第十六話 温もりの夜
夕暮れの街。
依頼を終えたヴィルとアイナは、いつものように食堂へ向かっていた。
街には温かな灯りがともり、人々の笑い声が聞こえてくる。
いつもと変わらない景色。
それなのに、アイナの心だけは落ち着かなかった。
昼間、アッシュから聞いた言葉が頭から離れない。
――最近、この辺りで怪しい人物が目撃されている。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にしまい込んでいた記憶が一気によみがえった。
暗い牢。
冷たい鎖。
聞きたくもない笑い声。
逃げようとしても逃げられない毎日。
食堂へ向かう道でも、アイナはどこか落ち着かず、何度も後ろを振り返ってしまう。
「アイナ?」
ヴィルが優しく声をかける。
「……大丈夫?」
「う、うん。」
そう答えながらも、その声には力がなかった。
ヴィルは無理に理由を聞かなかった。
代わりに歩幅を少しだけ合わせる。
隣に並んで歩くだけでいい。
それだけでも、アイナの表情は少しずつ和らいでいった。
夕食を食べ終え、宿へ戻る道。
しばらく沈黙が続いたあと、アイナが小さく口を開いた。
「ヴィル。」
「ん?」
少しだけ言いにくそうに俯く。
指先をぎゅっと握りしめ、勇気を振り絞るように呟いた。
「……今日は。」
「一緒に、いたい。」
その声は今にも消えてしまいそうなくらい小さかった。
ヴィルは一瞬だけ驚いたが、すぐに優しく笑う。
「もちろん。」
その返事に迷いはなかった。
「本当?」
「うん。」
「アイナが安心できるなら、一緒にいるよ。」
アイナはほっとしたように胸を押さえた。
「……ありがとう。」
ヴィルは少し考える。
「どうせなら、今日だけじゃなくてさ。」
「私の宿から荷物を持ってきて、アイナの宿に移ろうか。」
「え?」
「二人部屋があれば、一緒に泊まれるでしょ?」
アイナは目を丸くした。
そこまで考えてくれるとは思っていなかった。
「……いいの?」
「もちろん!」
ヴィルはいつもの笑顔を見せる。
「行こう!」
◇ ◇ ◇
ヴィルは自分の宿へ戻り、荷物をまとめる。
自分の宿は引き払い、アイナの宿へ向かった。
宿のおかみは、二人を見ると優しく微笑んだ。
「あら、今日は一緒なの?」
ヴィルが事情を説明すると、おかみはすぐに頷く。
「ちょうど二人部屋が空いてるよ。」
「使いな。」
「ありがとうございます!」
部屋へ案内されると、小さいながらも清潔な部屋だった。
ベッドは二つ。
窓からは夜の街が見える。
「今日からここで一緒だね。」
ヴィルが笑う。
アイナも小さく頷いた。
「……うん。」
その返事には、昼間よりずっと安心した色が混じっていた。
夜も更け、二人は眠りにつく。
部屋は静かだった。
聞こえるのは虫の声と、窓を揺らす夜風だけ。
◇ ◇ ◇
――暗い。
何も見えない。
湿った石の床。
鼻をつく嫌な臭い。
鉄格子。
狭い牢屋。
「いや……。」
幼いアイナが膝を抱えて震えている。
外から足音が近付く。
ガチャリ。
扉が開く。
「今日はこいつか。」
男たちの笑い声。
腕を掴まれる。
痛い。
怖い。
助けて。
声にならない。
場面が変わる。
豪華な屋敷。
広い部屋。
そこにいるのは貴族の男。
冷たい目。
床へ倒れたアイナを見下ろしている。
「使えない奴だ。」
振り下ろされる鞭。
「やめて……。」
涙が止まらない。
逃げたい。
誰か。
助けて。
「いやっ!」
眠ったままアイナが苦しそうに声を漏らす。
身体が小刻みに震えていた。
隣のベッドで眠っていたヴィルが、その声で目を覚ます。
「アイナ?」
返事はない。
額には汗が浮かび、苦しそうにうなされている。
ヴィルは静かにベッドから降りる。
そっとアイナの隣へ座った。
何があったのかは詳しく知らない。
でも、過去に辛いことがあったのだけは分かる。
ヴィルは何も言わず、そっとアイナの手を握った。
温かな手。
優しく包み込むように。
「大丈夫。」
小さく呟く。
「私はここにいる。」
その温もりが届いたのか。
アイナの震えが少しずつ収まっていく。
苦しそうだった表情も和らぎ、呼吸も落ち着いていった。
握り返すように、アイナの指先が少しだけ動く。
安心したように眠る姿を見て、ヴィルはほっと息をついた。
「おやすみ。」
そう呟き、自分も再びベッドへ戻る。
部屋には穏やかな静けさが戻っていた。
◇ ◇ ◇
その頃。
街から離れた森の奥。
月明かりも届かない暗闇の中に、数人の男たちが集まっていた。
焚き火の火だけが不気味に揺れている。
「目ぼしい獲物は見つかったか。」
低い声が響く。
「ああ。」
一人の男が地図を広げる。
「この街は警備が甘い時間帯がある。」
「若い女や子どもも多い。」
別の男が笑った。
「久しぶりに大きな稼ぎになりそうだ。」
「狙いは?」
「若い女か子どもだ。」
「売れば高くつく。」
焚き火の炎が男たちの笑みを照らす。
その笑みには、人としての温かさは一切なかった。
「数日以内に動く。」
「失敗は許されん。」
男たちは静かに頷く。
夜の森には、不気味な笑い声だけが響いていた。
誰にも知られることなく、人さらいたちの計画は静かに動き始める。
そしてその魔の手は、少しずつ街へと近づいていた。
穏やかな日常の裏で、確実に忍び寄る闇。
その存在に、ヴィルもアイナも、まだ気付いてはいなかった。




