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青き英雄

落馬から一年。

リュークは剣術の稽古が終われば必ず魔術訓練場へ向かった。

教師のクリドセですら呆れるほどだった。

「リューク様、本日だけで水刃を百二十三回も発動しております。」

「まだ足りない。」

「普通の魔術師は二十回も使えば魔力切れになります。」

「なら、俺の限界はまだ先だ。」

クリドセは肩を竦めるしかなかった。

ノカス公爵家でも歴代屈指と言われる魔力量。

それに加え、リュークは魔力の回復を待つ間も研究を止めない。

魔術書を読み、術式を書き写し、詠唱を分析し、失敗の原因を紙へ書き残す。

前世で実験ノートを書いていた癖は、この世界でも変わらなかった。

机の上には何冊もの帳面が積み上がる。

『水刃実験 第五十四回』

『魔力流量比較』

『無詠唱発動記録』

『術式簡略化』

びっしりと文字が並んでいた。

ある日、クリドセが尋ねた。

「どうしてそこまで研究なさるのですか。」

リュークは少し考えて答えた。

「強くなるためだ」

「魔術師なら皆そう申します」

「違う」

リュークは帳面を閉じた。

「俺は『どうして強くなるのか』を知りたい」

クリドセには、その意味が理解できなかった。

魔術とは才能だ。

魔力量、適性、長年の経験。

誰もがそう考えている。

だがリュークだけは違う。

「詠唱を簡単にすれば魔力消費は減り、魔力の流し方を変えれば速度も変わる。だったら、もっと速く、もっと強くできるはずだ。」

それは、この世界の魔術師には存在しない発想だった。


無詠唱の研究は困難を極めた。

最初は詠唱を丸ごと頭の中で唱える。

成功率は八割。

次は最後の一句だけ口に出さない。

成功率は六割まで落ちた。

さらに半分。

四分の一。

最後は一語だけ。

何度も暴発した。

訓練場の天井を吹き飛ばしかけ、水浸しにし、魔力切れで三日寝込んだこともある。

それでも止めなかった。

「失敗した。なら次は違う方法を試す」

その繰り返しだった。


そして十五歳の冬。

リュークは静かに右手を前へ出した。

水が現れ、細長く伸び、一瞬で刃となった。

完全な無詠唱だった。

クリドセは目を見開く。

「……成功、です。」

リュークは息を吐いた。

「これで詠唱の時間がなくなる」

「無詠唱を完成させたことより、そこなのですか」

「戦場では一瞬が命取りだ」

その日から、リュークは無詠唱だけを使うようになった。


だが、彼は満足しなかった。

訓練場の岩を眺めながら呟く。

「水刃は切る魔術じゃない」

クリドセが首を傾げる。

「では何でしょう」

「ただ形が刃なだけだ」

岩へ手を置く。

「本当に切るのは速度だ」

前世。

大学の研究室で見た動画を思い出す。

高圧水流。

細い水が鉄板を切り裂いていく映像。

「あれを魔術で再現できれば……」

その日から研究は別の方向へ進み始めた。

水を増やすのではない。

逆だった。

水を減らす。

細くする。

さらに細く。

魔力で圧縮する。

水滴ほどの量へ莫大な魔力を押し込める。

何十回も失敗した。

水が途中で散る。

暴発する。

腕が痺れる。

それでも続ける。


一月後。

岩へ向けて放たれた水は、耳をつんざく破裂音とともに一直線に走った。

岩へ触れた瞬間。

巨大な花崗岩が音もなく裂ける。

一拍遅れて轟音が響いた。

真っ二つになった岩が左右へ崩れ落ちる。

訓練場は静まり返った。

クリドセは口を開いたまま動けない。

護衛騎士も言葉を失う。

リュークだけが裂けた岩を見つめていた。

「違う。まだ遅い。」

その一言に、周囲は戦慄した。

彼らにとっては歴史に残る魔術だった。

しかしリュークにとっては、まだ研究途中に過ぎなかった。

クリドセは深く息を吐いた。

「名前は決められたのですか」

「名前?」

「新しい魔術です」

リュークは少し考えた。

「水刃とは別物だからな」

細い。

速い。

貫く。

切断する。

「《水断》」

「……ずいぶん分かりやすい名前ですね」

「そのままだろ」

クリドセは苦笑した。

「昔の大魔術師なら《蒼天裂波》や《神水断界》などと名付けそうですが」

「長い」

「夢がありません。」

「戦場で叫ぶ方は大変だ。」

「確かに。」

二人は顔を見合わせて笑った。

だが、その笑いの裏でクリドセは確信していた。

もう教えることはほとんど残っていない。

この青年は、自分より遥か先へ行こうとしている。

魔術を学んでいるのではない。

魔術そのものを作り始めているのだ。


屋敷の書庫にある魔術書はほとんど読み尽くし、父トルベルアは帝国内の魔術師から古い写本を買い集めるようになっていた。

「また魔術書ですか」

運び込まれた木箱を見て、兄レイモンドは呆れたように言った。

父は頷く。

「ああ」

「軍備や兵糧ではなく、本ですか」

「リュークが頼んできた」

兄は舌打ちした。

「甘やかしすぎです」

「本を読むことが甘やかしか?」

「弟は剣だけでなく魔術まで好き勝手に研究しております」

「それでノカス家が損をしたか?」

兄は答えられなかった。

魔術書に使われた金など、鉱山収入からすれば微々たるものだった。

父は淡々と言う。

「本で強くなるなら安いものだ」

兄はそれ以上何も言わず部屋を出て行った。

その後ろ姿を見送りながら、リュークは少しだけ申し訳ない気持ちになった。

自分は家督に興味がない。

だが、父が自分へ期待を寄せるたび、兄の立場が弱くなることも理解していた。

だからといって研究を止めるつもりはない。

強くなれる方法が目の前にあるなら、試さない理由はなかった。


その頃になると、リュークの名はノカス公爵領だけではなく、周辺諸侯にも知られるようになっていた。

始まりは騎士団内での訓練試合だった。

リュークは、すでに同年代で敵う者がいなくなっていたため、騎士団所属の正騎士とも剣を交えるようになっていた。

最初こそ年若い公子を相手に手加減していた騎士たちも、その考えをすぐに改めることになる。

「始め!」

訓練場へ木剣がぶつかる乾いた音が響く。

相手は騎士団副長、ムト。

四十を超える歴戦の騎士であり、大小十数度の戦に参加してきた猛者だった。

「参ります、リューク様」

「お願いします」

互いに礼を交わす。

次の瞬間、ムトが踏み込んだ。

大上段から振り下ろされる豪快な一撃。

普通の騎士なら受け止めるだけで精一杯だろう。

しかし、リュークは受けなかった。

半歩だけ身体をずらす。

木剣は肩先を掠めることなく空を切った。

その隙へ木剣を滑り込ませる。

ムトは咄嗟に柄で防ぐ。

甲高い音。

二人はそのまま数十合打ち合った。

力はムトが上。

経験も上。

だが、時間が経つにつれ、その差は意味を失っていく。

リュークは一太刀ごとに相手を観察していた。

左足へ体重が乗る癖。

横薙ぎの前には肩がわずかに下がること。

突きの後、必ず右へ半歩動くこと。

すべて記憶する。

そして修正する。

「……そこか」

リュークが小さく呟く。

次の瞬間だった。

ムトが横薙ぎへ移る。

その動きを読んでいたリュークは、踏み込むより先に相手の懐へ入り込んでいた。

木剣の柄で腕を押し上げる。

身体を回転させる。

首筋へ木剣を当てた。

「そこまで!」

審判役の騎士が叫ぶ。

訓練場が静まり返った。

ムトは苦笑しながら木剣を下ろした。

「参りました」

リュークも礼をする。

「ありがとうございました」

周囲から歓声は上がらない。

ただ静かなざわめきだけが広がっていた。

「副長が……」

「本当に負けたぞ」

「まだ十六にもなっていないだろう」

騎士団長だけは腕を組んだまま頷いていた。

「技では、もう私でも敵わんかもしれん。」

その一言で空気が変わった。

団長が認めた。

その事実は瞬く間に騎士団中へ広がった。


それ以降、リュークは毎日のように騎士たちへ挑戦した。

長剣。

片手剣。

槍。

盾。

騎馬戦。

相手によって武器を変え、自分の技を磨いていく。

勝つことが目的ではない。

学ぶことが目的だった。

「団長」

「何ですか」

「その突きはどうして速いんだ?」

「足です」

「足」

「腕ではありません」

実際に見せてもらう。

確かに腕はほとんど動いていない。

地面を蹴る力だけで剣先が伸びていた。

その日の夜には、自室で何十回も同じ動きを繰り返した。

翌日。

もう自分のものになっている。

「……覚えるのが早すぎる」

団長は頭を抱えた。

リュークは誰よりも才能がある。

しかし、それ以上に厄介なのは、人から学ぶことを恥と思わないことだった。

相手が年下でも老騎士でも兵士でも良いところがあれば必ず真似をする。

それを自分の技へ変えてしまう。

十六歳になる頃には、公爵騎士団でリュークへ勝てる者はいなくなっていた。


その年の秋。

父トルベルアは珍しく騎士団の訓練場を訪れていた。

横には兄ドンモイレもいる。

「最後の相手は団長だ。」

父が静かに言う。

団長は五十近い老騎士だった。

若い頃には「百戦無敗」と呼ばれた男である。

「始め!」

団長は動かない。

静かに構えたまま待っている。

リュークも動かなかった。

風だけが吹く。

一分。

二分。

誰も動かない。

兄が苛立ったように呟く。

「何をしている」

父は答えた。

「間合いを測っている」

次の瞬間、二人が同時に動いた。

木剣が三度ぶつかる。

四度目には勝負がついていた。

リュークの木剣が団長の喉元へ止まる。

団長は静かに笑った。

「参りました。」

訓練場にいた全騎士が息を呑む。

父は満足そうに頷いた。

「見事だ」

リュークは木剣を下ろした。

「ありがとうございます」

その隣で兄レイモンドだけが拳を強く握り締めていた。

(まただ)

父はまた弟を褒めた。

家臣たちも皆、リュークを見ている。

誰も口には出さないが兄には分かっていた。

『やはり次男の方が……』

そう思っている者が、今この場にもいる。

兄は歯を食いしばった。


訓練場で団長と戦った数日後。

ノカス公爵城の空気は、一変していた。

城門をくぐる使者の数が目に見えて増えたのである。

西から。

北から。

南から。

三日に一度どころではない。

毎日のように、それぞれ異なる紋章を掲げた一団が訪れた。

応接間では連日、父トルベルアと重臣たちによる会議が開かれていた。

屋敷の廊下を歩けば、使用人たちが小声で噂を交わす。

「また北方から使者ですって。」

「昨日はエッセ公の使者でしたよ。」

「今日は南のアミヘボ王らしい。」

帝国全土が、戦へ向かっていた。


その夜。

夕食の席は重苦しい空気に包まれていた。

父は食事へほとんど手を付けない。

母も口数が少ない。

兄も難しい顔をしている。

やがて父が口を開いた。

「グルブンデンラブ辺境伯から最後通牒が届いた」

誰も言葉を挟まない。

「一か月以内に我らが陣営へ加わらねば、公爵領へ侵攻するとのことだ」

リュークも箸を止めた。

「本気でしょうか」

兄が尋ねる。

父は静かに頷く。

「あの男は脅しでは済ませない」

「兵力は」

「辺境伯直属だけで四万。寄子を合わせれば六万近い」

食堂に沈黙が落ちる。

ノカス公爵軍は精強ではある。

だが、総動員しても一万五千ほど。

正面から戦えば勝ち目は薄い。

「西のエッセ公は」

「我々が北へ付かなければ、中立を維持するとの返答だ」

つまり助ける気はない。

「南のアミヘボ王は」

「条件付きで援軍を出す」

父は机へ一枚の羊皮紙を置いた。

「条件?」

リュークが尋ねる。

「我らがトーオ殿下を支持すること」

父はさらに続けた。

「皇帝即位後も、ノカス公爵家の自治権を全面的に認める」

兄が目を見開く。

「自治権を?」

「貨幣鋳造権」

「鉱山の永久所有権」

「関税徴収権」

「徴兵権」

「皇帝軍への常備兵提供義務の免除」

重臣たちが思わず息を呑んだ。

破格だった。

普通なら皇帝が認めるはずのない特権ばかりである。

父は苦笑した。

「それほど我らを味方へ欲しているということだ」

兄が低く呟く。

「逆に言えば、それほど追い詰められている」

父は頷いた。

「その通りだ」

リュークは政治には詳しくない。

それでも理解できた。

ノカス公爵領がどちらへ付くかで、この地域全体の戦況が変わる。

山岳地帯。

豊富な鉄鉱石。

帝国中央へ続く街道。

どれを失っても大打撃になる。

父は立ち上がった。

「決めた」

全員が父を見る。

「南方、アミヘボ王へ付く」

誰も異論はなかった。


翌朝。

城門前の広場へ全騎士が集められた。

騎士。

従士。

弓兵。

槍兵。

旗手。

一万人を超える兵が整列している。

父トルベルアは壇上へ立った。

「諸君」

低く、それでいてよく通る声だった。

「ノカス公爵家は、アミヘボ王と盟約を結ぶ」

ざわめきが起きる。

「グルブンデンラブ辺境伯は我らへ兵を向けるだろう。避けられぬ戦だ」

兵士たちの表情が引き締まる。

「だが恐れるな」

父は剣を抜いた。

朝日に照らされ、刃が輝く。

「我らは先祖より三百年、この地を守ってきた。誰にも奪わせはせぬ。我らの山を。我らの街を。我らの民を。」

剣を天へ掲げる。

「ノカスの名に懸けて!」

兵士たちが一斉に剣を抜いた。

「「「おおおおおっ!!」」」

歓声が城壁を震わせる。


式典が終わると、騎士団長がリュークへ歩み寄った。

「若様」

「何だ」

「本日より第一騎兵隊を預かっていただきます」

リュークは驚いた。

第一騎兵隊。

公爵軍最精鋭の百騎である。

「私が?」

「公爵様の命令です」

団長は真っ直ぐリュークを見る。

「彼らは強い者へ従います」

「若様は十分に資格があります」

その言葉へ、一人の騎士が前へ出た。

「第一騎兵隊長、ガーロです」

四十代半ば。

顔中へ古傷が走る歴戦の男だった。

「本日より、ご命令を」

リュークは少し考え、やがて静かに頷く。

「分かった」

ガーロは片膝をつく。

それに続き、百人全員が膝をついた。

「第一騎兵隊。若様へ忠誠を。」

リュークは初めて、自分が一人で剣を振るうだけの立場ではなくなったことを実感した。

これからは百人の命を預かる。

勝てば百人が生きる。

負ければ百人が死ぬ。

その重さが、肩へ静かにのしかかってきた。


その日の午後。

城壁の見張り台から狼煙が上がった。

「北方街道!」

「敵軍確認!」

見張り兵の叫びが城中へ響き渡る。

城門の鐘が鳴る。

一度。

二度。

三度。

戦時を告げる鐘だった。

城壁へ駆け上がったリュークは北の地平線を見た。

遠くに黒い帯が大地を埋め尽くしている。

無数の旗。

無数の槍。

太陽を反射する鎧。

数万の軍勢が、ゆっくりとノカス公爵領へ迫っていた。

グルブンデンラブ辺境伯軍。

ついに戦争が始まった。

城門が閉ざされた。

厚い樫の門が軋みながら閉まり、巨大な鉄の閂が何本も打ち込まれる。

跳ね橋がゆっくりと引き上げられ、深い堀が城を外界から切り離した。

戦が始まった。

ノカス公爵領のすべてが、戦時体制へ移る。

「各門、閉鎖!」

「食料搬入終了!」

「住民を内城へ避難させろ!」

怒号が飛び交う。

鍛冶場では昼夜を問わず槌の音が鳴り響き、矢師は矢を束ね、兵士たちは城壁へ石や丸太を運び続ける。

婦人や老人でさえ、矢羽を作り、水桶を運び、負傷兵のための包帯を縫っていた。

リュークも休む暇はなかった。


「若様。」

第一騎兵隊隊長ガーロが地図を広げる。

「敵は三つに分かれております。」

机の上には公爵領周辺の地図。

北門正面。

東の丘陵。

西の森林。

三方向から包囲されていた。

「総数は」

「およそ五万」

「攻城兵器は」

「投石機十二基。攻城塔八基。破城槌四台。」

リュークは地図を見つめた。

普通なら正面突破を狙う。

だが、相手は歴戦の辺境伯だ。

「夜襲が来る」

ガーロも頷く。

「私もそう思います」

「攻城塔を完成させる前に壊す」

「危険です」

「完成した方が危険だ」

ガーロは少し考えた。

「……第一騎兵隊で向かいます。」

「俺も行く」

「若様」

「俺がいなければ壊せない」

水断。

あれなら巨大な木材でも一撃だった。


その夜。

月は雲へ隠れていた。

城門が静かに開く。

百騎。

全員が黒布で鎧を覆い、馬の蹄にも布を巻いている。

音を殺した夜襲だった。

リュークが先頭を走る。

敵陣までは一里ほど。

丘を越えると、無数の松明が見えた。

巨大な攻城塔が組み立てられている。

兵士だけでも数千。

「多いな」

ガーロが呟く。

「見つかる前に終わらせる」

リュークは馬を降りた。

右手を前へ出す。

詠唱はない。

水断。

破裂音。

一瞬だった。

攻城塔を支える巨大な梁が斜めに切断される。

兵士たちは何が起きたのか理解できない。

ミシッ……

巨大な木造建築がゆっくり傾く。

「逃げろ!」

叫びが上がった。

しかし遅い。

轟音とともに攻城塔が崩れ落ちる。

下敷きになった兵士たちの悲鳴が夜へ響いた。

「敵襲!」

角笛が鳴る。

「行くぞ!」

リュークが剣を抜く。

第一騎兵隊が一斉に突撃した。

混乱している敵を次々と斬り伏せる。

目的は撃滅ではない。

攻城兵器の破壊。

リュークは二基目の攻城塔へ向かった。

水断。

三基目。

四基目。

木材が豆腐のように切れていく。

「魔術師だ!」

「青い魔術師を殺せ!」

数百人の兵士がリュークへ殺到した。

「若様!」

ガーロが叫ぶ。

「構うな!」

リュークは剣を抜いた。

最初の兵士の槍を受け流す。

返す刃で喉を断つ。

右から来た剣を躱し、腹へ突きを入れる。

さらに背後。

振り返らない。

左手だけを後ろへ向ける。

水刃。

飛来した刃が兵士の首を切り裂く。

「ば、化け物……。」

敵兵が後退りする。

リュークは止まらない。

前へ。

ただ前へ。

剣と魔術。

二つを同時に使いながら敵陣を突き進んだ。

・・・

十分後。

第一騎兵隊は城へ戻っていた。

失った兵は七人。

敵は攻城塔六基、破城槌二台、投石機三基を失っていた。

城壁では兵士たちが歓声を上げる。

「若様だ!」

「帰ってきた!」

「攻城塔が崩れているぞ!」

城壁の上から見れば、北の夜空が赤く染まっていた。

辺境伯軍は一夜で大きな損害を受けたのである。


翌朝。

グルブンデンラブ辺境伯本陣。

報告を聞いた辺境伯は机を拳で叩いた。

「攻城塔六基だと!」

「はっ!」

「たった百騎にか!」

伝令は震えながら答える。

「敵に……恐ろしい魔術師がおります」

「魔術師?」

「青い光を放ち……攻城塔を一撃で切断いたしました」

辺境伯は顔をしかめる。

「名は」

「リューク・ノフ・ノカス」

辺境伯の隣にいた老将が口を開いた。

「聞いたことがあります。ノカス公爵家の次男。近年、騎士団最強と噂される若者です。」

辺境伯は鼻で笑った。

「十六の若造が?噂など当てにならん。」

しかし、その考えは三日後に変わることになる。


攻城戦が始まった。

太鼓が鳴る。

角笛が響く。

五万の軍勢が一斉に前進した。

梯子が立て掛けられる。

矢が空を埋め尽くす。

投石機から放たれた巨石が城壁へ叩きつけられた。

「放て!」

リュークが命じる。

数百本の矢が降り注ぐ。

先頭の兵士たちが次々と倒れる。

しかし後ろから新たな兵が押し寄せる。

まるで波だった。

一つ倒しても、また一つ。

終わりがない。

「梯子だ!」

敵兵が城壁へよじ登る。

リュークは走った。

水刃。

梯子ごと兵士を切り裂く。

別の梯子。

水断。

木材が真っ二つになる。

梯子へしがみついていた兵士たちが十数メートル下へ落ちていく。

「若様!」

城壁の反対側から悲鳴が聞こえる。

敵兵が城壁へ登っていた。

リュークは躊躇なく飛び込む。

剣が閃く。

一人。

二人。

三人。

返す刃で四人目。

狭い城壁の上では、一対多数でも人数差は意味をなさない。

後ろの兵は前へ出られない。

リュークは最前列だけを斬り続けた。

やがて敵兵の間から叫び声が上がる。

「青い悪魔だ!」

「逃げろ!」

「またあいつだ!」

その異名は一日で敵軍全体へ広まった。

――城壁に立つ青い悪魔。

姿を見た者は、生きて帰れない。

そんな噂が兵士たちの間で囁かれ始めていた。

一方、その頃南方では、アミヘボ王率いる四万の援軍が、急ぎノカス公爵領へ向かっていた。あと十日。

ノカス城は、その十日を耐え切らなければならなかった。

籠城四日目。

敵軍は攻め方を変えた。

これまでは力任せだった。

梯子を掛け、攻城塔を押し出し、城壁を力で押し潰そうとしていた。

だが、その方法では被害ばかりが増える。

そこで辺境伯は城壁へ近づくこと自体をやめた。

代わりに昼夜を問わず投石機で城壁を叩き続けた。

巨大な石が空を裂く。

轟音。

城壁が揺れる。

石片が飛び散り、兵士が吹き飛ぶ。

「負傷者!」

「医師を!」

城壁の上は戦場だった。

敵兵と剣を交えることもなく、人が死んでいく。

・・・

「若様。」

ガーロが城壁へ駆け寄ってきた。

「北西の城壁が危険です。」

リュークは現場へ向かう。

巨大な石が同じ場所へ何度も命中していた。

厚さ数メートルある石壁に、大きな亀裂が走っている。

「これでは保たん。」

石工頭が青ざめていた。

「あと半日も叩かれれば崩れます。」

リュークは城壁の外を見る。

投石機は五百メートルほど先。

十数基が並んでいる。

「届くか……。」

水断なら届く。

だが威力は落ちる。

しかも一基壊しても意味がない。

考えろ。

考えろ。

前世ならどうする。

そこでリュークは投石機そのものではなく、その周囲へ目を向けた。

兵士たち。

荷馬車。

積み上げられた石弾。

補給品。

「あれだ。」

・・・

その夜。

再び第一騎兵隊百騎が出撃した。

だが今回の目的は投石機ではない。

敵の補給基地だった。

「火を放て!」

乾いた薪へ油が撒かれる。

松明が投げ込まれた。

瞬く間に炎が燃え上がる。

石弾を運ぶ荷車、木材、縄、兵糧。

次々と炎に包まれていく。

敵兵が慌てて集まってきた。

「敵襲!」

「騎兵だ!」

「迎え撃て!」

リュークは馬を止めない。

突撃。

一人。

二人。

三人。

敵を斬り伏せながら真っ直ぐ補給所へ向かう。

「若様!」

ガーロが叫ぶ。

「もう十分です!」

「まだだ」

リュークの視線は一台の巨大な荷車へ向いていた。

積まれているのは投石用の石ではない。

黒い樽。

「油か」

水断。

樽が裂ける。

油が噴き出した。

そこへ燃え移る。

ドォォォン!!

爆発にも似た轟音が夜を震わせた。

火柱が数十メートルも立ち上る。

周囲にあった荷車まで炎が広がっていく。

「退け!」

リュークが叫ぶ。

第一騎兵隊は一斉に離脱した。

背後では補給基地全体が炎に包まれていた。


翌朝。

辺境伯本陣。

「兵糧庫が焼けただと?」

辺境伯は顔色を変えた。

「はっ。投石機用の木材も、補給用の馬も半数以上を失いました。」

老将が地図を見ながら呟く。

「攻城を長引かせれば我らが飢えます」

辺境伯は机を叩いた。

「ならば一気に落とす!」

・・・

籠城七日目。

夜明け前。

敵軍全体が動いた。

太鼓。

角笛。

五万の兵が一斉に進軍を始める。

「総攻撃だ!」

城壁中へ鐘が鳴り響く。

兵士たちは持ち場へ走る。

リュークも第一騎兵隊を率いて北門へ向かった。

攻城塔が二基。

破城槌が三台。

無数の梯子。

これまでで最大の攻勢だった。

「来ます!」

弓兵が矢を放つ。

敵も矢を返す。

空が黒く染まるほどの矢。

盾へ突き刺さる音が鳴り止まない。

「破城槌接近!」

城門へ巨大な丸太がぶつかった。

ドゴォン!

門全体が揺れる。

二度。

三度。

鉄の閂が悲鳴を上げる。

「若様!」

ガーロが叫ぶ。

「門が持ちません!」

リュークは城壁から飛び降りた。

城門の真上。

狙うのは破城槌ではない。

支えている車輪だった。

右手を突き出す。

水断。

目にも止まらぬ一閃。

破城槌の車輪四つが同時に切断された。

巨大な丸太が地面へ落ちる。

その勢いで支柱まで折れた。

「押せ!」

敵兵が叫ぶ。

しかし破城槌は動かない。

数十人が力を合わせても一ミリも進まなかった。

「今だ!」

城壁の上から熱湯。

石。

丸太。

矢。

雨のように降り注ぐ。

敵兵は次々と倒れていった。


夕暮れ。

辺境伯軍はようやく撤退を始めた。

城壁の上では兵士たちがその様子を見守る。

誰も歓声は上げなかった。

疲れ切っていた。

十日にも及ぶ戦い。

睡眠は三時間。

食事も立ったまま。

それでも城は落ちなかった。

ガーロが城壁へ腰を下ろす。

「若様」

「何だ」

「南をご覧ください」

遠く。地平線に土煙が見えた。

最初は誰も気づかなかった。

しかし土煙は次第に大きくなる。

旗が見える。

赤地に白獅子の紋章。

「……援軍。」

誰かが呟いた。

次の瞬間。

城壁中から歓声が湧き上がる。

「アミヘボ王軍だ!」

「来たぞ!」

「援軍だ!」

四万の軍勢が、朝日に照らされながらゆっくりと平原へ姿を現した。

城を包囲していた辺境伯軍も、それを見て陣形を組み替え始める。

籠城戦は終わる。

次は、十万を超える兵が激突する野戦だった。


援軍が到着した翌日。

ノカス公爵城の大広間では軍議が開かれていた。

中央の机には周辺一帯の地図が広げられ、その上には木製の駒が無数に並べられている。

ノカス公爵軍一万二千。

アミヘボ王軍四万。

合わせて五万二千。

対するグルブンデンラブ辺境伯軍は約五万。

兵数だけを見れば互角だった。

「籠城を続けるべきではありませんか。」

一人の将軍が口を開く。

「城を出れば、これまでの優位を失います。」

しかし、アミヘボ王は首を横に振った。

五十代半ば。

白髪交じりの髪を後ろへ撫で付け、堂々たる体躯を持つ男だった。

「我らは援軍だ」

低く重い声が響く。

「援軍が城へ閉じこもれば士気は下がる。敵は補給も苦しい。今こそ討つ。」

誰も反論しない。

歴戦の王の判断だった。

父トルベルアも頷く。

「我らも野戦へ出る。」

地図へ駒が置かれる。

アミヘボ王は中央。

ノカス公爵軍は左右へ展開する。

「左翼はドンモイレ。」

兄が一歩前へ出る。

「はっ。」

「右翼は……。」

王はリュークを見る。

部屋の空気が少しだけ変わった。

「そなたに任せたい。」

周囲の将軍たちが顔を見合わせる。

十六歳の若者に、一翼を任せる。

異例だった。

一人の将軍が立ち上がる。

「恐れながら。」

「右翼は戦の勝敗を左右する重要な位置。」

「経験ある将へ任せるべきかと。」

王は笑わなかった。

代わりに父トルベルアが口を開く。

「城壁を十日守ったのは誰だ。」

将軍は黙る。

「攻城塔を壊したのは。夜襲を成功させたのは。第一騎兵隊を率いたのは。」

誰も答えない。

王は静かに言う。

「余は城壁を見た。切断された攻城塔も見た。敵兵の証言も聞いた。余は実力で将を選ぶ。」

沈黙。

やがて将軍は頭を下げた。

「失礼いたしました。」

王はリュークを見る。

「右翼八千。預けられるか」

リュークは迷わず膝をついた。

「命に代えても」

「うむ」

軍議はそこで終わった。


決戦当日。

夜明け前。

草原一面を白い霧が覆っていた。

その霧の中で五万を超える兵士たちが静かに並ぶ。

槍兵。

弓兵。

騎兵。

旗手。

魔術師。

馬の鼻息だけが聞こえる。

リュークは馬上から自軍を見渡した。

第一騎兵隊百騎。

アミヘボ王の騎兵二千。

軽騎兵五百。

槍兵三千。

弓兵二千。

右翼だけで約八千。

決して少ない数ではない。

ガーロが馬を寄せる。

「若様。皆、緊張しております。」

リュークは兵士たちを見る。

若い兵もいる。

昨日まで農民だった者もいる。

初陣の少年兵もいた。

彼らは皆、自分を見ていた。

何か言わなければならない。

リュークは馬を前へ進めた。

「皆」

兵士たちの視線が集まる。

「俺は立派な演説はできない」

小さな笑いが起きた。

「だが、一つだけ約束する」

剣を抜く。

朝日が刃を照らした。

「俺は誰より前で戦う。敵へ背を向けない。逃げるなら俺が最後だ。」

兵士たちの表情が変わる。

「だから」

リュークは剣を掲げた。

「全員、生きて帰るぞ」

「「「おおおおおっ!!」」」

歓声が霧を震わせた。


やがて霧が晴れる。

敵軍が姿を現した。

地平線まで続く軍勢。

無数の旗。

中央には白地に赤鷲の旗。

グルブンデンラブ辺境伯本隊だった。

辺境伯は望遠鏡を下ろす。

「あれがリュークか」

隣の老将が頷く。

「はい」

「まだ若い」

「若いからこそ侮れません」

辺境伯は笑った。

「ならば右翼から潰す」

すぐさま命令が飛ぶ。

「騎兵五千。右翼へ集中させろ。若造へ戦というものを教えてやる」

敵軍が動き始めた。


アミヘボ王は高台から戦場全体を見渡していた。

「始まるな」

父トルベルアが頷く。

「ああ」

「辺境伯は必ずリュークを狙う」

「でしょうな」

「耐えられると思うか」

父は少しだけ笑った。

「愚息ながら。剣だけは私より強い」

王も笑みを浮かべる。

「ならば見せてもらおう」

その時だった。

戦場全体へ角笛が響く。

一度。

二度。

三度。

両軍合わせて十万を超える兵が、一斉に前へ動き始めた。

大地が震える。

無数の足音。

槍が揺れる。

旗が風を切る。

ついに帝国の命運を左右する決戦が始まった。


「敵騎兵!」

「右翼へ向かってきます!」

伝令の叫びが戦場へ響いた。

リュークは馬上から敵を見据える。

地鳴りがする。

五千を超える騎兵が槍を構え、一斉に突撃してくる。

先頭では赤鷲旗が大きく揺れていた。

「あれが敵の切り札か。」

ガーロが顔を強張らせる。

「若様、こちらは二千騎しかおりません。」

真正面からぶつかれば押し潰される。

誰が見てもそう思った。

しかしリュークは冷静だった。

敵を見ているのではない。

地形を見ていた。

右翼正面には、緩やかな下り坂がある。

その先には昨夜まで降っていた雨で湿った草地。

一見すると何の変哲もない平原だった。

「昨日、歩いて確かめた場所だ」

リュークは呟いた。

馬なら走れる。

だが、全速力で突撃すれば足を取られる。

「若様?」

ガーロが不思議そうに見る。

リュークは短く命じた。

「騎兵を左右へ開け」

「は?」

「早く」

命令はすぐ伝わる。

ノカス騎兵が左右へ大きく展開した。

敵将は笑う。

「恐れたか!」

中央がぽっかり空いた。

まるで逃げ道を作ったように見える。

「突撃!」

黒狼旗がさらに速度を上げた。

五千騎が一斉に坂を駆け下りる。

あと二百歩。

百五十歩。

百歩。

「まだ」

リュークは微動だにしない。

八十歩。

六十歩。

敵騎兵は完全に勢いへ乗っていた。

「今だ!」

その瞬間だった。

左右へ開いていた槍兵が一斉に姿を現す。

馬防柵。

杭。

昨夜のうちに草で隠しておいた障害物だった。

敵騎兵は止まれない。

先頭の馬が杭へ激突する。

悲鳴。

落馬。

後続が次々と突っ込む。

隊列が崩れた。

「弓兵!」

二千を超える矢が一斉に放たれる。

密集した騎兵へ雨のように降り注ぐ。

さらに。

「魔術隊!」

十数人の水魔術師が水刃を放つ。

馬が倒れる。

騎士が転がる。

突撃は完全に止まった。

「騎兵!」

リュークは剣を抜いた。

「続け!」

左右へ展開していたノカス騎兵が、一斉に敵の側面へ襲い掛かる。

まさに挟撃だった。

勢いを失った騎兵は抵抗できない。

リュークは真っ先に敵将へ向かった。

護衛騎士が立ちはだかる。

一人目。

剣を受け流し、返す刃で首を斬る。

二人目。

馬ごと突き倒す。

三人目。

槍を掴み、引き寄せながら喉を突いた。

敵将は驚愕していた。

「速い……!」

振り下ろされた戦斧。

リュークは半歩だけ身体をずらす。

空振り。

そのまま敵将の懐へ潜り込む。

剣が閃いた。

戦斧を持つ右腕が宙を舞う。

「ぐああああ!」

敵将は絶叫した。

リュークは追撃しない。

馬首を返し、周囲を見渡す。

敵騎兵はすでに総崩れだった。

「逃げろ!」

「右翼が崩れた!」

赤鷲旗が倒れる。

その瞬間だった。

「若様!」

ガーロが叫ぶ。

「敵中央が見えました!」

リュークは高台を見る。

中央ではアミヘボ王軍と辺境伯本隊が激しくぶつかっている。

互いに押し引きを繰り返し、決着はついていない。

「……好機だ」

リュークは剣を中央へ向けた。

「全軍!敵中央の横腹を突く!」

右翼八千が一斉に方向を変える。

勝利した軍勢は止まらない。

土煙を上げながら中央へ向かって突撃する。

高台で戦況を見ていたアミヘボ王は、その動きを見逃さなかった。

「見事だ」

王は静かに呟く。

「右翼は勝った」

父トルベルアも息を吐いた。

「あとは挟み撃ちだ」

辺境伯はようやく気付く。

右翼が消えたその意味に。

「しまっ──」

言い終わる前に、リューク率いる八千が辺境伯軍中央の側面へ激突した。

その衝撃は、戦場全体を揺るがした。

「右翼だ!」

「右翼が崩れたぞ!」

「敵騎兵が横から来る!」

辺境伯軍中央では、すでにアミヘボ王軍と激しい白兵戦が続いていた。

槍と槍がぶつかり合い、盾が砕け、剣戟が鳴り響く。

互いに一歩も引かない消耗戦。

そこへ、無傷に近い八千の軍勢が横腹へ突っ込んだのである。

「突撃!」

リュークの号令とともに第一騎兵隊百騎が楔形陣を組み、先頭を駆ける。

続いて二千の騎兵が雪崩れ込み、さらに槍兵が敵陣へ食い込んでいく。

敵は正面を向いたままだ。

横からの攻撃へ対応できない。

「隊列を立て直せ!」

「右翼へ向けろ!」

辺境伯軍の将校たちが必死に叫ぶ。

しかし、命令は届かない。

前方ではアミヘボ王軍が押し込み、横からはリューク軍が食い破る。

兵たちは混乱し、味方同士がぶつかり始めた。

「押せ!」

アミヘボ王が剣を掲げる。

「今が好機だ! 一気に押し潰せ!」

王直属騎士団五百騎が中央を突破する。

両軍に挟まれた辺境伯軍は、完全に身動きが取れなくなった。

「若様!」

ガーロが馬を寄せる。

「敵本陣まで二百歩!」

リュークは視線を上げる。

丘の上。

赤鷲旗が翻っている。

その下には豪奢な鎧を纏った一団。

辺境伯直属の親衛隊だった。

「第一騎兵隊!続け!」

百騎が一直線に本陣へ向かう。

当然、親衛隊も迎え撃つ。

重装騎士百五十。

帝国でも屈指の精鋭だった。

「止めろ!」

「本陣へ近づけるな!」

両軍が正面から激突する。

轟音。

馬がぶつかり、槍が折れ、人馬が入り乱れる。

リュークは一人目の槍を剣で弾き、返す刃で胸板を斬る。

二人目。

馬ごと体当たりして落馬させる。

三人目は盾ごと水刃で腕を切り裂いた。

親衛隊もさすがに強い。

普通の兵とは比べものにならない。

一歩進むごとに剣戟が飛び交う。

それでもリュークは止まらなかった。

「道を開けろ!」

第一騎兵隊も必死だった。

ガーロが槍兵を馬で跳ね飛ばし、仲間が左右を押し広げる。

百騎は、まるで一本の槍のように敵陣を貫いていった。

やがて、本陣まであと五十歩。

辺境伯が初めてリュークを正面から見た。

「……あれが」

まだ青年と言っていい年齢。

だが、その目には一切の迷いがない。

辺境伯は剣を抜いた。

「来るなら来い!このグルブンデンラブが相手だ!」

リュークも馬を進める。

互いの距離は三十歩。

二十歩。

十歩。

その瞬間だった。

「閣下!」

老将が馬を寄せた。

「中央が崩壊しております!」

辺境伯は振り返る。

そこには信じられない光景が広がっていた。

赤鷲旗が次々と倒されている。

中央軍は完全に分断され、兵たちは四方八方へ逃げ始めていた。

左翼も持ちこたえられず、潰走が始まっている。

「……敗れたか」

辺境伯はゆっくりと剣を下ろした。

「撤退だ」

「ですが!」

「これ以上戦えば全軍を失う」

角笛が鳴る。

長く、低い音。

撤退を告げる合図だった。

それを聞いた辺境伯軍は、一斉に北へ向かって逃げ始める。

「敵が退くぞ!」

「追撃だ!」

兵士たちが歓声を上げる。

しかし、リュークは剣を掲げて制止した。

「深追いするな!隊列を崩すな!」

勢いに任せて追えば、伏兵や反撃を受ける危険がある。

勝った時ほど冷静であれ。

騎士団長から何度も教えられた言葉だった。

アミヘボ王も同じ命令を下す。

「追撃は二里まで!それ以上は追うな!」

こうして、グルブンデンラブ辺境伯軍は壊滅こそ免れたものの、一万を超える兵を失って戦場から退却した。

一方、アミヘボ王・ノカス公爵連合軍の損害は約四千。

帝国史に残る大勝利だった。

夕暮れ。

戦場には無数の旗と折れた槍が転がり、負傷兵のうめき声だけが風に乗って響いていた。

アミヘボ王は馬を降りると、多くの将兵が見守る中、リュークの前まで歩み寄った。

「リューク・ノフ・ノカス。」

「はっ」

リュークは片膝をつく。

周囲の将兵が静まり返る。

王は自らの剣を抜き、その切っ先をリュークの左右の肩へ静かに当てた。

「本日の勝利、そなたの働きなくして成し得なかった。よって余はここに、そなたをアミヘボ王国直属ガレフ騎士団騎士に叙任する。」

戦場にいた将兵たちから、大きなどよめきが起こる。

直属騎士団。

それは王に最も近い精鋭だけが名を連ねる栄誉ある騎士団だった。

しかも他国の公子が叙任されるのは極めて異例である。

「ありがたき幸せにございます」

リュークは静かに頭を垂れた。

王は満足そうに頷く。

「これより先も、余の友として共に戦ってくれることを願う」

「微力ながら、お力添えいたします」

戦場には勝利の歓声が響き渡った。

アミヘボ王が去ると、将兵たちもそれぞれ後始末のため散っていった。

ようやく人目が少なくなる。

リュークは肩を回しながら、小さく息を吐いた。

「疲れた」

その背後から聞き慣れた声がした。

「お疲れ様でございました、リューク様」

振り返ると、血に染まった鎧姿のケーユーが立っていた。

供回りとして最後まで第一騎兵隊と行動を共にしていたため、顔には返り血が乾いてこびり付いている。

「お前も無事だったか」

「はい。若様ほどではありませんが、何とか」

ケーユーはそう言って笑うと、リュークの肩を見て目を丸くした。

「しかし、ガレフ騎士ですか」

「驚きました」

「俺もだ」

「まさか戦場で王自ら叙任されるとは思いませんでしたよ」

リュークは苦笑する。

「断れる雰囲気じゃなかったしな」

「断ったら父上が卒倒されます」

「それもそうか」

二人は思わず笑った。

しばらく歩いた後、ケーユーがニヤリと口元を緩める。

「ですが、リューク様」

「何だ」

「今日だけで何人のご令嬢が惚れたでしょうね」

「知らん」

「城へ帰れば縁談が山ほど届きますよ」

「やめてくれ」

「いやぁ、公爵家次男で、公爵軍最強で、ガレフ騎士ですから」

指を折って数え始める。

「肩書だけなら帝国でも指折りです」

「本当にやめろ」

「そのうち父君が『この縁談はどうだ』と羊皮紙を山ほど持ってこられます」

リュークは心底嫌そうな顔をした。

「魔術書なら歓迎だが」

「そこなんですよ」

ケーユーは呆れたように肩をすくめる。

「普通の貴族なら騎士になった日に考えることは出世か結婚です。リューク様は『新しい魔術書が欲しい』ですから。」

「その方が嬉しい」

「やっぱり」

ケーユーは吹き出した。

「クリドセ先生が聞いたら泣いて喜びますよ」

「新しい研究ができる」

「そこじゃありません」

二人は顔を見合わせて笑う。

戦場の空気とは思えない、いつものやり取りだった。

その様子を少し離れた場所から見ていたガーロが、副官へ小さく呟く。

「若様も、あんな顔で笑うのだな。」

「ええ。」

副官も頷いた。

「ケーユー殿の前だけです。」

ガーロは苦笑する。

先ほどまで敵軍の中央へ突撃していた青年と、今笑っている青年が同じ人物とは思えなかった。

その時だった。

一人の伝令が駆け込んでくる。

「リューク様!」

「公爵閣下がお呼びです!」

リュークとケーユーは顔を見合わせる。

ケーユーが小声で言った。

「……嫌な予感しかしませんね」

「俺もだ」

二人は公爵本陣へ向かって歩き出した。

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