第1話:オラ、アニータ。僕はグツグツ。
第1話:オラ、アニータ。僕はグツグツ。
我が家のフローリングは、一坪あたりいくらという、ごく一般的な建売住宅のパイン材だ。
その床が、ここ一週間ほど妙に乾いた硬い音を立てている。
トントン、ツタタン。
タン、タタン。
台所のクッションフロアとリビングの境目で、菜々子が爪先を鳴らしていた。
足元には、通販の段ボール箱が転がっている。送り状には「本格フラメンコシューズ・プロ仕様」とスタンプが押されていた。彼女が履いているのは、その黒い革靴だ。かかとにびっしりと打ち込まれた小さな釘が、床に触れるたびに鋭い火花のような音を立てる。
「オラ!」
菜々子が叫んだ。声のトーンが不自然に高い。
そのまま彼女は、両手を頭上に掲げて、弧を描くように手首を回した。手の中で、赤い紐で結ばれた木製のカスタネットが、カチャカチャと乾いた音を立てて身震いする。
僕は食卓の隅で、ノートパソコンのキーボードを叩いていた。
指先がキーに触れる音は、自分でも驚くほど小さい。パタパタというプラスチックの擦れ合いだけが、菜々子のステップの隙間に滑り込んでいく。
「菜々子?」
「アニータよ」
菜々子はステップを踏んだまま、こちらを正面から見据えた。視線がまっすぐすぎて、僕は思わず画面の右下にある時計の数字に目を移した。午後6時42分。エアコンのルーバーがカタカタと小さく鳴って、冷気を下向きに送る。
「アニータ」
「なに、マモール」
「お皿、並べる?」
菜々子は一度だけ激しく床を蹴り、それからピタッと動きを止めた。フリルが何重にも重なった原色のスカートが、彼女の太もものあたりで遅れて揺れる。
彼女は振り返り、ガスコンロの上に置かれた大鍋に向かった。
そこには、サフランで黄色く染まった米と、エビやムール貝が整然と並んでいる。パエリアだ。菜々子はお玉を手に取ると、僕の前に置かれた平皿にそれをよそい始めた。
金属のお玉が磁器の皿に触れる音は、一切しなかった。驚くほど静かに、黄色い米の山が皿の中心に移動していく。
「トレビアン」
菜々子が呟いた。今度は急に声が低く、柔らかい。
僕は胸ポケットに手を入れ、小さなプラスチックの容器を指先で転がした。中に入っているブレスケアの粒が、シャカシャカと軽い音を立てる。
「それ、フランス語じゃないか?」
「アニータは自由なの。細かいことは砂漠の砂に埋めてきたわ」
彼女はフラメンコシューズを履いたまま、器用に椅子を引いて腰掛けた。背筋が信じられないほどピンと伸びている。
僕たちは無言でスプーンを動かした。サフランの香りに混じって、わずかにバラの香水の匂いが漂ってくる。通販でドレスと一緒に買ったのだろう。普段の彼女が使っていた、あのシトラス系の洗剤の匂いは、すっかりスカートの奥に隠れてしまっていた。
翌日の土曜日、僕は近くのスーパーでオリーブオイルの大きめの瓶を買ってきた。
菜々子は相変わらず、リビングでカスタネットの紐を調整している。紐を締め直すたびに、彼女の指先がキュッと擦れる音がした。
僕は台所に立ち、小さめのフライパンを取り出した。
コンロの火を点けると、換気扇が「弱」の音で回り始める。
瓶の蓋を開け、オリーブオイルをたっぷりと注ぐ。ドボドボと重い液体がフライパンの底を浸していくのを見つめながら、僕は小さく息を吐いた。
スライスしたニンニクと、タカノツメを入れる。しばらくすると、オイルの端から小さな気泡が立ち上がり、パチパチと微かな音が鳴り始めた。
「マモール、何を作っているの」
背後で、衣擦れの音がした。フリルが擦れ合う、パタパタという乾いた風のような音。
「アヒージョ」
僕はコンロの火を少しだけ弱めた。ニンニクがオイルの中で踊るように揺れている。
「アヒージョ?」
「そう。妻がアニータになったから、僕はアヒージョになったるよ」
声のトーンをわざと低く、穏やかにしてみた。関西弁のような語尾を使ってみたけれど、リビングのテレビから流れる昼下がりのニュースの音声にかき消されそうなくらい、静かな声だった。
菜々子は僕の背中に視線を注いでいた。振り返らなくても、彼女の視線の強さでわかる。
彼女は何も言わず、ただフラメンコシューズの先で、床を一度だけタン、と鳴らした。それは拒絶でも肯定でもない、ただの境界線の音のようだった。
僕はオリーブオイルの瓶を持ち上げ、親指の腹で注ぎ口の液だれを拭った。指先についた油を、形状記憶シャツの裾でこっそり拭おうとしてやめる。シャツの脇に、アイロンで消しきれなかった細い皺が寄っていた。
「グツグツ言ってるわね」
菜々子が僕の横に並んだ。
彼女の原色のドレスの袖が、僕の少し汚れたエプロンに触れた。
「アヒージョだからね。オイルが熱い間は、ずっとこうしてグツグツ言ってるんだ」
フライパンの中では、エビとマッシュルームがオイルの気泡に包まれて、白く色を変えていく。
世界がどれだけ変わっても、オリーブオイルの撥ねる温度は変わらない。ニンニクの匂いは、容赦なく台所の壁のクロスに染み込んでいく。
「マモール」
「アヒージョだよ、アニータ」
菜々子は一瞬、唇を小さく噛んだ。
それから、窓の外を見た。ベランダには、昨日洗濯したはずの真っ赤なドレスがもう一枚、強い西風に吹かれてパタパタと激しく鳴っていた。まるで、誰かがそこで見えないステップを踏んでいるかのように。
「……そうね。アヒージョ。火傷しそうなくらい、グツグツね」
彼女はそう言うと、またリビングに戻り、床を鳴らし始めた。
トントン、ツタタン。
僕はフライパンを見つめながら、ブレスケアの容器をもう一度ポケットの上から触った。
ニンニクの匂いは、きっと明日になっても消えない。
それでも、オイルは静かに、ただ具材を焦がさないように、ゆっくりと沸き立ち続けていた。




