第6話:ジュクージョの、名前のない焦燥。
第6話:ジュクージョの、名前のない焦燥。
月曜日の午後7時15分。
オフィスのブラインドの隙間から差し込んでいた細い夕日は完全に消え去り、蛍光灯の白い光だけがデスクの上を無機質に照らしている。
カチ、カチ、カチ。
僕がキーボードを叩く音だけが、誰もいなくなった開発室に響いていた。液晶画面の右下、時計の数字が1分進む。胸ポケットのブレスケアの容器が、姿勢を変えるたびにシャカと小さな音を立てた。
スマホのバイブレーションが、デスクの木肌を震わせる。菜々子からだった。
『オラ! 今夜はアホ(にんにく)が足りないから、帰りに買ってきて。グラシアス』
画面を閉じ、長めの呼吸を吐き出す。
アニータになった妻。それに触発され、規律のオニール部長、冷徹なニキータ、板挟みのパニーニ。みんなが新しいカタカナの名前と大真面目なアイデンティティを身にまとい、給湯室や会議室で静かに、けれど確実に世界の輪郭を書き換えていた。
僕は形状記憶シャツの袖をひとつ折り返し、共有サーバーのログアウトボタンを押した。
最寄り駅の近くにあるスーパーは、仕事帰りの買い物客で混み合っていた。
惣菜コーナーの棚には、値引きのシールを貼られたコロッケやパックの寿司が並んでいる。その向こう側、厨房との境目にある曇りガラスの向こうから、ガハハ、と低く乾いた笑い声が聞こえた。
バックヤードの扉が開き、紫色のマフラーを首に巻いた女性が出てきた。ベテランパートの鈴木さんだった。
いや、今の彼女の胸元には、手書きのネームプレートが揺れている。マジックで大きく「ジュクージョ」と書かれていた。
彼女は惣菜のパックを並べ替えながら、すぐ隣のレジで丁寧にお札を数えている若いアルバイトの女の子を、伏し目がちにじっと見つめていた。その手つきは、ハンドクリームを塗り込むときのように、手の甲の皮膚同士をキュッキュと擦り合わせるような、妙に生々しい動きを伴っている。
「こんばんは、鈴木さん。にんにくが見つからなくて…どこにありますか?」
声をかけると、ジュクージョはハッとしたように視線を泳がせ、それからわざと大きな声で笑った。
「あら、アヒージョくん。鈴木じゃないわよ、今の私はジュクージョよ。にんにくなら、そこのネットに入ってるやつが最後ね。ほら、早くカゴに入れちゃいなさい」
彼女はため息をつきながら、エプロンの紐を何度もきつく結び直した。100円ショップで買ったと思われる老眼鏡のチェーンが、胸元でチャキチャキと微かな音を立てる。
「みんな、アニータさんに感化されてさ。カローラだのルイーズだの、オシャレなカタカナの名前を名乗って、急にカッコよくなっちゃって。私のところの若い子たちも噂してるのよ」
ジュクージョは、惣菜のキャベツの千切りパックを必要以上の強さで棚の奥へ押し込んだ。プラスチックの容器がペキリと音を立てる。
「でもね、私にはそんなオシャレな名前を名乗る勇気なんてないのよ。別の国へ行くなんて、パスポートだって切れてるわ。だからね、こう名乗るしかなかったの。ジュクージョってね。生々しくて、身も蓋もない名前。私はここにいるわよって、ただ大声で叫びたいだけの、悲しきモンスターよ」
スーパーの天井のスピーカーから、ロッキーのテーマが繰り返し流れている。買い物カートの車輪が、床の溝を乗り越えるたびにガタゴトと鈍く鳴った。
「アヒージョくんの奥さんはいいわね、情熱的に踊っていれば、みんながついてきてくれるんだから。私なんて、パートが終わったら自転車の鍵をバッグの底から5分も探して、夜中に一人で砂嵐のテレビ見ながら安ワインをグラスにトクトク注ぐだけ。誰かに『あなたが必要だ』なんて、もう何年も言われてないわ」
彼女の声の「じゅ」の響きが、自虐的な言葉の裏で、少女のように少しだけ甘えるようなトーンにズレた。
世界はテーマの背景ではない。彼女の目の前にある値引きシール、エプロンの皺、そして誰かに触れてほしいという生々しい呼吸。それらが、この明るすぎる蛍光灯の下で、静かに波打っていた。
「ジュクージョさん」
僕はカゴに入れたにんにくのネットを指先で小さく転がした。皮の擦れ合うカサカサとした音が、二人の間に落ちる。
「名前なんて、ただの器ですよ。アニータのステップも、ニキータの冷徹さも、みんな自分を守るための鎧みたいなものです」
ジュクージョは動きを止め、老眼鏡越しに僕の顔を覗き込んできた。
「ニキータも、パニーニからお菓子をもらうときは、机の整理が少しだけ遅くなるんです。みんな、カタカナの名前に隠れて、自分の脆さと戦っているだけなんです。だから、ジュクージョさんがそこにそうして立って、自虐混じりにでも自分の名前を叫んでいる姿は、誰よりも生身で、正直だと思いますよ」
僕はにんにくのネットをカゴの隅に整え、彼女のネームプレートに視線を戻した。
「ワインを注ぐ音を知っている人のほうが、僕は信用できます。粘り気のあるオイルみたいに、そういう生々しさが、この町のカオスを底のほうで支えている気がするんです」
ジュクージョはしばらくの間、僕の顔をじっと見つめていた。やがて、ふっと長い呼吸を漏らし、紫色のマフラーを少しだけ緩めた。
「アヒージョくんは、本当に上手いことを言うわね。さすがは、みんなを包むアヒージョね」
「ただのSEですよ。ちょっとにんにくの扱いが上手いだけの」
「いいえ、ジュクージョにはね、そういう優しいオイルがたまに必要なのよ」
彼女はそう言うと、バッグの中からごそごそと5分かけて自転車の鍵を引っ張り出し、ガハハとまた大きく笑った。老眼鏡のチェーンが、今度は少しだけ軽やかにチャキリと鳴った。
自動ドアが開き、外に出ると、夜のひんやりとした空気が首筋を包んだ。
自転車置き場で、ジュクージョが前カゴにバッグを放り込み、ペダルを踏み込んで暗闇へと消えていく。その後ろ姿は、悲しきモンスターなどではなく、ただ一生懸命に自分の夜を生きる一人の人間の背中だった。
家路につく道すがら、遠くの踏切がカンカンカンと規則正しく鳴り響き始める。
我が家の玄関を開けると、キッチンの換気扇の音と共に、オリーブオイルの撥ねるパチパチという音が聞こえてきた。アニータがカスタネットを置き、フライパンを見つめている。
答えは出ない。町はカタカナの名前で溢れ返り、誰もが自分の速度で狂いながら、それでも優しく交差している。
僕はオリーブオイルのボトルの液だれを親指の腹でそっと拭い、静かに蓋を閉めた。まだ煮えない食卓の向こうで、言葉にならない焦燥の残響が、新しい朝を待つように静かに沈殿していくのが分かった。




