82話 空飛ぶ伊勢海老
店の外に出ると、厚い雲の切れ目からは日が差していたが、辺りの空気はまだ冷えていて結構肌寒い。
しずくたちが、手を擦り合わせて震えているのとは対照的に、ヴィリオーサは平然とした様子でしきりに周囲の地面を見回していた。
普段からポリュグ山の奥地で暮らしているヴィリオーサは、寒さには強いようだ。
思うに、初めて来店した時に震えていたのは、きっと寒さのせいではなく、人前に出ることに対する恐ろしさのせいだったのだろう。
「りりちゃんは、何するつもりきゅる?」
不思議そうに尋ねるモモに、ヴィリオーサがはにかみながら説明する。
『今から、クリームと、はちみつを用意します』
「きゅる?」
かがんだヴィリオーサが、小声で何かを唱えながら地面に手を当てると、みるみるうちに、クリムの木が生い茂り、すぐ目の前に小さな林が出現した。
「嘘でしょ……」
「どの木も、たくさん実がなってるきゅる!」
「あるじ様は、黄色いのは食べ頃だって言ってたきゅるよ!」
「どれも黄色くなってるきゅる。食べ頃きゅる!」
目の前に現れたクリムの林を見て呆然とするしずくの隣では、早速ポピーたちが収穫しようと大はしゃぎしており、お手伝いゴーレムのごーちゃんたちが店から籠を持ってきて待機している。
「マスター、確かクリムの木って、すごーく珍しい木だって言ってなかったっけ?」
「そのはずなのですが──わさわさと生えていますね……」
「おお……! ヴィリオーサ様が起こす奇跡を、目の前で見ることができるとは!」
「まさか、稀少なクリムの木を、こんなに容易く、あっと言う間に生やしてしまうだなんて! ヴィリオーサ様が〈豊穣の神〉であることは、間違いないですね!」
たった今、その力の一端を目の当たりにした一同が、驚きや興奮から冷めやらずにいる中、当のヴィリオーサはポリュグ山の方向を見ながら、しきりに何かをつぶやいていた。
「りりちゃん、さっきから、誰かとお話ししてるきゅるよ」
「何かを持ってきて欲しいって、お願いしてるきゅる」
「誰かがたくさん来るみたいきゅる!」
シュクレドラゴンたちの会話から、不穏なものを感じ取ったしずくは、青ざめた顔でマスターを見た。
「ねえ、マスター。確か、りりちゃんは、はちみつも用意するって言ってたけど、それってもしかして──」
山のほうから、ブブブブという低くて不気味な音が近づいてくるのは気のせいだろうか。
──どうか、気のせいであって欲しい。
「しずくさん、絶対にぼくから離れないようにしてくださいね」
だが、緊張しているマスターを見るに、残念ながら気のせいではなかったようだ。
空に現れた黒い点を、顔を引きつらせながら凝視していたしずくは、慌てて三匹のシュクレドラゴンと犬人族の二人、そしてごーちゃんたちを呼び寄せた。
「みんな、急いでこっちに来て! マスターと小鳥さんのそばから、絶対に離れないで!」
そうこうしているうちにも、不気味な音はどんどんと大きくなり、とうとう赤い塊のようなものがこちらに近づいて来るのが目視できるようなった。
「死神蜜蜂が、たくさんやって来たきゅる……!」
「あの蜂さんたちが、りりちゃんがお話していた相手きゅるか?!」
「ぶんぶん、すごい音がするきゅる。お耳が痛くなるきゅる~!」
「実際に見ると、物凄い光景だね……。本当に真っ赤になった伊勢海老が飛んでいるみたい……」
ポピー、ネリネ、モモの三匹は、うるさそうに耳を塞いでおり、空飛ぶ伊勢海老を見て半笑いを浮かべるしずくの横では、クアウラとワトルが尻尾を巻いて震えている。
その後、さほど間を置かずに、店の前に次々に降り立った死神蜜蜂たちは、ヴィリオーサに向かって恭しく頭を垂れると、各々が持参したはちみつを差し出した。




