第二十話 繋いだ手の温もり
夕焼けに染まっていた街は、いつの間にか夜の帳に包まれていた。
ギルドで事情を聞かれ、簡単な治療を受けたヴィルとアイナは、ようやく宿へ戻ってきた。
二人ともほとんど口を開かなかった。
いつもならヴィルが今日の依頼のことや夕食の話をする。
アイナも短いながら返事をして、少しだけ笑う。
そんな何気ない時間があった。
けれど今日は違う。
誘拐され、暗い部屋へ閉じ込められた記憶が、二人の心を重く沈めていた。
「……。」
「……。」
宿のおかみも二人の様子を見て何かを察したのか、何も聞かずに温かい夕食だけを用意してくれた。
「たくさん食べな。」
「今日はゆっくり休むんだよ。」
「……ありがとうございます。」
ヴィルは笑顔を作ろうとしたが、いつものようには笑えなかった。
食事を終え、部屋へ戻る。
扉を閉めた瞬間、部屋は静かな空気に包まれた。
◇ ◇ ◇
ヴィルは荷物を置きながら、小さく息を吐いた。
(怖かった。)
今日一日を思い返す。
突然の襲撃。
意識を失ったこと。
目を覚ました時の暗い部屋。
縛られた両手。
幼い頃、自分が誘拐された時の記憶が頭をよぎる。
(もし助けが来なかったら……。)
その考えが浮かぶだけで胸が苦しくなる。
思わず自分の腕を抱きしめた。
「……。」
けれど、それ以上に気になったのはアイナだった。
部屋へ入ってから一度も椅子へ座らない。
落ち着きなく部屋の中を見回し、窓の鍵を確認し、扉へ目を向ける。
何度も何度も。
まるで誰かが入ってくるのを恐れているようだった。
「アイナ。」
声を掛けても反応が少し遅い。
「……え?」
無理に笑おうとしている。
けれど、その笑顔は今にも崩れそうだった。
ヴィルは理由を聞かなかった。
聞かなくても分かる。
あの部屋は、アイナにとって過去そのものだった。
誘拐され、奴隷として扱われていた頃の恐怖。
それが今日、目の前に蘇ってしまったのだ。
ヴィルは静かに立ち上がる。
そして何も言わず、アイナの前まで歩いた。
「ヴィル?」
ヴィルはそっとアイナの手を握る。
冷たい。
少し震えている。
アイナは驚いたようにヴィルを見る。
「今日。」
ヴィルは優しく微笑んだ。
「一緒に寝よう。」
たったそれだけだった。
「……。」
アイナは目を見開く。
言葉は出ない。
けれど、ゆっくりと頷いた。
「……うん。」
その返事には、少しだけ安心した色が混じっていた。
◇ ◇ ◇
二人は寝る支度を済ませた。
いつものように別々のベッドへ入る。
だが今日は、そのベッドを少しだけ寄せた。
手を伸ばせば届く距離。
ヴィルがそっと右手を差し出す。
「ほら。」
アイナも少しためらったあと、その手を握った。
ぎゅっと。
力は強くない。
それでも離したくないと思える温もりだった。
「ありがとう。」
アイナが小さく呟く。
「私の方こそ。」
ヴィルは照れくさそうに笑う。
「一人だと、私もちょっと怖かった。」
その本音を聞き、アイナは少しだけ驚いた。
「ヴィルも?」
「うん。」
「昔、誘拐されたことがあるから。」
「思い出しちゃって。」
ヴィルは苦笑する。
「でも。」
「アイナがいるから大丈夫。」
アイナはその言葉を静かに受け止めた。
自分だけが弱いわけではない。
ヴィルも怖かった。
それでも自分を安心させようとしてくれている。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「……私も。」
「ヴィルがいるから。」
「安心する。」
ヴィルは嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、お互い様だね。」
「うん。」
部屋には静かな夜が流れる。
窓の外では虫の音が響いていた。
手を繋いだまま、二人はゆっくりと目を閉じる。
◇ ◇ ◇
暗闇。
アイナは身構えた。
(また……。)
(またあの夢……。)
牢屋。
鎖。
貴族。
鞭。
今日の出来事で、きっとまたあの夢を見る。
そう思っていた。
しかし――。
何も始まらない。
代わりに感じたのは、手の温もりだった。
温かい。
優しい。
誰かがそばにいる。
「ヴィル……。」
夢の中なのか、現実なのか分からない。
それでも、その温もりだけは確かだった。
恐怖に飲み込まれそうになる心を、誰かがそっと支えてくれている。
暗闇は少しずつ薄れていく。
牢屋もない。
怒鳴り声も聞こえない。
代わりに浮かんだのは、ヴィルの笑顔だった。
『大丈夫。』
『私がいるから。』
その声が胸に響く。
自然と身体の力が抜けていく。
(怖くない。)
(もう、一人じゃない。)
アイナは穏やかな眠りへと落ちていった。
◇ ◇ ◇
小鳥のさえずりが聞こえる。
朝日が部屋を優しく照らしていた。
「……ん。」
アイナはゆっくりと目を開ける。
天井が見える。
宿の部屋だ。
「朝……。」
ゆっくり身体を起こそうとして気付く。
右手がまだ温かい。
隣を見ると、ヴィルは気持ちよさそうに眠っていた。
二人の手は、昨夜のまま繋がれている。
アイナはその手を見つめ、小さく微笑んだ。
(夢を見なかった。)
正確には覚えていない。
少なくとも、あの恐ろしい夢ではなかった。
目覚めた時に涙もない。
息苦しさもない。
胸を締め付ける恐怖もなかった。
それがどれほど久しぶりの朝なのか、自分でも分からなかった。
「ありがとう……。」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
その声に反応したように、眠っているヴィルが少しだけ手を握り返した。
寝ぼけているだけなのだろう。
それでもアイナは思わず笑ってしまう。
もう、あの頃の自分とは違う。
隣には、どんな時でも手を差し伸べてくれる大切な仲間がいる。
その温もりは、アイナの心に残る深い傷を少しずつ癒やし始めていた。
アイナの過去はもう少し先で書こうと思ってます。




