76話 トラウマになりました
長い間、引きこもり生活を送って来た彼女に大きな転機が訪れたのは、今から約千八百年前のこと。
眠りから目覚めて、久しぶりに巣から出たヴィリオーサは、果実での食事を終えた後の腹ごなしで空を飛んでいる時、当時はまだ何もなかったシグベルムの大地に、複数の獣人たちが倒れているのを見つけた。
彼らは、戦乱で住処を追われた犬人族で、ようやくここまで逃げ延びたものの、食料が尽きて餓死する寸前だったのだ。
そんな彼らを気の毒に思い、ヴィリオーサが食べ物を分け与えて救ってやると、犬人族たちは彼女を守護神竜として畏れ崇めるようになった。
そしてどういう理屈なのか、この地で十分な生活基盤が整った暁には、必ず生贄を捧げると言い出した。
ヴィリオーサは困惑した。はっきり言って大迷惑だった。
そんなことをしなくとも、一度命を救ったからには、責任を持って彼らを見守っていくつもりだった。
だが、引きこもり気質の彼女には、そんな自分の意思を彼らに伝える勇気がなかった。
結局、生贄はやめて欲しいと言い出せぬうちに、ポリュグ山のふもとにはりっぱな祭壇が作られてしまい、とうとう生贄の神事の日を迎えてしまった。
その日、大きな鳥に変化して、こっそり神事の様子を見に来た彼女は、派手に飾り付けられた祭壇に、生きた赤子が生贄としてズラリと並べられている、という悪夢のような光景を目に焼き付ける羽目になった。
ちなみに、彼女は今でも時々この時の光景を夢に見て、ひどくうなされるらしい。
やがて、犬人族たちが神事を終えていなくなると、ヴィリオーサはすぐに祭壇に舞い下りて、おくるみに包まれた赤子たちが、獣や飛竜に襲われる前に、自分の住処へと連れて帰った。
そして、植物を生やして作った温かい寝床と、乳に似た果実の汁を与えて、どうにか赤子たちを寝かしつけると、その隙に、暇つぶしで集めていた宝石の山から、高く換金できそうな物を見繕った。
──引きこもりの自分が、犬人族の赤ちゃんを育てることは不可能だ。やはり、この子たちは親元で育ててもらうのが一番だろう。
赤子を見つけた時から、そう心に決めていたヴィリオーサは、おくるみの中に選んだ宝石と自分の鱗を押し込むと、翌日の夜、犬人族たちが寝静まっているうちに、赤子を親元へと返して回った。
赤子を取り戻せた親たちは皆、涙を流しながら歓喜した。そして、彼らは生贄の赤子が全員家に返されたことを知ると、実はヴィリオーサが生贄を望まぬ慈悲深い竜であることを、正しく理解した。
彼らは、守護神竜に深い感謝と祈りを捧げると、すぐに国から出奔することを決意した。もし、赤子が生きていると知れたら、再び生贄に取られることは確実だったからだ。
この時、彼らに国を捨てるという選択肢を与えて後押ししたのは、ヴィリオーサが与えた稀少な宝石と、彼女の体から抜け落ちた鱗だった。
これらの物は、もし換金すれば、家族が何年も不自由なく暮らしていける程に高い価値のあるものだったのだ。
国を出る直前まで、彼らはヴィリオーサをひたすら褒め称え、彼女に感謝と敬意を示すことに専念した。
赤子を守るために真実を明かせないことを申し訳なく思った彼らは、せめてヴィリオーサがシグベルム国民からいたずらに忌避されることがないよう、彼女への好意をわかり易く宣伝してみせたのだ。
──赤子を生贄に取られた者は皆、あの恐ろしい神竜を憎むどころか、感謝して褒めたたえている。ならば、儀式で国の守護を得た我々も、あの神竜を憎み恐れるわけにはいかない。
彼らの思惑通り、国民の間でそんな空気が広まると、ヴィリオーサがむやみに恐れられたり、悪竜呼ばわりされるようなことは、ほとんど起こらなくなった。
彼女が必要以上に恐れられるようになったのは、それから長い時を経て、神官長の座に就いたジャガン・オート──ただ一人、生贄の神事から戻って来た赤子を殺そうとしたシグベルム人──が、『守護神竜ヴィリオーサは生贄を喰らう凶暴な竜だ』と偽りを吹聴して回るようになってからだったそうだ。




