目覚め
その日は乗馬の訓練の日だった。
ノカス公爵家の広大な練兵場には、朝から馬のいななきと蹄の音が響いていた。整然と並んだ柵の向こうでは騎士たちが模擬戦を行い、そのさらに奥では従士たちが槍を構えて隊列の訓練を続けている。朝露を含んだ草原には冷たい風が吹き抜け、乾いた土を巻き上げていた。
リューク・ノフ・ノカスは栗毛の愛馬の背で手綱を握っていた。
今年で十五歳。
ノカス公爵家の次男であり、将来は兄を支える立場になることが決まっている。
そのため幼い頃から剣術、槍術、弓術、馬術、軍学、礼法、学問など、多くの教育を受けてきた。
「リューク様、速歩から駈歩へ移行します!」
馬術を教えてくれる騎士のガレンが声を張り上げる。
「はい」
リュークは軽く返事をすると、両脚で馬の腹を軽く締めた。
愛馬は主人の合図に応え、速度を上げ始める。
速歩から駈歩へ。
その一瞬、馬の動きに腰を合わせるタイミングがわずかに遅れた。
「あっ――」
身体が浮き、視界が大きく傾いた。手綱を握る手に力を込めるが間に合わない。
次の瞬間には鞍から投げ出され、地面へ叩きつけられた。
後頭部に鈍い衝撃が走る。世界がぐるりと回転し、空と地面が逆さになる。
誰かが叫んでいる。
「リューク様!」
「医師を呼べ!」
その声もすぐに遠ざかり、意識は深い闇へ沈んでいった。
暗闇だった。音もない。光もない。
自分が立っているのか寝ているのかも分からない。
すると、遠くから一つの光景が浮かび上がった。
蛍光灯。
白い壁。
パソコンが何台も並ぶ部屋。
モニターには大量のグラフと数字。
研究室だった。
(……研究室?)
そこにいるのは白衣を着た青年。
目の下には隈ができ、机の上には飲みかけの缶コーヒーが何本も転がっている。
画面にはPythonのコード。
研究ノートには細かな文字で実験条件が書き込まれていた。
(これは……)
次々と記憶が押し寄せる。
実験。
解析。
失敗。
考察。
やり直し。
また実験。
朝早く大学へ行き、夜遅くまで研究室に残る。
研究室のソファで仮眠を取ることも珍しくなかった。
休日という概念などほとんどない。
毎日、実験と解析を繰り返していた。
(そうだ……)
俺は日本で大学院生だった。
修士課程だったか、博士課程だったか。
そんなことより、実験を成功させることだけを考えていた。
最後の日も研究室を出たのは夜遅くだった。
時計は二十三時を回っていたはずだ。
街灯だけが夜道を照らしている。
「今日はここまでにするか……。」
そんな独り言を呟きながら歩いていた。
疲労で頭はぼんやりしていたが明日の実験手順を頭の中で確認していた、その時だった。
背後からエンジン音。
異様な速さだった。
振り返る。
眩しいヘッドライト。
真正面ではない。
後ろから一直線に迫ってくる。
(危ない――)
そう思った瞬間。
激しい衝撃。
身体が宙を舞う感覚。
そこで記憶は途切れていた。
「坊ちゃま……。」
誰かの声が聞こえる。
「坊ちゃま」
今度ははっきり聞こえた。
ゆっくりと目を開く。
天井は木で組まれている。
見慣れた彫刻、豪華なシャンデリア、大きな窓、厚いカーテン。
日本ではない。
「坊ちゃま!」
ベッドの横に立っていた初老の男が安堵の表情を浮かべる。
黒い燕尾服を隙なく着こなし、背筋は若者のように真っ直ぐ伸びている。
ノカス公爵家に三十年以上仕える執事。
ドュベルクだった。
「お気づきになられましたか」
「ああ……ドュベルクか」
頭を押さえる。鈍い痛みが残っている。
「頭が少し痛い。でも、それ以外は大丈夫そうだ」
「その判断は医師がなさることです」
ドュベルクは後ろに控えていた侍女へ視線を向けた。
「直ちに医師を」
「かしこまりました」
侍女は一礼すると部屋を飛び出していく。
リュークは苦笑した。
「そんなに大げさにしなくても」
「坊ちゃまは公爵家のご子息です。万が一ということがあってはなりません」
相変わらず融通が利かない。
しかし、この男は幼い頃からずっと自分の面倒を見てくれている。
厳しいが、誰よりも忠実な執事だった。
「……そうか」
リュークは天井を見つめた。
(俺は死んだはずだ。)
前世の記憶。
大学。
研究室。
交通事故。
どれも夢とは思えないほど鮮明だった。
一方で、この世界の記憶も失われていない。
十五年間生きてきた思い出が確かに存在している。
二つの人生が頭の中で違和感なく繋がっていた。
(転生……なのか)
前世では漫画や小説で何度も見た設定だ。
まさか自分がそうなるとは思ってもみなかった。
コンコン。
部屋の扉が叩かれる。
「失礼いたします」
白髪混じりの医師が入室した。
七十近い老人だが、公爵家お抱えの名医として知られている。
「失礼します、リューク様」
医師はベッドの横に腰を下ろし、脈を測る。
瞳孔の反応を確認し、手足を動かさせる。
頭部を慎重に触診し、首の動きまで確認していく。
診察は十分近く続いた。
ようやく医師は満足そうに頷いた。
「ご安心ください」
「どうでしたか」
ドュベルクが尋ねる。
「頭を強く打った衝撃で気を失われただけでしょう。骨にも異常はなく、手足の麻痺もありません。数日は安静にされた方がよろしいですが、命に別状はございません」
「そうですか」
ドュベルクは胸をなで下ろした。
「ただし」
医師はリュークへ向き直る。
「頭を打たれています。無理は禁物です。頭痛や吐き気が強くなるようでしたら、すぐにお呼びください」
「分かりました」
「一週間ほどは療養なさるのがよろしいでしょう」
診察を終えた医師は一礼して部屋を後にした。
部屋には再び静けさが戻る。
リュークは窓から差し込む朝の光を眺めた。
前世の知識を持ったまま、この世界で生きていくことが何を意味するのか、この時のリュークにはまだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
もう、前世には戻れない。
ならば、この世界で生き抜くしかない。
リューク・ノフ・ノカスとして。
一週間の療養は、リュークにとって自分自身を整理するための時間になった。
目を覚ました直後は、二つの人生の記憶が入り混じり、頭の中がひどく混乱していた。
日本で大学院生として生きた記憶。
この世界でノカス公爵家の次男として育った記憶。
どちらも夢ではない。
研究室で過ごした夜も、幼い頃に母の手を引いて庭園を歩いた記憶も、同じほど鮮明だった。
目を閉じれば、蛍光灯に照らされた無機質な研究室が浮かぶ。
同時に、剣を握った手の感触や、初めて馬に乗った日の恐怖も思い出せた。
リュークはベッドの上で何度も自分の手を眺めた。
前世よりも小さい。
指は細く、掌には剣術と乗馬の訓練でできた薄いまめがある。
十五歳の少年の手だった。
「本当に生まれ変わったんだな」
小さく呟いても、当然ながら返事はない。
部屋の中には、暖炉で薪がはぜる音だけが響いていた。
外では使用人たちが行き交い、時折、庭師が木の枝を切る音が聞こえてくる。
ノカス公爵家の本邸は、領都ノカシアの中央に建てられている。
灰色の石を積み上げて造られた巨大な屋敷で、外観だけを見れば城塞に近い。
高い外壁。
鉄製の門。
四隅に設けられた監視塔。
敷地内には本邸だけでなく、使用人棟、騎士宿舎、武器庫、厩舎、礼拝堂、倉庫まで備えられていた。
屋敷の外には商業区が広がり、そのさらに外側を石壁が囲んでいる。
領都ノカシアは、ただの地方都市ではない。
帝国中央部を東西に横断する大街道と、北方へ続く山岳街道が交わる場所にあった。
毎日のように各地から商人や旅人が訪れ、市場には帝国全土の商品が並ぶ。
南方から運ばれる香辛料。
西方の良質な毛織物。
東方の穀物。
北方の毛皮。
そしてノカス公爵領からは、ツルエ山地で採掘された鉱石と、それを加工した武具や農具が送り出されていく。
特に鉄鉱石と銀の産出量は帝国でも有数だった。
近年では、魔術具の製造に使われる魔鉄鉱も見つかり、領地の収入はさらに増えている。
交通と鉱山。
その二つが、ノカス家の富と権力の源だった。
もっとも、豊かな領地だからといって、すべてが平穏というわけではない。
隣接する貴族との水利権争いも絶えない。
豊かな土地には、それだけ多くの問題が集まってくる。
父は公爵として、そのすべてを処理しなければならなかった。
療養中、リュークは窓越しに父の姿を何度か見かけた。
供を連れて屋敷を出ていく時もあれば、領地の役人や騎士を集め、遅くまで会議をしている時もある。
朝早くから夜遅くまで働く姿は、前世の大学院生活を思い出させた。
ただし、父が背負っているものは研究成果などではない。
何万人もの領民の生活と、公爵家の存続だった。
自分はその公爵の次男である。
家督を継ぐのは兄だが、だからといって好き勝手に生きられるわけではない。
貴族の次男には次男なりの役割がある。
兄を補佐する。
軍を率いる。
政略結婚で他家との縁を結ぶ。
あるいは領内の町や砦を任される。
貴族に生まれた以上、家から完全に自由になることは難しい。
その事実を、前世の記憶を得たリュークは以前よりも重く感じていた。
療養中の食事は、自室へ運ばれてきた。
ノカス公爵家では、朝食は家族全員で取る習慣がない。
起床時間も予定もそれぞれ異なるため、各自の部屋か小食堂で済ませる。
父は夜明け前から執務を始めることが多く、兄は早朝から騎士団の訓練へ出る。
母も慈善院や領内の貴婦人たちとの会合があるため、朝は慌ただしい。
夕食だけは、父が屋敷にいる日に限り、できるだけ家族そろって取ることになっていた。
その日の朝食も、侍女が銀の盆に載せて運んできた。
柔らかな白パン。
鶏肉と豆を煮込んだスープ。
半熟に茹でた卵。
薄く切ったチーズ。
蜂蜜を加えた温かな乳。
前世の日本と比べれば料理の種類は少ないが、公爵家だけあって食材の質は高い。
特に白パンは高級品だった。
領民の多くが食べるのは、ふすまの混じった黒く硬いパンである。
リュークはパンをちぎりながら、前世の食生活を思い出していた。
コンビニの弁当。
カップ麺。
栄養補助食品。
研究室の机に置きっぱなしになった冷めたコーヒー。
健康的とは言い難かった。
それに比べれば、今の食事はずっとまともに思える。
ただ、前世の味を思い出すと、醤油や味噌が無性に恋しくなった。
リュークの手がふと止まった。
「坊ちゃま、お口に合いませんか」
傍らに控えていた侍女が、不安そうに尋ねた。
「いや、おいしいよ。少し考え事をしていただけだ」
「まだお加減が悪いのでしたら、すぐに医師をお呼びします」
「大丈夫だ」
落馬して以来、使用人たちは以前にも増して過保護になっていた。
立ち上がろうとすれば支えられ、窓辺へ行こうとすれば止められる。
少し咳をしただけで、温かい茶が運ばれてくる。
公爵家の次男とはいえ、ここまで気を遣われると落ち着かない。
とはいえ、彼らが仕事として世話をしているだけではないことも分かっていた。
幼い頃から身の回りの世話をしてくれた者も多い。
自分が落馬した時、本気で心配してくれたのだ。
「ごちそうさま」
食事を終えると、侍女が静かに食器を片付けた。
それと入れ替わるように、ドュベルクが部屋へ入ってきた。
相変わらず姿勢は真っ直ぐで、服には皺一つない。
「本日のご気分はいかがでしょうか」
「昨日よりいい。頭痛もほとんどない」
「それは何よりでございます」
ドュベルクはそう答えたものの、すぐに厳しい目でリュークを見た。
「ですが、安静期間はまだ終わっておりません。訓練場へ行こうなどとはお考えになりませんよう」
「考えていないよ」
本当は少し考えていた。
体はもう問題なく動く。
いつまでも寝ていると、かえって調子が悪くなりそうだった。
だが、ドュベルクの目を見る限り、抜け出すのは難しそうだ。
「それならば結構でございます」
「ドュベルク」
「何でしょう」
「何か本を持ってきてくれないか」
「本でございますか」
「歴史か魔術か」
ドュベルクは一瞬だけ目を見開いた。
落馬前のリュークは、勉強を嫌っていたわけではない。
だが、自分から進んで本を求めるほど熱心でもなかった。
「どうした」
「いえ、失礼いたしました。ただ、坊ちゃまが本をご所望になるとは思っておりませんでしたので」
「知っておいて損はないだろう」
「おっしゃる通りでございます」
ドュベルクは深く頭を下げた。
「すぐにご用意いたします」
しばらくすると、数冊の本が運び込まれた。
革張りの表紙。
分厚い紙。
手書きで写された文字。
この世界には印刷技術がまったくないわけではないが、まだ広く普及していない。
本の多くは写本であり、非常に高価だった。
公爵家の書庫には数千冊が収められているが、それ自体が富と権力の象徴でもある。
リュークは最初に、帝国の歴史書を開いた。
自分が暮らす国の名は、マーロ帝国。
建国からおよそ六百年。
大小さまざまな王国や都市国家を統合しながら領土を広げ、現在では大陸中央部の広い範囲を支配している。
皇帝を頂点に、その下へ公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵が連なる。
それぞれの貴族は領地を持ち、皇帝に忠誠を誓う代わりに、領内で強い権限を認められていた。
税の徴収。
兵の徴募。
裁判。
街道や橋の管理。
領地によっては独自の貨幣を発行する権利さえ持っている。
ただし、すべての貴族が皇帝へ直接仕えているわけではない。
大貴族の下には、中小の貴族が寄親と寄子の関係で結ばれている。
ノカス公爵家にも、多くの伯爵家や子爵家、男爵家が従っていた。
前世の知識から見れば、典型的な封建制度だった。
だが、本で読むのと、その制度の中で生きるのとではまるで違う。
ここでは身分が人生の大半を決める。
農民の子は農民となり、職人の子は職人となる。
才能があったとしても、身分の壁を越えるのは容易ではない。
貴族に生まれた自分は、多くの特権を持っていると同時に、その特権を維持する義務も負っていた。
まずはこの世界を正確に知る必要がある。
リュークは魔術の入門書を開いた。
その瞬間、興奮が湧き上がった。
魔術。
前世には存在しなかった力。
炎を生み、水を操り、風を起こし、土を動かす。
子供の頃から何度も授業を受けてきたはずなのに、前世の記憶を取り戻した今では、まったく新しいものに思えた。
本の最初には、魔術の基本原理が書かれていた。
すべての人間の体内には、ごく微量ながら魔力が存在する。
しかし、魔術として使えるほどの魔力を持つ者は少ない。
特に強力な魔術師は、ほとんどが貴族出身だった。
これは血統による影響が大きいと考えられている。
代々、魔力量の多い家系同士が婚姻を重ねた結果、貴族の子供は平民よりも高い確率で魔力を持って生まれる。
もっとも、平民の中から強大な魔力を持つ者が現れることもある。
そうした者は教会や貴族に見いだされ、騎士や魔術師として取り立てられる。
魔術を使うためには、まず体内の魔力を感じ取らなければならない。
次に、その魔力を体外へ放出する。
そして、放出した魔力に明確な形と性質を与える。
炎ならば、熱く燃え広がる姿。
水ならば、流れ、集まり、形を変える姿。
風ならば、大気が渦を巻き、押し流す姿。
術者のイメージが曖昧であれば、魔術は発動しない。
あるいは、意図しない形で暴発する。
そこで用いられるのが詠唱だった。
詠唱は単なる言葉ではない。
術者の意識を特定の現象へ導き、魔力に与えるイメージを固定するための補助具である。
初心者ほど長い詠唱を必要とし、熟練者になるほど短くなる。
最終的には、一言も発さずに魔術を発動できる者もいる。
だが、無詠唱魔術を使えるのは、極めて優秀な魔術師だけだった。
本には、水の刃を作り出す初級魔術が例として載っていた。
「水よ集え。清き流れよ、鋭き刃となり、我が敵を断ち切れ。《アクア・セイバー》」
以前に習った詠唱よりも、確かに様になっている。
リュークは小さく口に出して読んでみた。
「水よ集え。清き流れよ、鋭き刃となり、我が敵を断ち切れ。《アクア・セイバー》」
何も起こらない。
当然だった。
今は魔力を込めていない。
ただ言葉を唱えるだけで魔術が発動するわけではない。
それでも胸が高鳴った。
(本当に魔術があるんだ)
前世の研究者としての感覚が刺激される。
魔力とは何なのか。
どのように体内へ蓄えられているのか。
イメージがなぜ現実の現象へ変化するのか。
詠唱は脳の働きを補助しているだけなのか、それとも言葉そのものに力があるのか。
疑問が次々と湧いてくる。
この世界の人間にとって、魔術は存在して当然のものだ。
そのため、根本的な原理を疑問に思う者は少ない。
火は熱い。
水は低い方へ流れる。
魔術は魔力を使えば発動する。
それで話が終わってしまう。
だが、前世で研究に携わっていたリュークには、それで納得することができなかった。
現象があるなら、そこには何かしらの規則があるはずだ。
条件を変えれば、結果も変わる。
魔力量。
詠唱。
イメージ。
集中力。
術式。
環境。
それらを一つずつ調べれば、魔術をより効率的に使う方法が見つかるかもしれない。
「試してみたいな」
無意識に呟く。
すぐにドュベルクの咳払いが聞こえた。
「まだ療養中でございます」
「分かっている」
「魔術の使用も禁止されております」
「本を読んでいるだけだ」
「先ほど、試してみたいとおっしゃいました」
「聞こえていたのか」
「執事ですので」
どういう理屈なのか分からない。
だが、今ここで魔術の練習を始めれば、間違いなく止められる。
リュークはおとなしく本へ視線を戻した。
療養生活の五日目。
母が部屋を訪れた。
ノカス公爵夫人アノレエは、今年で三十八歳になる。
淡い金色の髪と青い瞳を持ち、年齢よりも若く見える女性だった。
普段は穏やかだが、怒らせると父よりも怖い。
「リューク、具合はどうですか」
「もうほとんど治りました、母上」
「そう言って、また無茶をするつもりではないでしょうね」
「しません」
母はベッドのそばに座り、リュークの頭へ手を伸ばした。
子供扱いされているようで少し恥ずかしかったが、振り払う気にはなれなかった。
「本当に心配したのですよ」
「申し訳ありません」
「あなたが落馬したと聞いた時、心臓が止まるかと思いました」
母の指が、頭を打った場所を避けながら髪を撫でる。
その手の温かさに、胸の奥がわずかに痛んだ。
前世の家族の顔が浮かんだ。
両親は、自分が死んだ後どうなったのだろう。
突然、息子を失った。
しかも事故で。
どれほど悲しんだのか考えても答えは出ない。
戻る方法も分からない。
今さら何もできない。
それでも、簡単に忘れられるはずはなかった。
「どうしたのですか」
母が心配そうに顔を覗き込む。
「いえ。少し、落馬した時のことを思い出しただけです」
嘘ではない。
ただ、すべてを話していないだけだ。
母は悲しそうに眉を下げた。
「怖かったでしょう」
「一瞬のことでしたから、あまり覚えていません」
「そうですか」
母はしばらく黙っていた。
やがて、静かな声で続けた。
「あなたは公爵家の息子です。これからも危険なことを学ばなければなりません。剣も、馬も、魔術も、時には命を奪います」
「はい」
「ですが、無理をすることと勇敢であることは違います。それを忘れないでください」
「肝に銘じます」
母は満足そうに頷いた。
「それと、ケーユーが毎日のように様子を尋ねてきています」
「ケーユーが」
「会いたいそうですが、ドュベルクが追い返しているようです」
リュークはドュベルクへ視線を向けた。
執事は平然とした顔で立っている。
「医師より、安静にするよう言いつけられておりますので」
「少しくらい会ってもよかったんじゃないか」
「ケーユー様がいらっしゃれば、坊ちゃまがおとなしく休まれるとは思えません」
否定できない。
ケーユー・ノフ・レザはノカス公爵家の寄子のレザ子爵の次男で、幼い時から一緒だった。
一緒になると大抵は何か余計なことを始めていた。
木剣で勝負をしたり、厩舎へ忍び込んだり、城壁の上から街を眺めたり安静とは程遠い。
「療養が終われば会えますよ」
母が微笑む。
「それまで、きちんと休むことです」
「はい」
母が部屋を出た後、リュークはしばらく窓の外を眺めていた。
前世を失った悲しみは消えない。
しかしこの世界にも家族がいる。
自分を心配してくれる母がいる。
厳しい父がいる。
幼い頃から共に育った友人がいる。
今の人生を無意味にしていい理由にはならなかった。
翌朝、リュークは鐘が鳴るよりも早く目を覚ました。
窓の外には、まだ夜の色が残っている。
分厚い雲の切れ間から、かすかな朝日が差し込み始めていた。
庭園の木々には薄い霧が絡みつき、屋敷の向こうにある訓練場は灰色の影に沈んでいる。
一週間も寝台の上で過ごしていたせいか、身体が妙に重い。
リュークは寝台から降りると、肩を回し、腕を伸ばした。
関節が小さく鳴る。
頭痛はない。
吐き気もない。
身体を前後に傾けても、目眩は起こらなかった。
「これなら動けそうだな」
小さく呟いた直後、扉の外から声がした。
「失礼いたします」
入ってきたのはドュベルクだった。
今日も黒い服を隙なく着こなし、髪一本乱れていない。手には衣服を載せた盆を持っている。
「お目覚めでしたか」
「ああ。ちょうど着替えようと思っていた」
「それは結構でございます」
ドュベルクは衣服を長椅子の上へ置くと、リュークの様子を頭から足元まで確認した。
「何だ」
「お身体に異常がないか拝見しておりました」
「見ただけで分かるのか」
「少なくとも、訓練場へ忍び出ようとなさっているお顔は分かります」
「忍び出るつもりはない」
「正面から向かわれるおつもりでしたか」
「医師から許可は出ている」
「軽い運動に限る、との条件付きでございます」
念を押すように言われ、リュークはため息をついた。
「分かっているよ」
「坊ちゃまの『分かっている』ほど、信用ならないお言葉もございません」
「ひどいな」
「これまでの積み重ねでございます」
反論できなかった。
着替えを終えた後、リュークは小食堂で朝食を取った。
今日の食事は白パン、燻製肉、豆と根菜を煮込んだスープ、そして蜂蜜を加えた温かい乳だった。
食べ終える頃には、窓の外もすっかり明るくなっていた。
食堂を出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
遠くから木剣のぶつかる音が聞こえる。
乾いた音。
鋭い掛け声。
地面を踏み込む足音。
それだけで、リュークの足は自然と速くなった。
「坊ちゃま」
後ろからドュベルクに呼び止められる。
「走ってはいない」
「走り出す直前に見えました」
リュークは歩調を少し落とした。
訓練場へ着くと、すでに多くの者が稽古を始めていた。
騎士見習いたちは木剣を振り、従士たちは槍を手に隊列を組んでいる。少し離れた場所では、騎士たちが馬を駆りながら標的へ槍を突き出していた。
その一角で、赤毛の少年が木剣を振っている。
ケーユー・ノフ・ザレン。
ザレン子爵家の次男。
リュークに気づいたケーユーは、木剣を下ろすと早足で近づいてきた。
「リューク様」
「ケーユー」
「もう動かれて大丈夫なのですか」
「ああ。今日から軽い訓練なら許可が出た」
「軽い訓練、ですか」
ケーユーは疑わしそうにリュークを見た後、その背後にいるドュベルクへ視線を向けた。
ドュベルクは無言で頷く。
「本当に軽い訓練だけなのですね」
「お前まで疑うのか」
「リューク様は、勝負となれば加減を忘れられますので」
「忘れていない」
「以前、肋骨にひびが入ったまま剣術試合へ出ようとなさいましたよね」
「昔の話だ」
「半年前です」
リュークは答えずに視線を逸らした。
ケーユーは小さく笑った。
「ですが、お元気そうで安心しました」
その言葉は本心から出たものだった。
落馬の後、何度も見舞いを申し出ていたことは母から聞いている。
「心配をかけたな」
「いえ。私こそ、何もできませんでしたから」
「落馬したのは俺だ。お前が気にすることじゃない」
「そうかもしれませんが……」
ケーユーは少し言葉を濁した。
その時、背後から低い声が飛んできた。
「話はそこまでだ」
二人が振り返る。
馬術と剣術を教えている騎士、ガレンが立っていた。
がっしりとした体格の男で、左の頬には古い刀傷が走っている。
「リューク様。医師からは軽い訓練のみと伺っております」
「ああ」
「本日は構えと足運び。それから素振りだけです」
「打ち合いは」
「ありません」
「少しくらいなら」
「ありません」
迷いのない返答だった。
リュークは不満を隠さず眉をひそめた。
横でケーユーが小さく笑う。
「何がおかしい」
「いえ。予想通りでしたので」
「お前は普通に打ち合うんだろう」
「はい。リューク様の分まで打たれてきます」
「変な言い方をするな」
ガレンから短い木剣を渡される。
普段使っているものよりも軽く、長さも短い。
身体への負担を減らすためのものだろう。
リュークは両手で柄を握った。
一週間ぶりの感触。
木の硬さ。
掌に触れる革紐。
薄いまめの上へ、馴染んだ圧力がかかる。
不思議と心が落ち着いた。
足を開く。
右足を半歩後ろへ引く。
膝を緩め、腰を落とす。
切っ先を相手の喉元へ向けた。
「肩に力が入っております」
ガレンに言われる前に、リューク自身も気づいていた。
意識して肩を下げる。
右手の握りをわずかに緩め、左手へ力を移す。
「ほう」
ガレンが感心したような声を出した。
「何だ」
「修正が早くなられました」
「そうか」
「以前のリューク様は、力を抜けと言われると、腕からすべての力を抜いておられました」
「そんなことをしていたか」
「そのたびに切っ先が下がっておりました」
前世の記憶を取り戻す前の自分は、かなり感覚任せに動いていたようだ。
剣の才能そのものはあった。
筋力も反応速度も同年代より優れている。
それゆえに、細かな理屈を考えずとも勝ててしまっていた。
だが、それではいずれ限界が来る。
リュークは改めて自分の姿勢を確認した。
足の幅。
腰の位置。
肩。
肘。
手首。
呼吸。
一つずつ意識を向ける。
足の置き方がわずかに違えば、踏み込みの速度が変わる。
握りが強すぎれば、次の動きが遅れる。
重心が高ければ、相手の一撃を受けた時に崩される。
「上段から振り下ろしてください」
ガレンの声に従い、リュークは木剣を頭上へ上げた。
息を吸う。
振り下ろす。
木剣が空気を切る。
一度目は、腕だけで振ってしまった。
二度目は腰を回す。
三度目は踏み込みと合わせる。
四度目。
五度目。
繰り返すうちに、身体の動きが少しずつ滑らかになる。
「速さを求めすぎてはいけません」
「分かっている」
「今、速く振ろうとなさいました」
見抜かれていた。
リュークは動きを止めた。
「力を入れた方が速くなると思ったんだが」
「一瞬は速くなります。しかし、力んだ分だけ次の動きが遅れます」
ガレンは自分の木剣を手に取った。
「一度だけ振ります。よくご覧ください」
木剣を構える。
力が入っているようには見えない。
次の瞬間、短い風切り音が響いた。
木剣はすでに振り下ろされている。
動き出しがほとんど見えなかった。
「今のは、どこに力を入れた」
「最後の瞬間だけです」
「それまでは」
「剣を支えられるだけの力です」
リュークはガレンの動きを頭の中で反復した。
振り上げる時には余計な力を入れていない。
肩も動いていない。
踏み込みと腰の回転。
最後に腕と手首。
すべてが一つの流れになっていた。
「もう一度やってみます」
「ゆっくりで構いません」
リュークは構え直した。
剣を振り上げる。
肩へ力を入れない。
踏み込む。
腰を回す。
最後に手首を使う。
木剣が空を切る。
先ほどより軽い。
それでいて、振り下ろす速度は上がっていた。
「今のはよろしい」
ガレンが頷く。
胸の奥に小さな喜びが湧く。
ただ力を込めるよりも速い。
そして疲れにくい。
一つの動作を分析し、無駄を取り除く。
前世の自分が慣れ親しんだやり方だった。
「もう一度」
リュークは木剣を振り上げた。
「十回までです」
背後からドュベルクの声が飛んでくる。
「まだ三回目だ」
「数えております」
「暇なのか」
「坊ちゃまを監視することも重要な職務でございます」
「監視と言ったな」
「見守りでございます」
言い直しても意味は変わらない。
リュークが素振りを続ける一方、少し離れた場所ではケーユーがガレンの補佐役を務める騎士と打ち合っていた。
ケーユーはリュークほど剣の才能に恵まれているわけではない。
動きはやや硬く、攻撃の前に右肩が上がる癖もある。
それでも、諦めず何度も踏み込んでいた。
木剣を弾かれる。
すぐに体勢を立て直し、今度は鋭く突きを放つ。
しかし、それもかわされた。
すぐに後ろへ下がる。
「右肩、ケーユー」
ガレンが声を飛ばす。
「はい!」
ケーユーは返事をしながら構え直した。
次の踏み込みでは、右肩を動かさないよう意識している。
だが、そのせいで足運びがぎこちなくなった。
相手の木剣が脇腹へ触れる。
「そこまで」
騎士が木剣を下ろす。
ケーユーは悔しそうに息を吐いた。
「一つ意識すると、ほかが崩れるな」
リュークが言う。
「見ていたのですか」
「ああ」
「なら、何か助言をいただけますか」
ケーユーは素直に尋ねてきた。
リュークは少し考えた。
「右肩を上げないようにすることだけ考えるから、足が止まるんじゃないか」
「ですが、意識しなければ癖が出ます」
「攻撃全体を直そうとするんじゃなくて、踏み込みだけ繰り返せばいい」
「踏み込みだけですか」
「剣を振らずに、肩を動かさず一歩出る。それができるようになったら、剣を合わせる」
ケーユーは目を瞬いた。
ガレンも興味深そうにリュークを見る。
「動きを分ける、ということですか」
「ああ。一度に全部直すのは難しいだろう」
「なるほど……」
ケーユーは木剣を構えた。
今度は振らずに、前へ一歩踏み込む。
右肩が少し上がった。
もう一度。
今度は上がらない。
さらにもう一度。
「これなら意識しやすいですね」
「その踏み込みのまま剣を振ればいい」
「簡単に言われますね」
「できないなら、もう少し分けろ」
「これ以上どう分けるのですか」
「足だけ動かす」
「今もそうしています」
「なら、次は腰を入れる」
ケーユーは少し困った顔をしながらも、何度も動作を繰り返し始めた。
ガレンは顎へ手を当て、二人の様子を見ていた。
「理にかなっております」
「そうなのか」
「複雑な動きを分け、個別に覚えさせる方法は、騎士団でも使います。ただし、リューク様へ正式に教えた覚えはございません」
「今思いついただけだ」
嘘ではない。
前世の経験を剣術へ当てはめただけだ。
「落馬されてから、物事の見方が変わられたようですな」
ガレンの言葉に、リュークの顔がわずかに強張った。
ドュベルクもこちらを見ている。
変わりすぎれば、不審に思われる。
前世の記憶について知られるわけにはいかない。
リュークは肩をすくめた。
「死にかけたからな。今までより真面目に訓練しようと思っただけだ」
「死にかけた者が、まず訓練を増やそうと考えるでしょうか」
「リューク様ですから」
ケーユーが当然のように言った。
ガレンは一度黙り、それから納得したように頷いた。
「確かに」
「何で納得するんだ」
「日頃の行いかと」
午前の訓練は、予定通り軽い内容だけで終わった。
リュークにはまだ余力があった。
腕も動く。
息も乱れていない。
だが、ドュベルクとガレンはそれ以上の訓練を許さなかった。
「今日はここまでです」
「まだできる」
「できるところで止めるのも訓練です」
ガレンにそう言われ、リュークは渋々木剣を返した。
訓練場を出た後、湯で汗を流し、昼食を取る。
昼食は香草を塗って焼いた鶏肉と、濃い野菜のスープ、硬めのパンだった。
ケーユーも向かいの席に着いている。
「午後は魔術ですね」
「ああ」
リュークはすぐに答えた。
身体の疲労など、すでに気にならなくなっている。
剣術も好きだ。
だが、今のリュークにとって、前世には存在しなかった魔術は、それ以上に興味深いものだった。
「ずいぶん楽しみになさっていますね」
「魔術だからな」
「以前から魔術はお好きでしたが、そこまでではなかったと思います」
「今まで深く考えていなかっただけだ」
「何をですか」
「魔力がどうして火や水になるのか。詠唱がなぜ必要なのか。イメージを変えれば、同じ魔術でも威力が変わるのか」
ケーユーは少し考えた後、首を傾げた。
「魔力を使えば、魔術になるからではありませんか」
「それでは説明になっていない」
「そう言われましても、魔術は昔からそういうものです」
「昔からそうだということと、仕組みが分かっていることは別だ」
「リューク様は、随分と難しいことを考えられるようになりましたね」
「面白いだろう」
「私は使えれば十分です」
ケーユーは鶏肉を口へ運んだ。
「剣も同じです。強ければ、それでよいと思います」
「どうすれば強くなるかを考えた方が、早く強くなれる」
「考えすぎて動けなくなることもありますよ」
「それは否定できないな」
前世でも、条件を考えすぎて実験を始められなくなることがあった。
考えることと、実際に試すこと。
どちらも必要だ。
昼食を終えると、二人は本邸から少し離れた魔術訓練棟へ向かった。
訓練棟は厚い石壁で囲まれている。
窓は狭く、建物の周囲には複雑な紋様が刻まれた石柱が並んでいた。
魔術が暴発した際、その力を内部へ閉じ込めるための結界である。
中へ入ると、冷たい空気が肌を撫でた。
床も壁も石造り。
奥には木製の標的や鉄板、水を張った桶が並んでいる。
教師であるクリドセは、すでに訓練場の中央で待っていた。
肩まで伸びた黒髪を後ろで束ね、濃紺の長衣を身につけている。両手の指には銀の指輪がいくつもはめられ、それぞれに小さな魔石が埋め込まれていた。
「リューク様。ご快復されたようで何よりでございます」
「心配をかけた」
「本日は軽い訓練だけにするよう、公爵夫人から厳しく申しつけられております」
「ここでもか」
「母君のお心遣いです」
クリドセは穏やかに答えた後、ケーユーを見る。
「ケーユー様も、競争を煽られぬように」
「なぜ私まで注意されるのでしょう」
「以前、どちらが大きな火球を作れるか競い、裏庭の柵を焼いたのはどなたでしたか」
ケーユーは口を閉じた。
リュークも視線を逸らす。
「あれは、風が強かったからだ」
「風が強い日に火球の大きさを競ったことが、そもそもの問題です」
何も言い返せない。
「まずは魔力の循環から始めます」
クリドセが両手を打ち鳴らした。
二人は床に描かれた円の中へ座る。
目を閉じる。
呼吸を整える。
胸の奥へ意識を向ける。
しばらくすると、身体の中心に何かがあるのを感じた。
熱ではない。
液体でもない。
だが、確かに存在している。
魔力。
この世界で十五年間生きてきたリュークにとって、それは慣れ親しんだ感覚だった。
しかし、前世の記憶を取り戻した今では、まったく異なるものに思える。
前世の人体には、こんな感覚はなかった。
少なくとも、自分は感じたことがない。
「魔力を胸から肩へ。そこから右腕を通し、掌まで流してください」
クリドセの声に従い、魔力を動かす。
胸の奥にあるものが、ゆっくりと移動する。
肩。
腕。
肘。
手首。
掌。
指先がわずかに温かくなった。
「急がず、一定の速度で流してください」
リュークは魔力の流れへ意識を集中した。
前世で見た血流や神経の図が頭に浮かぶ。
魔力経路は血管に沿っているのか。
それとも神経に近いのか。
肉体とは別の、目に見えない経路が存在するのか。
「リューク様」
クリドセの声が強くなる。
「考え事をなさらないように」
「分かった」
魔力が乱れていた。
リュークは疑問を脇へ置き、循環へ集中した。
何度か胸と掌の間を往復させる。
次に、魔力を体外へ放出する訓練へ移った。
クリドセが手を上へ向ける。
掌の上に淡い青色の光が現れた。
光は静かに膨らみ、拳ほどの球形になる。
「属性を与えず、純粋な魔力のみを放出します」
リュークも右手を上げた。
魔力を掌へ集める。
皮膚の外へ押し出す。
淡い白色の光が生まれた。
最初は小さな火花ほど。
ゆっくり魔力を送り続けると、胡桃ほどの球へ育っていく。
球の表面が揺れる。
送り込む魔力を少し減らす。
揺れが収まった。
「そこで維持してください」
リュークは光球を見つめた。
白い。
だが、完全な白ではない。
わずかに青みが混じっているようにも見える。
「先生」
「何でしょう」
「魔力の色が人によって違うのは、なぜだ」
「属性適性、魔力の密度、精神の性質など、さまざまな説があります。ですが、明確な答えは出ておりません」
「調べた者はいないのか」
「多くの魔術師が調べております。しかし、魔力の性質は人によって大きく異なります。簡単に比較できるものではありません」
「同じ明るさの場所で、同じ量の魔力を出させて比べればいい」
クリドセは少し目を細めた。
「同じ量、ですか」
「魔力量を測る道具はないのか」
「魔石へ魔力を流し込み、その輝きでおおよその量を判断する器具はございます」
「なら、それで量をそろえられる」
「理屈では可能でしょう。しかし、そこまで細かく条件をそろえて調べる者は少ないかと」
「なぜだ」
「魔術師の多くが求めるのは、魔術の威力や実用性です。魔力の色の理由が分かったところで、戦場で勝てるとは限りません」
リュークは光球を見つめた。
確かにそうだ。
この世界において、魔術は学問である前に武器だ。
研究結果は、個人や家の力へ直結する。
意味の分からない現象を調べるより、より強い火球や、より鋭い水刃を使える方が価値を持つ。
その考え方は理解できる。
リューク自身、魔術の仕組みに興味はあるが、最終的に求めているものは強さだ。
ただ知りたいのではない。
仕組みを理解し、より強力に、より速く、より効率よく使いたい。
「では、属性魔術へ移ります」
クリドセが光球を消した。
訓練場の奥へ木製の標的が置かれる。
「本日は水属性の初級魔術。水刃を作ります」
クリドセは右手を前へ出した。
魔力が集まり、青い魔法陣が浮かぶ。
「水よ集え。澄みし流れよ、鋭き刃となり、我が前の敵を断て」
魔法陣の中央から水が生まれた。
宙へ浮いた水は細長く伸び、三日月形の刃へ変わる。
クリドセが軽く腕を振る。
水の刃が空気を裂き、木製標的へ突き刺さった。
表面に深い切れ目が刻まれる。
「これが水刃です。今は威力を落としておりますが、実戦で使えば革鎧程度なら容易に切り裂きます」
リュークは標的を見つめた。
水だ。
ただの水が、木を切っている。
刃の薄さ。
飛ぶ速度。
魔力による形状維持。
そのすべてが合わさって、威力を生み出している。
「まずは刃の形を作るところまでです。飛ばしてはなりません」
クリドセが念を押す。
リュークは右手を前へ向けた。
胸の奥から魔力を引き出す。
掌へ集める。
水をイメージする。
透明。
流れる。
形を持たない。
そこへ刃のイメージを重ねる。
薄い。
鋭い。
硬くはない。
だが、形を崩さない。
「水よ集え。澄みし流れよ、鋭き刃となり、我が前の敵を断て」
掌の前へ青白い魔法陣が浮かんだ。
中央から水が生まれる。
最初は球形。
それを横へ引き伸ばす。
細長くなる。
さらに薄くする。
だが、途中で水の表面が激しく揺れ始めた。
形が崩れる。
「無理に維持してはなりません」
クリドセの声に従い、魔力の供給を止める。
水は床へ落ちた。
石の上に水溜まりが広がる。
「悪くありません」
「刃には見えなかった」
「最初から完全な形を作れる者はおりません」
「先生の刃と何が違う」
「魔力の流れが均一ではありません。それと、刃を薄くしようと意識しすぎています」
「薄い方が切れるのではないのか」
「薄ければよいというものではありません。形を維持できなければ、敵へ届く前に崩れます」
「厚さと維持しやすさの釣り合いが必要か」
「その通りです」
リュークは床の水を見る。
一度目は薄くしすぎて崩れた。
ならば、次は厚めに作る。
「もう一度やる」
「魔力の残量に注意してください」
再び魔法陣を作る。
水を生み出す。
今度は無理に薄くしない。
指二本分ほどの厚みを保ちながら、三日月形へ整える。
形は悪い。
刃というより、曲がった板に近い。
だが、先ほどより安定している。
「そのまま維持してください」
クリドセが近づく。
水の刃をさまざまな角度から観察する。
「魔力の流れは安定しています」
「厚すぎる」
「最初はこれでよいのです。安定させることを覚えた後、少しずつ薄くします」
「最初から薄さを求めるのは駄目か」
「形が崩れる癖を覚えてしまいます」
剣術と同じだ。
最初から速く振ろうとすれば、姿勢が崩れる。
まずは正しい形。
その後に速度と威力。
「なるほど」
リュークは水刃を消した。
ケーユーが隣へ立つ。
「次は私ですね」
「リューク様よりは形のよいものを作ってみせます」
「言ったな」
「競争ではございません。目標です」
クリドセが深いため息をついた。
ケーユーは右手を前へ向ける。
「水よ集え。澄みし流れよ、鋭き刃となり、我が前の敵を断て」
魔法陣が浮かぶ。
水が生まれる。
勢いはリュークより強い。
三日月形へ伸びていく。
確かに、形だけならリュークのものより刃に近かった。
しかし、全体が細かく震えている。
「ケーユー様、魔力を送りすぎです」
「分かっております」
「分かっている方の魔術には見えません」
次の瞬間、水刃が弾けた。
大量の水がケーユーの顔へかかる。
赤い髪から水滴が滴り落ちた。
リュークは思わず吹き出した。
「笑わないでください」
「悪い。俺より形はよかったな」
「最後まで維持できていれば、ですが」
「形だけなら勝ちだ」
「慰められると、余計に惨めになります」
ケーユーは袖で顔を拭いた。
クリドセは杖を軽く振る。
ケーユーの服へ染み込んでいた水が抜け出し、空中で一つの球になった。
そのまま桶の中へ落ちる。
「魔力を多く込めれば強くなるとは限りません」
「はい」
「形を保つために必要な量を超えれば、術式が耐えられなくなります」
「必要な量はどう判断する」
リュークが尋ねる。
「感覚です」
「数値ではないのか」
「魔力を数値で正確に表す方法は確立されておりません」
また感覚。
剣術も魔術も、熟練者は感覚を重視する。
長年の経験で身体に覚え込ませる。
それ自体は間違いではない。
だが、感覚を言葉にできなければ、学ぶ側は遠回りをする。
「必要な量より少なければ、どうなる」
「形が作れません。あるいは威力が不足します」
「多ければ暴発する」
「はい」
「なら、少ない状態から少しずつ増やせば、ちょうどいい範囲を見つけられる」
「理屈ではそうなります」
「同じ形、同じ大きさで繰り返せば、必要な魔力の感覚も分かるはずだ」
クリドセは少し考えた。
「それを何度も試すおつもりですか」
「ああ」
「本日は療養明けです」
「今日でなくてもいい」
「リューク様が、素直に次回まで待たれるとは思えません」
「信用がないな」
「柵を焼いた前例がございますので」
またその話だった。
その後、二人は数回ずつ水刃を作った。
リュークは毎回、意識する部分を一つだけ変えた。
一度目は安定。
二度目は厚さ。
三度目は魔力の流量。
四度目は生成にかける時間。
変えるのは一つだけ。
その方が、何によって結果が変わったのか分かりやすい。
四度目の水刃は、それまでで最も整っていた。
まだ厚い。
形も完全ではない。
だが、表面の揺れは少なく、十数秒維持できた。
「今日はこれで終わりです」
クリドセが告げる。
「まだ魔力は残っている」
「魔力ではなく、集中力の問題です」
言われて気づいた。
頭の奥が重い。
視界にもわずかな疲れを感じる。
水刃を作るたびに、細かな形を想像し続けていた。
剣の素振りとは異なる疲労だった。
「集中力が落ちた状態で魔術を使えば、魔力の制御を誤ります」
「分かった」
「途中で止めることも、魔術師には必要です」
その言葉は正しかった。
前世でも、疲労した状態で解析を続けた結果、単純なミスを何時間も見落としたことがある。
続ければよいというものではない。
「ケーユー様も終了です」
「私はまだ一度しか成功しておりません」
「一度も完全には成功しておりません」
「次こそはできます」
「そのようにおっしゃる時が最も危険です」
ケーユーは不満そうだったが、渋々手を下ろした。
訓練を終えた後、リュークは床に残った水溜まりを見つめた。
「魔術で出した水は、そのまま残るのか」
「はい。生成された後は通常の水と変わりません」
「飲めるのか」
「不純な魔力が混ざっていなければ」
「では、水のない場所でも魔術師がいれば水を作れる」
「少人数分であれば可能です。ただし、大勢へ供給するほど作れば、すぐに魔力が尽きます」
軍隊が遠征する際、水は重要になる。
水を生み出せる魔術師がいれば、行軍できる距離が変わる。
籠城戦でも有利になる。
リュークの頭に浮かんだのは領地経営ではない。
戦場だった。
「水属性の魔術師は、軍で重宝されるのか」
「もちろんです。攻撃だけでなく、飲料水の確保、消火、負傷者の洗浄にも使えます」
「火属性よりもか」
「用途が違います。火属性は攻城や集団戦に向きます。水属性は柔軟性が高い。風は速度と射程。土は防御と陣地構築に優れます」
「一番強い属性は」
クリドセはすぐには答えなかった。
「使い手によります」
「属性ごとの相性はあるだろう」
「あります。しかし、火が水に必ず負けるわけではありません。込められた魔力量、術式、技量、距離、地形。そのすべてが影響します」
「なら、属性より術者の強さか」
「最終的には、そうなります」
リュークは小さく笑った。
それが気に入った。
技量。
魔力量。
判断。
訓練。
工夫。
強くなる余地がある。
魔術訓練棟を出る頃には、日が傾き始めていた。
夕方の風が、火照った頬に心地よい。
ケーユーはまだ濡れた髪を気にしながら歩いている。
「次は負けません」
「何の話だ」
「水刃です」
「競争ではないと言っていただろう」
「目標です」
「同じじゃないか」
「違います」
「では、次も俺が先に成功しても問題ないな」
「それは困ります」
結局、競争だった。
本邸へ戻る途中、遠くで角笛が鳴った。
城門が閉じられる合図ではない。
外から使者が到着した時に鳴らされる音だ。
門の方を見ると、泥に汚れた騎馬の一団が入ってくるところだった。
馬には見慣れない紋章旗が掲げられている。
深い青地の中央に、赤と白の横縞が入った獅子。
獅子は黄金の冠を戴き、鋭い金色の爪を空へ突き出している。
「どこの使者だ」
リュークが尋ねる。
同行していたドュベルクが紋章を確認する。
「エッセ公爵家の使者でございます」
「父上に用か」
「おそらくは」
マーロ帝国では、皇帝位が十年以上空位のままになっている。
先帝が崩御して以来、有力諸侯の間で意見がまとまらず、新たな皇帝は選ばれていない。
帝国という名は残っているが諸侯はそれぞれ独自の軍を持ち、独自に税を徴収し、独自の法で領民を裁いていた。
各領邦は、実質的には一つの国に近い。
公爵や侯爵は周辺の小貴族を寄子として従え、互いに同盟を結び、あるいは戦争をする。
皇帝がいない今、それを止める絶対的な権力は存在しない。
帝国議会が諸侯間の争いを仲裁することはある。
だが、決定に従うかどうかは、結局のところ各諸侯の力次第だった。
「何か起きたのでしょうか」
ケーユーが不安そうに使者の一団を見る。
「さあな」
リュークはそれ以上興味を示さなかった。
どの家がどの家と結び、誰を次の皇帝候補へ推すか。
そうした政治の駆け引きに、今のリュークはほとんど関心がない。
家督を継ぐのは兄だ。
領地を治めるのも兄になる。
政治や領地経営は、父と兄が考えればよい。
リュークが知りたいのは別のことだった。
エッセ公爵家の騎士は強いのか。
どのような魔術師を抱えているのか。
もし戦争が起きた時、自分はどこまで戦えるのか。
使者の腰には長剣が下がっている。
護衛の中には、杖を持った魔術師らしき男もいた。
その杖の先には、赤い魔石がはめ込まれている。
火属性だろうか。
「リューク様」
ケーユーが隣から声をかける。
「何だ」
「使者の杖を見ておられますか」
「ああ」
「何か気になるのですか」
「先端の魔石が赤い」
「火属性の補助魔石でしょう」
「どれくらい術の威力が上がるのかと思ってな」
ケーユーは少し呆れたように笑った。
「使者が来ても、気になるのは魔術なのですね」
「政治の話を聞いたところで、俺が決めることはない」
「公爵家のご子息なのですから、いずれ無関係ではいられないのではありませんか」
「必要になれば聞く。それまでは剣と魔術の方が大事だ」
「リューク様らしいお答えです」
それは落馬前のリュークにも通じる部分だった。
前世の記憶を取り戻したからといって、性格のすべてが変わったわけではない。
領地の帳簿。
税の徴収。
鉱山の採掘量。
そうしたものに興味は持てない。
数字を見ること自体は苦ではない。
だが、その数字を使うなら、魔術の威力や剣術の上達を調べる方がよほど面白い。
夕食は父が屋敷にいるため、家族そろって取ることになった。
大食堂へ入ると、すでに母と兄が席についていた。
兄、ドンモイレ・ノフ・ノカスはリュークより三歳年上の十八歳。
黒髪と灰色の瞳を持ち、父に似た厳しい顔立ちをしている。
リュークの姿を見るなり、兄は眉を上げた。
「もう訓練へ戻ったのか」
「軽い訓練だけです」
「落馬した翌週に剣を握るとは、懲りていないようだな」
「剣で落馬したわけではありません」
「口だけは変わらないか」
リュークは言い返さず、自分の席へ着いた。
兄、ドンモイレ・ノフ・ノカスとの仲は、幼い頃から悪かったわけではない。
かつては二人で庭を走り回り、同じ木剣を取り合って母に叱られたこともある。リュークが馬から落ちて膝を擦りむいた時には、ドンモイレが背負って屋敷まで連れ帰ってくれた。
二人の関係が決定的に変わったのは、五年前だった。
リュークが十歳、ドンモイレが十三歳の時である。
その年、ノカス公爵家の子供たちは、神殿から招かれた司祭と公爵家付きの魔術師立ち会いのもと、正式な魔力量の測定を受けた。
結果は、誰も予想していなかったものだった。
リュークの魔力量は、兄であるドンモイレの二倍近くに達していた。
ドンモイレも決して魔力が少ないわけではない。公爵家の後継者として恥じることのない量を持っていた。
だが、リュークの魔力はそれを大きく上回った。
測定に用いた魔石が眩い光を放った瞬間、立ち会っていた家臣たちの間から、抑えきれないどよめきが起きた。
その翌年には、さらに悪い出来事が重なった。
家臣や寄子の子弟が集まる剣術試合で、リュークは三歳年上のドンモイレから一本を取った。
それは正式な決闘ではなく、木剣を用いた訓練試合にすぎなかった。
兄が油断していたことも確かだった。
しかし、大勢の家臣が見守る前で、次男が後継者である長男を打ち倒したという事実だけが残った。
その夜、ノカス公爵家の重臣の一人が父へ進言した。
皇帝位が空いたままのマーロ帝国では、諸侯同士の争いがいつ大戦へ発展してもおかしくない。
そのような時代に必要なのは、生まれた順番だけで選ばれた当主ではない。
最も強い剣士。
最も多くの魔力を持つ者。
戦場で家臣を従え、敵を打ち破れる者こそ、ノカス家の跡継ぎにふさわしい。
そう主張したのである。
重臣一人の独断ではなかった。
表立って賛同した者こそ少なかったが、同じ考えを持つ家臣は複数いた。
父はその進言を退けた。
ノカス家の後継者はドンモイレである。
それを変えるつもりはない。
父は皆の前で、はっきりと言い渡した。
だが、一度生まれた疑念まで消すことはできなかった。
ドンモイレもまた、自分の知らない場所で家臣たちが弟を後継者に推そうとした事実を知ってしまった。
それ以来、兄はリュークの才能を素直に受け入れられなくなった。
リュークが剣術で褒められるたびに、また誰かが弟を推すのではないか。
リュークが新しい魔術を覚えるたびに、家臣たちが自分と比べるのではないか。
父がリュークを認めるたびに、自分の後継者としての立場が削られるのではないか。
その恐怖が、兄の中へ根を張っていた。
リューク自身は、公爵位に何の興味も持っていない。
領地の税収にも、鉱山の管理にも、寄子たちとの交渉にも関心はなかった。
興味があるのは剣術と魔術だけだ。
兄から家督を奪おうと考えたことなど、一度もない。
だが、ドンモイレはその言葉を信じなかった。
むしろ、リュークがあまりにも家督へ無関心であることが、兄の疑念を強めていた。
本当に何も望んでいない者が、なぜあれほど剣を振るうのか。
なぜ魔術に執着するのか。
なぜ家臣たちが望むような力を、次々と身につけていくのか。
兄には理解できなかった。
リュークが何も企んでいないからこそ、兄にはその本心が見えなかった。
本人に野心がなくとも、周囲が旗印として担ぎ上げることはある。
皇帝位が空位となり、諸侯が力によって領地を守る今の時代では、本人の意思より、その血筋と力が利用されることも珍しくない。
ドンモイレが恐れているのは、リューク自身だけではない。
リュークを利用して、自分を後継者の座から引きずり下ろそうとする家臣たちだった。
だからこそ、兄はリュークが剣術や魔術で成果を上げるたびに、露骨な敵意を向けてくる。
リュークにとっては、ただ強くなりたいだけの訓練。
しかし、兄にとってそれは、自分の地位を脅かす行為に見えていた。
しばらくして、父が入ってきた。
ノカス公爵トルベルア・ノフ・ノカス。
大柄な体格。
黒い髪には白いものが混じり始めている。
父が席へ着くと、料理が運ばれてきた。
野菜のスープ。
川魚の香草焼き。
鹿肉と根菜の煮込み。
食事が始まってしばらくは、誰も口を開かなかった。
先に話し始めたのは父だった。
「身体はどうだ」
リュークへ向けられた言葉だった。
「もう問題ありません。今日は剣術と魔術の訓練へ戻りました」
「乗馬は」
「まだ止められています」
「当然だ」
父は短く答えた。
「同じ失敗はするな」
「はい」
それで体調についての話は終わった。
父は兄へ視線を向ける。
「エッセ侯から使者が来た」
「皇帝選定会議についてですか」
「ああ」
兄の声には緊張が混じっていた。
母も静かに食器を置く。
父は続けた。
「エッセ侯は、北部諸侯が推す候補へ反対するよう求めている」
「エッセ侯自身が帝位を狙っているのですか」
「本人は否定している」
父の口調から、それを信じていないことが分かる。
マーロ帝国では、皇帝位が空位になって以来、何度も選定会議が開かれている。
だが、誰を選んでも他の有力諸侯が反対する。
皇帝が選ばれれば、一定の権限がその人物へ集まる。
帝国軍の指揮権。
諸侯間の争いを裁く権利。
誰もが自分より強い皇帝の誕生を望んでいない。
その一方で、自分か自分に近い者が帝位へ就くことは望んでいる。
結果として、皇帝位は空いたままになっていた。
「父上は、どなたを支持されるおつもりですか」
兄が尋ねる。
「まだ決めていない」
「エッセ侯の要請を拒めば、西部で敵対する可能性があります」
「受け入れれば、北部諸侯を敵に回す」
「では、中立を」
「中立とは、両方から信用されぬ立場でもある」
父と兄の会話が続く。
リュークは黙って鹿肉を切り分けていた。
名前の知らない侯爵。
遠くの公爵。
選定会議。
同盟。
支持。
聞いていても、心が動かない。
ただし、諸侯が争えば戦争になる。
戦争になれば、ノカス公爵家も兵を出す。
そして公爵家の次男である自分も、いずれ戦場へ出ることになる。
その点だけは無関係ではない。
「リューク」
突然、父から名を呼ばれた。
顔を上げる。
「何だ」
「はい、父上」
「お前はどう思う」
何を、と聞き返しそうになった。
皇帝候補について意見を求められているらしい。
兄が不快そうにこちらを見る。
リュークは少し考えた。
「分かりません」
兄の口元に嘲るような笑みが浮かぶ。
だが、リュークはそのまま続けた。
「候補者の人柄も、抱えている軍の数も、魔術師の力量も知りません。知らない相手について、支持するべきか尋ねられても答えられません」
父は黙っている。
「ただ、誰が皇帝になるにしても、ノカス家と戦う可能性があるなら、相手の軍事力は知っておくべきだと思います」
「政治ではなく戦の話か」
「俺には、その方が分かりやすいので」
兄が鼻で笑った。
「お前らしい浅い答えだ」
「ドンモイレ」
父が低い声で制する。
兄は口を閉じた。
父はリュークをしばらく見つめた後、わずかに頷いた。
「知らぬことを知ったふりで答えるよりはよい」
「ありがとうございます」
「だが、公爵家に生まれた以上、永遠に知らぬままではいられん」
「必要になれば学びます」
「領政には興味がないか」
「ありません」
即答だった。
母がわずかに困ったように笑う。
兄は呆れたような顔をした。
父だけは表情を変えなかった。
「では、何に興味がある」
「剣術と魔術です」
「それだけか」
「今は、それだけで十分です」
しばらく沈黙が流れた。
やがて父は食器を置いた。
「ならば、極めろ」
予想外の言葉だった。
リュークは父を見る。
「中途半端な剣士も、中途半端な魔術師も、公爵家には必要ない」
「はい」
「領地を継ぐのはドンモイレだ。お前が同じものを学ぶ必要はない」
兄が少し顔を上げる。
父は続けた。
「だが、家を守る力は必要だ。皇帝が空位である限り、諸侯の争いはなくならん。剣と魔術を選ぶなら、戦場で役に立つほどになれ」
胸の奥が熱くなる。
領地経営を学べと言われるより、ずっとよかった。
「必ず」
リュークははっきり答えた。
「必ず、強くなります」
兄の視線が鋭くなる。
父に認められたと感じたのかもしれない。
ただ強くなりたい。
剣を極めたい。
魔術を理解し、誰よりも自在に使えるようになりたい。
前世にはなかった力が、今はこの手の中にある。
それを磨かずに生きるなど、考えられなかった。
食事が終わり、自室へ戻る。
机の上には、魔術の入門書が置かれていた。
リュークは紙とインクを用意させる。
今日の訓練を思い出しながら、書き記していく。
水刃、一回目。
薄さを優先しすぎて崩壊。
二回目。
厚く作り、安定。
三回目。
魔力を少し減らす。形の維持は良好。
四回目。
生成を遅くする。表面の揺れが減少。
前世で実験記録を書いていた時と同じように、条件と結果を分けて記す。
リュークは紙の最後に、新しい項目を書き加えた。
水刃の厚さと維持時間の関係を調べる。
書き終えた後、リュークは椅子へ深く腰掛けた。
窓の外では、夜の領都に灯りがともっている。
遠くでは、エッセ公爵家の使者が持ってきた話について、父や側近たちが議論しているのだろう。
次の皇帝を誰にするのか。
どの諸侯と結ぶのか。
どこを敵に回すのか。
今のリュークには関係がない。
だが、その選択が戦を生むなら話は別だ。
戦場へ出る日までに、強くならなければならない。
父の命令だからではない。
公爵家の次男だからでもない。
強くなること自体が、今のリュークにとって何よりも魅力的だった。
机の上には、水刃の記録。
壁際には、愛用の剣。
リュークはその二つを交互に見た。
剣術と魔術。
前世の知識を生かすなら、この二つだ。
「まずは、水刃だな」
小さく呟く。
明日は、今日より薄く。
今日より安定して。
そして、いずれは詠唱を使わずに。
皇帝のいない帝国で、諸侯たちが互いの力を量っている。
その争いがノカス公爵領へ届くまで、どれほどの時間が残されているかは分からない。
だが、リュークに迷いはなかった。
政治を動かすのは父と兄の役目。
自分は剣を振るい、魔術を磨く。
誰にも負けないほどに。




