第9話:アザールのオフサイド・トラップ。
第9話:アザールのオフサイド・トラップ。
日曜日の午後3時15分。
リビングの遮光カーテンの隙間から、細い日差しが床のフローリングに一本の白いラインを描いていた。
僕はワークチェアの背もたれに体を預け、ノートパソコンのキーボードを静かに叩いていた。カタ、カタ、とキースイッチが沈む打鍵音だけが、エアコンのフラップが動くブーという低い駆動音に混ざり合っていく。形状記憶シャツの襟元が、かすかな冷気で小さく揺れた。
庭のほうからは、タン、タタン、と乾いたコンクリートを叩く音が聞こえている。菜々子――アニータが、通販で届いたばかりのフラメンコシューズの馴染み具合を確かめているのだ。彼女の原色のドレスのフリルが擦れるシュッシュという音が、開け放たれた窓から室内へと忍び込み、僕のキーボードの手元をわずかにかすめていく。
僕は一度タイピングを止め、胸ポケットからブレスケアの容器を取り出した。カサリと小さなプラスチックの音が鳴る。二粒を手のひらに出して口に放り込み、奥歯でカリ、カリと静かに噛み砕いた。ミントの鋭い清涼感が喉の奥へ落ちていく。
少し、冷たいものでも買ってこようと思った。
財布とスマホをポケットに入れ、勝手口から外へ出た。ぬるい午後の空気が、シャツの皺を重く湿らせていく。遠くの角のほうから、ルイーズさんのママチャリの鍵束がジャラジャラと鳴る音がかすかに聞こえ、すぐに遠ざかっていった。
住宅街の隅にある、錆びたブランコと一本の大きな銀杏の木があるだけの小さな公園。
そこに、先客がいた。
年齢は二十代前半だろうか。彼はベンチに腰掛け、鮮やかな青いチェルシーのマフラータオルを首にきっちりと巻きつけていた。上下ナイロン製のジャージを着ており、彼がわずかに身をよじるたびに、シャカシャカ、シャカシャカと、乾いた軽い摩擦音端が狭い公園の砂地に響き渡る。
男の足元には、すり減って模様の薄くなったサッカーボールがひとつ、静かに転がっていた。
彼は右手に500ミリリットルの炭酸水のペットボトルを握り、そのキャップを、親指と人差し指の腹でゆっくりと緩めていた。
シュワッ。
かすかなガスが抜ける音が響くと、彼はそれ以上緩めず、すぐにキャップをきゅっと締め直した。
そして一呼吸置き、またゆっくりと緩める。
シュワッ。
ボトルの中の気泡が細かく弾けるスリルを確かめるように、彼は何度もその動作を繰り返していた。ボトルのラベルは、彼の指の汗で少しふやけ、端のほうが小さくめくれ上がっている。
僕が銀杏の木の脇を通り抜けようとした瞬間、男の動きが止まった。
ジャージのナイロンが激しくシャカシャカと鳴り、彼はベンチから勢いよく立ち上がった。
外枠をなぞるように、僕の手前、ちょうど2メートルほどのところで、あえて一歩、不自然に後ろへと足を引いた。
男は僕の顔を見なかった。
僕が履いている、少し泥のついたスニーカーのつま先、そのわずかな角度をじっと見つめていた。
沈黙が流れた。遮断機の警報音が、遠くの街頭からカンカンと微かに反響してくる。
男は、ゆっくりと顔を上げた。彼の目は、僕の目の少し下、シャツの第二ボタンのあたりを凝視している。
「……そこ。完全に、オフサイド、です」
声は、地声の若さを無理に押し殺したような、重く、しかし不条理に区切られたカタコトのトーンだった。
「オフサイド、ですか」
僕は自分の足元を見た。白い石灰のラインなど、どこにも引かれていない。ただの、アスファルトと雑草の境界線だ。
「オフサイド。あなた、ラインの裏、待ちすぎ。フォワードの、悪い癖、です。もっと、全体の、バランス、見ること、必要。ディフェンスラインとの、駆け引き、足りない」
男は、首に巻いたマフラータオルの端をぎゅっと握りしめた。タオルのパイル地が、彼の短い爪に擦れてかすかな音を立てる。
「私は、アザール。ピッチの、すべてを、俯瞰する、司令塔。エセベルギー人、選手、です」
「遠藤です。一応、家ではアヒージョって名乗ってます」
「アヒージョ。知っています。アニータの、夫。アニータ、素晴らしい、プレイヤー。あの、ステップ、あれは、サイドを、完全に、切り裂く、高速の、ドリブル。美しい、パスワークの、始まり、です」
アザールは、炭酸水のボトルをベンチの木目の上に置き、両手を胸の前で広げた。
固定された空間に、綺麗な「フォーメーションの四角」を、人差し指でなぞるように描いてみせた。
「あの、圧倒的な、熱量。私、感動、しました。街の人、みんな、適当に、生きている。配置、バラバラ。でも、アニータ、自分の、ステップ、持っている。だから、私、アザールになりました。フットボールには、ルール、あります。誰もが、ルールに、則って、美しく、動く。ルールあるから、みんな、自由に、走れる。それが、私の、自由論、です」
僕はベンチの端に、静かに腰を下ろした。木製の座面が、きしりと小さな音を立てて僕の体重を受け止める。
アザールもまた、シャカシャカと音を立てて、僕から少し離れた位置に座り直した。彼のジャージからは、微かにスポーツスプレーのメントールの匂いが漂ってくる。
「ルール、ですか」
「ルール。この街、いま、カオス、です」
アザールはペットボトルのキャップをまた少しだけ緩め、シュワッ、と音をさせた。小さな気泡が、ボトルの壁面をせわしなく駆け上がっていく。
「オニール、あれは、ゴール下で、ファウルばかり。力で、押さえつける、古い、ディフェンス。ハンコ、強く、捺す、それだけ。ニキータ、ルール無視して、勝手に、裏に、飛び出す。ハーブティ、飲みながら、個人主義の、暴走。パニーニ、ただの、ボール、持ちすぎ。書類、たくさん、抱えて、挟まれて、パス、出せない。みんな、勝手に、動きすぎる」
彼はカタコトのまま、しかしひどく真面目なトーンで、的確にオフィスや町の人々の振る舞いを並べ立てた。
「だから、司令塔、必要です。私が、美しい、パス回し、組み立てる。誰も、傷つけない、完璧な、調和。ルールを、守れば、世界は、美しく、回る。それが、アザールの、ミッション」
僕はポケットの中でスマホのバイブレーションが一度だけ短く震えるのを感じたが、画面は見なかった。ただ、ブレスケアの容器を指先でそっと押さえた。
「でも、アザールさん。ピッチの外の泥仕合って、ルールが通用しないこともありますよね」
アザールは、ピタッと動きを止めた。
ペットボトルを握る彼の指先が、微かに白くなる。
二人の間に、重い沈黙が流れた。
公園の隅にある自動販売機が、ウー、と低いコンプレッサーの音を響かせ始める。
アザールは、ハッとしたように、自分の左手首のデジタル時計の液晶をチラッと見た。
あたかも、どこからか架空の終了ホイッスルが聞こえたかのように。
「……オニールと、ニキータ。この前、給湯室で、睨み合い、していました」
アザールのカタコトが、少しだけ低く、震えるような地声に近づいた。
「私、間に入って、パス、出そうとしました。ルールに、則って、綺麗に、展開、しようとしました。でも、二人、ルール、無視。私の、言葉、聞こえない。オニール、大声で、叫ぶ。ニキータ、冷たい、目で、水滴、拭き取る。激しい、泥仕合。私、どこに、パス、出していいか、分からなくなった。ピッチの、外、線、ない。……完全に、パニック、です」
彼は視線を自分の足元に落とした。
ナイロンジャージの膝のあたりに、いつの間にかついた小さな泥の汚れがある。
「私、本当は、ルール、ないと、何も、できない。形から、入った、だけ。チェルシー、好き、それだけ。……本当は、リフティング、3回しか、できない、です」
アザールはベンチから立ち上がり、足元のサッカーボールをそっと右足の甲に載せようとした。
一回。二回。
三回目で、ボールは彼のすねに当たり、不格好な音を立てて、近くのサツキの植え込みの中へと転がっていった。カサカサと葉の擦れる音がして、ボールは奥の薄暗がりに収まった。
ジャージのシャカシャカという音が、ひどく寂しく響いた。
僕は静かに立ち上がり、植え込みの奥から、埃のついたボールを拾い上げた。すり減った革の感触が、手のひらにザラザラと伝わってくる。
手についた土を、スラックスの脇で一度だけ軽く払い、ボールをアザールの足元へと優しく転がした。
「3回できれば、十分ですよ」
僕の声は、午後のぬるい風に混ざって、低く響いた。
アザールは、転がってきたボールを足元でぴたりと止めた。その視線は、まだ僕の足元に向けられたままだ。
「僕のアヒージョだって、ただオイルをぬるく沸かせているだけです。そこにフォーメーションも、美しいパス回しもありません。ただ、具材が焦げないように、ぬるい温度を見守っているだけです」
僕はポケットの上からブレスケアの容器をもう一度なぞった。
「オニール部長も、ニキータさんも、完璧なルールの中で動いたいわけじゃないんだと思います。アザールさんが、綺麗なマフラータオルを巻いて、炭酸水の音をさせながら、真面目な顔をしてピッチを俯瞰しようとしてくれている。その、少し不器用な『オフサイド・トラップ』の姿勢そのものに、みんな自分の立ち位置を見つけて、少しだけ安心しているんですよ。白線がなくても、あなたがそこに立っているだけで、そこがピッチになりますから」
アザールはしばらくの間、動かなかった。
風が銀杏の葉をカサカサと揺らし、彼の青いタオルを小さくはためかせた。
やがて、アザールはゆっくりと顔を上げ、僕のネクタイの結び目をまっすぐに見つめた。彼の眉間の強張りが、ふっとほどけていくのが分かった。
「……アヒージョ、やはり、ひどく、ぬるい、オイル、ですね」
「ええ。よく言われます」
アザールは、本当に小さく、クスクスと笑った。それはエセ外国人の設定を忘れた、どこにでもいる、少し不器用な二十代の若者の、静かな笑い声だった。
「私、夜、部屋の電気、すべて、消して、テレビ、ミュートにします」
アザールは炭酸水のボトルを持ち上げ、今度は一気にキャップを開けた。プシュッ、と小気味よい音が響き、冷たい気体が勢いよく抜けていく。
「画面の、中で、緑の、ピッチと、白い、ボール、だけが、静かに、動き回る。あの、映像、眺めるの、一番、好きです。音、ない。誰も、怒っていない。完璧な、ルール、そこだけ、あるから。とても、静か、です」
彼は炭酸水を一口すすると、ボールを小脇に抱え、ジャージをシャカシャカと鳴らしながら、ゆっくりと歩き出した。
「今日の、試合、これで、ノーサイド、です。私、帰って、ハイライト、見ます。アヒージョさん、また、美しい、パス、まわしましょう」
我が家の玄関を開けると、キッチンの換気扇が弱でブーと回る音が聞こえてきた。
居間では、アニータが姿見の前で、原色のストールをなびかせながら、新しいステップを踏んでいた。フローリングを叩くシューズの踵の音が、規則正しく響いている。
「オラ、アヒージョ。外で、美しい『カウンター・アタック』でも受けてきたの? オイルの温度が下がっちゃうわよ」
彼女はフラメンコシューズのつま先をスッと前に出し、カスタネットを片手でカチリ、と鳴らした。フリルの袖が、西日の残光に揺れている。
「うん。隣の公園で、ちょっとオフサイドにかかっちゃって」
僕は形状記憶シャツの袖口を丁寧に折り返し、キッチンの棚にあるオリーブオイルのボトルの液だれを、親指の腹でそっと拭い取った。それから、静かに蓋を閉める。トクトクトク、とボトルの中でオイルが揺れる音がした。
完璧なルールなんて、この街のどこにも引かれていない。
誰もが自分のフォーメーションに迷い、パスの出し先に戸惑いながら、それでも自分のジャージを鳴らして、静かにピッチの上に立ち続けている。
勝手口の格子戸の向こう、隣の平屋の窓から、今度はスパイシーでひどく温かい匂いが風に乗って流れてくるのを感じながら、僕はアニータの差し出す皿を、両手でそっと受け止めた。




