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喪失の日

ルーカが皇帝として戴冠してから、二か月が過ぎた。

ヘーア自由都市で執り行われた戴冠式の後、帝国には束の間の平穏が訪れていた。

二十年もの間、空位となっていた皇帝位がようやく埋まったのである。

有力諸侯の多くはルーカへ忠誠を誓い、各地の教会では新皇帝の名を唱える祈りが捧げられた。

街道を行き交う商人たちは、これで諸侯同士の戦も減るだろうと期待した。

農民たちは、今年こそ徴兵されずに畑を耕せるかもしれないと願った。

誰もが、長く続いた争いが終わりへ向かっていると信じようとしていた。

だが、それはあくまで願いにすぎなかった。

皇帝が誕生したからといって、諸侯が一夜にして従順になるわけではない。

帝国は一つの国ではなかった。

皇帝を頂点に戴きながらも、公爵や辺境伯、伯爵たちはそれぞれ独自の領地を治め、軍を持ち、税を取り、法を定めている。

皇帝の命令でさえ、自らの利益に反すると判断すれば拒む者は珍しくなかった。

特に西方の低地地方では、ルーカの即位に対する不満が根強く残っていた。

その中心にいたのが、ラウス川会戦で敗れたエッセ公である。

エッセ公は会戦の後、自領へ逃げ帰っていた。

五万の軍勢を率いて出陣したにもかかわらず、総大将旗を奪われ、軍資金も兵糧も置き去りにして壊走した。

その敗北によって、彼の威信は大きく傷ついた。

寄子の諸侯の中には、エッセ公を見限り、ルーカへ忠誠を誓うべきだと主張する者も現れた。

だが、エッセ公は諦めなかった。

敗北を受け入れれば、ルーカを皇帝と認めなければならない。

そうなれば、ラウス川会戦は単なる軍事的敗北では終わらず自らの領内における権威まで失われる。

寄子たちは離れ、公爵家の重臣たちは責任を求め、いずれは領地そのものを奪われかねない。

エッセ公に残された道は一つだった。

自らが皇帝となる。

それだけだった。


その日の午後、ノカス公爵家の居城へ西方からの使節が到着した。

城門の見張り兵が掲げられた旗を確認すると、すぐに早鐘が鳴らされた。

戦を告げる鐘ではない。

だが、歓迎を表す鐘でもなかった。

使節の旗は、深い青地だった。

その中央には、後ろ脚で立ち上がり、前脚を掲げる一頭の獅子が描かれている。

獅子の体には赤と白の横縞が交互に走り、爪と舌だけが金色に輝いていた。

エッセ公爵家の紋章である。

使節は三十騎ほどの護衛を伴っていた。

全員が青い外套をまとい、胸元には獅子の紋章を縫い付けている。

彼らは武器を城門へ預けるよう求められても表情を変えず、堂々と城内へ入ってきた。

使節を迎える謁見の間には、ノカス公をはじめ、重臣たちが集められていた。

リュークとドンモイレも父の左右へ控えている。

エッセ公の使者は、赤い絨毯の上をゆっくりと進み、定められた位置で立ち止まった。

膝をつくことはなかった。

臣下として訪れたのではないという意思表示だった。

父トルベルアの眉がわずかに動く。

「エッセ公の使者よ。用件を申せ」

使者は一礼した。

「我が主、エッセ公より、ノカス公爵閣下へ書状をお預かりしております」

従者が銀の盆を差し出す。

その上には、青い封蝋で閉じられた羊皮紙が載せられていた。

父は侍従に受け取らせると、封蝋を確かめた。

紛れもなくエッセ公本人の印である。

羊皮紙を開き、無言で読み進める。

父の表情は変わらない。

だが、謁見の間にいる者たちは、次第に空気が重くなっていくのを感じていた。

やがて父は書状を閉じた。

「使者よ。この内容を、お前の口からも申してみよ」

使者は一歩前へ出た。

「承知いたしました」

そして、謁見の間に集う全員を見回すように顔を上げた。

「ルーカなる者を、我ら西方諸侯は皇帝と認めません」

ざわめきが起きる。

騎士たちが思わず剣の柄へ手を伸ばした。

父が片手を上げると、すぐに静まり返る。

使者は続けた。

「ルーカはアミヘボ王とノカス公の武力によって戴冠したにすぎず、諸侯の自由なる選定を経ておりません。よって、その戴冠は無効であります。正統なる皇帝は、帝国の安寧と諸侯の自由を守る力を持つ者でなければなりません」

使者は胸を張った。

「我らはエッセ公を皇帝として推戴いたします」

謁見の間の空気が凍りついた。

それは単なる抗議ではない。

ルーカの皇位を否定し、別の皇帝を立てるという宣言だった。

帝国に二人の皇帝が生まれる。

それは、戦争を意味していた。

父は静かに尋ねた。

「我ら、とは誰だ」

使者は別の羊皮紙を取り出した。

「トンバラブ公スウレガ様」

「スーダンラフ伯オキルマ様」

「トンラホ伯ドーナルベ様」

「ノエ伯ムイハ様」

「そのほか諸侯二十三家」

名前が読み上げられるたび、重臣たちの表情が険しくなっていく。

低地地方は帝国西部でも特に人口が多く、商業の盛んな地域だった。

平坦な土地が広がり、穀物の生産量も多い。

海へ続く河川と運河を利用した交易によって、多くの都市が富を蓄えている。

そこに属する諸侯がエッセ公のもとへ集まった。

決して無視できる勢力ではなかった。

「書状には、ノカス家にも正統なる皇帝へ忠誠を誓う機会を与えるとあります」

使者が言う。

父の目が細くなる。

「断れば」

「ルーカを支える反逆者と見なします」

周囲から怒りの声が漏れた。

「反逆者だと」

「どちらが反逆者だ!」

剣を抜こうとする騎士を、団長が腕で制する。

使者は一切怯まなかった。

「我が役目は、書状の内容をお伝えすることのみ。返答は七日以内に願います」

父トルベルアはしばらく使者を見つめていた。

やがて、低い声で答える。

「七日も必要ない」

使者の眉が動く。

「我が家が宝剣を奉持し、ルーカ陛下の戴冠へ従事したことを忘れたか。ノカス公爵家が、一度捧げた忠誠を恥知らずにも翻すと思うか」

父の声に怒鳴るような激しさはない。

だが、謁見の間の石壁まで震えるような重みがあった。

「我が返答をエッセ公へ伝えよ」

父は立ち上がった。

「帝国に皇帝はただ一人。ルーカ陛下のみである。エッセ公が皇帝を名乗るならば、我らは剣をもってその偽りを正す」

使者はわずかに頭を下げた。

「確かに承りました」

その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。

まるで最初から、その返答を予想していたかのように。


使節が城を去ると、直ちに軍議が開かれた。

中央の卓には帝国西部の地図が広げられる。

父は、使者から渡された連名書を卓へ置いた。

「低地諸侯のほとんどがエッセ公へ付いた」

重臣の一人が地図を見ながら唸る。

「ラウス川で敗れたばかりだというのに、なぜこれほど集められたのか」

「敗れたからでしょう」

ドンモイレが答えた。

全員の視線が集まる。

「エッセ公は、今ここで立たなければ終わる」

「寄子たちも同じです」

「ルーカ陛下の支配を受け入れれば、ラウス川会戦の責任を問われると恐れているのでしょう」

父は小さく頷いた。

「その通りだ」

「恐怖によって結ばれた同盟ではあるが、兵力は侮れん」

報告によれば、エッセ公が集められる兵力は六万前後。

対する皇帝側は、すぐに動かせる兵だけなら四万に届かない。

ただし、各地の支持諸侯へ動員を命じれば五万ほどまでは増やせると見積もられていた。

「すぐにルーカ陛下とアミヘボ王へ使者を出す」

父は命じた。

「寄子の全諸侯へ動員令」

「十五日分の兵糧を持たせ、十日以内にノカス領南西部へ集結させろ」

「騎士団は明日より出陣準備」

重臣たちが次々と立ち上がる。

「承知いたしました」

「御意」

命令が発せられるたび、伝令が部屋を飛び出していく。

リュークは地図を見つめていた。

西方の低地地方。

多数の川。

湿地。

平野。

騎兵を動かしやすい場所もあれば、ぬかるみに足を取られる場所もある。

政治には興味がないが、戦場となる地形には興味があった。

「敵はどこへ出てくると思いますか」

父へ尋ねる。

父トルベルアは地図の中央を指差した。

「おそらく、この一帯だ」

そこには広い平原が描かれている。

北には低い丘陵。

南には小さな森。

中央を一本の街道が通っていた。

「ヴァレ平原」

ドンモイレが地名を口にする。

「六万の軍勢を展開するなら、ここが最適です」

「こちらも同じだ」

父は答えた。

「避けて通れば、エッセ軍はノカス領の西部へ侵入する」

「迎え撃つしかない」

再び野戦になる。

リュークの胸の内に、わずかな高揚が生まれた。

先の戦で勝利したばかりだ。

ラウス川ではエッセ軍を完全に打ち破った。

今回も勝てる。

少なくとも、この時のリュークはそう考えていた。


その夜。

城内の明かりが消え、人々が眠りについた頃。

ドンモイレは一人で自室を出た。

普段の華美な上着ではない。

黒い外套で全身を覆い、顔も深く隠している。

廊下を進み、使用人用の階段を下りる。

城の裏手にある小さな礼拝堂へ入り、祭壇の脇にある扉を開けた。

そこには古い墓地へ続く地下道があった。

かつて城が包囲された際、聖職者や婦女子を逃がすために作られた通路である。

今では存在を知る者も少ない。

ドンモイレは小さな魔石灯を手に、湿った石段を下りていった。

地下道を抜けた先は、城壁の外にある林だった。

木々の間には、一台の小さな馬車が待っている。

御者席に人影はない。

ドンモイレが近づくと、馬車の扉が内側から開いた。

「お待ちしておりました」

中にいたのは、昼間とは別のエッセ公の使者だった。

使節団の一員として城へ入った後、密かに離れ、林で待っていたのである。

ドンモイレは馬車へ乗り込んだ。

扉が閉まる。

狭い車内には、二人の間を照らす小さな灯りだけが置かれていた。

「本当に来られるとは」

使者が薄く笑う。

「本題に入れ」

ドンモイレは苛立った声で言った。

「長居はできん」

「では、単刀直入に」

使者は一通の書状を差し出した。

封にはエッセ公の獅子が刻まれている。

ドンモイレは封を切り、中を読んだ。

そこには簡潔な言葉で、約束が記されていた。

ノカス公トルベルアの死後、ドンモイレを正統なノカス公爵として承認する。

ノカス公爵領の現状の領土と特権を保証する。

リューク・ノフ・ノカスが死亡した場合、その所領や名誉もすべて新公爵ドンモイレへ帰属させる。

書状を読み終えたドンモイレの手が、わずかに震えた。

それは恐怖ではない。

長年欲し続けてきた保証が、文字となって目の前にあることへの興奮だった。

「父上が生きている間はどうする」

「エッセ公閣下は、トルベルア公を直ちに廃するおつもりはありません」

「戦後、ルーカへの忠誠を撤回し、エッセ陛下へ臣従するならば、当面は公爵位を維持してもよいとのことです」

ドンモイレは息を吐いた。

父を殺したいわけではなかった。

むしろ、自分を後継者として育ててきた父への敬意はある。

ただ、父は弟を評価しすぎている。

このままでは、いつリュークを後継者へ変えるか分からない。

家臣たちも、戦場で名を上げ続ける弟を支持し始めている。

父さえ説得できればいい。

ルーカを見限り、エッセ公へ従えば、ノカス家は存続できる。

そしていずれ、自分が公爵になる。

問題は一つだけだった。

リューク。

リュークが生きていれば、家臣たちは自分を公爵として認めないかもしれない。

エッセ公が約束を守っても、弟を担ぐ者が現れる。

弟自身に家督への野心がなくとも関係ない。

存在しているだけで脅威なのだ。

「条件は」

ドンモイレが尋ねた。

使者は待っていたとばかりに答える。

「皇帝軍の作戦」

「各軍の配置」

「進軍路」

「可能であれば、リューク殿が率いる部隊の動き」

ドンモイレの眉が動く。

「リュークを討つつもりか」

「戦場で敵将を討つのは当然のことでは」

「父上には手を出すな」

ドンモイレは強く言った。

「父上を殺すつもりはない」

「アミヘボ王も、皇帝も、どうなろうと構わん」

「だが父上は生かせ」

使者は静かに頷いた。

「エッセ公閣下も、トルベルア公ほどの人物を無益に失うことは望まれておりません」

「それならいい」

「リュークだけだ」

ドンモイレは俯き、両手を組み合わせた。

脳裏に、ラウス川で敵将旗を掲げる弟の姿が浮かぶ。

兵士たちの歓声。

父の誇らしげな表情。

アミヘボ王から授けられた名誉。

宴で何度も繰り返された弟の名。

「リュークさえいなければ」

その言葉は、自分へ言い聞かせるような小さなものだった。

「私は正統な後継者だ」

「元より、そうでございましょう」

使者が甘く囁く。

「公爵家の嫡男はあなた様です」

「領政を学び、父君を支えてきたのもあなた様」

「剣を振り回すだけの弟君ではありません」

ドンモイレの顔がわずかに歪む。

「その通りだ」

「私は、奪われるものを取り戻すだけだ」

使者は新たな羊皮紙を差し出した。

「では、誓約を」

ドンモイレは一瞬だけ躊躇した。

だが、引き返さなかった。

自らの印章を取り出し、溶かされた蝋へ押し付ける。

ノカス公爵家の紋章が、裏切りの誓約書へ刻まれた。


その翌日から、帝国各地で動員が始まった。

ルーカ皇帝は自ら軍を率いることを宣言した。

新たに戴冠した皇帝が親征する。

その知らせは、味方の諸侯へ大きな影響を与えた。

皇帝が戦場へ立つならば、自分たちも兵を出さなければならない。

アミヘボ王は一万五千。

ノカス公爵家は一万二千。

皇帝直属として編成された近衛と自由都市の兵が八千。

そのほか、支持諸侯から集まった兵を合わせ、帝国軍は五万に達した。

帝国軍の左翼を任されたのは、エウラプ伯だった。

エウラプ伯領はノカス公爵領の南、アミヘボ王領の西に位置する。

肥沃な谷間と丘陵を持ち、騎兵よりも槍兵と弓兵に優れた領地である。

エウラプ伯はルーカの戴冠式にも参加し、皇帝へ忠誠を誓っていた。

ただし、ラウス川会戦の前まではエッセ公とアミヘボ王の争いを静観していた。

勝敗が明らかになるまで、どちらにも深入りしなかったのである。

その慎重さを卑怯と見る者もいたが、領地を守る諸侯としては珍しいことではない。

少なくとも、戴冠後のルーカへ忠誠を誓った以上、今回の出兵を拒むことはなかった。

五千の兵を率い、皇帝軍へ合流した。

皇帝軍中央にはルーカ皇帝。

その補佐としてアミヘボ王。

ノカス公トルベルア。

そして嫡男ドンモイレ。

トルベルアはドンモイレを自らの近くへ置くことを決めていた。

表向きの理由は、次期公爵として皇帝や有力諸侯のそばで戦を学ばせるためである。

だが、それだけではなかった。

近頃のドンモイレには、どこか不自然なところがあった。

エッセ公の使者が来て以来、妙に落ち着いている。

戦争が迫っているにもかかわらず、焦りも怒りも見せない。

軍議では積極的に意見を出す一方、敵軍の動きを心配するより、リュークの配置ばかり気にしていた。

「右翼はリュークに任せるのですか。騎兵を多く与えすぎではありませんか。弟に独立した指揮権を与える必要があるのでしょうか」

父はその一つ一つを聞き流していた。

だが、疑念は胸の内に残っていた。

息子が弟を嫌っていることは知っている。

それでも、家そのものを危険へ晒すほど愚かではないと信じたかった。

だからこそ、遠ざけるのではなく、近くへ置く。

自分の目で様子を見る。

もし単なる嫉妬ならば、戦場で不用意な行動を取らぬよう抑えればいい。

父はそう考えていた。

右翼を任されたのはリュークだった。

第一騎士隊を中心に、ノカス公爵家の騎兵とアミヘボ王軍の一部を合わせた一万。

副将にはガーロ。

すでにラウス川会戦で大功を立てたリュークの指揮へ異論を唱える者は少なかった。

出陣前夜。

リュークは自分の天幕で地図を眺めていた。

敵軍六万。

こちらは五万。

兵力差はある。

だが、勝てない差ではない。

中央で敵を引きつける。

左翼は丘陵を利用して守りを固める。

右翼の騎兵で敵左翼を破り、そのまま中央の側面へ回り込む。

先の戦と似た形ではある。

だが、今回は敵も警戒している。

そこでリュークは、最初から全騎兵を動かさず、一部を森の陰へ伏せることにした。

正面の騎兵で敵を引きつけ、伏兵が側面から突く。

敵左翼が崩れたところで全軍を投入する。

単純だが、地形を生かした作戦だった。

「これでいける」

リュークが呟く。

傍らで地図を見ていたケーユーが首を傾げた。

「妙に順調ですね」

「何がだ」

「軍議です」

「ドンモイレ様が、若様の案に反対されませんでした」

リュークの手が止まる。

確かにそうだった。

普段なら、ドンモイレはリュークの提案へ必ず何かしら難癖をつける。

だが今回の軍議では、一度も反対しなかった。

それどころか、伏兵の位置や投入する兵数まで細かく尋ねてきた。

「戦の前だから、私情を捨てたんだろう」

リュークはそう答えた。

ケーユーは納得していない顔をする。

「そうでしょうか」

ケーユーは地図へ視線を落とす。

「何となく、嫌な感じがします」

リュークは笑った。

「お前は心配しすぎだ」

「リューク様が心配しなさすぎるのです」

「そのためにお前がいるんだろう」

「私が何でも気づくと思わないでください」

「頼りにしている」

リュークが何気なく答える。

ケーユーは一瞬だけ黙った。

松明の光の中で、その頬がわずかに赤くなったように見えた。

「……そういうことを簡単に言わないでください」

「何のことだ」

「何でもありません」

ケーユーは顔を逸らした。

リュークは不思議そうに見たものの、すぐに地図へ視線を戻した。

その頃、帝国軍から離れた西方軍の本陣では、エッセ公が同じ地図を眺めていた。

卓上には、帝国軍の配置を示す木駒が正確に並んでいる。

中央に皇帝とアミヘボ王、ノカス公。

左翼にエウラプ伯。

右翼にリューク。

森の陰へ伏せられる騎兵の数と位置まで記されていた。

エッセ公は満足そうに笑った。

「なるほど」

「また右翼から我が左翼を崩すつもりか」

傍らの将軍が尋ねる。

「伏兵はどういたしますか」

「狩り出せ」

エッセ公は森を示す駒を指で弾いた。

「リュークが正面へ出た後、こちらの別働隊で森を包囲する」

「伏兵を伏兵で囲むのですか」

「ああ」

「そしてリュークが救援へ向かえば、正面の兵で挟む」

「向かわなければ、奴の騎兵を先に潰す」

エッセ公は書状の末尾に押された印を眺めた。

ノカス公爵家の紋章。

嫡男ドンモイレの印章である。

「兄弟とは、恐ろしいものだな」

エッセ公は嘲るように笑った。

「国すら売るほど、弟が憎いらしい」


翌朝。

両軍はヴァレ平原で向かい合った。

帝国軍五万。

西方諸侯軍六万。

大地を埋め尽くす槍と旗。

皇帝ルーカは中央で白馬に跨り、戴冠式で授けられた宝剣を腰へ帯びている。

その左右にアミヘボ王とノカス公トルベルア。

少し後ろにはドンモイレ。

右翼ではリュークが剣を抜いた。

「今日も勝つぞ」

ケーユーが隣で苦笑する。

「簡単におっしゃいますね」

「負けると言って戦うよりいい」

「では、私は若様が調子に乗られないよう見張っております」

「供回りの仕事か、それは」

「最重要任務です」

二人は小さく笑った。

その時、戦場全体へ角笛が鳴り響いた。

一度。

二度。

三度。

五万と六万。

合わせて十一万の軍勢が、ゆっくりと前進を始める。

朝露に濡れた草を踏み潰し、無数の兵士たちがゆっくりと前進する。

槍の穂先が朝日を反射し、遠くから見れば巨大な銀色の波のようだった。

中央には黄地に黒の双頭鳥を描いた皇帝旗。

その左右を、アミヘボ王の獅子旗とノカス公爵家の黄白旗が固める。

左翼にはエウラプ伯の緑地に白鹿を描いた旗。

右翼にはリュークが率いるノカス騎兵と、アミヘボ王から預けられた騎兵部隊が並んでいた。

対する西方軍の中央には、エッセ公の大旗が掲げられている。

深い青地の中央には、後ろ脚で立ち上がり、前脚を掲げる一頭の獅子。

獅子の身体には赤と白の横縞が交互に走り、爪と舌だけが金色に輝いていた。

その周囲には、トンバラブ公やスーダンラフ伯をはじめとする低地諸侯の旗が連なっている。

風が吹くたび、数百もの軍旗が一斉にはためいた。

右翼の前列で、リュークは馬上から敵陣を見渡していた。

敵左翼は、予想していたよりも薄い。

騎兵はおよそ五千。

歩兵は六千ほど。

こちらの右翼は一万。

兵力だけを見れば押し切れる。

だが、妙だった。

「敵の左翼が薄すぎませんか」

隣でケーユーが声を潜める。

「私もそう思う」

リュークは敵陣から目を離さなかった。

「誘っているように見えますね」

「そうだな」

「では、作戦を変えますか」

リュークは少し考えた。

森へ伏せている騎兵は三千。

正面には七千。

敵が薄いのは、こちらを前へ引き出すためかもしれない。

だが、正面の兵だけで慎重に押せば、伏兵を温存したまま敵の反応を見られる。

「最初から全軍では押さない」

リュークは答えた。

「歩兵を前へ出す。騎兵は後ろで待機。森の伏兵はまだ動かさない」

ケーユーが頷く。

「承知しました」

その指示を伝えるため、伝令が走る。

リュークは再び敵陣を見た。

何かがおかしい。

だが、その正体が分からない。

敵の布陣は一見すると、こちらの作戦を知らないように見える。

森の方へ警戒している様子もない。

伏兵を探す斥候の姿も見当たらなかった。

だからこそ、かえって不自然だった。

「若様」

ケーユーがこちらを見る。

「嫌な顔をされています」

「どんな顔だ」

「毒を盛られた犬のような顔です」

「もっと他に言い方はないのか」

「では、雨の中へ出された猫で」

「悪くなっている」

ケーユーはわずかに笑った。

戦場にいるとは思えない、いつもの調子だった。

リュークもほんの少しだけ肩の力を抜く。

「お前は緊張しないのか」

「しておりますよ」

「そうは見えない」

「リューク様が二人分難しい顔をされていますので、私は笑っておこうかと」

「余計な気遣いだ」

「それが供回りの仕事です」

その時、中央から太鼓の音が響いた。

ドン。

ドン。

ドン。

帝国軍中央の歩兵が前進を開始する。

それに合わせ、西方軍も動き出した。

最初に激突したのは中央だった。

盾と盾がぶつかり合う。

槍が突き出される。

刃が鎧を叩く鈍い音。

数千人の叫び声が一つに重なり、平原全体が震える。

「右翼も前進!」

リュークが剣を掲げる。

歩兵五千が盾を構え、ゆっくりと前へ出る。

弓兵がその後ろから矢を放った。

空を覆うほどの矢が敵左翼へ降り注ぐ。

西方軍も撃ち返す。

盾へ矢が突き刺さり、兵士が倒れる。

それでも隊列は崩れない。

五十歩。

三十歩。

二十歩。

やがて両軍の歩兵が激突した。

「押せ!」

リュークの号令が響く。

ノカス兵が盾を前へ突き出す。

敵兵を押し返す。

槍が伸び、最前列の兵士たちが次々と倒れる。

最初のうちは、帝国軍右翼が優勢だった。

敵左翼は少しずつ後退している。

「敵が下がります!」

ガーロが叫ぶ。

「追いますか」

「まだだ」

リュークは敵の動きを見ていた。

退却にしては整いすぎている。

前列が下がると、次の列が交代する。

逃げているのではない。

わざと下がっている。

「誘われています」

ケーユーも気づいた。

「ああ」

「伏兵を出しますか」

「出さない」

リュークは即答した。

「正面の歩兵も止める」

伝令が走る。

だが、その命令が前線へ届くより早く、中央から別の角笛が聞こえた。

高く、短い音が五回。

予定されていた合図だった。

右翼の伏兵を投入せよ。

リュークの顔色が変わる。

「誰が鳴らした!」

近くにいた旗手が慌てて答える。

「中央からです!」

「ドンモイレ様の旗の近くから!」

森の中へ潜んでいた騎兵三千は、その合図を待っていた。

リュークからの中止命令が届く前に、騎兵たちは一斉に森を飛び出した。

「待て!」

リュークの叫びは届かない。

三千騎が敵左翼の側面へ回り込もうと突撃を始める。

一見すれば、予定通りの動きだった。

だが、敵は待っていた。

西方軍の後方で、横長の旗が掲げられる。

それを合図に、敵左翼の背後にあった低い丘から無数の兵士が姿を現した。

歩兵。

弓兵。

そして騎兵。

合計で一万近い別働隊だった。

「伏兵!」

ケーユーが息を呑む。

敵の別働隊は、森から出てきたノカス騎兵の背後へ回り込んだ。

正面では後退していた敵左翼が反転する。

前後から挟まれた。

「罠です!」

ガーロが叫ぶ。

「伏兵が囲まれました!」

「救援へ向かう」

リュークは馬首を森の方へ向けた。

だが、正面の敵左翼も一斉に攻勢へ転じている。

自分が動けば、正面の歩兵五千が崩れる。

動かなければ、伏兵三千が壊滅する。

完全にこちらの作戦を読まれていた。

いや読まれていたのではない。

知っていた。

騎兵の数。

伏せる位置。

投入する合図。

すべてを。

「誰かが漏らした」

リュークが呟く。

「リューク様」

ケーユーの顔から笑みが消えていた。

「まさか」

「それ以外にない」

リュークは奥歯を噛みしめた。

作戦を知っていた者は多くない。

皇帝。

アミヘボ王。

父トルベルア。

ドンモイレ。

エウラプ伯。

そして各軍の主だった将。

その誰かが敵へ伝えた。

だが、今は裏切り者を探している場合ではない。

「ガーロ!」

「はい!」

「歩兵を守勢へ移せ。盾を組ませろ」

「騎兵二千を俺に続かせる」

「囲まれた部隊を助けますか」

「ああ」

「だが追いすぎるな。退路を作るだけだ」

「承知しました!」

リュークは剣を高く掲げる。

「騎兵隊!俺に続け!」

騎兵二千が一斉に動き出す。

敵左翼と囲まれた伏兵の間へ、斜めに突っ込む。

敵兵が槍を構えた。

その前列へ向かい、リュークは左手を伸ばす。

「《水刃》」

数十の水刃が扇状に飛んだ。

槍が切断される。

盾が裂ける。

兵士たちが倒れ、敵の隊列に穴が開いた。

「今だ!」

第一騎士隊がその穴へ飛び込む。

リュークは先頭を駆けた。

敵の槍を剣で弾く。

すれ違いざまに首を斬る。

右から来た騎士の剣を受け流し、そのまま胸を突く。

二人目。

三人目。

止まらない。

ケーユーもすぐ後ろを走っていた。

「右から来ます!」

「見えている!」

リュークが答えた直後、右手から敵騎兵が飛び込んでくる。

ケーユーは馬を寄せ、敵の槍を自分の盾で受けた。

衝撃で身体が大きく揺れる。

「ケーユー!」

「これくらい、平気です!」

ケーユーは槍を剣で払い、その敵を馬上から斬り落とした。

「リューク様は前を見てください!」

「供回りを盾にする趣味はない!」

「でしたら、もう少し後ろを気にしてください!」

「注文が多いな!」

「リューク様が無茶をされるからです!」

戦場でも、二人のやり取りは変わらなかった。

その軽口が、張り詰めた恐怖をわずかに遠ざけていた。

リュークたちは敵の包囲を横から食い破った。

囲まれていたノカス騎兵の姿が見える。

すでに多くの者が馬を失い、徒歩で戦っていた。

「若様だ!」

「救援だ!」

味方の兵から歓声が上がる。

「退路を開ける!」

リュークが叫ぶ。

「隊列をまとめろ!負傷者を中央へ!動ける者から下がれ!」

混乱していた兵たちが、ようやく動きを取り戻す。

だが、敵も逃がすつもりはなかった。

弓兵が前へ出る。

一斉射。

矢の雨が降り注ぐ。

リュークは右手を空へ向けた。

「《水壁》」

大量の水が渦を巻き、騎兵たちの前へ広がる。

矢が水壁へ突き刺さり、勢いを失って落ちた。

だが、すべては防げない。

何本もの矢が兵士や馬へ刺さる。

悲鳴。

落馬。

それでも退路は少しずつ広がっていった。

「あと少しです!」

ケーユーが叫ぶ。

その時だった。

帝国軍中央の方角から、これまでとは異なる大きな喚声が聞こえた。

味方の声ではない。

敵の勝鬨だった。

リュークが振り返る。

中央。

皇帝旗が大きく揺れている。

その前方では、西方軍が帝国軍の戦列へ深く食い込んでいた。

本来なら中央軍は、右翼が敵左翼を破るまで持ちこたえる手筈だった。

だが、敵は最初から作戦を知っていた。

右翼へ最低限の兵を置きながら、主力を中央へ集中させていたのである。

皇帝軍中央は、西方軍の厚い突撃を正面から受けていた。

「中央が押されています!」

ガーロが青ざめる。

遠目にも帝国軍の旗が少しずつ後退しているのが分かった。

アミヘボ王の旗。

ノカス公爵家の黄白旗。

皇帝の双頭鳥旗。

三つの旗が、敵の波へ飲み込まれようとしていた。

さらに左翼。

エウラプ伯軍も攻撃を受けている。

敵右翼は左翼よりもはるかに大きい。

エウラプ伯軍五千に対し、敵は一万五千以上。

兵力差は実に三倍。

最初から左翼を壊すつもりだったのだ。

「左翼も危険です!」

伝令が血相を変えて駆け込んできた。

「エウラプ伯軍、押し込まれております!」

「援軍を求めています!」

援軍。

だが、どこから出す。

右翼は罠にかかり、騎兵三千が包囲されている。

中央は突破寸前。

左翼は三倍の敵を受けている。

完全に先を読まれていた。

リュークは剣を握る手へ力を込めた。

「救援した騎兵を正面へ戻す」

「俺たちは中央へ向かう」

ケーユーが驚いて振り向く。

「中央へ?」

「ここで敵左翼を相手にしても意味がない」

「皇帝旗が倒れれば全軍が崩れる」

「ですが右翼が」

「ガーロに任せる」

リュークはガーロを見た。

「正面の歩兵をまとめろ。敵を倒そうとするな。持ちこたえることだけ考えろ」

ガーロは一瞬だけ迷った。

「若様は」

「中央へ行く」

「危険です」

「中央が崩れた方が危険だ」

ガーロは強く頷いた。

「承知しました」

「必ず右翼を保たせます」

「頼む」

リュークは馬を返した。

第一騎兵隊のうち、動ける者は七十騎ほど。

救援に出た二千騎も、すでに半数近くが傷を負っている。

それでも中央へ行かなければならない。

「ケーユー」

「はい」

「お前はガーロのところへ残れ」

ケーユーの表情が固まった。

「お断りします」

「命令だ」

「供回りは主のそばにいるものです」

「中央は危険だ」

「ここも十分危険です」

「そういう話じゃない」

「では、どういう話ですか」

ケーユーはリュークを真っ直ぐ見た。

周囲では兵士たちが走り、馬が嘶き、敵の喚声が近づいている。

それでもケーユーの瞳は揺れなかった。

「若様が危険な場所へ行かれるのに、私だけ残れとおっしゃるのですか」

「お前まで死ぬ必要はない」

「若様にも死んでいただく必要はありません」

「俺は将だ」

「私は、その将の供回りです。だから行きます」

強い声だった。

いつもの敬語。

いつもの穏やかな口調。

だが、決して譲るつもりはない。

リュークはしばらくケーユーを見つめた。

やがて、諦めたように息を吐く。

「勝手にしろ」

「はい」

ケーユーはわずかに笑った。

「いつも勝手にさせていただいております」

「それを自覚していたのか」

「若様の供回りは、多少図太くなければ務まりません」

リュークも小さく笑った。

ほんの一瞬だけだった。

次の瞬間には、剣を中央へ向ける。

「騎兵隊!皇帝陛下を救う!俺に続け!」

残った騎兵たちが声を上げる。

彼らは右翼を離れ、崩れかけた中央へ向かって駆け出した。


その頃、帝国軍中央では、ノカス公トルベルアが敵の動きを見ながら、ある確信へ近づいていた。

右翼の伏兵。

投入の合図。

中央への兵力集中。

左翼へ向けられた三倍の兵。

偶然ではない。

敵は作戦を知っていた。

しかも、伏兵を投入する合図まで正確に把握している。

「内通者がいる」

トルベルアが低く呟く。

隣にいたアミヘボ王が振り向く。

「何だと」

「作戦が漏れております。敵の動きが正確すぎる」

王の表情が険しくなる。

「誰だ」

トルベルアは答えなかった。

答えたくなかった。

その視線は、自分のすぐ後ろにいるドンモイレへ向いていた。

息子は落ち着いていた。

中央が崩れかけているにもかかわらず、恐怖も焦りも見せていない。

それどころか、何かを待っているように何度も右翼を見ている。

リュークが死んだという報告を。

そう見えてしまった。

「ドンモイレ」

父に呼ばれ、ドンモイレが顔を上げる。

「何でしょう、父上」

「先ほどの右翼への合図。誰が出した」

ほんの一瞬ドンモイレの目が揺れた。

「中央の伝令ではありませんか」

「私は存じません」

「そうか」

父はそれ以上追及しなかった。

今ここで問い詰めれば、軍の指揮がさらに乱れる。

証拠はないが、疑念は確信へ変わりつつあった。

自分の息子が弟を殺すために敵へ通じた。

父の胸へ、戦場の傷よりも深い痛みが走った。

その直後、前列から大きな音が響く。

帝国軍の盾列が破られた。

「中央突破!」

伝令が叫ぶ。

「敵騎兵が入ってきます!」

西方軍の騎兵が、歩兵の間に開いた穴へ次々と突入してきた。

皇帝旗まで、わずか数百歩。

アミヘボ王が剣を抜く。

「近衛を前へ!皇帝陛下を守れ!」

近衛騎士たちが一斉に馬腹を蹴り、敵騎兵へ突撃した。

轟音とともに両軍が激突する。

槍が砕け、馬が倒れ、騎士が宙を舞う。

しかし、敵の勢いは止まらない。

第一波を退けても、第二波、第三波と次々に押し寄せてくる。

「兵が多すぎる!」

「押し返せ!」

怒号が飛び交う。

その最前列で、トルベルアは剣を振るっていた。

黄色と白の横縞の軍旗が風に翻る。

その下には、ノカス公爵家直属の精鋭――ヒューナ騎士団。

「ヒューナ騎士団!」

トルベルアが剣を掲げる。

「皇帝陛下をお守りする!」

「ここより先、一歩たりとも敵を通すな!」

七百騎が一斉に鬨の声を上げた。

黄色と白の軍旗を先頭に、ヒューナ騎士団が敵の重騎兵へ真正面から突撃する。

鋼鉄と鋼鉄がぶつかる。

衝撃で何頭もの馬が倒れた。

トルベルアは敵騎士の槍を剣で受け流し、そのまま首を断つ。

返す刃で二人目。

三人目は馬ごと斬り伏せる。

五十を超える年齢とは思えぬ剣技だった。

「公爵閣下に続け!」

ヒューナ騎士団がさらに前へ出る。

敵もまた精鋭だった。

西方諸侯が選び抜いた重装騎兵である。

互いに一歩も引かない。

そこだけが巨大な渦となっていた。


その頃。

右翼から中央へ向かうリュークは、敵騎兵の壁へ突っ込んでいた。

「邪魔だ!」

剣が閃く。

一人。

二人。

三人。

敵騎兵を次々と斬り伏せる。

第一騎兵隊もその後へ続いた。

「リューク様!」

ケーユーが叫ぶ。

「中央が見えます!」

リュークは顔を上げた。

遠くに黄色と白の横縞の軍旗が見える。

まだ立っている。

父は生きている。

「急ぐぞ!」

その時だった。

西方軍の角笛が低く鳴り響く。

左右の丘陵から新たな軍勢が姿を現した。

伏兵だった。

「伏兵!」

二千を超える騎兵が一斉に坂を駆け下りる。

リュークたちの進路を完全に塞いだ。

「くそっ!」

リュークは歯を食いしばる。

「リューク様!」

ケーユーが馬を寄せる。

「敵の狙いはリューク様です!」

「分かっている!」

「ならば!」

「突破する!」

リュークは迷わなかった。

止まれば父が死ぬ。

そう考えた。

「騎兵隊!槍を構えろ!続け!」

百を超える騎兵が楔形陣を組む。

先頭にはリューク。

そのすぐ後ろにケーユー。

「突撃!」

轟音。

真正面から敵へ激突する。

リュークは一人目を斬る。

二人目の槍をかわし、その腕を切断する。

三人目の馬の首を斬り払う。

敵の隊列へ穴が開いた。

「今だ!」

第一騎兵隊が一気に押し広げる。

しかし敵もすぐに左右から閉じてくる。

「囲まれる!」

ケーユーが叫ぶ。

「若様!」

右から一本の槍が突き出された。

狙いはリュークの脇腹。

「しまっ――」

ケーユーは反射的に馬を寄せる。

槍がケーユーの左肩を貫いた。

「ぐっ!」

血が飛び散る。

「ケーユー!」

リュークは怒声を上げる。

敵兵を一刀で斬り伏せ、ケーユーの馬を支えた。

「何をしている!」

「若様を守るのが私の役目です」

苦痛に顔を歪めながらも、ケーユーは笑う。

「役目でも何でもない!」

「勝手に死ぬな!」

「死にませんよ」

「リューク様がご一緒なら」

「馬鹿!」

リュークは怒鳴った。

「俺は身代わりなんか認めない!」

「俺を守るために死ぬことも許さない!」

「若様……」

「お前は生きろ!必ずだ!」

ケーユーは少し驚いたような顔をした。

そして、小さく笑う。

「承知しました。若様のご命令ですから」

その返事を聞き、リュークは再び前を向いた。

「突破する!父上のところまで行く!」

全員が声を上げる。

再び敵へ突撃した。


ヒューナ騎士団はすでに半数近くを失っていた。

それでも退かない。

トルベルアは血に濡れた剣を振るい続ける。

「陛下!お急ぎください!」

皇帝ルーカはなおも動かなかった。

「余だけ逃げるなど――」

「陛下!」

トルベルアが叫ぶ。

その声には今までにない迫力があった。

「これは命令ではありません!臣下としての願いです!どうか……。どうか生きてください!」

皇帝は目を閉じた。

ゆっくりとうなずく。

「……すまぬ。必ず戻る」

アミヘボ王が馬首を返した。

「陛下!こちらです!」

近衛騎士団が皇帝を囲みながら後退を始める。

それを見届けたトルベルアは静かに笑った。

「これでよい」


その瞬間、彼の視界に、一人の騎兵が飛び込んできた。

黄色と白の軍旗へ向かって一直線に駆けてくる。

「父上ぇぇぇっ!」

リュークだった。

トルベルアは目を見開いた。

「なぜ来た……!」

息子は敵を斬り伏せながら近づいてくる。

その後ろには血だらけのケーユー。

皆、満身創痍だった。

トルベルアは一瞬だけ嬉しそうな顔をした。

だが次の瞬間、その表情は厳しく変わる。

「来るな!」

戦場中へ響くほどの大声だった。

「リューク!」

「皇帝陛下をお守りしろ!」

「父上!」

「命令だ!」

リュークは馬を止めない。

「嫌です!」

「今さら父上を見捨てられるものですか!」

トルベルアは思わず笑ってしまった。

「頑固な奴だ」

その姿は、若い頃の自分そのものだった。

だが、その笑みも一瞬で消える。

敵の大軍が再び押し寄せてきた。

ヒューナ騎士団の隊列は、すでに限界へ達している。

七百騎いた騎士は、半数どころか三分の一も残っていなかった。

馬を失い、徒歩で戦う者。

片腕を負傷しながら、それでも剣を離さない者。

折れた槍を短く持ち、敵の馬へ突き立てる者。

誰も逃げようとはしなかった。

黄色と白の横縞の旗が、なおも戦場に立っていたからだ。

その旗の下に、主君トルベルアがいる。

それだけで、彼らには十分だった。

「旗を守れ!」

「公爵閣下の前へ出ろ!」

騎士たちの叫びが重なる。

だが、西方軍は次々と新手を送り込んでくる。

前方から重装歩兵。

左右から騎兵。

後方からは弓兵が射撃を続けていた。

一本の矢がヒューナ騎士の喉へ突き刺さる。

別の騎士は、馬ごと槍に貫かれた。

それでも隊列は崩れない。

トルベルアは周囲を見回した。

長年、自分に仕えてきた者たちだった。

若い頃から共に戦った者。

父の代から仕えている者。

幼いリュークやドンモイレへ剣を教えた者もいる。

その一人一人が、自分のために命を捨てようとしていた。

「十分だ」

トルベルアが低く呟いた。

隣にいたヒューナ騎士団長が振り向く。

「何かおっしゃいましたか」

「いや」

トルベルアは剣を握り直した。

「まだだ。まだ終わってはおらん」

その時、リュークがついに父のもとへ辿り着いた。

敵兵を斬り払い、馬を滑り込ませる。

「父上!」

トルベルアはすぐに怒鳴り返した。

「なぜ来た!」

「皇帝陛下をお守りしろと命じたはずだ!」

「陛下はアミヘボ王と近衛隊が後退させています!」

「俺は父上を助けに来ました!」

「助ける必要などない!」

「あります!」

リュークの声が震えた。

「ここで父上を置いていけるわけがない!」

トルベルアは息子の顔を見た。

頬には血が流れ、鎧は傷だらけだった。

背後にいるケーユーも左肩から血を流している。

それでも二人はここまで来た。

トルベルアの胸に、一瞬だけ温かなものが広がった。

同時に、強い焦りも湧いた。

このままでは息子まで死ぬ。

「リューク」

「何ですか」

「お前がここで死ねば、誰が皇帝陛下を守る」

「アミヘボ王がいます」

「誰がノカス家の兵をまとめる。お前は退け」

「嫌です」

「これは命令だ」

「従いません」

「リューク!」

「俺は父上の息子です!」

リュークは剣を握ったまま叫んだ。

「目の前で父上が死のうとしているのに、命令だからと逃げられるものですか!」

トルベルアは言葉を失った。

次の瞬間。敵騎兵が横から突っ込んでくる。

「リューク様!」

ケーユーが声を上げる。

リュークとトルベルアは同時に剣を振るった。

二本の刃が交差する。

敵騎士の槍が弾かれ、そのまま首筋へ二人の剣が走った。

騎士が馬上から崩れ落ちる。

一瞬だけ、父と子の視線が交わった。

「悪くない」

トルベルアが言った。

「父上こそ」

リュークも答えた。

二人は背中を合わせるように馬を並べた。

押し寄せる敵を斬る。

トルベルアが正面を受け持ち、リュークが右側を押さえる。

ケーユーと騎兵隊が左を支えた。

一時的にではあるが、敵の進撃が止まった。

「公爵閣下と若様だ!」

「押し返せ!」

ヒューナ騎士たちが奮い立つ。

黄色と白の旗を中心に、残った騎士たちは小さな円陣を組んだ。

その円陣へ敵が何度も突っ込んでくる。

何度でも押し返す。

だが、そのたびに味方が減っていった。

「父上」

敵を斬り伏せながら、リュークが言う。

「ここからなら南東へ抜けられます。騎兵隊を先頭にして、全員で退きましょう」

「無理だ」

「なぜです」

「全員が一斉に退けば、敵は皇帝陛下を追う」

「では一部を残して」

リュークは言葉を止めた。

誰を残すのか。

答えは分かっている。

トルベルアが残るつもりなのだ。

ヒューナ騎士団と共に。

皇帝と残兵を逃がすための殿として。

「駄目です」

「まだ何も言っていない」

「分かります」

リュークは父を睨んだ。

「俺は認めません」

「認める必要はない」

「父上!」

「将には選ばねばならぬ時がある」

トルベルアの声は静かだった。

「勝利か敗北かではない」

「誰を生かし、誰を捨てるかを選ばねばならぬ時だ」

「俺は捨てられる側でも構いません」

「私は構う」

トルベルアは即座に答えた。

リュークが息を呑む。

「お前はまだ若い」

「剣も魔術も、私などとうに超えている」

「ここで死なせるには惜しすぎる」

「惜しいから生かすのですか」

「違う」

トルベルアは敵兵の剣を受け止め、その腹を斬り裂いた。

「息子だからだ」

短い言葉だった。

だが、リュークには何より重かった。

これまで父は、優しい言葉をほとんど口にしなかった。

褒める時でさえ短く。

心配していても、それを表へ出さない。

そんな父が今、はっきりと息子だから生かすと言った。

リュークの喉が詰まる。

「なら、父上も生きてください」

「努力はする」

「嘘だ」

「お前は昔から疑り深いな」

「父上が分かりやすすぎるんです」

トルベルアは小さく笑った。

戦場の真ん中とは思えない笑みだった。

その直後、左側から大きな悲鳴が上がる。

ヒューナ騎士団の隊列が一部破られた。

敵歩兵が雪崩れ込む。

「左を塞げ!」

団長が叫ぶ。

敵兵が殺到する。

リュークは左手を前へ出した。

水刃。

一枚ではない。

幾十もの水刃が扇状に放たれた。

敵の槍を断ち、盾を裂き、最前列を薙ぎ払う。

その隙へヒューナ騎士団が踏み込んだ。

「押し返せ!」

再び隊列を戻す。

だが、リュークの呼吸は大きく乱れていた。

これまでの戦いで魔力を使いすぎている。

指先も震えていた。

「若様」

ケーユーが気づく。

「魔力が」

「まだある」

「嘘ですね」

「父上と同じことを言うな」

「似た者親子ですから」

「今それを言うか」

「今だからです」

ケーユーはリュークへ馬を寄せた。

「本当に限界になったら、必ずおっしゃってください」

「どうするつもりだ」

「担いででも連れて帰ります」

「お前の腕でか」

「その時は右腕だけで頑張ります」

「無茶を言うな」

「リューク様にだけは言われたくありません」

二人の軽口を聞き、トルベルアが一瞬だけ振り返った。

その目に、わずかな安堵が浮かぶ。

リュークは一人ではない。

ケーユーがいる。

口では従者を名乗っているが、二人の関係はそれだけではない。

あの者なら、息子を見捨てないだろう。

トルベルアは決意した。

「団長」

ヒューナ騎士団長が馬を寄せる。

「はっ」

「残りは何騎だ」

「騎乗できる者が百八十ほど。徒歩で戦える者を含めれば、三百に届くかと」

「十分だ」

トルベルアは南東を見た。

皇帝の旗はすでに遠ざかっている。

アミヘボ王の旗もそれに続いていた。

退路は確保されつつある。

今ならまだ間に合う。

「聞け!」

トルベルアが声を張り上げた。

「これより二手に分かれる!負傷者と騎兵隊は南東へ退却!動けるヒューナ騎士は私と共に残る!」

リュークが振り返る。

「父上!」

「リューク」

トルベルアは息子を見た。

「お前が退却部隊を率いろ」

「断ります」

「これはノカス公としての命令だ」

「それでも」

「お前にしかできん」

トルベルアは言い切った。

「崩れた軍をまとめ、敵を防ぎながら退ける者がほかにいるか」

リュークは答えられない。

「お前が残れば、ここで数百人と共に死ぬ。お前が退けば、数千人を生かせる。剣を振るうだけが強さではない」

その言葉が、リュークの胸へ深く突き刺さった。

「父上は」

「私は役目を果たす」

「お前も果たせ」

リュークは歯を食いしばった。

頭では分かっている。

父の言う通りだ。

ここに残っても、共に死ぬだけ。

それよりも、逃げる兵をまとめなければならない。

だが、身体が動かなかった。

父へ背を向けることができない。

その時トルベルアが急に馬を寄せた。

そしてリュークの肩を強く掴む。

「よく聞け」

低い声だった。

「ドンモイレを信用するな」

リュークの目が見開かれる。

「兄上を?」

「作戦を漏らした者は、おそらくあいつだ」

「まさか」

「確証はない」

「だが、先ほどの合図も、敵の動きも、偶然ではない」

リュークは中央後方を見た。

ドンモイレの旗は見えない。

いつの間にか、戦場から消えていた。

「父上」

「もし私が戻らなければ、自分の目で確かめろ」

「そして」

トルベルアは一度言葉を切った。

「怒りだけで剣を振るうな」

「兄上が裏切ったとしてもですか」

「怒りは判断を鈍らせる。お前は強い。だからこそ、間違った時に多くを失う」

リュークは父の手を掴んだ。

「そんなことは、帰ってから言ってください」

トルベルアは笑った。

「そうだな」

だが、その目はすでに別れを告げていた。

「リューク」

「何ですか」

「お前を誇りに思う」

リュークの呼吸が止まった。

父が初めて口にした言葉だった。

剣術で騎士団長に勝った時も。

ラウス川で敵将旗を奪った時も。

皇帝やアミヘボ王から称賛された時も。

父はただ、見事だと言っただけだった。

誇りに思う。

その言葉を、こんな場所で聞きたくなかった。

「やめてください」

リュークの声が震える。

「最後みたいに言わないでください」

「最後にするつもりはない」

トルベルアは穏やかに答えた。

「ただ、言える時に言っておこうと思っただけだ」

「嘘です」

「親の言葉を少しは信じろ」

「こんな時だけ親らしいことを言わないでください」

トルベルアは少し困ったように笑った。

その顔は、公爵ではなく、ただの父親のものだった。

「行け」

「父上」

「行け、リューク!」

今度の声は、戦場を震わせるほど大きかった。

ヒューナ騎士団の生き残りたちが一斉に剣を掲げる。

「若様!」

団長が叫んだ。

「公爵閣下のお命を無駄になさらぬよう!」

「退却部隊をお願いいたします!」

リュークは動けなかった。

その腕を、ケーユーが掴んだ。

負傷していない右手で、強く。

「リューク様」

「離せ」

「嫌です」

「父上を置いていけない」

「分かっています」

「なら離せ!」

「それでも行かなければなりません!」

ケーユーの声も震えていた。

目には涙が浮かんでいる。

それでも手を離さない。

「公爵閣下は、若様を生かすために残られるのです」

「ここで若様まで残れば、全部無駄になります」

「分かっている!」

リュークは叫んだ。

「分かっているんだ!」

分かっているからこそ、苦しかった。

ケーユーは唇を噛み、リュークの腕を離さない。

「では、行きましょう」

「一緒に」

「私は離れません」

「どこまでもお供します」

リュークは目を閉じた。

ほんの数秒。

それから、ゆっくりと馬首を南東へ向けた。

「父上」

振り返る。

トルベルアは黄色と白の軍旗の下に立っていた。

残ったヒューナ騎士たちが、その周囲へ集まっている。

「必ず帰ってきてください」

トルベルアは剣を掲げた。

「努力しよう」

それが父から聞いた最後の言葉になった。

リュークは馬腹を蹴った。

「退却する!」

「動ける者は負傷者を助けろ!」

「隊列を崩すな!」

「南東へ向かう!」

リュークは何度も振り返りそうになる自分を抑えた。

振り返れば、戻ってしまう。

戻れば、父の覚悟を無駄にする。

だから前だけを見る。

ケーユーがすぐ隣を走る。

左肩の傷から血が流れ続けていた。

「ケーユー」

「はい」

「死ぬな」

「承知しました」

「絶対だ」

ケーユーはかすかに笑った。

「リューク様もです」

二人は崩れた帝国軍の兵をまとめながら、南東へ向かって駆けた。

その背後。

トルベルアは息子の姿が見えなくなるまで、じっと見送っていた。

やがて前へ向き直る。

西方軍が迫っている。

数千。

いや、さらにその後ろにも敵がいる。

対してこちらは三百にも満たない。

勝ち目などない。

だが、勝つ必要はなかった。

皇帝と息子が逃げ切るまで、ここに立ち続ければいい。

トルベルアは剣を高く掲げた。

黄色と白の横縞の旗が、その背後ではためく。

「ヒューナ騎士団!」

「我らの最後の役目だ!」

残った騎士たちが剣を掲げる。

誰一人、恐怖を口にしない。

「公爵閣下と共に!」

トルベルアは静かに笑った。

「よい騎士たちを持った」

そして、押し寄せる敵軍へ剣を向ける。

「突撃!」

黄色と白の旗を先頭にトルベルアとヒューナ騎士団は、数千の敵へ向かって最後の突撃を開始した。


トルベルアとヒューナ騎士団が敵軍へ向かって最後の突撃を始めた頃、リュークは崩れた帝国軍の中を南東へ進んでいた。

退却という言葉では足りなかった。

兵たちは所属する部隊を見失い、旗を失い、どこへ向かえばよいのかも分からないまま逃げている。

武器を捨てて走る者。

負傷した仲間へ肩を貸す者。

倒れた馬の下から這い出そうともがく者。

誰かが命令を叫んでも、恐慌に陥った兵たちの耳には届かなかった。

左翼が壊滅し、中央を突破されたことで、帝国軍は一つの軍としての形を失いつつあった。

このままでは、追撃を受けた瞬間に全滅する。

「黄色と黒の旗を上げろ!」

リュークが叫んだ。

第一騎兵隊の旗手が、傷ついた腕で旗竿を持ち上げる。

黄色と黒の横縞。

ノカス公爵家の旗が、逃げ惑う兵たちの頭上へ掲げられた。

「ノカスの兵は旗の下へ集まれ!」

「ほかの部隊でも構わない!」

「まだ戦える者は外側!」

「負傷者を中央へ入れろ!」

リュークの声に、近くを逃げていた兵たちが足を止めた。

「リューク様だ」

「右翼のリューク様がいる!」

「旗の下へ集まれ!」

最初は十人。

次に百人。

やがて、散り散りになっていた兵たちが次々と黄色と黒の旗へ集まり始めた。

ノカス兵だけではない。

エウラプ伯軍の生き残り。

皇帝直属の歩兵。

アミヘボ王軍の弓兵。

主君も隊長も見失った者たちが、生き残るためにリュークの命令へ従った。

「槍兵は後列を固めろ!」

「弓兵は残った矢を数えろ!」

「騎兵は左右へ分かれろ!」

リュークは馬を走らせながら指示を飛ばす。

父のもとへ戻りたい。

黄色と白の旗が最後に見えた場所へ、今すぐ引き返したい。

その衝動を押し殺し、一人でも多くの兵をまとめる。

それが父から託された役目だった。

「リューク様!」

ケーユーが馬を寄せてきた。

その顔は青ざめている。

左肩を貫いた槍はすでに抜かれていたが、応急処置として巻いた布は赤黒く染まっていた。

「後ろから敵騎兵です!」

リュークが振り返る。

土煙。

数は千を超えている。

敗走する兵を追い、背中から斬り捨てるために送られた追撃隊だった。

「早すぎる」

トルベルアとヒューナ騎士団が中央で敵を引きつけている。

それでも、すべてを止められるわけではない。

一部が側面を迂回してきたのだ。

「歩兵を先に行かせろ!」

リュークは剣を抜いた。

「騎兵はここで敵を止める!」

中央まで同行した騎兵隊も、もはや四十騎ほどしか残っていない。

逃走中に集まった騎兵を加えても、二百騎に届くかどうか。

敵は千騎以上。

まともに戦えば押し潰される。

ケーユーがリュークの隣へ並んだ。

「私も残ります」

「お前は先へ行け」

「またそれですか」

「その傷で戦えるわけがない」

「剣は右手で持てます」

「馬上で意識を失われたら邪魔だ」

「その時は捨てていってください」

リュークはケーユーを睨んだ。

「二度と言うな」

ケーユーの口元から笑みが消える。

「俺は身代わりを許さないと言ったはずだ」

「ですが」

「お前を捨てて生き残るくらいなら、初めから連れてきていない」

戦場の騒音の中。

ケーユーは一瞬、何も言えなくなった。

「リューク様は」

震える声を隠すように、小さく息を吐く。

「そういうことを、こんな時に平然とおっしゃるのですね」

「何の話だ」

「何でもありません」

ケーユーは前を向いた。

頬が血と土で汚れているため、その表情はよく見えない。

「ですが、先へは行きません」

「命令だ」

「供回りとして、主を置いて逃げる命令には従えません」

「お前は本当に」

「頑固だとおっしゃるなら、リューク様に似たのでしょう」

リュークは怒鳴り返そうとした。

だが、敵騎兵が迫っている。

言い争っている時間はない。

「俺の右から離れるな」

「承知しました」

「少しでも意識が遠のいたら言え」

「その時は、優しく受け止めてください」

「馬から落ちる前に襟を掴んで引きずる」

「もう少し情緒というものを」

「来るぞ!」

敵騎兵が槍を伏せる。

地面が震える。

リュークは左手を前へ伸ばした。

身体の奥に残っている魔力をかき集める。

指先が痺れていた。

視界もわずかに揺れている。

無理を重ねすぎた。

それでも、ここで使わなければ味方が追いつかれる。

「騎兵は左右へ開け!」

リュークの命令で、味方の騎兵が二つに分かれた。

敵から見れば、恐怖に駆られて道を開けたように映っただろう。

追撃隊は速度を落とさない。

正面には、リュークとケーユーだけが残った。

「リューク様」

ケーユーが乾いた笑いを漏らす。

「これは、少々無茶ではありませんか」

「今さらだろう」

「確かに」

敵との距離が百歩を切る。

八十歩。

六十歩。

リュークは川でも湖でもない、乾いた平原へ向けて魔力を放った。

土の中に含まれる水分。

朝露。

倒れた兵が持っていた水袋。

周囲に存在するわずかな水を、強引に一か所へ集める。

量は少ない。

大波を作ることはできない。

だが、足元を崩すには十分だった。

「《泥濘》」

敵騎兵の前方で、固かった地面が一瞬にして泥へ変わった。

先頭の馬が足を取られる。

馬体が前へ沈み、騎士が勢いのまま投げ出された。

後続は止まれない。

次々と前の馬へ衝突し、騎兵隊の先頭が崩れた。

「今だ!」

左右へ開いていた味方騎兵が、一斉に反転する。

動きを失った敵の側面へ突撃した。

リュークも馬腹を蹴る。

泥へ沈んだ敵を避け、その奥にいる指揮官へ向かう。

二人の敵兵が槍を突き出す。

一人目の槍を剣で弾く。

二人目へ水刃を放つ。

鎧の隙間から血が噴き出し、騎士が落馬した。

「指揮官を討て!」

リュークの声に、騎兵隊が続く。

敵の指揮官はリュークの接近に気づき、馬首を返そうとした。

遅い。

リュークは鐙の上で身体を伸ばし、すれ違いざまに剣を振り抜いた。

指揮官の兜が宙へ飛ぶ。

首を失った身体が、数歩進んでから馬上より崩れ落ちた。

「敵将を討った!」

「追撃隊の将が倒れたぞ!」

敵騎兵の動きが止まる。

前方は泥に阻まれ、指揮官も失った。

側面からは帝国軍の騎兵が襲いかかっている。

追撃隊は戦意を失い、次々と馬首を返し始めた。

「追うな!」

リュークが制止する。

「味方へ合流する!」

勝ったわけではない。

一時的に敵を退けただけだ。

長く留まれば、さらに大きな追撃隊が来る。

「リューク様」

ケーユーの声がした。

振り返る。

ケーユーの身体が傾いていた。

「ケーユー!」

リュークは馬を寄せ、倒れかけた身体を片腕で支えた。

「申し訳ありません」

「意識が遠のいたら言えと言っただろう!」

「言おうとは思ったのですが」

「遅い!」

「若様が楽しそうに敵将を斬っておられたので、邪魔をしてはいけないかと」

「どこが楽しそうに見えた!」

「いつもより生き生きしておられました」

「黙れ」

リュークはケーユーの身体を自分の方へ引き寄せた。

左肩の傷から再び出血している。

このまま馬へ乗せ続ければ危険だった。

「ケーユーを後ろへ」

近くの騎士へ命じる。

「嫌です」

「今度こそ命令だ」

「まだ乗れます」

「乗れていない」

「リューク様が支えてくだされば」

「戦いながらお前を抱えていろと言うのか」

ケーユーはかすかに笑った。

「それも悪くありませんね」

「熱で頭がおかしくなっているな」

「昔からかもしれません」

リュークは返事をせず、ケーユーを別の馬へ移した。

騎士二人に左右から支えさせる。

「絶対に落とすな」

「はっ!」

「リューク様」

ケーユーが呼び止める。

「何だ」

「置いていかないでください」

弱い声だった。

軽口ではない。

その瞳に浮かぶ恐怖を見て、リュークは一瞬だけ言葉を失った。

ケーユーは戦死を恐れているのではない。

自分から引き離されることを恐れていた。

「置いていかない」

リュークははっきり答えた。

「お前が嫌だと言っても連れていく」

ケーユーは安心したように目を閉じた。

「それなら、少し眠れそうです」

「寝るな」

「先ほどより命令が多いですね」

「起きていろ!」

「承知……しました」

返事は次第に小さくなる。

意識を失っただけだ。

呼吸はある。

そう確かめてから、リュークは再び前を向いた。


ヴァレ平原の中央。

黄色と黒の横縞の旗は、敵軍の中で孤立していた。

トルベルアの周囲に残るヒューナ騎士は、百人を下回っている。

多くは馬を失い、円陣を組んで戦っていた。

敵は降伏を呼びかけた。

「ノカス公!」

西方軍の将が馬上から叫ぶ。

「陛下は貴公を生かして迎えると仰せだ!」

「武器を捨てよ!」

トルベルアは血に濡れた剣を地面へ突き立て、息を整えた。

鎧には何本もの矢が刺さっている。

左腕は上がらない。

脇腹から流れる血が、馬の鞍を赤く染めていた。

それでも背筋は曲がっていない。

「陛下だと」

トルベルアは鼻で笑った。

「帝国の皇帝はルーカ陛下ただ一人。敗軍の公爵が、僭称者を皇帝と呼ぶほど落ちぶれたと思うか」

西方軍の将は顔をしかめた。

「貴公の嫡男は、すでに陛下へ忠誠を誓っているぞ」

トルベルアの目が細くなる。

周囲のヒューナ騎士たちがざわめいた。

「嘘だ!」

「ドンモイレ様がそのようなことをするはずがない!」

だが、トルベルアは驚かなかった。

胸の内にあった最後の疑念が、ただ確信へ変わっただけだった。

「そうか」

静かな声だった。

「愚かな息子だ」

将は勝ち誇ったように続ける。

「ドンモイレ殿は新たなノカス公となる。貴公が降れば、親子そろって領地を保てよう」

トルベルアは剣を引き抜いた。

「私の息子は二人いる。一人は道を誤った。だが、もう一人は必ず正す」

黄色と黒の旗を見上げる。

遠くへ退いたリュークに、この言葉が届くことはない。

それでもトルベルアは言った。

「ノカス公爵家は、裏切り者のものにはならん」

西方軍の将が片手を上げる。

弓兵が弦を引き絞った。

「最後の機会だ。降伏せよ」

トルベルアは残った騎士たちを振り返った。

老いた者。

若い者。

血まみれの者。

皆が静かに主君を見つめている。

「皆、よく戦った」

トルベルアは言った。

「ここまで付き合わせてすまなかった」

ヒューナ騎士団長が笑う。

「何を仰います。我らは公爵閣下にお仕えできたことを、誇りに思っております」

「そうか」

「ならば、最後まで頼む」

騎士たちが剣を掲げた。

「ノカス!」

声は百人にも満たない。

それでも、その鬨の声は数千の敵を前にしても揺らがなかった。

「ノカス!」

「ノカス!」

トルベルアは黄色と黒の旗を見上げた。

ドンモイレ。

リューク。

妻。

居城。

領地に暮らす人々。

多くのものが脳裏をよぎる。

最後に浮かんだのは、振り返りながら退いていったリュークの顔だった。

あの息子なら生きる。

きっと、ここから先へ進める。

「行くぞ」

トルベルアは馬腹を蹴った。

「ノカスの旗を倒すな!」

最後のヒューナ騎士たちが続く。

西方軍の将が腕を振り下ろした。

無数の矢が空を覆う。

トルベルアはそれを見上げることなく、まっすぐ敵陣へ駆けた。

黄色と黒の横縞の旗を先頭にヒューナ騎士団は最後の突撃へ入った。


リュークたちが戦場から一里ほど離れた時だった。

背後から、遠く角笛の音が聞こえた。

遠く、ヴァレ平原の上には黒煙が上がっている。

黄色と白の旗は、もう見えなかった。

「父上……」

リュークの口から、かすれた声が漏れた。

戻りたい。

今すぐ引き返したい。

敵をすべて殺し、父を探し出したい。

だが、腕の中には父から託された兵たちの命がある。

負傷したケーユーもいる。

リュークは馬上で拳を握り締めた。

爪が掌へ食い込み、血が滲む。

それでも涙は流さなかった。

まだ、父の死を確かめたわけではない。

生きているかもしれない。

捕虜になっただけかもしれない。

そう考えなければ、前へ進めなかった。

「進む」

リュークは低く命じた。

「止まるな」

旗手が黄色と黒の旗を再び掲げる。

傷ついた兵たちは、無言で歩き始めた。

リュークは一度だけ背後を振り返った。

「必ず戻ります」

誰にも聞こえない声で呟く。

「必ず、父上を迎えに」

そして馬首を南東へ向けた。

帝国軍の残兵は、ノカス公爵領へ向けて退却を続けた。


退却は三日三晩に及んだ。

皇帝軍の残兵は、もはや一つの軍とは呼べなかった。

ヴァレ平原を離れた時には数千いた兵も、進むにつれて少しずつ減っていった。

傷が悪化して歩けなくなる者。

故郷へ戻ろうと隊列を離れる者。

家族を探すため、別の街道へ向かう者。

追撃を恐れ、夜陰に紛れて逃げ出す者もいた。

リュークは彼らを無理に引き止めなかった。

命令に従わせるだけの食料も、馬も、薬も残っていない。

何より、この軍は敗れた。

皇帝の旗は遠くへ退き、父トルベルアが率いていたヒューナ騎士団も戻ってこない。

兵士たちの心をつなぎ止めているのは、黄色と黒の横縞の旗だけだった。

その旗を掲げる限り、残った兵たちは黙って後へ続いた。

「休息を取る」

日が暮れた頃、リュークは街道沿いの小さな森で停止を命じた。

戦場から十分に離れたとはいえ、火を大きく焚くことはできない。

木々の間へ兵を分散させ、外から明かりが見えないよう小さな焚き火だけを作らせる。

負傷者が次々と地面へ横たえられた。

薬草も包帯も尽きかけている。

兵士たちは破れた服を裂き、傷口へ巻き付けていた。

リュークは馬を降りると、真っ先にケーユーのもとへ向かった。

ケーユーは木の根元へ背を預け、目を閉じていた。

左肩には新しい布が巻かれている。

だが、その布もすでに血に染まり始めていた。

「ケーユー」

呼びかけると、ゆっくり目を開く。

「お戻りでしたか」

「具合は」

「問題ありません」

「それは三日前から聞いている」

リュークは隣へ膝をついた。

額へ手を当てる。

熱い。

明らかに熱がある。

「熱があるな」

「少しだけです」

「少しではない」

「リューク様の手が冷たいだけではありませんか」

「誤魔化すな」

ケーユーは弱々しく笑った。

「怒られると、少し元気が出ますね」

「なら、朝まで怒鳴り続けてやろうか」

「それは眠れませんのでご勘弁ください」

普段と変わらぬ軽口。

だが、声に力がない。

リュークは傷口の布へ手を伸ばした。

「見せろ」

「大丈夫です」

「命令だ」

ケーユーは諦めたように息を吐いた。

リュークが布を解く。

槍で貫かれた傷は深かった。

傷の周囲が赤黒く腫れている。

汚れた槍先から何かが入り込んだ可能性もある。

前世なら消毒と抗菌薬が必要になる。

この世界に、同じものはない。

それでも水魔術なら傷を洗うことはできる。

リュークは掌へ水を生み出した。

冷たく澄んだ水。

そこへ魔力を極力混ぜないよう注意しながら、傷口をゆっくり洗い流す。

ケーユーの身体が震えた。

「痛むか」

「まったく」

「嘘をつけ」

「リューク様が怖い顔をされるので、痛いとは言いづらいのです」

「顔は関係ない」

「少しくらい優しい顔をしてください」

「どうすればいい」

「それを私に尋ねますか」

リュークは返事をせず、傷の洗浄を続けた。

ケーユーはしばらく黙っていた。

やがて、ぽつりと口を開く。

「公爵閣下は」

リュークの手が止まった。

「まだ分からない」

「そうですね」

「旗が倒れたことしか分からない」

「父上が死んだとは限らない」

言葉を重ねるほど、必死な響きが増していく。

ケーユーはそれを否定しなかった。

「きっと、戻られます」

「ああ」

「公爵閣下はお強い方ですから」

「ああ」

リュークは短く答えた。

その先を口にすれば、声が震えそうだった。

傷へ新しい布を巻く。

近くにいた兵から借りた清潔な布だった。

「今夜は眠れ」

「リューク様は」

「見張りをする」

「また眠られないおつもりですか」

「眠くない」

「それも嘘ですね」

ケーユーは木へ寄りかかったまま、リュークを見つめた。

「リューク様」

「何だ」

「少しだけ、ここにいてください」

弱い声だった。

供回りとしての願いではない。

幼い頃から共に過ごしてきた者の願いだった。

リュークは立ち上がるのをやめ、その場へ腰を下ろした。

「少しだけだ」

「はい」

ケーユーは安心したように目を閉じる。

やがて呼吸がゆっくりと整っていった。

リュークはその横顔を見ながら、森の暗闇へ耳を澄ませた。

敵の蹄の音はない。

獣の鳴き声も少ない。

不気味なほど静かな夜だった。


翌朝。

遠くから鐘の音が聞こえた。

一定の間隔ではない。

乱れた、激しい音。

城門の開閉や時刻を知らせる鐘ではない。

警鐘だった。

「何だ」

リュークは立ち上がる。

音は東から聞こえてくる。

ノカス公爵領の方角だった。

周囲の兵たちも次々と目を覚ます。

「領内の鐘です」

旗手が不安そうに呟いた。

「敵襲でしょうか」

「エッセ軍が回り込んだのか」

別の兵が言う。

リュークは首を横に振った。

西方軍はヴァレ平原の西側にいる。

戦場から直接ノカス領へ向かったとしても、これほど早く東側の警鐘が鳴るはずはない。

「出発する」

リュークは命じた。

「休める者は馬へ乗れ」

「歩けない負傷者は荷車へ」

「急ぐぞ」

ケーユーも立ち上がろうとした。

身体がふらつく。

リュークが腕を掴んだ。

「お前は荷車だ」

「馬に乗れます」

「乗れない」

「昨日は乗れていました」

「昨日、落ちかけただろう」

「リューク様が支えてくださいましたので」

「今日は支えない」

「冷たいですね」

「死なれた方が困る」

ケーユーが黙る。

ほんの少し頬を緩めた後、諦めて荷車へ向かった。

「それなら仕方ありません」

「ずいぶん素直だな」

「リューク様が困るとおっしゃいましたから」

兵たちは急いで荷をまとめ、再び街道へ出た。

進むにつれて、異変ははっきりしていった。

東から逃げてくる人々が増え始めたのである。

荷車へ家財を積んだ農民。

幼い子供を抱えた母親。

杖をつきながら歩く老人。

皆、恐怖に顔を引きつらせていた。

「何があった!」

リュークが一人の農民を呼び止める。

農民は黄色と白の旗を見ると、崩れるように膝をついた。

「若様!」

「若様、お助けください!」

「何が起きた」

「魔物です!」

リュークの眉が動く。

「どこから来た」

「東の森からです!」

「狼のような奴や、角の生えた化け物が何百も!」

「村を襲って、人を食っております!」

周囲の兵たちがざわめく。

「東方の守備兵は」

「おりません!」

農民は泣きながら叫んだ。

「戦へ連れていかれました!」

その言葉に、リュークは息を呑んだ。

西方諸侯との戦争。

動員のため、各地の守備隊は大きく減らされている。

特にノカス領東部は、これまで大きな脅威がなかったため、兵力をほとんど前線へ回していた。

魔物の群れは、その隙を突いた。

偶然なのかそれとも、人間の軍がいなくなったことを理解していたのか。

今は分からない。

だが、原因ははっきりしている。

戦争で国境守備が崩れた。

だから魔物が入り込んだ。

「数は」

「分かりません!」

「最初は数十匹でした」

「ですが森の奥から、次々と出てきます!」

「城下町は」

農民は顔を伏せた。

「東門の外まで来ていると」

リュークは馬首を返した。

「全軍、速度を上げる!」

「負傷していない騎兵は先行しろ!」

「逃げてくる民を街道の南へ誘導!」

「戦える歩兵は後続を守れ!」

兵たちは疲労を忘れたように動き始める。

敵兵とは違う。

魔物は降伏を認めない。

領地へ入られれば、民は殺されるだけだ。

「リューク様」

荷車からケーユーが呼ぶ。

「私も馬を」

「駄目だ」

「ですが」

「お前は負傷者をまとめろ」

「逃げてくる民を荷車へ乗せるんだ」

ケーユーは何か言い返そうとした。

だが、リュークの目を見て口を閉じる。

「承知しました」

「任せる」

リュークは馬腹を蹴った。

残った騎兵を率い、東へ向かって駆ける。


昼を過ぎた頃。

丘を越えた先に、ノカス公爵家の居城が見えた。

だが、リュークが知る城の姿とは違っていた。

城下町の東側から、幾筋もの黒煙が立ち上っている。

民家や倉庫が炎に包まれ、警鐘が絶え間なく鳴り響いていた。

城壁の上では弓兵たちが矢を放ち、東門の前では兵士と魔物が入り乱れている。

「急げ!」

リュークは剣を抜いた。

残った騎兵たちが坂を駆け下りる。

近づくにつれて、魔物の姿がはっきりと見えてきた。

人ほどの大きさをした灰色の狼。

背中には骨のような突起が並び、裂けた口から黒い涎を垂らしている。

二本の角を生やした巨大な猪。

緑色の皮膚を持ち、粗末な棍棒や石斧を振り回す人型の魔物。

その数は数百を超えていた。

「騎兵隊!」

リュークが剣を掲げる。

「東門までの道を開く!」

「民を守れ!」

黄色と白の横縞の旗を見つけた城兵が声を上げた。

「リューク様だ!」

「若様がお戻りになったぞ!」

疲弊していた兵たちの間から歓声が起こる。

その声に反応し、灰色の狼たちが一斉に振り向いた。

低い唸り声。

剥き出しの牙。

そして次の瞬間、群れがこちらへ駆け出した。

「来るぞ!」

リュークは左手を前へ伸ばした。

戦場と三日間の退却で、魔力はほとんど残っていない。

それでも使わないという選択肢はなかった。

「《水刃》」

詠唱と同時に、幾本もの透明な刃が地面すれすれを走った。

先頭を駆けていた狼たちの脚が切断され、勢いのまま地面へ転がる。

その上を騎兵が駆け抜けた。

リュークは飛びかかってきた一頭の首を斬る。

二頭目の牙を剣で払い、返す刃で喉を裂く。

右から角猪が突進してきた。

馬を横へ跳ばしてかわし、すれ違いざまに首筋へ剣を突き立てる。

「町の外へ押し戻せ!」

「逃げ遅れた者を城内へ!」

騎兵たちが扇状に広がり、魔物の群れを東門から引き離していく。

兵士たちはその隙に、逃げ遅れた老人や子供を抱え、城門へ走った。

リュークも魔物を斬りながら、居城を見上げる。

母は城の中にいるはずだった。

魔物が城内へ入り込んでいなければ、まだ無事でいる。

そう思った、その時だった。

上空から、耳をつんざくような咆哮が響いた。

馬たちが一斉に嘶き、怯えたように前脚を上げる。

兵士たちも戦う手を止め、空を見上げた。

「何だ……」

巨大な影が城の上を横切った。

革のような翼。

細長い尾。

鋭い鉤爪。

青黒い鱗に覆われた身体。

ワイバーンだった。

翼を広げた大きさは、屋敷一棟を覆えるほどもある。

その口元から赤い炎が漏れていた。

「ワイバーン!」

城壁の兵が絶叫する。

「伏せろ!」

ワイバーンが東棟へ向けて急降下した。

大きく口を開く。

次の瞬間、炎が吐き出された。

真紅の奔流が窓や屋根を呑み込み、東棟全体が一瞬で炎に包まれる。

窓ガラスが砕け散り、火をまとった木片が中庭へ降り注いだ。

「東棟が!」

「消火しろ!」

「中に人が残っているぞ!」

城内から悲鳴と怒号が上がる。

リュークの胸を嫌な予感が貫いた。

東棟。

そこには母の私室がある。

「母上……」

ワイバーンは東棟の屋根へ鉤爪を突き立てた。

瓦が砕け、梁が折れる。

巨大な頭を窓へ突っ込み、逃げ惑う人々へ牙を向けていた。

「騎兵隊長!」

リュークは近くの騎士へ叫んだ。

「ここを任せる!」

「若様は」

「城へ入る!」

返事を待たず、リュークは馬腹を蹴った。

東門へ駆け込み、中庭へ入る。

中庭は逃げ惑う使用人と負傷者で溢れていた。

火傷を負った者。

泣き叫ぶ子供。

水桶を持って東棟へ向かう兵士たち。

そのすべてを押しのけるように、ワイバーンの尾が振り回された。

石像が砕け、兵士が何人も吹き飛ばされる。

「母上はどこだ!」

リュークは声を張り上げた。

一人の侍女が振り返る。

顔も衣服も煤で真っ黒だった。

「若様!」

「母上は!」

「奥方様は東棟に!」

「子供たちを避難させるため、最後まで残られております!」

リュークは東棟を見上げた。

二階の窓。

炎の向こうに人影が見えた。

母だった。

数人の子供と侍女を窓際へ押し出し、下に広げられた布へ飛び降りさせている。

「母上!」

リュークが叫ぶ。

母がこちらを見た。

距離があり、声は届いていないはずだった。

それでも、目が合ったような気がした。

安堵したように、母が微笑む。

その背後で壁が崩れた。

ワイバーンの頭が、燃え上がる部屋へ突っ込んでくる。

「やめろ!」

リュークは左手を突き出した。

「《水刃》!」

水の刃が飛ぶ。

だが、ワイバーンは翼を広げ、空へ舞い上がった。

刃は鱗の表面を浅く削るだけに終わる。

ワイバーンが怒りの咆哮を上げた。

空中で身体を反転させ、今度はリュークへ向かって突っ込んでくる。

「若様!」

兵士たちが叫ぶ。

リュークは動かなかった。

母のいる東棟と、自分との間にワイバーンを引きつける。

今ここで逃げれば、再び東棟を襲う。

ワイバーンが口を開いた。

炎が喉の奥で膨らむ。

「来い」

リュークは剣を地面へ突き立て、両手を前へ伸ばした。

残った魔力をすべて集める。

炎が放たれる。

同時に、リュークの前へ大量の水が生まれた。

「《水壁》!」

分厚い水の壁と炎が激突する。

轟音。

一瞬で水が蒸発し、白い蒸気が中庭を覆った。

肌を焼くほどの熱気が広がる。

リュークは歯を食いしばり、水を生み出し続ける。

ワイバーンの炎が弱まる。

やがて、完全に止まった。

蒸気の向こうから巨大な影が飛び出した。

ワイバーンが鉤爪を振り下ろす。

リュークは横へ転がった。

爪が石畳へ突き刺さり、地面を大きく抉る。

すぐに立ち上がり、剣を横薙ぎに振るう。

刃は脚の鱗へ当たった。

硬い。

火花が散っただけで、ほとんど傷を与えられない。

ワイバーンの尾が唸りを上げる。

剣で受ける。

凄まじい衝撃で身体が宙へ浮き、石壁へ叩きつけられた。

息が止まる。

口の中に血の味が広がった。

それでもリュークは立ち上がった。

母はまだ東棟にいる。

ここで倒れるわけにはいかない。

ワイバーンが再び飛び上がる。

空から炎を吐くつもりだ。

リュークは上空を睨み、呼吸を整えた。

鱗は硬い。

水刃では切れない。

水断でも、正面から鱗を貫くには魔力が足りない。

ならば。

狙う場所は一つ。

「目だ」

ワイバーンが旋回する。

リュークへ正面から迫る。

口を開き、炎を溜める。

その瞬間。

リュークは右手を向けた。

細く。

限界まで細く。

残った魔力を一点へ集中させる。

「《水槍》」

破裂音。

目に見えないほど細い水流が一直線に走った。

ワイバーンの右目を貫く。

咆哮。

巨体が空中で大きく揺れた。

炎は狙いを外れ、城壁の上を薙ぎ払う。

ワイバーンは片目を潰されながらも、怒り狂って降下してきた。

リュークは避けない。

剣を両手で握り、正面から待ち構える。

ワイバーンの顎が開く。

牙が迫る。

直前で横へ踏み込む。

剣を口の中へ突き入れる。

鱗のない柔らかな上顎へ、刃が深く食い込んだ。

だが、剣だけでは浅い。

リュークは柄から手を離さず、至近距離で魔力を流し込む。

「《水槍》!」

ワイバーンの口内で、高圧の水流が炸裂した。

頭蓋を内側から突き破る。

青黒い巨体が激しく痙攣した。

翼が力を失う。

ワイバーンは中庭へ落下し、石畳を砕きながら倒れた。

地面が揺れる。

しばらく脚と翼が痙攣していたが、やがて完全に動かなくなった。

「若様が倒した……」

「ワイバーンを……」

周囲の兵たちが呆然と立ち尽くす。

リュークは彼らを見なかった。

剣を引き抜くことさえせず、燃え上がる東棟へ走った。

「水を!」

「東棟の火を消せ!」

兵士たちが道を開ける。

階段を駆け上がる。

梁が燃え、天井から火の粉が落ちてくる。

煙で前が見えない。

リュークは水魔術で周囲の炎を押し退けながら進んだ。

「母上!」

返事はない。

「母上!」

崩れた扉を蹴り破る。

その先に、母はいた。

倒れた梁の傍ら。

身体を壁へ預けるようにして座り込み、腕の中に一人の幼い子供を抱えている。

子供は泣いていた。

生きている。

母は自分の身体で、その子を炎と瓦礫から守っていた。

「母上!」

リュークは駆け寄った。

抱かれていた子供を兵士へ渡し、母の身体を抱き起こす。

服は焼け焦げていた。

肩から背中にかけて深い傷がある。

ワイバーンの鉤爪か、崩れた梁によるものかは分からない。

「母上」

返事はなかった。

「もう大丈夫です」

「ワイバーンは倒しました」

「俺が倒しましたから」

母の身体は温かい。

だが、それは周囲の炎に熱せられているだけだった。

胸は動いていない。

脈もない。

リュークは震える指で母の頬へ触れた。

「母上?」

何度呼んでも、目を開かない。

苦しげだった表情だけが、わずかに穏やかになっていた。

子供が助かったことを、最後に確かめられたのかもしれない。

リュークが辿り着いた時には、母はすでにこと切れていた。

「遅かった……」

口から漏れた声は、自分のものではないように聞こえた。

ワイバーンを倒した。

城を守った。

子供たちも助けた。

それでも、母だけは救えなかった。

「俺がもっと早く戻っていれば」

戦場へ行かなければ。

退却がもう少し早ければ。

意味のない考えが次々と浮かぶ。

リュークは母の身体を強く抱き締めた。

幼い頃に抱き締められた時とは、まるで逆だった。

「母上……」

ようやく、それだけを絞り出す。

炎の音。

崩れる木材の音。

遠くで続く戦いの音。

そのすべてが急に遠くなった。

兵士たちがリュークを呼んでいる。

東棟が崩れるから退避しろと叫んでいる。

それでもリュークは動けなかった。

ケーユーが兵士の肩を借りながら部屋へ入ってきた。

「リューク様」

その声を聞いても、振り返れない。

ケーユーは母の姿を見て、何も言わなかった。

ゆっくりと傍らへ膝をつく。

リュークの肩へ右手を置いた。

「ワイバーンは倒しました」

リュークは母を抱いたまま呟く。

「なのに、間に合わなかった」

「はい」

ケーユーは否定しなかった。

大丈夫だとも。

仕方がなかったとも言わない。

ただ、リュークのそばにいた。

「父上も戻らない」

「母上も死んだ」

言葉が続かない。

ケーユーの手が、わずかに強く肩を掴む。

「今は、奥方様を安全な場所へお連れしましょう」

リュークはすぐには動かなかった。

やがて母の身体を両腕で抱き上げる。

軽かった。

あまりにも軽い。

立ち上がり、燃え崩れようとしている東棟を歩く。

ケーユーが隣を進む。

二人が外へ出た直後、東棟の屋根が轟音とともに崩れ落ちた。

中庭には、リュークが倒したワイバーンの巨体が横たわっていた。

その傍らを通り過ぎながら、リュークは一度もワイバーンを見なかった。

勝利を喜ぶ気持ちなど、どこにも残っていなかった。


東棟の火災は、その日の夕刻まで続いた。

城兵と使用人たちが井戸から何百杯もの水を運び、ようやく炎は鎮火した。

だが、東棟は半ば崩れ落ち、もはや修復できる状態ではなかった。

中庭には、リュークが討ち取ったワイバーンの巨体が横たわっている。

その青黒い鱗は夕日に照らされ、不気味な光を放っていた。

城内へ避難した民たちは、その巨体を見て息を呑む。

「若様が……」

「ワイバーンを討ち取られた」

「まだ十六歳だぞ……」

誰もが信じられないものを見るような目だった。

しかし、その英雄は喜ぶ様子など微塵もない。

リュークは母の亡骸の前から、一歩も動こうとしなかった。

・・・

夜。

大広間は静まり返っていた。

白い布に包まれた母の亡骸が安置されている。

周囲には蝋燭だけが灯され、使用人や侍女たちが涙を流していた。

リュークはその傍らへ膝をついたまま動かない。

何時間そうしていただろうか。

やがて足音が近づいてきた。

ケーユーだった。

左肩は木で固定され、顔色も悪い。

それでも主の傍へ来た。

「リューク様」

返事はない。

「少しだけ、お食事を」

「……いらない」

「何も召し上がっておられません」

「食えるか」

それだけだった。

ケーユーは何も言わず、隣へ座る。

沈黙だけが流れた。

やがてリュークが口を開く。

「俺は」

「はい」

「父上も守れなかった」

「……。」

「母上も守れなかった」

拳が震えている。

「俺は剣を磨き、魔術も研究した。強くなれば守れると思っていた。なのに。」

リュークは母の顔を見る。

穏やかな寝顔だった。

まるで眠っているようにしか見えない。

「守れなかった。」

ケーユーは静かに目を閉じた。

慰める言葉は思い浮かばない。

何を言っても、この悲しみは消えない。

だから、ただ隣にいた。


その時だった。

廊下を駆ける足音が聞こえる。

「若様!」

兵士が大広間へ飛び込んできた。

息を切らしながら跪く。

「申し上げます!」

リュークはゆっくり顔を上げた。

兵士の表情は青ざめている。

「何だ」

「公爵閣下の件でございます!」

リュークの身体が強張る。

「父上は」

兵士は深く頭を下げた。

「戦場より帰還した負傷兵がございます。その者の話によれば……」

言葉が止まる。

兵士の声が震えていた。

「申せ」

「公爵閣下は……。最後までヒューナ騎士団を率い、皇帝陛下の退却を援護されました。敵へ五度突撃され、最後は徒歩となっても剣を振るわれたとのことです」

リュークは黙って聞いている。

「ヒューナ騎士団最後の二十余名と共に包囲され、敵将へ最後まで降伏を拒否されたそうです」

兵士は唇を噛んだ。

「……公爵閣下は戦死されたものと思われます」

部屋の空気が止まった。

侍女たちが泣き崩れる。

年老いた執事ドュベルクは目を閉じ、静かに胸へ手を当てた。

リュークだけが動かなかった。

まるで時間が止まったようだった。

「そうか」

それだけだった。

リュークは立ち上がった。

母の亡骸へ静かに頭を下げる。

それから窓際まで歩いた。

夜空には月が浮かんでいる。


その時、再び廊下を走る音が響いた。

今度は城兵ではない。甲冑を着た騎士だった。

「若様!」

「至急、ご報告が!」

「今度は何だ」

騎士は跪く。

「ドンモイレ様が帰還されました。それだけではありません。ご自身をノカス公爵と名乗り、城門前で兵を集めております。」

大広間にいた全員が息を呑んだ。

「何だと」

「さらにエッセ公より使者が到着しております。ドンモイレ様へ、公爵就任を祝う書状を届けたとのことです。」

ケーユーの顔色が変わる。

「若様」

リュークは静かに剣へ手を置いた。

「……なるほど」

すべて繋がった。

父が言っていたこと。

戦場で敵が作戦を知っていた理由。

中央突破。

包囲。

すべて。

兄が売ったのだ。

父を。

仲間を。

そして、自ら公爵になるために。

リュークはゆっくりと剣を抜いた。

刀身へ映る自分の顔を見る。

そこには怒りではなく、凍るような視線だけがあった。

抜いていた剣を鞘へ戻すと、その場で足を止めた。

「リューク様?」

後ろを歩いていたケーユーも立ち止まる。

「ドンモイレ様に会われるのでは」

リュークは答えなかった。

廊下の窓から、炎に照らされた中庭が見える。

石畳には、討ち取ったワイバーンの巨体が横たわっていた。

城兵たちは今も東棟の残り火を消している。

運び出された負傷者。

泣き崩れる侍女。

焼け落ちた屋根。

どれも自分が知っていた故郷の姿ではなかった。

父は戦場から帰らない。

母はもう目を開けない。

兄は父の死を待つように公爵位を名乗り、エッセ公から承認を受けた。

怒るべきなのだろう。

剣を抜き、兄の前へ立つべきなのかもしれない。

裏切りの理由を問いただし、父と兵たちの仇を討つ。

ほんの少し前までなら、そうしていた。

だが、今は何も湧いてこなかった。

怒りも。

憎しみも。

悲しみさえ、どこか遠くにあるように感じる。

胸の中には、ただ大きな穴だけが残っていた。

「どうでもいい」

リュークの口から、かすれた声が漏れた。

「何が、でしょうか」

「兄上だ」

ケーユーは何も言わず、リュークの横顔を見つめた。

「兄上が裏切ったとしても、公爵を名乗ったとしても、もうどうでもいい」

「父上は戻らない」

「母上も生き返らない」

「兄上を斬っても、何も戻ってこない」

リュークは自分の右手を見た。

この手で何人斬ったか、もう覚えていない。

魔術で攻城塔を断ち、軍を押し返し、川へ橋を架けた。

敵軍の背後を突き、総大将旗を奪った。

今日もワイバーンを殺した。

周囲は自分を強いと言った。

英雄と呼ぶ者までいた。

それなのに、何一つ守れなかった。

「俺は何のために強くなったんだろうな」

「リューク様」

「父上も、母上も守れなかった」

「それはリューク様のせいではありません」

ケーユーは即座に答えた。

だが、リュークは首を横へ振る。

「誰のせいかなんて関係ない。結果は同じだ。俺に力が足りなかった」

ケーユーの眉が寄る。

「リューク様お一人で、戦争も魔物の群れも防げるはずがありません」

「今はな」

静かな言葉だった。

ケーユーが息を呑む。

リュークは中庭へ目を向けたまま続ける。

「今の俺にはできなかった、だからできるようになる。もっと強くなる」

そこに復讐の炎はなかった。

怒りに任せた決意でもない。

冷たく。

深く。

自分の中へ刻み込むような声だった。

「ドンモイレ様を討つためですか」

「違う」

リュークは迷わず答えた。

「兄上を討つことに興味はない。公爵位にも興味はない。皇帝が誰になるかも、もう俺には関係ない」

父はノカス公として生きた。

母は公爵夫人として城に残り、最後まで領民を守った。

二人が命を懸けたものを、リュークは否定するつもりはない。

だが、自分が同じ道を歩む必要はなかった。

領地を治める。

家臣をまとめる。

諸侯と争い、皇帝へ忠誠を誓う。

そのどれも、自分が望んだものではない。

リュークが望んできたものは、最初から一つだった。

剣と魔術。

ただ、それだけだった。

「旅に出る」

ケーユーが目を瞬く。

「旅、ですか」

「ああ」

「ここを出る」

「どちらへ向かわれるのですか」

「南だ」

リュークは以前、騎士たちから聞いた話を思い出していた。

帝国南部。

スプルア山脈の麓に広がるトッシャドンラ公爵領。

険しい山々には数多くの魔物が棲み、時にはワイバーンよりも危険なものが現れるという。

そのため、トッシャドンラ公爵領には各地から腕自慢が集まる。

騎士。

傭兵。

魔術師。

魔物狩りを生業とする冒険者。

身分や出自ではなく、力だけで名を上げようとする者たち。

「トッシャドンラ公爵領を目指す」

「スプルア山脈の近くですね」

「知っているのか」

「魔物狩りで名を上げたい者が集まる土地だと聞いております」

「あそこなら、今より強い奴がいる」

リュークの声に、初めてわずかな熱が戻った。

「知らない魔術もある。戦ったことのない魔物もいる。俺より強い剣士もいるかもしれない」

それならば行く価値がある。

公爵家の次男として守られ、騎士団の中で訓練するだけでは、もう足りない。

自分の知らない場所へ行く。

命を懸けて戦う。

剣も魔術も、限界まで磨き直す。

二度と、何もできずに見送るだけの人間にはならない。

「この城には残らないのですか」

「ああ」

「ドンモイレ様が公爵となっても」

「好きにすればいい」

リュークは本心からそう思っていた。

兄が望んだ公爵位。

父を裏切り、弟を殺そうとしてまで欲したもの。

好きなだけ抱えていればいい。

その椅子が兄を幸せにするかどうかさえ、今のリュークには興味がなかった。

「俺は兄上の命令には従わないが、争うつもりもない。俺はここを出ていく」

それだけだった。

ケーユーは少し俯いた。

「そうですか」

「お前は残れ」

リュークの言葉に、ケーユーが顔を上げる。

「ザレン子爵家の者なら、兄上も悪いようにはしないだろう。ここに残る方が安全だ」

「お断りします」

間髪を入れない返答だった。

リュークは眉をひそめる。

「まだ何も聞いていないだろう」

「聞かなくても分かります」

「お前を連れていくつもりはない」

「私には付いてくるつもりがあります」

「傷も治っていない」

「治してから追いかけます」

「危険な旅になる」

「承知しております」

「もう供回りでいる必要もないんだぞ」

リュークがそう言うと、ケーユーはわずかに目を伏せた。

「私は、供回りだからおそばにいたわけではありません」

「では、なぜだ」

問い返され、ケーユーは言葉に詰まった。

左肩の傷が痛んだのか、あるいは別の理由なのか。

「……幼い頃からご一緒でしたので」

「それだけか」

「今は、それで十分です」

ケーユーはリュークの目を見た。

「私はリューク様にお仕えしてきました」

「ですが、それ以前に」

一度、息を吸う。

「あなたを一人で行かせたくありません」

リュークは黙った。

ケーユーの瞳には、いつもの軽い調子はなかった。

戦場で自分を庇った時と同じ目。

退却の途中で、置いていかないでほしいと願った時と同じ目だった。

「俺と来れば、死ぬかもしれない」

「ここに残っても死ぬ時は死にます」

「屁理屈だ」

「リューク様にだけは言われたくありません」

「公爵家の暮らしには戻れないぞ」

「若様も戻られないのでしょう」

「野宿もする」

「昔、訓練で経験しました」

「食事も粗末になる」

「若様よりは料理ができます」

「それは認める」

「では問題ありませんね」

「問題だらけだ」

ケーユーが小さく笑う。

その笑みを見て、リュークはようやく息を吐いた。

すべてを失ったと思っていた。

父も。

母も。

家も。

自分が守ろうとしたものは、何一つ残らなかった。

だが、目の前にはケーユーがいる。

傷だらけになりながらも、自分のそばから離れようとしない者がいる。

それを拒絶する理由が、リュークには見つからなかった。

「勝手にしろ」

「はい」

ケーユーは嬉しそうに頷いた。

「いつも勝手にさせていただいております」

「それを直す気はないのか」

「ございません」

「そうか」

リュークの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。

母を失ってから、初めて見せた表情だった。


その夜。

ドンモイレは城の謁見の間へ入った。

父が使っていた椅子の前へ立ち、周囲の重臣たちを見回す。

鎧には戦場の汚れが残っている。

だが、大きな傷は見当たらなかった。

その背後には、エッセ公から派遣された使者が控えている。

使者の手には、青い封蝋で閉じられた書状があった。

「父上は戦死された」

ドンモイレが告げる。

大広間へ重苦しい沈黙が落ちる。

「よって、嫡男たる私がノカス公爵位を継承する」

ドンモイレはエッセ公の使者を示した。

「正統なる皇帝トヒレブルア陛下より、すでに承認を受けている。今後、ノカス公爵家はトヒレブルア陛下へ忠誠を誓う。異論は認めない」

重臣たちは互いの顔を見た。

父トルベルアと共に戦った者。

妻や子を戦場へ送り出した者。

ラウス川でエッセ軍と剣を交えた者もいる。

すぐに忠誠を誓う声は上がらなかった。

その時、大広間の扉が開いた。

リュークが入ってくる。

その後ろには、腕を吊ったケーユーがいた。

ドンモイレの表情が固まる。

「リューク」

生きていた。

エッセ公は必ず弟を討つと約束した。

作戦も兵数もすべて教えた。

それでも、弟は戻ってきた。

「兄上」

リュークは淡々と呼びかけた。

その声に怒りはない。

憎しみもない。

ドンモイレはかえって不安を覚えた。

罵られると思っていた。

剣を抜かれることさえ覚悟していた。

だが、リュークの目には何も映っていないようだった。

「父上の作戦を、エッセ公へ伝えたのですか」

大広間が静まり返る。

ドンモイレの顔が強張った。

「何の話だ」

「答えなくて結構です」

「なに?」

「もう、どうでもいいので」

ドンモイレの眉が吊り上がる。

「どうでもいいだと」

「ああ」

「公爵位も。兄上の裏切りも。父上を見捨てた理由も俺にはもう関係ありません」

「私を侮辱しているのか!」

「違います」

リュークは静かに首を横へ振った。

「本当に、何も感じないだけです」

その言葉は、怒鳴られるよりも深くドンモイレを傷つけた。

弟は自分を憎んですらいない。

敵としても見ていない。

何年も弟を恐れ、嫉妬し、その存在を消そうとした。

だが弟にとって、自分はもはや向き合う価値すらない存在なのだ。

「兄上が公爵になりたいならなればいい」

「この城も、領地も、家臣も、すべて兄上のものです」

「俺は出ていきます」

重臣たちがざわめく。

ドンモイレも目を見開いた。

待ち望んでいた言葉のはずだった。

弟が家督を望まない。

領地を捨てて去る。

これで自分の地位を脅かす者はいなくなる。

それなのに、勝った気がしなかった。

むしろ、自分だけが何もかも失ったような感覚があった。

「勝手にしろ」

ドンモイレは吐き捨てるように言った。

「二度とノカス家の名を名乗るな」

大広間がざわつく。

ケーユーの顔に怒りが浮かぶ。

だが、リュークは表情を変えなかった。

「分かりました」

あまりにも素直な返答だった。

「では、今夜のうちに出ます」

「待て」

ドンモイレが呼び止める。

自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。

リュークが振り返る。

「何ですか」

言葉が出ない。

謝ることも。

引き止めることも。

公爵として命じることもできなかった。

「……何でもない」

「そうですか」

リュークは背を向けた。

ケーユーもドンモイレへ形式的に一礼し、その後へ続く。

大広間の扉が閉じる。

ドンモイレは父の椅子の前へ立ったまま、動けなかった。

望んでいた公爵位は手に入った。

弟は去った。

誰も自分の地位を脅かさない。

それでも、広い大広間の中で、自分だけが取り残されたように感じた。


夜明け前。

リュークとケーユーは城の南門にいた。

持ち出した荷物は多くない。

剣。

短弓。

着替え。

毛布。

数日分の食料。

水袋。

治療用の薬草。

魔術の研究を記した帳面。

リュークは公爵家の紋章が入った外套を脱ぎ、無地の濃灰色の外套へ着替えていた。

高価な鎧も置いていく。

代わりに、戦場で使っていた胸当てと革の防具だけを身に着けた。

ケーユーも家紋の入った装備を外している。

「本当に来るのか」

リュークが尋ねる。

「今さらですか」

「まだ引き返せる」

「リューク様こそ、引き返されますか」

「いや」

「では、私も同じです」

ケーユーは傷の痛みを隠すように馬へ跨った。

「まずはアミヘボ王領へ向かう」

リュークは南へ続く街道を見る。

「そこからグンビラウトス伯領を抜ける」

「その先がトッシャドンラ公爵領ですね」

「ああ」

「戦争中ですから、街道には検問があるでしょう」

「ノカス公爵家の者だと名乗れば、兄上へ報告が行くかもしれない」

「傭兵のふりをしますか」

「それがいい」

ケーユーがリュークの装備を眺める。

「無愛想な傭兵と、傷ついた従者ですか」

「従者では目立つ」

「では、相棒で」

「相棒?」

「不満ですか」

リュークは少し考える。

「いや」

「それでいい」

ケーユーは嬉しそうに笑った。

「では改めまして」

右手を差し出す。

「これからよろしくお願いいたします、相棒」

リュークはその手を見る。

幼い頃から何度も見てきた手だった。

剣を握り。

自分を庇い。

戦場から共に帰ってきた手。

その手を握る。

「よろしく、ケーユー」

門兵が南門を開いた。

夜明け前の冷たい風が、城内へ吹き込む。

リュークは一度だけ振り返った。

生まれ育った城。

父と剣を交えた中庭。

母と食事を取った広間。

魔術の研究を続けた訓練棟。

そのすべてが、薄暗い朝靄の向こうへ沈んでいる。

胸に痛みはあった。

だが、戻りたいとは思わなかった。

ここに残っても、失ったものを見続けるだけだ。

「行こう」

リュークが馬を進める。

「はい」

ケーユーが隣へ並ぶ。

二人は南門を抜けた。

公爵家の次男と、その供回りとしてではない。

名もない二人の旅人として。

剣と魔術を磨き直すための旅が、静かに始まった。

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