第10話:アリーナはまだログインしていない。
第10話:アリーナはまだログインしていない。
木曜日の深夜0時。
リビングの照明は消してあった。ソファの前に置かれたローテーブルの上に、ノートパソコンの液晶が青白い長方形の光を落としている。
画面の右下には、未読のメールアイコンが小さく光っていた。僕はそれを無視して、エクセルのセルを一つずつ矢印キーで移動させた。キーボードを叩く音は、カチ、カチ、と静寂のなかに吸い込まれていく。
寝室のほうからは、アニータの寝息が聞こえていた。日中の激しいステップの熱を冷ますような、少し長めの、規則正しい呼吸音だった。
ふと、窓の外から微かな音が聞こえた。
ピコ、ピコピコ。
それは、遠くで鳴る電子音のようでもあり、すぐ耳元を飛ぶ蚊の羽音のようでもあった。僕は手を止め、そっとカーテンの隙間を開けた。
向かいのアパートの一階。
ベランダの薄暗がりの中に、少し大きめのグレーのパーカーを着た人物が座り込んでいた。フードを目深に被り、膝を抱えるようにしてスマートフォンを横向きに構えている。
画面の強い光が、その人物の顔の半分を白く照らし出していた。
二十代前半くらいの若い女性だった。耳からは白い有線イヤホンのコードが垂れ下がり、その漏れ音が、夜の静かな冷気を通してここまで届いているらしかった。
ピコピコ、ピー。
レトロな8bitの戦闘BGM。
彼女の親指が、画面の端を異常な速度でフリックする。タタタタ、という微かな摩擦音が聞こえそうなほどの動きだった。
翌朝、午前8時前。
最寄りのコンビニのレジ横で、僕はホットコーヒーの紙コップを受け取った。
僕の前に並んでいたのは、昨夜のベランダのパーカーを着た女性だった。
リュックサックには、深夜アニメのキャラクターらしき丸い缶バッジが三つ、ジャラジャラと揺れている。
彼女は手提げ袋を受け取る際、店員の指先と自分の指先が触れるのを極端に嫌うように、素早く袋の端だけをつまみ上げた。
店の外に出たところで、彼女のリュックのサイドポケットから小さなものが転がり落ちた。
僕はそれを拾い上げた。透明なプラスチックのケースに入った、ポテトチップスをつまむための小さなトングだった。
「あの、落としましたよ」
声をかけると、パーカーの彼女はビクッと肩を震わせ、振り返った。
彼女と目が合うことはなかった。視線は、僕のネクタイの少し下、胸ポケットのあたりでピタリと固定されている。
明確な、1.5秒の「間」があった。まるで、脳内でテキストウィンドウが表示されるのを待っているかのような。
「……あ、どうも」
声は、感情の起伏をわざと平坦に均したような、合成音声めいたトーンだった。
彼女はトングを受け取ろうと手を伸ばしたが、やはり僕の指には触れないように、端のほうを慎重につまんだ。
「それ、便利ですよね。指が汚れないから」
「……ええ。油分は、デバイスの反応を、著しく低下させますから」
彼女はパーカーのポケットにトングをねじ込み、それから、僕の顔を初めてちらりと見た。
「アヒージョさん、ですね。アニータの」
「ええ。アヒージョです」
「私は、アリーナ。東欧の、プロゲーマー。……という設定です」
彼女はリュックの紐をぎゅっと握り直した。指先が、微かに十字キーを操作する形にピクピクと動いている。
「アニータのステップ、見ました。あれは、完全に現実の『バグ』です。あり得ない熱量。周囲のNPCたちも、次々とスクリプトを書き換えられて、別のキャラクターになり始めている」
アリーナは、コンビニのガラス窓に映る自分の姿を一瞥した。
「だから、私も『アリーナ』をインストールしました。現実という無理ゲーを、完璧なコマンド入力でクリアする、無敵のプレイヤー。感情や、人間関係の摩擦という不条理なバグも、すべて仕様として処理すればいい。そうすれば、ダメージ判定はゼロになります」
彼女のイヤホンから、また微かなピコピコという音が漏れ聞こえた。
僕はポケットからブレスケアの容器を取り出し、親指で弾いた。シャカ、という音が、朝の喧騒のなかに小さく響く。
「でも、コマンド通りに動かないのが、現実の厄介なところじゃないですか?」
「……だから、処理が追いつかない時は、ロードし直すんです。セーブポイントまで」
アリーナは、視線を僕の胸元に戻し、1.5秒の間を置いてから、合成音声のような声で呟いた。
「この状況、完全に『詰み』ですね。でも、アリーナなら、リセットボタンを押せる」
彼女はリュックを揺らし、足早に駅のほうへと歩き出した。缶バッジの重なり合う音が、チャカチャカと冷たく響いていた。
その日の夕方。
僕は早めに退社し、自宅へ向かう路地を歩いていた。
西日が長く伸び、アスファルトの影を濃くしている。
路地の角を曲がった先で、グレーのパーカーのフードを深く被ったアリーナが立ち止まっていた。
彼女の視線の先には、我が家の開け放たれたリビングの窓があった。
タン、タタン。
パンッ。
アニータのフラメンコシューズの音と、鋭いカスタネットの音が、夕暮れの空気に響き渡っていた。
圧倒的な、理屈抜きの熱量。
アリーナはスマホを横向きに構えたまま、完全にフリーズしていた。画面の光が、彼女の青白い頬を照らしている。
彼女の両手の親指は、激しく十字キーのコマンドを叩くように震えていたが、画面には触れていなかった。
「……回避フレームが、見つかりません」
アリーナの口から、微かな声が漏れた。
彼女は一歩後ずさりし、スマホを落としそうになった。両手で慌ててそれを握り直そうとしたが、指先の震えは止まっていない。
僕はアリーナに近づき、声をかけた。
「アリーナさん」
彼女は振り返った。
その顔は、画面の光に照らされていなくても、ひどく青白かった。
「……あの人は、何ですか。バグの、集合体? それとも、フレーム回避不能な、全体攻撃?」
「アニータは、ただ踊っているだけなんだと思うよ」
僕はポケットからブレスケアの容器を取り出し、手のひらの上で転がした。
「論理も、設定も、全部無視して、ただそこにいて、自分の熱を出しているだけ。ゲームのルール自体を、初めから設定していないんだ」
アリーナは、自分のスマホの黒い画面を見つめた。そこには、何も表示されていない。ただ、彼女の震える手と、パーカーの影が映っているだけだった。
「……私、現実をゲームだと思えば、傷つかないと思ってました。アリーナになれば、どんな無理ゲーもクリアできると」
彼女はスマホをポケットにしまい、フードを少しだけ深く被り直した。
「でも、あの圧倒的な熱量を見たら、自分がただの、コントローラーを握って震えているだけの、弱いプレイヤーだって思い知らされました。リセットボタンなんて、どこにもない」
彼女の声は、合成音声ではなく、今にも声が震え出しそうな、生身の二十代の女性の響きを帯びていた。
「アリーナさん」
僕は一歩近づき、彼女のパーカーの袖口に視線を落とした。そこには、小さなほつれがあった。
「僕のアヒージョだって、最初はただの逃げだったんだ。妻のアニータの熱から、自分を守るための、ぬるいオイルの設定。でもね」
僕はブレスケアを一粒、カリと噛み砕いた。
「具材が焦げそうになったら、火を弱める。にんにくの匂いが強すぎたら、換気扇を回す。そうやって、その場その場で、必死に温度を調整してる。セーブデータなんてないからね。コマンドが通用しない不条理なバグだって、そのままオイルの中で煮込んでしまえば、いつか少しは美味しくなるかもしれない」
アリーナは1.5秒の間の後、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の視線が、僕のネクタイではなく、初めて僕の目と合った。
「……アリーナは、まだログインしていないんですね」
「うん。でも、それでいいんじゃないかな。バグだらけの現実で、コントローラーを置いて、たまには指先を汚してポテトチップスを食べるのも、悪くないと思うよ」
アリーナは、しばらく僕の顔を見つめていた。
やがて、彼女はフードを後ろに下げ、イヤホンを片方だけ耳から外した。
「……帰って、少し、部屋の空気を入れ替えます。ピコピコ音が、ちょっと耳障りになってきたので」
彼女は小さく会釈をして、路地の出口へと歩き出した。リュックの缶バッジがチャカチャカと鳴る音は、朝よりも少しだけ軽やかに聞こえた。
夜、自宅のリビングに戻ると、アニータがソファに座り、カスタネットの紐を丁寧に結び直していた。
キッチンの換気扇の弱の音が、静かな部屋に響いている。
「オラ、アヒージョ。今日は、どんなバグに遭遇したの?」
彼女は振り返らずに言った。声のトーンは、夜の空気に溶けるように穏やかだった。
「うん。ちょっと、セーブポイントを探している若者にね」
僕は形状記憶シャツの襟を緩め、キッチンのほうへと歩き出した。オリーブオイルのボトルを手に取り、その重みを確かめる。
世界は、リセットできないからこそ、もがきながら進んでいく。
アニータのステップも、アリーナの震える指先も。
僕はボトルの液だれを親指の腹でそっと拭い、静かに蓋を閉めた。まだ煮えない食卓の向こうで、言葉にならないゲームオーバーの残響が、新しいステージの始まりを告げるように、静かに沈殿していくのを感じていた。




