第4話:ルイーズはママチャリで世界の果てを見るか。
第4話:ルイーズはママチャリで世界の果てを見るか。
金曜日の午後5時半。夕暮れの気流が、住宅街の細いアスファルトをなぞるように吹き抜けていた。
遠くの踏切が、カンカンカン、と規則正しい警報音を響かせ始める。西の空は、剥がれかけの果物の皮のような、鈍い橙色に染まりつつあった。
キィ、と金属が擦れ合う高い音がして、我が家の隣の生垣の前で一台のママチャリが止まった。
乗っていたのは、隣の家に住む主婦の佐藤さんだった。いや、今日の彼女は、どこか様子が違っていた。
ハンドルを握る両手には、使い古された黒い皮の手袋。そしてその背中には、風をはらんで大きく膨らむベージュのトレンチコートが羽織られている。前カゴからは、特売の10個入り卵パックと、頭を覗かせた長い青ネギが突き出していた。
「オラ、ルイーズ。良い西風ね」
庭の植木鉢にじょうろで水をやっていた菜々子が、ぱっと顔を上げて白い歯を見せた。足元では、通販で買った真っ赤なフラメンコシューズが、コンクリートの上で一度だけ小気味よく乾いた音を立てる。
「ええ、アニータ。今日のルート66は、少し風が強いわ」
佐藤さん――ルイーズは、ママチャリにまたがったまま、遠くの山並みを見つめて静かに呟いた。彼女の声は、いつもの回覧板を回すときのトーンより、半オクターブほど低いソプラノボイスだった。
鍵束に付いている、昔の海外旅行の土産らしき安物の自由の女神キーホルダーが、ハンドルの振動でジャラジャラと情けない音を立てている。
「夕食の買い出し?」
僕が玄関先から声をかけると、ルイーズは一瞬だけ、いつもの「隣の奥さん」の顔に戻って、小さく肩をすくめた。
「ええ、守さん。……じゃなくて、アヒージョ。ちょっと大陸の果てまで、ガソリンを給油しにね。あそこのスーパー、金曜日はレタスが安いから」
彼女はそう言って、ママチャリの重いペダルに足をかけた。
アニータが我が家でステップを踏み始めてから二週間。町のあちこちで、静かな、しかし確実な地殻変動が起きていた。職場のオニール部長やニキータ、パニーニだけではない。こののどかな住宅街の真ん中にも、乾いた砂嵐の匂いが混ざり始めていた。
「じゃあね、アニータ。また荒野のどこかで」
ルイーズはトレンチコートの裾を翻し、再びペダルを漕ぎ出した。立ち漕ぎをする彼女の背中は、まるで大型バイクのハンドルを絞り込んでいるかのように凛としていたが、前カゴの青ネギは激しく左右に揺れていた。
菜々子はそれを、激しいカスタネットの連打で見送った。夕闇に、赤と黒のフリルがパタパタと衣擦れの音を立てる。
「アヒージョ、お腹空いた。パエリアにする? それとも、オイル煮?」
日常のトーンに戻った菜々子が、じょうろを置いて僕を見る。正面から見つめられると、その瞳の奥にある微かな揺れに、胸の奥が少しだけチリとする。僕は彼女から目を逸らし、夕暮れの空を見上げた。
「……パエリアで。エビ多めで」
僕の言葉に、菜々子は一瞬だけ唇を噛み、それからまた、嬉しそうにステップを踏みながら家の中へと消えていった。
翌朝、土曜日の午前10時。
僕は燃えるゴミの袋を両手に下げて、近所の集積所へと向かった。
カラス除けの黄色いネットの前に、先客のトレンチコートが見えた。ルイーズだった。
彼女は、綺麗に分別されたプラスチックゴミの袋をネットの中に押し込み、それから自分のママチャリの横に佇んでいた。
自転車は、少し傾いた状態で止まっていた。スタンドのバネがバカになっているのか、彼女が手を離すたびに、車体が自重で左側にゆっくりと倒れそうになる。
「ルイーズさん」
声をかけると、彼女はハッとしたように振り向いた。手袋を外した剥き出しの手が、慌ててハンドルのグリップを握り直す。
「ああ、アヒージョ」
彼女は短く呼吸を吐き、すり減ったスタンドの根元を、コンバースのスニーカーでカチリと蹴った。しかし、やはり噛み合わせが悪いのか、スタンドは頼りなく震えるだけだった。
「スタンド、調子悪いんですか」
「……この相棒も、もう長いから。ルート66を走りすぎて、フレームが歪んできちゃったみたい」
ルイーズは自虐的に笑おうとしたが、その視線は、ゴミ集積所のブロック塀の隅に生えた小さな雑草に向いていた。
遠くの幹線道路から、大型トラックが通り過ぎる地響きのようなノイズが、地表を伝って響いてくる。
「アニータさんを見てるとね」
ルイーズはぽつりと言った。トレンチコートのポケットの中で、またあの安物のキーホルダーが小さく擦れ合う音がした。
「時々、息が苦しくなるの。あの人は、自分の意志で、自分の足で、ここじゃないどこかのステップを踏んでるでしょう? 私、結婚してからずっと、この半径500メートルの道路しか走ってない気がして」
彼女はハンドルを握る手に力を込めた。指の関節が、白く浮き上がっている。
「朝起きて、お弁当を作って、洗濯物を干して、スーパーのチラシを見て。気がついたら、自分の名前が何だったか、一瞬思い出せなくなる時があるの。だから、ルイーズって名乗って、このコートを着てペダルを漕いでる間だけは、世界の果てに向かってバイクを走らせてる、自由な人間になれる気がしたのよ」
彼女の声は、朝の冷たい空気に溶けて、驚くほど平坦だった。
ルイーズは、前カゴに積まれた空のマイバッグの皺を、何度も何度も手袋の手で撫で伸ばしていた。
「でもね、アヒージョ。夕方のチャイムが鳴ると、どうしてもブレーキをかけちゃうの。今日のハンバーグの挽肉、解凍しなきゃって、頭が勝手に計算を始めるの。私は、ルイーズになりきれない、ただの主婦なのよ」
近所の家のエアコンの室外機が、ブーンと低い音を立てて回り始めた。
僕はポケットからブレスケアの容器を取り出し、親指の腹で蓋を押し開けた。小さなカプセルが擦れ合う音が、彼女の沈黙の合間に挟まる。
「ルイーズ」
僕は一粒を口に放り込み、静かに噛み砕いた。ミントの鋭い苦味が、喉の奥を通り抜けていく。
「ママチャリのスタンドって、少し斜めに体重をかけると、ちゃんとはまるんですよ」
僕は一歩近づき、彼女の自転車のリアキャリアを軽く手で押さえた。そして、歪んだスタンドの可動部を、靴の先でグッと奥に押し込んだ。
ガチャン、と鈍く、しかし確実な金属音がして、自転車はまっすぐに自立した。
「ルート66を走るバイクもさ、ずっと真っ直ぐ走ってるわけじゃないと思うんだ。ガソリンを入れに寄る寂れた給油所とか、夜を明かす安モーテルとか、そういう『途中の場所』があるから、あの映画の旅は続いていくわけで」
ルイーズは、まっすぐに立った自分のママチャリを見つめていた。カゴの中のマイバッグが、朝の光を浴びて白く光っている。
「ルイーズさんが夕方のチャイムでブレーキをかけるのは、そこが、あなたの旅の給油所だからじゃないかな。ハンバーグを作ることも、ネギを買うことも、世界の果てへ行くためのガソリンなんだと思うよ」
「私の、ガソリン……」
「そう。柔らかいサドルと、重い前カゴがないと、ルイーズのママチャリは走れないからね」
ルイーズはしばらくの間、自分の手袋の擦り切れた指先を見つめていた。それからゆっくりと手袋をポケットに仕舞い、両手でハンドルの真ん中をポン、と軽く叩いた。
「……今日、レタスだけじゃなくて、トマトも安いのよね」
彼女は言った。声のトーンは、いつもの、少しお節介で優しい隣の奥さんのものに、ほんの少しだけ戻っていた。
「アヒージョ、今日の夜、トマトもオイルに入れてあげて。きっと美味しくなるから」
「そうするよ。崩れないように、最後に入れる」
ルイーズは小さく微笑み、自立したママチャリに滑らかに跨がると、「お先に」と言って、静かにペダルを踏み込んだ。彼女のトレンチコートの裾が、朝の光の中で一度だけ大きく揺れ、角のタバコ屋の影へと消えていった。
僕は一人、集積所の前に残された。
カラス除けの黄色いネットの隙間から、誰かが捨てた古い雑誌の端が覗いている。
誰もが、自分だけのルート66を探している。菜々子が踏み続けるあの激しいステップも、もしかしたら、この狭い庭を世界の果てに変えるための、彼女なりのアクセルなのかもしれない。
遠くの踏切が、またカンカンカンと鳴り始めた。
僕は空になった両手をポケットに突っ込み、残ったブレスケアの音をシャカシャカと鳴らしながら、ゆっくりと我が家への道を歩き出した。




