第8話:ハミール、カレー粉を忘れる。
第8話:ハミール、カレー粉を忘れる。
土曜日の午後5時15分。
夕暮れの細い光が、キッチンの勝手口の格子戸からすりガラスを抜けて、床に細長い四角形を描いていた。
僕は形状記憶シャツの胸ポケットからブレスケアの容器を取り出し、手のひらの上で一度だけ弾ませた。カサリとプラスチックが鳴る。二粒を口に放り込み、前歯でカリ、カリと静かに噛み砕いた。清涼感が喉の奥へ落ちていくのと同時に、どこからか、ひどく鋭い匂いが格子戸の隙間を抜けて忍び込んできた。
クミンの、少し油分の混じった尖った匂いだ。
それから、熱いオイルの中で何かが細かく弾ける、パチパチパチ……という規則的な音が聞こえてきた。
居間のほうからは、菜々子――アニータのフラメンコシューズがフローリングを滑る、シュッシュという衣擦れのような音が聞こえている。彼女は姿見の前で、新しく届いた原色のストールを肩に掛ける位置を、何度も確かめているようだった。
僕は勝手口のノブを回し、薄暗い裏庭へ一歩出た。
我が家のブロック塀を挟んだすぐ隣、平屋の古い借家の窓が、網戸のまま大きく開け放たれていた。
匂いの源はそこだった。クミンの強い香りに混ざって、なぜかアタックか何かの、妙に家庭的な衣類用柔軟剤の甘い匂いが、ぬるい夕方の空気に混ざり合って漂ってくる。
窓の向こうのキッチンに、一人の男が立っていた。
年齢は三十代半ばだろうか。首元には、しわくちゃの薄いインド綿のストールを無造作に巻きつけている。彼はステンレスの小鍋を五徳の上に載せ、火加減をじっと見つめていた。
男は小さなスプーンを持ち、銀色の缶から茶色い粉をすくい上げた。その指先は、硬直したように1ミリも震えていなかった。正確に、水平に、粉を鍋の淵へと運んでいく。
ふと、男の手が止まった。
網戸越しに、僕の視線に気づいたようだった。
男はゆっくりと、すり足のまま窓辺へと近づいてきた。
彼の目は、僕の目を見ていなかった。僕の左右の眉間のちょうど真ん中あたりを、皮膚の厚みでも測るかのように、じっと凝視している。
沈黙が流れた。遠くの児童公園で、夕焼け小焼けのサイレンがウーと低く鳴り響き始め、街の空気をゆっくりと侵食していく。
男は、鼻を小さくフンと鳴らした。何かを嗅ぎ分けるような、短い呼吸だった。
「……あなたの、人生には、少し『カルダモン』が、足りない」
声は、驚くほど渋い低音だった。けれどその口調は、たどたどしいカタコトの記号に覆われていた。
「カルダモン、ですか」
僕はポケットの中でブレスケアの容器を指先で触りながら、オリーブオイルの匂いの残る自分の袖口に目を落とした。
「ダ。カルダモン。爽やか、だけど、少し、秘密の、香り。あなたのオイル、少し、優しすぎる。もっと、鋭い、刺激、必要」
男はストールの端を指先で小さくつまみ、衣服の皺を伸ばすように引っ張った。柔軟剤のフローラルな匂いが、クミンの香りを一瞬だけ追い越していく。
「僕は、ハミール。スパイスの、賢者、です。この街の、感情の、配合を、調合する、男」
「ハミールさん。遠藤です。一応、アヒージョって名乗ってます」
「知っています。アニータの、夫。アニータ、とても、強い、スパイス。あれは、チリペッパー。そのまま食べると、口、痛い。でも、オイルに入れる、ちょうどいい」
ハミールはそう言うと、手にしたスプーンの柄で、網戸のアルミ枠をコツと小さく叩いた。
「みんな、アニータの、熱に、あてられました」
ハミールは小鍋の火を消し、網戸を開けて、ブロック塀のすぐ手前まで歩いてきた。
彼が動くたびに、首元のストールからクシャクシャと乾いた繊維の音がする。
「オニール、あれは、タカノツメ。ただ、辛いだけ。古い、規律の、辛さ。ニキータ、あれは、シナモン。甘い、香りの裏に、鋭い、トゲ、ある。二人、そのまま、混ぜると、味、喧嘩する。パニーニ、ただの、小麦粉。挟まれて、味が、薄まる」
彼は淡々と、しかし大真面目なトーンで、カタコトの横文字を並べ立てた。
「だから、私、ハミールになりました。スパイス、何十種類、完璧に、配合する。人間関係、適切な、距離感、グラム単位で、計算、必要です。私が、この街の、メニューを、完成させる」
彼はポケットから、小さなガラスの小瓶を取り出した。中には細かな種子が入っている。ハミールはそれを、耳元でシャカシャカとリズミカルに振ってみせた。僕のブレスケアの音よりも、いくらか重く、湿った音がした。
「計算通りに、いけば、世界は、とても、美味しい、ハラショー、になります」
「ハラショーは、ロシアのエレーナさんのセリフですよ」
僕が言うと、ハミールは一瞬だけ、視線を自分の足元のすり減ったサンダルへと落とした。
二秒の間。
彼は再び僕の眉間を見つめ、渋い低音のまま呟いた。
「……スパイスの、越境、です」
どこかの家で、ガシャコンと重いシャッターが下りる音がした。夕方の風が、僕の形状記憶シャツの襟を小さく揺らしていく。
ハミールはしばらくの間、ブロック塀の向こうで佇んでいたが、やがて、自分のキッチンの鍋のほうへとしおしおと視線を戻した。
彼の背中が、ほんの少しだけ丸くなったように見えた。
彼は小鍋の前に戻り、お玉で中身をすくい上げては、ぽたり、ぽたりと落とした。鍋の中には、黄土色の、どろりとした液体が揺れている。
「……でも、計算、狂いました」
ハミールのカタコトが、少しだけ低く沈んだ。
「狂った、というのは?」
「今日、完璧な、カレー、作る予定、でした。クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン、ガラムマサラ。すべて、完璧の、比率」
彼は手にしたお玉を、鍋の縁に静かに立て掛けた。金属が触れ合うチン、という高い音が、狭い裏庭に寂しく響いた。
「でも、味、しない。ただの、辛くて、苦い、薬草の、オイル。……私、一番、大事なもの、忘れました」
「大事なもの?」
ハミールはストールの中に両手を深く突き刺し、顎を引いた。
「……カレー粉、買い忘れました。あるいは、市販の、ルー」
僕は、自分の胸ポケットのブレスケアを、指先でそっと押さえた。
「スパイス、完璧でも、ベースの、あの、雑な、旨味、ないと、カレーに、ならない。みんなを、ひとつに、まとめる、あの、リーズナブルな、カレー粉の、優しさ。私、ロジックに、こだわりすぎて、それを、スーパーの棚に、置いてきた」
ハミールはお玉の柄を、人差し指でツンと突いた。お玉は小さく揺れて、またチン、と頼りない音を立てた。
「佐藤さんの沈黙、エレーナが守った。でも、私の、この、苦いスープ、誰も、守れない。ただの、失敗、です」
西の空が、完全に紫色の夜のグラデーションに飲み込まれようとしていた。アパートの廊下の電球が、パッと不意に点灯し、ハミールの横顔を白く照らし出す。
彼のストールの皺に、小さなクミンの粒がひとつ、こぼれて引っかかっているのが見えた。
「ハミールさん」
僕はブロック塀に、そっと両手を置いた。コンクリートのザラザラとした冷たい感触が、手のひらに伝わってくる。
「カレー粉がなくても、それはそれで、何か別の煮物にはなるんじゃないでしょうか」
ハミールはハッとしたように目を見開き、ゆっくりと僕のネクタイの結び目のあたりに視線を合わせた。
「煮物、ですか」
「ええ。僕のアヒージョだって、にんにくとオリーブオイルと塩だけです。スパイスの配合なんて、一つも計算していません。ただ弱火で、具材がぬるく泡を立てるのを待っているだけです」
僕はポケットからブレスケアの容器を取り出し、手のひらで転がした。
「オニール部長も、ニキータも、たぶん完璧に調合されたメニューになりたいわけじゃないんだと思います。ハミールさんが、クミンと柔軟剤の匂いをさせながら、スプーンを1ミリも震わせずに真面目な顔をして突っ立っている、その不器用な景色そのものに、みんな少しだけ救われているんですよ」
ハミールはしばらくの間、動かなかった。換気扇のブーという低い駆動音だけが、二人の間に漂うスパイスの香りを、夜の空へと吸い上げていく。
やがて、彼はマフラーの中からゆっくりと手を出し、自分のストールに引っかかっていたクミンの粒を、指先でそっとつまんで鍋の中へと落とした。
「……アヒージョ、やはり、ひどく、ぬるい、オイル、ですね」
「ええ。沸騰させたら、台無しになりますから」
ハミールは眉間の力をふっと抜き、それから、本当に小さく、クスクスと笑った。それはカタコトの設定を忘れた、どこにでもいる少し神経質な日本の男の、静かな笑い声だった。
「わかりました。今日の、私の、スープ。カレーではなく、謎の、スパイシー豚汁、にします。冷蔵庫に、味噌、ありますから」
彼はそう言うと、網戸を静かに閉め、キッチンの奥の冷蔵庫へと歩き出した。インド綿のストールが、彼の動きに合わせてパタパタと微かな音を立てる。
五徳の上で、再び小さな火がカチカチと音を立てて点火されるのが見えた。
我が家の勝手口を開けてキッチンに戻ると、アニータがフライパンの前に立ち、オリーブオイルのボトルを傾けているところだった。
トクトクトク、という滑らかな液体の落ちる音が、換気扇の弱の音に静かに溶けていく。
「オラ、アヒージョ。裏庭で、誰かと『翻訳』でもしていたの? オイルが温まっちゃうわよ」
彼女はフライパンを持ったまま、カスタネットを片手で器用にカチリ、と鳴らした。フリルの袖が、コンロの灯りに揺れている。
「うん。隣のハミールさんが、ちょっとカレー粉を忘れたみたいで」
僕は形状記憶シャツの袖口をひとつだけ丁寧に折り返し、キッチンの棚のオリーブオイルのボトルの液だれを、親指の腹でそっと拭い取ってから、静かに蓋を閉めた。
完璧な答えなんて、今日もどこにも転がっていない。
街は相変わらずカタカナの名前で満たされ、誰もが自分の配合に迷いながら、それでも誰かの隣で、静かに鍋を火にかけている。
勝手口の格子戸の向こう、隣の平屋の窓から、今度はクミンと味噌の、少し妙な、けれどひどく温かい匂いが風に乗って流れてくるのを感じながら、僕はアニータの差し出す皿を、両手でそっと受け止めた。




