第5話:カローラ先輩のアイドリング。
第5話:カローラ先輩のアイドリング。
日曜日の朝、午前5時15分。
薄いグレーの光がカーテンの隙間から滑り込み、寝室の床に細長い四角形を描いていた。
キッチンの換気扇が、弱のモードで「ブー」と低く唸り続けている。冷蔵庫から取り出した低脂肪牛乳の紙パックを開けると、パキリと小さな音がして、冷たい湿気が指先に触れた。
グラスに牛乳を注ぐトクトクという音の向こう側から、外の通りで別の音が聞こえ始めた。
シャッ。シャッ。
竹箒が硬いアスファルトを擦る、規則正しい摩擦音だった。
僕はグラスを置き、勝手口のサンダルを引っ掛けて外に出た。朝の空気はひんやりとしていて、首筋が小さく縮む。
我が家の斜め向かい、立派な松の盆栽が並ぶ平屋の前に、グレーのカーディガンを着た影が見えた。近所に住む、もうすぐ80代半ばになる鈴木さんだった。
いや、彼の足元はいつもと違っていた。使い古された黒いスニーカーではなく、すり減ったビニールサンダルを履いている。彼が足を動かすたびに、「ズザー、ズザー」と、アスファルトを削るような重い音が静かな住宅街に響いていた。
「おはようございます、鈴木さん」
声をかけると、鈴木さんは箒を止め、ゆっくりと腰を伸ばした。彼の耳元に添えられた大きな手には、深いシワと、いくつかの茶色いシミがあった。
「ん?」
彼は目を細め、僕の顔をじっと見つめた。それから、お腹の底から響くような、枯れているけれどもしっかりとした声で言った。
「……鈴木じゃないよ、アヒージョくん。今のわしは、カローラだ。カローラ先輩と呼んでもらおうか」
僕はポケットの中で、ブレスケアのプラスチック容器を人差し指で小さく弾いた。シャカ、と乾いた音がした。
「カローラ、ですか」
「そうだ。1200CCの、レギュラーガソリン仕様だ。頑丈さだけが取り柄の、昭和のセダンさ」
カローラ先輩はそう言って、竹箒の柄を両手でしっかりと握り直した。彼のカーディガンの胸元からは、微かに防虫剤のナフタリンの匂いが漂ってくる。
彼が見つめる先の角から、突然、原色の赤い布地がひるがえった。
菜々子だった。通販で買ったフラメンコシューズが、朝の舗装道路を「カツ、カツ、カツ」と鋭く叩く。彼女は両手にカスタネットを握りしめ、まだ誰もいない交差点の真ん中で、一度だけ激しく身体を捻ってステップを踏んだ。
アニータ。我が家のリビングをスペインの酒場に変えた妻は、朝の5時半であってもその熱量を失っていなかった。
カローラ先輩は、その激しいフリルの動きを、縁側から盆栽を眺めるような細い目で見つめていた。彼の喉が、ゴクリと重く鳴る。
「アニータさんは、いつもいい火花を飛ばしとるね。プラグが新品なんだろう。羨ましい限りだ」
先輩は竹箒をフェンスに立てかけ、足元のズザーという音を響かせながら、自分の門口の郵便受けに向かった。そこから、一冊の木製の板――回覧板を取り出す。
彼はその回覧板の角を、まるで高価な書類を扱うように、親指の腹で何度も慎重に揃えた。それから、僕の方へと両手で差し出してきた。
「次の班はアヒージョくん、あんたのところだ。しっかり車検を通して、回しておいてくれ」
「わかりました」
受け取った回覧板は、朝露のせいで少しだけしっとりと湿っていた。
アニータが町に現れてから、何かが少しずつ変わっていた。オニール部長も、ニキータも、隣のルイーズさんも、みんな自分ではない別の名前を名乗り、それに合わせた大真面目な振る舞いを始めている。その波は、こののどかな通りの主のような老人の足元にまで、静かに打ち寄せていた。
「鈴木さん、じゃなくてカローラ先輩。どうして、その名前なんですか」
先輩は一瞬、自分のサンダルのつま先を見つめた。それからゆっくりと首を振る。
「若い人たちがね、みんな楽しそうにカタカナの名前を呼んで、別の国へ行ってしまうような気がしたんだよ」
近くの工場のサイレンが、遠くでウーと低く鳴り響いた。朝のシフトの交代を告げる音だ。カラスが羽音を立てて、電柱のてっぺんへと飛び去っていく。
「隣の佐藤さんも、トレンチコートを着てルイーズとかいう名前でママチャリを飛ばしとる。みんな、ここじゃない遠い荒野とかいう場所を目指して走っているんだろう。わしはね、ゲートボールと盆栽しかやることがない。朝起きて、新聞を読んで、道路を掃くだけだ。気がつくと、一日中、誰とも口を利かない日もある」
カローラ先輩は、門の脇に置かれたプラスチックのバケツの縁に腰を下ろした。ポリプロピレンが、彼の体重を受けてミシ、と軋む。
「わしだけが、昭和の古い砂利道に取り残されていくような、そんな気がしてね。だから、わしもカタカナの名前を名乗ってみたんだ。カローラなら、みんな知っとるだろう。地味で、安くて、だけど日本中の家族を乗せて、一本の道をトコトコと文句も言わずに走り続けた車だ。わしも、カローラになれば、みんなの走る列の、一番後ろにでもくっついていけるんじゃないかと思ってね」
先輩はそう言って、ズザーとサンダルを引きずり、自分のカーディガンの皺を何度も手で伸ばした。
彼の声は、朝の乾いた空気に吸い込まれて、ひどく小さかった。
誰もいない道路の向こうで、アニータのカスタネットが、パン、と一度だけ高く鳴った。彼女は僕たちの視線に気づかないまま、また別の路地へとステップを踏みながら消えていく。
「でもね、アヒージョくん」
カローラ先輩は、自分の膝のあたりを寂しそうに叩いた。
「今のわしは、チョークを引いても、なかなかエンジンがかからんのだよ。朝、布団から起き上がるだけで、腰のピストンがパチパチと悲鳴をあげる。若い人の輪に入りたくても、スピードが違いすぎて、すぐにバックミラーから消えてしまう。わしはただ、アイドリングの音を響かせて、ここで煙を吐いとるだけの、廃車寸前の機械さ」
近所の家のエアコンの室外機が、ブーンと重い低音を立てて回り始めた。住宅街が、少しずつ覚醒していく。
僕はポケットからブレスケアの容器を取り出し、親指の腹で蓋をカチリと押し開けた。小さな緑色のカプセルが、朝の光を反射してきらりと光る。
「カローラ先輩」
一粒を口に放り込み、静かに噛み砕く。ミントの鋭い風味が、鼻の奥をツンと通り抜けた。
「カローラって、世界で一番売れた車なんですよ」
先輩は、耳元に手を当てたまま、動きを止めた。
「最新のスポーツカーみたいに、時速200キロで走る必要はないんです。アニータのステップも、ルイーズさんのママチャリも、みんな個性的で速いかもしれないけれど、ずっとあの速度で走り続けたら、いつかエンジンが焦げ付いてしまう」
僕は回覧板を脇に抱え、先輩の立つバケツの前に一歩近づいた。
「みんなが迷わずにトコトコ走っていけるのは、カローラ先輩が、毎朝こうして道路を掃除して、一本の綺麗な道をキープしてくれているからですよ。レギュラーガソリンで、どんな朝でも静かにアイドリングしている車がそこにいるだけで、後ろを走る僕たちは、すごく安心できるんです」
カローラ先輩は、じっと僕の目を見つめていた。彼の細い目の奥で、小さな光が静かに揺れているのが見えた。
しばらくの間の後、先輩はふっと長い呼吸を漏らした。それは、古いエンジンの排気ガスのような、温かくて少し不器用な呼吸だった。
「…アヒージョくん、あんたは上手いことを言うね。さすがは、みんなをオイルで包むアヒージョだ」
「ただのSEですよ。ニンニク臭いだけの」
「いや、カローラにはね、たまには良いオイルが必要なんだ。粘り気のある、上質なやつがね」
先輩はゆっくりと立ち上がり、再び竹箒を手に取った。彼のビニールサンダルが、今度は少しだけ軽い音を立ててアスファルトを擦る。
「カローラは、ハイオクガソリンは食わんが、毎朝のアイドリングだけは欠かさんよ。明日も、朝の5時にはエンジンをかける。あんたのところの頑丈な回覧板、楽しみに待っとるからね」
「はい。今日のうちに、隣のルイーズさんに回しておきます」
先輩は小さく満足そうに頷くと、またシャッ、シャッ、と静かに箒を動かし始めた。その背中は、少し丸まっていたけれど、日本の高度経済成長を支えた名車のバンパーのように、どこか頑固で、頼もしかった。
僕は回覧板をしっかりと抱え直し、我が家の玄関へと歩き出した。
キッチンの勝手口を開けると、中からオリーブオイルと、微かなニンニクの香りがふわりと鼻をくすぐった。菜々子がすでに、パエリアの残りの仕込みを始めているのだろう。
世界は、誰もが違うスピードで、違う名前を名乗って走り続けている。
激しいステップを踏むドレスも、ルート66を夢見るトレンチコートも、そして毎朝静かに煙を吐くグレーのカーディガンも。
遠くの踏切が、またカンカンカンと規則正しく鳴り響き始めた。
僕はキッチンの換気扇の音に包まれながら、オリーブオイルのボトルの液だれを親指の腹でそっと拭い、静かに蓋を閉めた。まだ煮えない食卓の向こうで、新しい朝のノイズが、静かに沈殿していくのが分かった。




