橋を架けろ
勝利の余韻は、一日と続かなかった。
グルブンデンラブ辺境伯軍との激戦を制し、ようやく兵たちにも笑顔が戻り始めた翌朝のことだった。
空はまだ群青色に染まり、東の空がわずかに白み始めた頃、一騎の伝令が馬を飛ばして本陣へ駆け込んできた。
馬は全身を汗で濡らし、口元には白い泡を浮かべている。
伝令自身も泥と埃にまみれ、馬から飛び降りるなり地面へ膝をついた。
「急報!」
張り詰めた声が静かな陣営へ響き渡る。
見張りの兵が道を開け、伝令はそのまま軍議の天幕へ駆け込んだ。
天幕ではアミヘボ王、ノカス公爵、ドンモイレ、リュークをはじめとする将たちが、ようやく束の間の休息を取っていた。
「西方より大軍接近!」
その一言で全員が立ち上がる。
「数は」
アミヘボ王が鋭く問い返した。
「約五万!」
「青地に赤白の獅子の旗!」
「エッセ公軍です!」
その場から音が消えた。
昨日まで静観を続けていたエッセ公が、ついに動いたのである。
しかも、この上ない好機を狙って。
十日に及ぶ籠城戦。
その直後のグルブンデンラブ辺境伯との決戦。
兵士たちは二週間近く鎧を脱ぐ暇もなく戦い続けていた。
まともに眠った者はいない。
負傷者は数千。
折れた槍は補充が追いつかず、弓兵の矢も残り少ない。
戦える兵をかき集めても三万ほどしか残っていなかった。
対するエッセ公軍は休養十分の五万。
兵数も体力も圧倒的に勝っている。
「狙っていたな」
父アルベルトが苦々しく呟いた。
「我らと辺境伯軍が潰し合うのを待っていたのでしょう」
アミヘボ王は卓上の地図へ目を落とした。
西から延びる街道。
その先にはエッセ公領。
「退けば追われる」
王は静かに言った。
「迎え撃つしかない」
誰一人として反論しなかった。
もはや選択肢は残されていなかった。
その日の昼過ぎ、連合軍は西へ向かって進軍を開始した。
昨日まで血で染まっていた戦場を横目に進む。
兵士たちは疲労を隠せない。
半日ほど進んだところで、一行の前へ巨大な川が姿を現した。
スラウェフィツ川。
帝国中央を東西へ流れる大河である。
幅は百五十メートルほど。
水は雪解けの影響で増水しており、激しく流れている。
馬どころか泳ぎの得意な兵でも流されるだろう。
対岸では、すでにエッセ公軍五万が整然と陣を敷いていた。
青地に赤白の獅子が咆哮する軍旗が無数にはためいている。
こちら側にはアミヘボ・ノカス連合軍三万。
互いに川を挟み、静かに睨み合う。
「橋は」
父が工兵隊長へ尋ねた。
工兵隊長は申し訳なさそうに頭を下げる。
「すべて落とされております」
「いつだ」
「昨日のうちに」
敵は徹底していた。
渡河に使える石橋も木橋も、一本残らず破壊していたのである。
「浅瀬は」
「上流に二か所ございます」
「ですが、敵も承知しております」
双眼鏡代わりの望遠筒を覗くと、案の定、浅瀬には重装歩兵が壁のように並び、その後方には長弓兵がずらりと待機していた。
「あそこを渡れば」
工兵隊長は険しい表情で続ける。
「半数は川の中で討たれます」
誰が見ても膠着だった。
その夜。
陣営の喧騒から離れ、リュークは一人で川辺へ立っていた。
夜風が鎧の隙間を吹き抜ける。
月明かりが静かな水面を銀色に染めていた。
リュークは足元の小石を拾い、川へ放る。
ぽちゃん、と小さな音だけが響く。
「若様」
聞き慣れた声が背後からした。
ケーユーだった。
「眠られないのですか」
「考え事だ」
「珍しいですね」
ケーユーは苦笑しながら隣へ並ぶ。
リュークは川を見つめたまま答えた。
「橋があれば勝てる」
「それがあれば皆苦労しません」
リュークは返事をしなかった。
橋。
橋……。
その言葉が頭の中で何度も反響する。
その瞬間。
忘れていた前世の記憶が脳裏へ浮かんだ。
大学院時代。
研究室へ向かう途中、何度も渡った巨大な橋。
コンクリート橋。
アーチ橋。
桁橋。
鋼鉄。
鉄筋。
いや――。
「違う」
リュークは小さく呟いた。
「え」
「橋は石で作るものじゃない」
ケーユーは首を傾げる。
「どういうことです」
リュークは静かに川へ手を伸ばした。
「魔術で作ればいい」
ケーユーは目を丸くした。
「……本気ですか」
「本気だ」
その目には、すでに一つの作戦が完成していた。
夜明け前。
本陣中央の大天幕へ、諸将が集められた。
卓上にはラウス川周辺の地図が広げられ、その上へ木駒が置かれている。
こちらが東岸。
エッセ軍が西岸。
川幅百五十メートル。
橋は存在しない。
浅瀬は二か所。
そのどちらにも敵が重兵力を配置している。
誰が見ても攻め手はなかった。
重苦しい沈黙が流れる。
その空気を破ったのはリュークだった。
「橋を作ります」
一斉に視線が集まる。
アミヘボ王が眉をひそめた。
「橋?」
「はい」
「魔術で」
数名の将軍が思わず顔を見合わせる。
やがて一人の老将が苦笑した。
「若殿。橋とは家を建てるようなものですぞ」
別の将軍も肩を竦める。
「木材も石材もない」
「まさか空中へ橋を架けるとでも?」
小さな笑いが起こった。
だがリュークだけは真顔だった。
「空中ではありません」
「水の上です」
その言葉で笑い声も止まる。
リュークは地図へ近づき、川を指差した。
「橋は石である必要はありません。水を凍らせればいい」
今度こそ全員が言葉を失った。
静寂だけが流れる。
「凍らせる……」
父が静かに呟く。
リュークは頷いた。
「水魔術の応用です。厚く凍らせれば、人馬が渡れる橋になります。理論上は可能です」
将軍の一人が首を横へ振った。
「いや理論上と実際は違う。川全体を凍らせるなど聞いたこともない。魔力量が足りぬ」
リュークは即答した。
「足ります」
その自信に満ちた声へ、再び静まり返る。
アミヘボ王は腕を組んだ。
「成功する見込みは」
「五分です」
「失敗する可能性もあります」
「ですが」
リュークは王を真っ直ぐ見た。
「失敗しても失うものはありません」
「成功すれば戦局が変わります」
王はしばらく黙っていた。
やがて豪快に笑う。
「ははは!実に面白い!」
将軍たちが驚いて王を見る。
「戦とは、時に常識を捨てた者が勝つ。余は賭けよう」
王は立ち上がり、右手を掲げた。
「全軍、渡河準備!夜襲を敢行する!」
「「はっ!」」
天幕の中へ力強い返事が響いた。
その夜。
月は雲へ隠れ、辺りは闇に包まれていた。
陣営では一本の松明も灯されない。
三万の兵が鎧の音すら立てぬよう息を潜めている。
誰も話さない。
聞こえるのは川の流れる音だけだった。
リュークは川岸へ一人立つ。
右手を静かに前へ伸ばした。
ゆっくりと目を閉じる。
深く息を吸う。
次の瞬間。
轟ッ――
膨大な魔力が一気に解き放たれた。
兵士たちは思わず息を呑む。
空気そのものが震えた。
川面が波打つ。
激しく流れていた水が徐々に速度を落とし、まるで見えない手に掴まれたかのように静止していく。
さらに、水面が白く曇り始めた。
「凍ってる……」
誰かが思わず呟いた。
白い氷は見る間に広がっていく。
十メートル。
二十メートル。
五十メートル。
百メートル。
やがて対岸へ届いた。
さらに厚みを増していく。
ギシ……
ギシギシ……
巨大な氷が軋む音だけが夜に響いた。
十分ほど経った頃。
リュークはゆっくりと手を下ろした。
その目の前には。
幅十メートル。
長さ百五十メートル。
巨大な氷の橋が月明かりを受け、白銀に輝いていた。
誰も声を出せない。
王も、父も、ケーユーでさえ呆然と立ち尽くしていた。
リュークは肩で息をしながら振り返った。
額から汗が流れ落ちている。
魔力の消耗は激しい。
それでも口元には笑みが浮かんでいた。
「今です」
短い一言だった。
アミヘボ王は剣を高々と掲げる。
「全軍!渡河開始!」
その号令とともに第一騎士隊百騎が真っ先に橋へ駆け出した。
蹄が氷を叩く音が夜へ響く。
兵士たちは恐る恐る橋へ足を乗せる。
割れない。
沈まない。
一人。
十人。
百人。
千人。
次々と兵が対岸へ向かって進んでいく。
対岸のエッセ軍。
夜番の兵士たちは、いつものように上流の浅瀬を見張っていた。
「異常なし」
「こちらも異常なし」
退屈そうに欠伸を漏らす兵士もいる。
「今夜も静かなものだ」
「向こうも懲りたんだろう」
そんな会話を交わしていた、その時だった。
一人の若い兵士が、何気なく川の中央へ目を向ける。
「……おい」
返事はない。
兵士は目を擦った。
「おい!」
「橋だ!」
「橋があるぞ!」
将校が苛立ったように振り返る。
「何を寝ぼけ──」
言葉が止まる。
月明かりに照らされ、昨夜まで何もなかった川の上へ、巨大な氷の橋が一直線に伸びていた。
しかもその上を、無数の騎兵が駆け抜けている。
「敵襲!」
「敵だ!」
「橋を渡ってきたぞ!」
警鐘が鳴り響く。
眠っていた兵士たちが飛び起きる。
「あの橋を壊せ!」
「弓兵!」
「魔術師を前へ!」
命令が飛び交う。
だが、あまりにも突然だった。
浅瀬を守っていた歩兵たちは橋へ向かって走り始める。
騎兵隊も慌てて方向を変える。
本陣ではまだ鎧を着けていない兵までいる。
隊列は崩れ、命令は錯綜した。
「今なら勝てる」
リュークは馬上から敵陣を見渡した。
浅瀬の守備兵まで橋の正面へ動いている。
中央軍も混乱している。
あと半数。
あと半数が渡れば、そのまま敵本陣へ雪崩れ込める。
「全軍前進!」
リュークが剣を高く掲げた。
「敵が立て直す前に押し切る!」
「おおおおおっ!」
兵士たちが雄叫びを上げ、さらに速度を上げる。
勝利は目前だった。
その時だった。
「待てぇっ!」
戦場へ怒号が響いた。
兄、ドンモイレだった。
「進軍停止!全軍止まれ!」
橋の上を進んでいた兵士たちが一斉に顔を上げる。
「兄上?」
リュークは思わず振り返った。
ドンモイレは険しい表情のまま川向こうを睨んでいる。
「これは敵の策だ」
「違います」
「まだ分からぬ」
「敵は混乱しています!」
「混乱しているように見せているだけかもしれん」
リュークは堪え切れず叫んだ。
「見てください!」
「浅瀬の守備兵まで橋へ移動しています!中央も隊列が乱れています!今しかありません!」
しかしドンモイレは首を横に振った。
「焦るな。渡り切った瞬間に伏兵が現れたらどうする」
ドンモイレは鼻で笑う。
「戦とは勢いだけで勝つものではない」
そして周囲へ向かって大声で命じた。
「私は総指揮官代理として命じる!全軍停止!これ以上進む者は軍令違反とみなす!」
その言葉に兵士たちは完全に足を止めた。
前ではリュークが進めと叫び、後ろではドンモイレが止まれと命じる。
橋の上は一瞬で混乱した。
騎兵が止まり、歩兵が詰まり、後続も動けなくなる。
「何をしている!」
リュークが怒鳴る。
「進め!」
「止まれ!進むな!命令違反は処刑する!」
ドンモイレの怒声が重なる。
橋の上では兵士同士が押し合い、怒号が飛び交った。
その様子を見ていたケーユーは青ざめる。
「まずい……。この時間が一番まずい」
リュークは兄へ駆け寄った。
馬を寄せ、その胸ぐらを掴む。
「兄上!戦場で立ち止まる方が危険です!今この瞬間が勝機なんです!」
ドンモイレはリュークの手を乱暴に払いのけた。
「黙れ!命令系統を乱すな!まず父上とアミヘボ王の裁可を仰ぐ!伝令!公爵閣下へ確認を!」
その一言を聞いた瞬間、リュークは目を閉じた。
(終わった)
勝機は、もう逃げた。
案の定、対岸ではエッセ軍が急速に立て直しを始めていた。
散っていた兵士が持ち場へ戻る。
弓兵が整列する。
騎兵が橋の正面へ集結する。
槍兵が密集陣形を組み始めた。
ほんの数分前までの混乱は、もうどこにもない。
アミヘボ王もその光景を見て顔をしかめた。
「……遅れたか」
王は苦々しく剣を下ろす。
「全軍撤収!」
これ以上橋の上で立ち往生すれば、今度はこちらが壊滅する。
兵士たちは悔しさを押し殺しながら引き返し始めた。
命からがら東岸へ戻ると、リュークは魔術を解除する。
巨大な氷橋は轟音を立てて砕け散り、激流へ飲み込まれていった。
再び川だけが両軍を隔てる。
誰も口を開かなかった。
兵士たちは皆、あと一歩で掴みかけた勝利が、自らの手から零れ落ちたことを理解していた。
リュークはゆっくりと兄へ振り返る。
その目には、これまで見せたことのない冷たい怒りが宿っていた。
「兄上」
静かな声だった。
だが、その静けさがかえって恐ろしかった。
それから三日。
両軍は再びラウス川を挟んで対峙していた。
東岸にはアミヘボ・ノカス連合軍三万。
西岸にはエッセ公軍五万。
互いに陣を築き、毎日睨み合いが続く。
時折、弓が飛び交い、小競り合いが起きる程度で、大軍同士が動くことはなかった。
しかし、両軍とも分かっていた。
長く持久戦を続ければ不利なのは連合軍である。
兵糧も矢も少ない。
負傷兵も増える一方だった。
・・・
夜。
本陣の天幕では再び軍議が開かれていた。
地図を囲む将たちの表情は暗い。
「正面から渡河すれば返り討ち」
「上流も見張りが増えました」
「下流は湿地帯で騎兵が動けません」
誰も決定打を持っていない。
重苦しい空気が流れる。
その時だった。
「若様」
ケーユーが静かに口を開いた。
「前の作戦ですが」
リュークが顔を上げる。
「何だ」
「敵は、まだ若様を恐れています」
「……」
「昼間、敵陣を見ていました」
「若様が川岸へ立つだけで、向こうは橋を作ると思って騒ぎ始めます」
リュークは黙って聞いていた。
ケーユーは続ける。
「敵はもう若様しか見ていません」
その一言で、リュークの目が細くなった。
「そうか」
「見ているのか」
「はい」
「なら」
リュークはゆっくり立ち上がる。
「利用しよう」
翌朝。
リュークは前日と全く同じように川岸へ姿を現した。
右手を川へ向ける。
魔力を練る。
対岸ではすぐに鐘が鳴った。
「橋を作るぞ!」
「全軍正面!」
「弓兵!」
「魔術師を集めろ!」
エッセ軍は大騒ぎになる。
昨日まで静かだった川岸へ、兵が次々と集まってくる。
リュークは何もしない。
ただ立っているだけだった。
「……」
十分。
二十分。
三十分。
何も起こらない。
「橋は」
「まだか」
兵士たちは警戒を続ける。
やがて日が高くなる。
リュークは何事もなかったかのように陣へ戻っていった。
その様子を見ていたエッセ公は鼻で笑う。
「魔力切れか」
「昨日ほどの魔術は毎日使えまい」
将軍たちも頷いた。
「おそらく威嚇でしょう」
「ですが警戒は続けます」
「当然だ」
エッセ公は答えた。
「奴は正面から来る」
その考えが、すでに罠だった。
その夜。
月は雲へ隠れていた。
リュークは選び抜いた騎兵五千だけを率いて静かに陣を出る。
「若様。本当に敵は気付いていませんか」
リュークは頷く。
「昼間、俺を見せた」
「敵は今も正面を見ている」
「だから後ろは空く」
ケーユーが笑う。
「敵も大変ですね。若様に振り回されっぱなしです」
リュークも少しだけ口元を緩めた。
「今夜で終わらせる」
二里ほど上流。
昼間のうちに偵察しておいた森へ到着する。
周囲には人影一つない。
リュークは右手を水面へ向けた。
魔力が静かに流れ込む。
川が凍る。
昨日より速い。
昨日より静かに。
幅十二メートル。
長さ百八十メートル。
巨大な氷橋が完成した。
「渡れ」
短い命令。
五千騎は音もなく対岸へ渡っていく。
誰一人として声を上げない。
馬の鼻息だけが森へ消えていく。
夜明け。
濃霧が川を覆う。
正面ではアミヘボ王が三万を整列させていた。
太鼓が鳴る。
角笛が響く。
「敵が動いた!」
エッセ軍は一斉に正面へ集まる。
昨日と同じだ。
「橋を警戒しろ!」
「魔術師!」
「弓兵前へ!」
誰も後ろを見ない。
その時だった。
森の中から無数の蹄の音が響く。
ドドドドドドドッ――。
見張り兵が振り返る。
「な……」
霧の中から飛び出してきたのは五千の騎兵。
ノカス公爵旗が朝霧の中で翻っている。
「敵だ!」
「後ろ!」
「後ろから来たぞ!」
叫び声が本陣へ響き渡る。
エッセ公は天幕から飛び出した。
目の前には信じられない光景が広がっていた。
「馬鹿な……」
「どうやって川を渡った!」
答える者はいない。
リュークは剣を抜いた。
「敵本陣を落とす!続けぇぇぇ!」
百騎が楔形陣を組み、本陣へ突撃する。
その瞬間正面でもアミヘボ王が剣を高く掲げた。
「総攻撃!」
三万の兵が一斉に前進する。
エッセ軍は完全に二正面作戦を強いられた。
正面を向けば背後を突かれる。
背後へ向けば正面を突破される。
混乱は一瞬で全軍へ広がっていった。
リュークは敵旗を見据えながら馬腹を蹴る。
「終わらせるぞ!」
「本陣後方より騎兵!」
叫び声がエッセ軍本陣を駆け巡る。
「後ろだ!」
「後ろから敵だ!」
眠っていた兵は鎧も着けぬまま飛び出し、将校は怒鳴りながら部隊をまとめようとする。
しかし、あまりにも突然だった。
彼らは三日間、正面ばかりを警戒していた。
リュークが川岸へ立てば橋を架ける。
そう思い込まされていたのである。
まさか二里も上流から回り込まれているなど、誰一人想像していなかった。
「右翼を戻せ!」
「騎兵を本陣へ!」
「歩兵も後退させろ!」
エッセ公は次々と命令を飛ばす。
だが、その命令は届かない。
正面ではアミヘボ王軍三万が太鼓を鳴らし、一斉に前進を開始していた。
「今だ!」
アミヘボ王が剣を高々と掲げる。
「全軍突撃!」
角笛が一斉に鳴り響く。
工兵たちは昨夜のうちに準備していた舟橋を川へ浮かべ始めた。
丸太を縄で固定し、その上へ厚い板を渡す。
数分も経たぬうちに簡易橋が完成する。
「歩兵前進!」
「槍を立てろ!」
重装歩兵が次々と川を渡る。
弓兵がその頭上を援護する。
エッセ軍は迎撃したくとも、本陣が襲われているため兵を戻さざるを得ない。
一方、本陣。
リューク率いる騎兵隊は、敵本営へ一直線に突き進んでいた。
「止めろ!」
重装騎士が道を塞ぐ。
帝国でも名高いレーレン騎士団だった。
先頭の騎士が巨大な戦槌を振り下ろす。
リュークは馬を半身だけ逸らした。
戦槌が空を切る。
次の瞬間。
銀色の剣が閃いた。
騎士の喉元へ細い赤線が走る。
一人。
倒れる。
続いて二人目。
槍を受け流し、そのまま柄を掴む。
勢いのまま引き寄せると、鞍から引きずり落とした。
三人目。
盾を構えて突撃してくる。
リュークは左手をかざした。
「《水刃》」
詠唱はない。
透明な刃が一瞬だけ走る。
鉄の盾が真っ二つになり、その向こうの騎士も馬ごと倒れた。
「無詠唱だと!?」
敵騎士たちがどよめく。
「魔術師を前へ!」
「近づけるな!」
しかし間に合わない。
騎兵隊は完全に勢いへ乗っていた。
ケーユーがその横で叫ぶ。
「若様! 本陣まで五十歩です!」
リュークは前方を見据えた。
豪華な天幕。
その前には巨大な獅子の軍旗。
「あそこだ」
馬腹を蹴る。
「続け!」
百騎がさらに速度を上げる。
本陣ではエッセ公が歯を食いしばっていた。
「なぜ後ろから現れる!」
副官が叫ぶ。
「分かりません!」
「橋はありません!」
「浅瀬にも敵影はありませんでした!」
「ではどうやって来た!」
誰も答えられない。
その時だった。
「閣下!」
さらに別の伝令が駆け込む。
「正面です!」
「アミヘボ王軍が渡河しました!」
エッセ公の顔色が変わる。
「何だと!」
「舟橋です!」
「すでに歩兵五千がこちら岸へ!」
ついにエッセ公は悟った。
これは最初から仕組まれていた。
三日前の氷橋。
昼間の陽動。
正面への警戒。
すべては自分たちの目を正面へ釘付けにするためだったのだ。
「……してやられた」
エッセ公は苦く笑った。
「二十にも満たぬ若造に、ここまで翻弄されるとは」
だが戦はまだ終わっていない。
「本陣が破られるぞ!」
「閣下、お逃げください!」
本陣の周囲では将校たちが叫び声を上げていた。
エッセ公は歯を食いしばりながら後方を振り返る。
そこには霧を突き破り、一直線に迫るノカス公爵旗。
その先頭には、銀色の鎧をまとった青年騎士。
リュークだった。
さらに正面ではアミヘボ王軍が渡河を開始し、次々と西岸へ橋頭堡を築いている。
「……負けだ」
エッセ公は短く呟いた。
このまま本陣へ留まれば包囲される。
エッセ公は迷わなかった。
「撤退する!」
そう言うや否や、エッセ公は馬首を返した。
数十人の近習だけを連れ、一目散に北西へ駆け出す。
その姿を見た本陣の兵士たちは顔色を失った。
「閣下が逃げた!」
誰かが叫ぶ。
その一言が戦場を駆け巡った。
「本当か!」
「総大将が逃げたぞ!」
「終わりだ!」
兵士たちの動揺は一瞬だった。
次の瞬間には恐慌へ変わる。
槍を捨てる者。
盾を投げ捨てる者。
我先にと馬へ飛び乗る騎士。
誰も命令を聞かない。
隊列は完全に崩壊した。
壊走である。
「追うな!」
リュークはすぐさま命じた。
「隊列を維持しろ!」
騎兵隊は散り散りに逃げる敵を追わず、そのまま本陣へ雪崩れ込む。
天幕はすでにもぬけの殻だった。
机の上には地図。
封蝋の押された命令書。
軍資金の入った箱。
慌てて逃げたため、そのまま残されている。
そして、本陣中央。
朝日に照らされ、なお翻る一本の旗。
青地に赤と白の獅子。
エッセ公の旗だった。
「あれです!」
ケーユーが叫ぶ。
リュークは馬を進めた。
旗の周囲では最後まで残った旗持ちの兵が必死に守ろうとしている。
「旗だけは渡すな!」
「死守しろ!」
五人の兵が立ちはだかる。
リュークは馬から飛び降りた。
一人目の槍を剣で弾き飛ばす。
二人目を体当たりで倒す。
三人目の剣を受け流し、柄で鳩尾を打ち抜く。
残る二人もケーユーたちが取り押さえた。
旗持ちはなおも旗竿へしがみついて離さない。
「離せ!」
「この旗だけは!」
涙を流しながら叫ぶ旗持ちへ、リュークは静かに言った。
「見事だった。だが、勝敗は決した」
旗持ちは歯を食いしばったまま力尽き、その場へ崩れ落ちる。
リュークはゆっくりと旗竿を握った。
旗を高々と掲げる。
朝日に照らされた黄金の獅子が大きく翻る。
「敵将旗だ!」
「若様が敵将旗を奪ったぞ!」
その声は瞬く間に戦場全体へ広がった。
東岸から渡河してきたアミヘボ王軍から歓声が上がる。
「勝った!」
「勝利だ!」
「エッセ軍は総崩れだ!」
一方、逃げ惑うエッセ軍では最後の抵抗も消え失せた。
「将旗まで奪われた……」
「もう終わりだ」
兵士たちは武器を捨て、四方八方へ逃げ出していく。
ラウス川会戦は、こうしてアミヘボ・ノカス連合軍の大勝利に終わった。
ラウス川会戦から一週間後。
ノカス公爵家の居城、グランツブルク城では戦勝を祝う盛大な宴が催されていた。
城門には無数の旗が掲げられ、中庭には帝国各地から集まった貴族や騎士、使者たちの馬車が並ぶ。
戦勝の知らせは瞬く間に帝国中を駆け巡り、この宴には勝者へ祝辞を述べようと多くの諸侯が訪れていた。
大広間では数百本の蝋燭が煌々と灯り、壁にはノカス公爵家の黄色と黒の横線の旗が並べられ、戦で鹵獲したエッセ公の軍旗が地面に打ち捨てられていた。
楽団が奏でる音楽の中、長い卓には山のような料理が並べられていた。
丸焼きにされた猪。
香草で焼き上げられた羊。
川魚料理。
焼きたての黒パン。
葡萄酒が樽ごと運び込まれ、兵士たちは勝利を祝って杯を打ち鳴らしている。
「皇帝陛下、万歳!」
「アミヘボ王、万歳!」
「ノカス公、万歳!」
あちこちから歓声が上がった。
その最上段の席には、ノカス公アルベルトとアミヘボ王が並んで座っている。
両者の間には、一人のまだ若い青年が静かに腰掛けていた。
先帝の遺児ルーカである。
ラウス川会戦でエッセ公軍が壊滅したことで、もはやルーカの皇位継承を妨げる有力諸侯はいなくなった。
数日後に開かれた諸侯会議では、反対する者はほとんど現れず、満場一致に近い形でルーカが新たな皇帝として推戴された。
帝国は、二十年ぶりに新たな皇帝を迎えることになったのである。
「皆の働きがあってこその結果です」
ルーカはまだ若く、どこか緊張した面持ちで杯を掲げた。
「どうか今後とも帝国を支えてください」
貴族たちは一斉に立ち上がる。
「皇帝陛下、万歳!」
「万歳!」
「万歳!」
大広間が歓声に包まれた。
宴も落ち着きを見せた頃、アミヘボ王が立ち上がった。
「諸君」
その一声で広間は静まり返る。
「ルーカ陛下の戴冠式の日取りが決まった」
誰もが耳を傾けた。
「戴冠式は、帝国自由都市ヘーアにて執り行う」
その言葉に、諸侯たちは頷く。
ヘーア自由都市。
歴代皇帝の戴冠式もそこで執り行われてきた。
誰も異論はなかった。
アミヘボ王は続ける。
「帝国の象徴たる宝珠は余が捧持する」
「そして、皇帝の宝剣はノカス公が奉持する」
視線が父アルベルトへ集まる。
宝珠と宝剣。
それは皇帝権威を象徴する二つの至宝であり、戴冠式でそれを捧げ持つ役目は、皇帝から最も信頼された有力諸侯だけに許される最高の栄誉だった。
アルベルトは静かに立ち上がる。
「ノカス公爵家一同、その大任、謹んでお受けいたします」
深々と頭を下げる。
再び大きな拍手が広間を包んだ。
その様子を見ながら、ケーユーはリュークへ小声で囁く。
「若様」
「何だ」
「もうノカス公爵家は帝国一の名門ですね」
リュークは葡萄酒を一口飲みながら苦笑した。
「父上の功績だ」
「若様の功績でもあります」
「ラウス川会戦がなければ、今頃エッセ公が皇帝になっていたかもしれません」
「そうかもしれないな」
その少し離れた席では、ドンモイレが無言で杯を傾けていた。
宴では誰もがリュークの武勇を語る。
「氷の橋」
「ラウス川奇襲」
「敵将旗奪取」
その名ばかりが何度も聞こえてくる。
嫡男である自分ではなく、次男の弟。
ドンモイレは杯を強く握り締めた。
その小さな音に気付く者は、誰もいなかった。
数日後。
帝国中の諸侯が自由都市ヘーアへ集い、新皇帝ルーカの戴冠式が執り行われる。
誰もが、この戴冠式によって長き内乱は終わると信じていた。
だが、その期待は、ほどなく裏切られることになる。




