第3話:パニーニのサンドイッチの憂鬱。
第3話:パニーニのサンドイッチの憂鬱。
木曜日の午後2時、オフィスを支配しているのは、低気圧のせいだけではない重苦しさだった。
カタカタ、カタカタと、周囲のキーボードの打鍵音がいつもより鋭く響く。エアコンの吹き出し口が時折、カチリと乾いた音を立てて風向きを変えた。
僕の二つ隣のデスクでは、後輩の渡辺くんが、親指でボールペンのノックを何度も繰り返していた。
カチ、カチ、カチ。
規則的なプラスチックの摩擦音が、彼の大きなスーツの袖口から漏れ出ている。デスクの上には、他部署から回されてきたらしい「保留」の赤文字が押された書類が、角を綺麗に揃えられた状態で三つの束になって積まれていた。
「渡辺」
フロアの奥から、ドシン、ドシンと床を鳴らして近づいてくる影があった。
オニール部長だ。仕立ての良いグレーのスーツの背筋は今日も定規で測ったようにまっすぐで、胸ポケットからは加齢臭対策シートの、あのツンとしたシトラスの匂いがかすかに漂っている。
「はい、オニール部長」
渡辺くんはボールペンを握り直した。彼の声は少し上ずっていて、喉の仏が上下に小さく動く。
「Bシステムの要件定義だがね。インサイドが甘い。ルーズボールをそのままにしておくと、全体のディフェンスが崩壊する。先方の担当者に、仕様の再フィックスを要求したまえ。リバウンドを制するんだ」
オニール部長は厚い手のひらで、渡辺くんのデスクの書類の山を上からぐっと押し潰すように触れた。朱肉のフタがちゃんとはまっているかを確認するような、丁寧で重い仕草だった。
その時、通路を挟んだ向かい側の席から、コツ、コツと硬いヒールの音が響いた。
同僚の神崎さん――いや、ニキータが、マイカップを両手で包むように持って立ち上がっていた。彼女の黒いオフィスカジュアルの裾が、エアコンの風に小さく揺れる。
「オニール、それはマフィアの罠よ」
ニキータのトーンは低く、平坦だった。短く切り揃えられた爪が、白いマグカップの表面を小さく叩く。
「先方の担当者はすでに組織の監視下にある。今こちらから仕様変更を仕掛ければ、こちらのコードベースの脆弱性が完全に露呈するわ。私のミッションは、現行のパッチを無傷で本番環境にデプロイすること。これ以上の越境は認められない」
ニキータはオニール部長のネクタイの結び目をまっすぐに見つめ、それから一瞬だけ、窓の外を横切るカラスの影に視線を外した。
部長は喉を「フム」と鳴らし、自分のネクタイに手をやった。二人の視線が、渡辺くんのデスクの真上の空間で激しく交差する。
挟まれた渡辺くんは、生唾を小さく飲み込んだ。彼の大きなスーツのポケットから、ミントタブレットの缶がシャカシャカと情けない音を立てた。
「あの、お二人…」
渡辺くんは立ち上がった。ボールペンを両手で持ち、ちょうど二人の視線の中間地点を泳ぐように見つめる。
「僕は、パニーニです」
フロアの打鍵音が、一瞬だけ止まったような気がした。サーバーラックの冷却ファンが、ゴーという無機質なノイズを立て続けている。
「……パニーニ?」
オニール部長が眉を寄せた。
「はい。僕は挟まれている時が、一番落ち着くんです。オニール部長の硬いパティと、ニキータ先輩の冷たいトマト、その両方の具材をギュッと挟んで、綺麗に焼き目をつけたいんです。僕は社会を円滑にするための、極上のサンドイッチになります」
渡辺くん――パニーニは、困り顔のまま、しかし妙に満足そうなトーンで言い切った。
ニキータは何も言わず、ただ手の中のマグカップを少しだけ強く握り直した。カモミールの香りが、彼のスーツの隙間から漏れる湿布の匂いと混ざり合う。
部長はしばらくパニーニの顔を見つめていたが、やがて「リバウンドの配置を変える」とだけ呟き、小銭入れのジッパーをシャラシャラと鳴らしながら去っていった。ニキータもまた、ヒールをコツコツと響かせて給湯室へと消えた。
僕は自分の画面に目を戻した。爪の先には、まだ微かにニンニクの匂いが残っている。アニータが家でステップを踏み始めてから、世界は少しずつ、違う名前を持ち始めていた。
午後4時半。頭がぼんやりとしてきたので、僕は席を立ってビルの非常階段へ向かった。
重い鉄の扉を押し開けると、コンクリートの冷たい空気が足元から這い上がってきた。
踊り場に、先客がいた。パニーニだった。
彼は階段の段差に腰を下ろし、スマホの画面をじっと見つめていた。画面の青白い光が、彼の少し伸びた前髪を照らしている。
「パニーニくん」
声をかけると、彼はハッとしたように顔を上げ、すぐにスマホをポケットに隠した。ミント缶がまたシャカシャカと鳴った。
「あ、遠藤先輩。……あ、アヒージョ先輩、でしたっけ」
「…あぁ、うん。そう、アヒージョだよ」
僕は彼の隣に腰を下ろした。コンクリートの硬さが、スラックス越しに伝わってくる。
パニーニは膝を抱え、大きなスーツの中に体を丸めるようにした。
「スマホの充電が、もう12%なんです。何にもしてないのに、バックグラウンドのアプリが勝手に電力を食ってて」
彼は呟き、自分の靴のつま先を見つめた。
壁の隙間から、外の道路を走る車の走行音が、こもった音で響いてくる。
「オニール部長も、ニキータ先輩も、急に強くなった気がするんです」
パニーニの声は、フロアの時よりもずっと小さかった。
「アヒージョさんの奥さんがアニータになったって話を聞いた時、僕、ちょっと羨ましかったんです。みんな、自分の外側にちゃんとした硬い殻とか、名前を見つけて、それ通りに動いてる。僕はただ、どっちの意見が正しいか考えて、どっちにも怒られないように書類を右から左に動かしてるだけなのに」
彼はポケットからミントタブレットの缶を取り出し、フタを開けた。白い小さな粒を一つ、指先でつまんで口に放り込む。カリリ、と奥歯で砕く音が静かな階段室に響いた。
「だから僕も、パニーニって名乗れば、挟まれてること自体が僕の仕事になるのかなって。そうすれば、自分の意見がなくても、ここにいていいような気がしたんです」
パニーニの手は、空になった缶のフタを何度も開け閉めしていた。カチ、カチ、という小さな音が、彼の呼吸の合間に挟まる。
彼は自分自身を納得させるように笑おうとしたが、頬の筋肉が少しだけ引き攣っていた。
「でも、本当は」
パニーニは手を止め、缶をぎゅっと握りしめた。
「本当は一度くらい、パンを突き破るくらい大きな具材になって、誰かを困らせてみたいんです。これじゃダメですか、って、まっすぐ言ってみたいんです。僕には、その中身がないんですけど」
鉄の扉の向こうから、誰かが廊下を歩く微かな足音が聞こえた。
僕はポケットからブレスケアの容器を取り出し、手のひらに二粒転がした。緑色のカプセルが、非常灯の緑色の光を反射して、小さく光る。
「アヒージョってさ」
僕はカプセルを口に入れ、喉を鳴らして飲み込んだ。
「ただオイルが沸騰して、中のニンニクとかエビを温めてるだけなんだ。オイル自体には味の主張があんまりなくて、具材の旨味が染み出して初めてアヒージョになる」
パニーニはスマホを取り出し、画面を一度だけ点灯させた。充電は11%になっていた。
「パニーニくんが挟んでるオニール部長もニキータも、たぶん、自分のパンの硬さに少し疲れてるんだと思うよ。だから、パニーニっていう柔らかい場所に、わざわざ具材を乗せにくる」
「僕が、柔らかいからですか」
「そう。挟むものがないと、サンドイッチは成立しないからね」
パニーニはしばらく、自分の手のひらを見つめていた。それからゆっくりと立ち上がり、スーツの皺を両手で軽く叩いて伸ばした。
「……お腹、空きましたね」
彼は言った。声のトーンはいつも通りの、少し頼りない後輩のものに戻っていた。
「今日の晩御飯、パンにしようかな。片面だけトーストしたやつ」
「いいんじゃないかな。具が落ちないように気をつけないとだけど」
パニーニは小さく笑い、「お先に失礼します」と言って、重い鉄の扉を押し開けてフロアへと戻っていった。扉が閉まる間際、オフィスのあのカタカタという打鍵音と、サーバーラックのノイズが波のように押し寄せ、すぐに遮断された。
僕は一人、踊り場に残された。
手すりの冷たい鉄に触れながら、少し長めの呼吸を吐き出す。
誰もが何かになりたがっていて、何かの名前を借りて、自分の柔らかい部分を守ろうとしている。菜々子が家で踏み続けるあの激しいステップも、もしかしたら、僕には見えない何かを必死に挟み込もうとしているパニーニのパンのようなものなのかもしれない。
時計の針は、もうすぐ午後5時を指そうとしていた。
僕は立ち上がり、ズボンのポケットのブレスケアをもう一度確かめてから、ゆっくりとフロアへの扉に手をかけた。




