第7話:エレーナの、窓辺の翻訳ベランダ。
第7話:エレーナの、窓辺の翻訳ベランダ。
木曜日の午後8時15分。
自宅のベランダに出ると、エアコンの室外機がブーと低い音を立てて、湿った生暖かい空気を足元に吐き出してきた。
僕は形状記憶シャツの胸ポケットからブレスケアの容器を取り出し、指先で小さく振った。シャカシャカとプラスチックの軽い音が鳴る。一粒を口に放り込み、奥歯でカリと噛み砕いた。ミントの鋭い香りが、鼻腔の奥を静かに通り抜けていく。
キッチンのほうからは、菜々子――アニータのフラメンコシューズの踵が床を叩く、トントンという規則正しい音が聞こえていた。時折、カスタネットの紐を指に巻き直す、フリルの衣擦れのような擦れる音が混ざる。
ふと視線を上げると、狭い路地を挟んだ向かい側、古い木造アパートの二階のベランダに目が留まった。
鉄製の錆びた柵の向こうに、人影があった。
季節外れの、厚手のウールコートを着た女性だった。首元には、毛羽立った暗い色のマフラーが何重にも巻きつけられている。彼女は両手をそのマフラーの隙間に深く突き刺したまま、動かずに夜空を見上げていた。
手元には、大きめのマグカップ。白い湯気が細く立ち上り、彼女の顎のラインをかすかに曇らせている。
彼女はマフラーからゆっくりと片手を抜き、コンビニの白い敷き紙がついた肉まんを口に運んだ。一口かじり、それからすぐ後ろにあるアルミサッシの窓ガラスを、人差し指で静かに、縦に一本だけ拭った。
結露が拭い去られ、部屋の中の蛍光灯の光が細く漏れる。その指先がガラスを擦るキュ、という乾いた音が、静かな路地を越えて、僕の耳に届いたような気がした。
次の日の朝、ゴミ集積所で彼女とすれ違った。
金曜日の午前7時45分。カラスが遠くの電柱の上で、短く二回鳴いた。
彼女はやはりあの厚手のウールコートを着て、両手をマフラーのなかに埋めていた。足元だけが、色あせたグレーのスニーカーだった。
僕がネットを持ち上げ、可燃ゴミの袋を結んでいるすぐ横で、彼女は自分の半透明の袋をそっと地面に置いた。カサリと音がして、袋の隙間から、いくつかのど飴の空き袋がのぞいているのが見えた。
「……オラ」
網を被せながら、僕は声をかけた。アニータの夫になってから、この挨拶が半ば習慣のようになってしまっている。
彼女はピタリと動きを止めた。路地の向こう、うっすらと霞む山並みのほうをじっと見つめている。明確な、三秒間の間があった。
それから、ロボットがネジを回すような速度で、ゆっくりと首を傾げて僕を見た。
「……ズドラーストヴィチェ」
声は、ひどくハスキーだった。けれどその響きは、劇の台詞のように記号的で、不自然なほど丁寧に整えられていた。
「私は、エレーナ。シベリアの、冷たい風の、街から、来ました」
彼女はマフラーの中から右手を出し、自分の胸元を指差した。爪は短く切り揃えられており、ネイルの類いは一切塗られていない。
「エレーナ、さん」
「ダ。エレーナ」
彼女はそれだけ言うと、再び両手をマフラーのなかに引っ込め、ポケットの奥でのど飴のビニール袋をクシャクシャと小さく鳴らした。
その日の夜、僕は仕事帰りに再びエレーナと遭遇した。
午後9時すぎ。踊り場の裸電球が、小さな虫を吸い寄せながらチカチカと不規則に瞬いている。
彼女は階段の手すりに背中を預け、例のマグカップを両手で包むように持っていた。指先が少し赤くなっている。器の、一番熱いであろう底に近い部分を、わざとぎゅっと握りしめているようだった。
「アヒージョ、ですね。アニータの、夫の」
エレーナはカタコトのまま、僕の顔を見ずに、僕の形状記憶シャツの二番目のボタンあたりを凝視した。
「ええ。遠藤です。一応、今ではアヒージョってことになってます」
「アニータ、のステップ、見ました。とても、熱い。太陽、みたい。……私、あそこまで、踊れない」
彼女はそう言って、マグカップの縁に薄い唇を当てた。けれど、中身を啜る音は聞こえなかった。
「だから、エレーナに、なりました。ロシアの、哀愁。遠い、雪の、国の、言葉」
「ロシア語、お上手なんですね」
僕が言うと、エレーナは再び踊り場の窓の外、暗い線路のほうをじっと見つめた。また、三秒の間。それから、ハッとしたように僕の目を見た。
「いいえ。ひとつも、喋れない。ズドラーストヴィチェ、と、ハラショー、だけ」
彼女は小さく、喉を鳴らした。ハスキーな声が、夜のコンクリートに低く染み込んでいく。
「私は、ただの、近くの、工場の、事務員。名前は、佐藤。でも、佐藤のままだと、誰も、私の、沈黙を、見てくれない」
どこかの部屋の換気扇から、焼き魚の匂いが風に乗って漂ってきた。遠くの幹線道路を走るトラックの、重い排気音が地響きのように小さく震えている。
「カタコトで、話すと、みんな、ちゃんと、私の言葉を、聞いてくれる。言葉が、詰まっても、外国の人だから、って、待ってくれる。佐藤の時は、言葉に詰まると、ただの、要領の悪い、人間、でした」
彼女はウールコートの袖口を少し伸ばし、マグカップの表面に浮き出た水滴を、人差し指で静かに拭い取った。
「エレーナになれば、寂しいのが、当たり前に、なる。遠い国から、一人で、来たから。一人で、ベランダに、いても、それは、哀愁の、景色に、なる。……ハラショー、です」
彼女の口から出た「ハラショー」という単語だけが、完全に地声の日本語のトーンから分離して、宙に浮いたプラスチックの記号のように響いた。
ズボンのポケットの中で、僕のスマホが短く二回、バイブレーションを震わせた。アニータからのメッセージだろう。けれど、僕は画面を開かなかった。
踊り場の鉄製の手すりに、そっと手のひらを置く。爪を立てると、剥がれかけた塗装の破片が、チリと音を立てて足元に落ちた。
「エレーナさん」
僕は、彼女が握りしめているマグカップの、赤い指先を見つめた。
「僕の妻がアニータになったとき、僕はどうしていいか分からなくて、とりあえずキッチンのオリーブオイルの瓶を眺めました。アヒージョになれば、彼女の激しいステップも、ただの心地よい熱として、オイルの中に閉じ込められる気がしたんです」
エレーナは首を少しだけ傾げ、僕の胸元のブレスケアの容器がかすかに立てる音に、耳を澄ますような仕草をした。
「カタコトの言葉って、相手に届くまでに、少し時間がかかりますよね」
「ダ。時間が、かかる」
「その時間が、たぶん、今のこの町には必要なんです。オニール部長も、ニキータも、みんな自分の本音を正しい日本語に翻訳するのに疲れて、カタカナの名前を名乗っている。エレーナさんがベランダで肉まんを食べながら、言葉を詰まらせているその三秒間を、僕はとても贅沢なものだと思いますよ」
僕はポケットの中で、ブレスケアの容器を一度だけ、カサリと鳴らした。
「佐藤さんの沈黙を、エレーナという名前が、ちゃんと温かく守っている気がします」
エレーナはしばらくの間、動かなかった。電球のチカチカという音が、二人の間に、目に見えないメトロノームのような規則正しいリズムを刻み続けている。
やがて、彼女はマフラーの中に再び両手を深く突き刺し、小さく息を吐いた。白い湯気のような吐息が、彼女の口元からかすかに漏れて、すぐに消えた。
「……アヒージョは、とても、ぬるい、オイル、ですね」
「ええ。急に強火にすると、にんにくが真っ黒に焦げちゃいますから。弱火でじっくり、泡が小さくプツプツ言うくらいが、一番いいんです」
彼女はハッとしたように目を見開き、それから、本当に小さく、クスクスと笑った。それはカタコトのキャラ付けではない、ハスキーな地声のままの、佐藤さんの笑い声だった。
「ハラショー。今夜の、私の、スープ。ボルシチではなく、ミネストローネ、にします。トマト缶、ありますから」
彼女はそう言うと、静かに踵を返し、二階の奥にある自分の部屋のドアへと歩き出した。ウールコートの裾が、彼女のふくらはぎに当たってパタパタと静かな音を立てる。
ポケットの中ののど飴の袋が、クシャクシャと、今度は少しだけ軽やかな音を立てて響いていた。
自分の部屋の玄関を開けると、廊下の奥から、ほのかなニンニクの匂いと、通販で買ったという原色のバラの香水が混ざり合った匂いが漂ってきた。
キッチンでは、アニータがフライパンにオリーブオイルを注いでいるところだった。トクトクトク、という規則正しい液体が落ちる音が、換気扇の弱の駆動音に静かに混ざり合う。
「オラ! 遅かったじゃない、アヒージョ。オイルが待ちくたびれて、冷たくなっちゃうところよ」
彼女はフライパンの前に立ったまま、カスタネットを片手で器用にカチリと鳴らした。
「ごめん。ちょっと翻訳に時間がかかって」
僕は形状記憶シャツの袖をひとつだけ折り返し、キッチンの棚に置かれたオリーブオイルのボトルの液だれを、親指の腹でそっと拭い取ってから、静かに蓋を閉めた。
答えは何一つ出ていない。
町はますますカタカナの名前で溢れ返り、誰もが不器用な設定を背負いながら、それでも壊れずに、誰かの言葉を待っている。
ベランダの窓を少しだけ開けると、向かいのアパートの二階、エレーナの部屋の窓に、オレンジ色の小さな明かりが灯るのが見えた。
まだ煮えない食卓の向こうで、言葉にならない哀愁の残響が、オリーブオイルの底へと静かに、静かに沈殿していくのを感じながら、僕はフライパンの火を、ほんの少しだけ弱めた。




