ゼロよりも大きな希望
――指一つ、動かすことが出来ない。
――腕だ。巨大な腕に全身を掴まれている。
――逃げようとするも、私の都合なんか無視して全身の圧迫感が増していくだけ。
――誰かの声が聞こえた。助けを求める声だ。
私も何かを言おうとする。
だけど、口の中が鉄の味でいっぱいになって、何かを喋ろうとするたびに口から赤い物が漏れ出すだけで音にすらならない。どうやら、この声を上げているのは、自分ではないようだ。
何もできない。誰かの悲鳴に似た声だけが響く。
世界が赤に染まっていく。
「助けて欲しい?」
そんな中、はっきりとそう聞こえた。私の声でも、助けを求めていた声とも違う。聞いたことのない艶やかな声だった。
*
全身が怠さを訴えている。まるで全力で走ったあとのようだ。でも、こんなに力を入れること自体が億劫になるのは始めてで。
「…………あ……」
呼吸をするのを忘れていた。目を瞑りながら、大きく息を吸って、吐く。
頭の中にかかった霞が少しずつ払われて、生きている重さがゆっくりのしかかってくる。
「夢……?」
あの圧迫感も必死な声も、異様な現実味を帯びていた。全身を掴まれ、節々に加わり、痛みが破裂する感覚。息を吸おうにも、肺が膨らまないまま苦しくなっていく。
あれは本当にあったことなのではないかと、そう思ってしまうほど痛みも臭いも味も生々しかった。
「……せんぱぁい〜……」
目を開けてすぐに目を逸らした。
「なんでいるのよ……」
ピンクの下着姿の後輩――名前は確か……――ラフリーだ。ラフリーが眼前にいる。
私が我を忘れて作戦室に入ったときに、いの一番に私の心配をしてくれた子だ。その子が――具体的には私の隣で眠っていた。たぶん寝るときは、いつもこの姿なのだろう。あんまり覚えていないけど、きっとそうだ。
上半身だけ起き上がらせる。くたびれた薄い水色の病院服が寝間着姿の自分がいる。
壁に立てかけてある鏡を確認すると、自分の長い髪から寝癖がまるで剪定前の植物のように生えていた。髪も伸びたし、いっそのこと切ってしまっても良さそう。
『あ、アネモネ。おはよう』
首元のアオがいつも通り、私に手慣れた様子で語り掛けてくる。
『大丈夫? 昨日探索の途中で倒れちゃって大変だったんだから』
そういえば、そうだっけ?
「大丈夫……だと思う。……ところで“これ”はどういうこと?」
なぜ、ラフリーがこんなところで寝ているの? 隣で寝ていたラフリーの頭を撫でる。茶色の髪が揺れ、ほんの少しだけ立っていた彼女の寝癖が収まっていく。
『さぁ? 本人に聞いてみたらどう? 少なくとも、アネモネは好かれているみたいだし』
「それは……」
好かれているのは気づいてる。
だけど、もうすぐ当たり前の日常すら失う私には、その想いに応えるのは無理だ。私なんかよりも、素敵な人を見つけてそっちに尽くすのが、何よりも彼女のためになるだろうし。
「……でもそうね。あとで聞いてみるわ」
ベッドから立ち上がり、壁にかけてあった自分の服を手に取る。灰色の迷彩服には焦げて黒ずんだあとや、破けたあとが残っている。それらが、どこで跡が付いたのかもう覚えていない。
迷彩服を胸に抱える。
「……やっぱり、アオのことも忘れるのかな?」
不安が口から飛び出した。怖い夢を見たせいかもしれない。
『……私はアネモネのことを忘れないわ』
「…………」
そうだ。私よりもずっとずっと寂しいのは、アオのはずだ。
「…………えっと……」
アオになんと返事をしようかと、そんなことを考えていた矢先だった。自分の部屋の扉が二回ノックされる。起きてるわ、と声に出した。
「おはようございます、お姉さま。お体は大丈夫ですか?」
扉が開き、そこからナナシちゃんは現れた。私が手に持っている迷彩服と同じものを着こんでいる。
袖から手が出ていない。どうやらこの都市迷彩色の服は少しサイズが大きいようだ。確かにナナシちゃんは私よりも四歳は幼く見える。
「大丈夫よ。あのときは……そう、少し驚いただけ。今は何ともないわ」
ここが私の現実だ。間違いない。
「それなら……。あの、ツカータ隊長が全員集めてほしいとのことで、皆さんを呼び回っているんです」
ツカータ隊長。この拠点の現在の最高責任者だ。サポート向けの思い出武装を持っていて、もっぱら参謀などの後方支援を中心にする男の人。私に並ぶ古参でもある。
そのツカータ隊長が全員集まれなんて、何かあるのかな?
「昨日、ラフレシアさんとダッシュさんが探索した“大穴”の話とそれに関連する作戦について、だそうです」
「大穴?」
ラフリーが私の部屋に来て、寝てるだなんて何かあると思ったけど……。
「分かった。すぐに準備をするわ」
灰色の迷彩服に袖を通す。動揺の柄のズボンを履き、靴を履く。洗濯をしたばかりのようで、少しだけ洗剤の香りがした。
それから、下着姿で横になっていたラフリーの肩を揺らした。
「んん……。なんですか……」
後輩の口から文句が出る。一応私が先輩のはずなのだけれど。そもそも、そのベッドは私のだけれど。
ラフリーは体勢を変えて、ボロボロの毛布にくるまる。簡単に起きそうもない。
「起きてラフリー。ツカータ隊長が呼んでいるらしいわ」
「昨日は本当に……大変だったんですって……」
よっぽどのことがあったのは知ってる。それこそ、朝早くにツカータ隊長が招集をかけるくらいだ。ここで甘い対応をする必要はない。
息を大きく吸い込む。
「起きなさい! ラフレシア!」
「あびゅぃ!」
素っ頓狂な声をあげながら、ラフリーは飛び上がる。
「ツカータ隊長が呼んでいるわよ」
「……あれ? 私、確か先輩を呼びに来て……」
まだ寝ぼけているみたい。もしかして、私を呼びに来た途中で力尽きたということ?
それからハッとした様子のラフリーに、私は詰め寄られた。
「先輩! そうですよ! 大穴さえどうにかすれば、人類は立ち上がれるかもしれません!」
彼女の言葉の真意はまだよくわからなかった。
*
着替えが終わったラフリーを連れて、作戦室に入る。既に他のメンバーも揃っていた。
私を含めて総勢十人。ツカータ隊長を除き、全員が思い出武装を持った戦闘員だ。朝早くに起こされたにも関わらず、眠そうにしている人はいない。この話は重要だ。私と同じようにそう考えているのだろう。
この中にイテム博士の姿はない。
皆不安そうな目を私達に向ける。流石に、二度も倒れれば心配されるということか。
「おはようございます、アネモネさん。始めてしまって、構いませんね?」
コンクリートを擦すり合わせたような掠れた声。眼鏡の奥に覗く厳しい視線を向けるのは、ツカータ隊長だ。
「……お願いします」
私達が椅子に座るのと同時に、壁に向かってプロジェクターから光が漏れる。
ここら一体の大縮尺の地図が壁に映し出される。が、一部に奇妙な円形の影が地図の上に出来ている。
さっき、ナナシちゃんやラフリーが言っていた“大穴”とはこのことか。
「地図上に表示した大穴の大きさは、観測している限り凡そ直径五キロ。目視での深さの観測は、謎の靄で不可能でした。なので、昨日ラフレシア君とダッシュ君に調査を依頼しました」
近くの椅子に座っていた短髪の青年が立ち上がる。その瞬間に壁に映し出されていた地図が、蟻によく似たエニグマの映像に変わった。他にも熊や猿、よくわからない触手を持ったエニグマが映っている。
そのエニグマの姿を見て、何となく法則があるように思えた。これは……。
「こいつら……穴の奥に向かっている?」
誰かが言った。
確かにエニグマ達は穴に向かっている。でも、それだけじゃない。
奴ら何かを持ってる。
「エニグマの目的は今まで不明だった。だが、映像から、穴の奥に道具を持っていくことが分かる。なぜここにきて、行動を変えたのかは分からないが、行動を変えたという事実から、意味がない行動であるということは推察しにくい」
なんのためか、それは分からない。だけど、今まで目的が分からなかった存在が、何かの目的を持って行動している。
映像に目を凝らしてみる。電子レンジ。タイヤの空気入れ。戦車のキャタピラ。アンテナ。タンス。パソコン。ぬいぐるみ。自動小銃。
……だめだ、意味が分からない。
ツカータ隊長が口を開いた。
「何のためにこういった道具を集めるのか。危険でしたが、ラフレシア君とダッシュ君に穴の奥に向かってもらい、調べてもらいました。そして、奥にいたある存在を確認したとき、奴らの目的も含めて一つの仮説が立てられました」
映像が切り替わる。暗闇の中で何かが動いている。何かのノイズがスピーカーから漏れ始める。物体同士がぶつかり合う音のようだが、この音に聞き覚えがある。それも日常で。
「……奥にいたのは、エニグマでした」
隣で小さくラフリーが口にした言葉は、静かだった空間に確かに届き、声が伝染していった。それぞれが感嘆と共に、エニグマであることを確認する。
もう一度、映像を見る。そこで、ようやく気付いた。見方を間違えていることに。
その映像に映っていたのは、巨大なエニグマだった。あまりにも大きいが、口を思わせる道具や瓦礫の塊が動き、目のような位置のライトの光がぎょろぎょろとしている。よく見れば、口らしき部分の中に他のエニグマが入っていっているように見える。
この音の感覚。もしかして、咀嚼音?
「道具を……食べている?」
私の言葉を聞いて他の人も反応する。ツカータ隊長だけは事前に私と同じ答えに辿り着いていたらしく、驚いてこそいなかったが、それでも静かに頷いていることを確認すると自分の仮説を確信したらしい。
道具を集めて何かをする、という発想そのものを間違えていた。やつらはただ道具を集めていただけ。であれば、建物や人間の兵器を壊していたのは、食料確保のためだったの? でもそれだと、同士討ちをする理由にならない気もするけど。
「アネモネさん」
ツカータ隊長から促されて立ち上がる。言いたいことは分かる。
「我々にはあとがありません。他の支部へ連絡が付かないのは既に滅ぼされてしまっているからだと思えば……生き残っている人類は私達だけです。敵の活動範囲が広がっているため、いつかここも襲撃されるでしょう」
眼鏡を上げながら、ツカータ隊長が言う。憔悴しているが、気高くあろうとする人の姿がある。
エニグマ達の行動の中で、気になることは確かにある。
「アネモネさん。あなたとアオは我々の希望です。現在この拠点における最高の戦力はあなた方ですから」
最高戦力。実感はないが、記録的に私が一番エニグマを倒したとか。でも私はただ、この拠点で一番強い思い出武装を持っているだけ。
希望だなんて言われるほど、自分達が素晴らしいとは思えない。
そんな私でも、期待されれば応えなければ。
「ツカータ隊長。みんな。巨大エニグマの討伐をこれからの目標とするわ。
映像のエニグマがエニグマ達にとっての要である可能性は高い。だけど、高いだけで確証がなく、奴も一体だけである証拠もまた、存在しない」
目を配ると全員の目に火が灯っているのが分かる。ラフリーが希望だと言っていた。確かにこれは、希望の光だ。
「……私達は今まで、辛酸を嘗め続けていた。やつらが何のために存在し、何のために行動しているのか分からず。精々、数を減らす事ができただけだった。だが、ようやく現状を打破することが出来る可能性が見つけられた。ラフリーとダッシュのおかげよ。このチャンスはモノにしなくてはならないわ!」
隣を見やると、ラフリーが恥ずかしそうにしていた。なので、小さく微笑んでみせる。
「この可能性に掛けるわよ! みんな!」
作戦室に声が爆発する。
私達に時間はない。零だった可能性がほんの少しだけ零から離れただけ。それでも、私達に残された時間を考えると、選択肢はなかった。




