第2話:ゴール下のオニール、給湯室のニキータ。
第2話:ゴール下のオニール、給湯室のニキータ。
週が明けて月曜日になっても、僕の爪の先からは、かすかにニンニクの匂いが抜けていなかった。キーボードの『F』と『J』のホームポジションを叩くたび、体温で温められたオイルの残香が、液晶モニターの熱に乗ってふっと鼻腔をくすぐる。
午前10時15分。システム開発部のフロアは、いつも通りの静けさのはずだった。サーバーラックの微かな駆動音と、誰かがすするお茶の音。
その静寂を、重い靴音が踏みつぶした。
ドシン、ドシン。
床のOAフロアが、その重量に耐えかねるようにわずかに軋む。振り返らなくてもわかった。尾形部長だ。いや、正確には、今日の彼は少し違っていた。
「遠藤」
背後からかけられた声の低さに、僕は打鍵を止めた。振り返ると、仕立ての良いグレーのスーツに身を包んだ部長が、僕のデスクの脇にそびえ立っていた。50代半ばの、いつもなら少し猫背気味の背筋が、定規で測ったようにまっすぐ伸びている。
「はい、部長」
「オニールだ」
部長は言った。声のアクセントが「昭和のイントネーション」のままであったため、僕は一瞬、新種の事務用品の名前か何かかと思った。部長の手は、小脇に抱えた厚手のバインダーをぎゅっと挟み込んでいる。
「……オニール、ですか」
「我が組織に、ルーズボールは許されない。すべてのインサイドを制圧する。リバウンドを制する者は、プロジェクトを制する」
部長の目は、僕のデスクの端に置かれた、少し斜めになっていたクリアファイルの束をじっと見つめていた。彼は無言のまま、厚い手のひらでその束の角を完璧に揃え、それから喉を「フム」と鳴らして、自分のネクタイの結び目に視線を落とした。
スーツの襟元からは、いつも使っている加齢臭対策シートの、少しツンとするシトラスの匂いが漂ってくる。
「遠藤。お前の家庭に『アニータ』が出現したと聞いた。インサイドの乱れは、組織の決壊を招く。……だが、悪くない」
部長はそう言い残すと、またドシン、ドシンと床を鳴らしながら去っていった。歩くたびに、スラックスのポケットに入っているらしい小銭入れのジッパーが、シャラシャラと小さく音を立てていた。
僕はしばらく、完璧に揃えられたクリアファイルを見つめていた。
エアコンの風が、ファイルの透明な表面をかすかに揺らす。
午後3時。頭を冷やそうと、僕はマグカップを持って給湯室へ向かった。
ドアを開けると、先客がいた。同僚の神崎さんだった。20代後半の、いつもなら「お疲れ様でーす」と朗らかに笑う彼女は、シンクの前に直立していた。
お湯が沸騰する、シューという細い音が給湯室に満ちている。
「神崎さん、お疲れ様」
声をかけると、彼女はゆっくりと首だけをこちらに回した。視線が、僕の喉元のあたりでピタッと固定される。
「ニキータよ」
彼女は言った。トーンが低く、平坦で、どこか遠くの国の冷たい風を思わせた。黒を基調としたオフィスカジュアルの袖口から、短く切り揃えられた、ネイルの塗られていない爪が見える。
「ニキータ」
「この給湯室は、現在マフィアの監視下にある。私のミッションは、このハーブティを完璧な温度で抽出すること」
ニキータは、両手でマグカップを包むように持っていた。彼女のマイカップはいつもピカピカに磨かれている。お湯が静かに注がれ、カモミールの甘い香りが、僕の指先のニンニクの匂いと混ざり合った。
彼女はオニール部長のいるフロアの方角を、一瞬だけ鋭い目で見つめ、それからすぐに窓の外の電線へと視線を外した。
「組織の同調圧力には屈しない。私は孤高の暗殺者だから」
そう呟く彼女の語尾が、ほんの少しだけ小さく震えているのを、僕は聞き逃さなかった。
ニキータは、使い終わったティースプーンをシンクで洗い始めた。水滴を一枚のペーパータオルで、驚くほど丁寧に、完璧に拭き取っていく。その手つきには、彼女がこの会社で何年も培ってきた、几帳面な事務職としての日常がそのまま残っていた。
「僕、アヒージョになったんだ」
僕は自分のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れながら、小さく呟いた。
ニキータの、ペーパーを動かす手が1秒だけ止まった。
「……オイル?」
「そう。グツグツ言ってるだけなんだけどね。アニータが踊るから、焦げないように」
給湯室の換気扇が、油の切れたような音でカタカタと鳴り始める。
ニキータは何も言わず、ただ拭き終わったスプーンを、自分のデスクから持ってきたらしい黒いポーチに静かに収めた。チャックが閉まるジィという音が、妙に重く響いた。
「ターゲットが動くわ」
彼女の目線の先、フロアの向こうで、オニール部長が再びバインダーを抱えて席を立つのが見えた。
ニキータはマグカップを両手で持ったまま、コツ、コツと革靴のヒールを冷たく響かせて、給湯室を出て行った。
僕は一人、残された給湯室で、淹れたてのコーヒーを口に含んだ。
苦みが喉を通り過ぎる。
部長はゴール下を守るためにオニールになり、神崎さんは組織に縛られないためにニキータになった。みんな、菜々子のあの、原色のステップの熱量に、どこかで触発されてしまったのだろう。自分自身の名前を、少しだけ変えてみたくなるくらいに。
ポケットの中で、ブレスケアの容器がシャカシャカと小さな音を立てた。
窓の外では、いつの間にか集まってきた灰色の雲が、夕方の街をゆっくりと覆い隠そうとしていた。




