする。

思った以上に重い。

地中へ差し込まれていた基部まで含めれば、成人一人では動かせないほどだった。

「ケーユー」

「はい」

二人で石を起こそうとした、その時。

横から太い腕が伸びた。

ドワーフが墓石を支える。

「俺もやる」

三人で力を合わせ、倒された墓石を元の穴へ戻す。

周囲の土を踏み固める。

欠けた部分は元には戻らない。

それでも墓石は再び立ち上がった。

続いて、もう一基。

こちらは上部が大きく割れていた。

ドワーフは地面へ落ちていた欠片を拾い、泥を丁寧に拭った。

その手が震えていた。

リュークは何も言わず、欠片を受け取る。

墓石へ合わせる。

完全には戻せない。

だが、どこが欠けたのかは分かった。

「町で石工を探そう」

リュークが言う。

「補修できる者がいるかもしれない」

ドワーフは欠けた文字を見つめたまま答えない。

やがて、掠れた声が漏れた。

「これは、親父の墓だ」

隣の墓石へ手を触れる。

「こっちは、お袋だ」

リュークとケーユーは黙って耳を傾けた。

「二人とも、この土地で生まれた」

「戦が始まっても、ここを離れなかった」

ドワーフは地面へ膝をつく。

「俺が傭兵として遠くへ出ている間に、二人とも死んだ。死に目にも会えなかった」

大きな手が、墓石の表面をゆっくり撫でる。

「せめて年に一度は戻ると決めていたがその年は戦に雇われていてな」

鎧や髭に残る傷と汚れは、その戦場から帰ってきたばかりだからなのだろう。

ケーユーが静かに尋ねる。

「お一人で来たのですか」

「ああ」

ドワーフは自嘲するように笑った。

「人族はドワーフの傭兵を雇わん。この辺りでは特にな。ドワーフ側でも、戦が終われば俺たち傭兵は用済みだ。だから一人で帰ってきた」

しばらく沈黙が流れた。

風が木々を揺らす。

墓石の前に置かれていた枯れた花が、かすかに震えた。

ドワーフは腰の袋から、小さな酒瓶を取り出した。

栓を開け、二つの墓へ少しずつ酒を注ぐ。

「親父」

「お袋」

「遅くなった」

低く、不器用な声だった。

「今年も帰ってきたぞ」

リュークとケーユーは少し離れ、静かに頭を下げた。

ドワーフはその姿に気付く。

「人族の祈り方は知らんが、墓へ頭を下げてくれるのか」

リュークは答えた。

「家族を思う気持ちは同じだ」

その言葉を聞いた瞬間、ドワーフの顔から警戒が消えた。

代わりに、深い疲労と悲しみが浮かび上がる。

「……そうか」

短い言葉だった。

だが、その声は震えていた。

ケーユーは少し迷ったあと、静かに尋ねる。

「帝国語がお上手なのですね」

ドワーフは墓石を見つめたまま答えた。

「俺はこの土地で生まれた」

「親父は石工で、お袋は宿屋の娘だった」

父親は人族の商人や領主からも仕事を受け、橋や倉庫、家屋の石壁を造っていた。

母親の宿にも、人族の旅人や商人が大勢泊まった。

そのため家ではドワーフ語を使い、仕事場や市場では帝国語を使う生活だった。

「物心がついた頃には、両方話していた」

エーアールは自嘲するように笑う。

「ドワーフ王国へ戻った時には、帝国語訛りのドワーフだと笑われたものだ。だが、傭兵になってからは役に立った。国境の商人とも話せるし、人族の兵が何を相談しているかも分かる」

ケーユーは感心したように頷いた。

「では、文字も読めるのですか」

「ああ」

「ドワーフ語も帝国語も読める」


墓参りを終えると、三人は墓地の石壁を簡単に修理した。

崩された石を積み直し、入口に倒されていた石柱も起こす。

作業が終わる頃には、太陽が傾き始めていた。

エーアールは墓地を見渡し、深く息を吐く。

「助かった。墓を守ってもらっただけじゃない。親父とお袋の前で、また人族を憎むところだった」

リュークは首を傾げる。

エーアールは苦笑した。

「あのまま奴らが墓石を壊していたら、俺は斧を抜いていた。五人とも殺していたかもしれん。そうなれば、この墓地は報復で跡形もなく壊されていただろう」

自分の両手を見る。

「俺には止まる理由がなかった。お前が来るまではな」

リュークは静かに答える。

「墓は守られた。それで十分だ」

「お前には十分でも、俺には違う」

エーアールは真っ直ぐリュークを見る。

「ドワーフは受けた恩を忘れん。命を救われたなら、命で返す。家族を救われたなら――」

一度言葉を止める。

背後にある二つの墓を振り返った。

「一生掛けても返し切れん」

リュークは困ったように笑う。

「そこまで大げさに考えなくていい」

「大げさかどうかを決めるのは、お前じゃない」

エーアールは鼻を鳴らした。

その言い方に、ケーユーがわずかに笑う。

エーアールは右拳を自分の胸へ当てた。

「俺はエーアール。傭兵だ」

リュークも名乗る。

「リューク」

「こちらはケーユーだ」

「よろしくお願いします」

ケーユーが頭を下げる。

エーアールは二人を交互に見た。

「お前たちは、どこへ向かっている」

「ドワーフ王国だ」

リュークは答える。

「ニューパンシャ伯領を通り、王都リパを目指している」

「王都へ何をしに行く」

「鍛冶師を探している」

その言葉に、エーアールの眉が上がった。

「人族が、わざわざドワーフの鍛冶師を?」

「ああ」

「鍛えてほしい金属がある」

エーアールは荷鞍へ視線を向けた。

しかし、無理に中身を聞こうとはしなかった。

「王都の鍛冶師は気難しいぞ。金を積めば誰にでも剣を打つわけじゃない。人族なら、工房の門前で追い返されることもある」

ケーユーが困ったようにリュークを見る。

「やはり簡単ではなさそうですね」

「ああ」

エーアールは頷く。

「言葉も問題になる。国境や大市では帝国語が通じるが、王都の職人はドワーフ語しか話さん者も多い。特に年寄りの名工はな」

リュークは少し考えた。

「エーアールは王都まで行くのか」

「そのつもりはなかった。墓参りが終われば、ニューパンシャで次の仕事を探すつもりだった。だが、予定を変える」

エーアールはリュークへ向き直った。

「王都まで案内してやる。宿も、商人も、鍛冶師組合も、ドワーフのやり方を知らなければ人族には面倒だ」

リュークは驚いたように目を細めた。

「そこまでしてくれるのか」

「墓を守ってもらった礼だ」

エーアールは即座に答えた。

「それに、お前たちだけで王都へ行けば、何かしら面倒を起こす気がする」

「私たちは、それほど危なっかしく見えますか」

ケーユーが尋ねる。

「人族二人が、正体を隠した荷物を持って、ドワーフ王国一の鍛冶師を探しに行くんだろう」

エーアールは呆れたように言った。

「面倒しか起きん」

ケーユーは否定できず、黙り込んだ。

リュークは少し笑う。

「王都まで頼む」

「ああ」

エーアールは頷いた。

「鍛冶師が見つかるまでだな。」

少し間を置く。

「その先は、その時に考える」

ぶっきらぼうな言い方だった。

だが、背中の戦斧を担ぎ直したエーアールは、すでに二人と別行動を取るつもりがないように見えた。

ケーユーが嬉しそうに笑う。

「よろしくお願いします、エーアールさん」

「さんはいらん」

「では、エーアール」

「それでいい」

リュークも右手を差し出した。

「改めて、よろしく頼む」

エーアールはその手を見つめる。

ドワーフと人族。

長年争いを続けてきた二つの種族。

ほんの少し前までなら、こうして人族の手を握ることなど考えもしなかった。

やがて、大きな手でリュークの手をしっかりと握る。

「任せろ。王都まで無事に連れていってやる。その代わり、勝手な行動はするな」

「善処する」

エーアールは疑わしそうにリュークを見る。

三人は並んで墓地を出た。

途中、エーアールは一度だけ振り返る。

木々の間に、立て直された二つの墓石が見えた。

「親父、お袋」

小さく呟く。

「今度は、少し面白い旅になりそうだ」

風が枝葉を揺らした。

まるで墓の下の両親が、笑って送り出しているようだった。

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