27話 竜に怯える人々
第二章開始です
〈喫茶シルエ〉がある森の、遥か南西に位置するムストルガ大陸の辺境の地には、獣人族に属する犬人族が数多く暮らす、シグベルム共和国という小国がある。
北に目をやれば、竜の生息地として有名なポリュグ山脈を望むことができるこの国は、豊かな自然と温暖な気候に恵まれており、農業や酪農が盛んである。
良質な作物や酪農品がふんだんに使われているシグベルム料理は、世の美食家を唸らせるほどに美味だと評判で、雄大で美しい風景と美食を楽しみたい観光客が、季節を問わず訪れている。
だが、今週に入ってからのシグベルムは、いつもとは全く様子が違っていた。
観光客はおろか、現地人が出歩く姿すら見当たらず、街の中は不気味なほどに静まりかえっている。
それというのも、この国が、百五十年に一度だけ行われる特別な祭を週末に控えていたからだ。
シグベルム国民だけで行われるこの祭では、ある重要な神事が執り行われることになっている。
そのため、祭が行われる期間だけは、外部の者がシグベルムへ立ち入ることは禁じられており、国民はみなできる限り家にこもって過ごすのが習わしとなっている。
「ねえ、お母さん。どうしてお外に出て遊んじゃだめなの?」
街で小さな雑貨店を営む夫婦の一人娘のテナは、ぷくっと頬を膨らませると、かわいらしい声で母親に不満をぶつけた。
「どうしてって、何度も言っているでしょう? お祭りが終わるまでは、なるべくおうちの中にいる決まりになっているの」
「ええー」
「ほら、さやからお豆を出す手が止まっているわよ。お母さんがいつも言っているわよね? ちゃんと言うことを聞かない悪い子は──」
「怖い竜に食べられちゃうんでしょ? でも、そんなのうそ! だって、『今まで山から竜がおりてきたことなんて一度もない』って、お隣のコヨトルお兄ちゃんが言ってたもん!」
すると、それまで仕入れ表に目を通していた父親が、テナのそばにやって来て、小さな耳が生えた頭を優しく撫でた。
「テナ、竜がいるのは本当だよ。このお祭りは、その竜のためのものなんだから」
「そうなの?」
「ああ、そうとも。この国を守ってもらう代わりに、お祭りを開いて竜に贈り物をするんだ」
「おくりもの? それってどんなの? きれいなお花? それとも、美味しいおやつ?」
「それは──」
無邪気に問いかけられた父親が、途端に表情を曇らせて言い淀む。急に黙り込んでしまった父親を、テナが不思議そうに見つめていた、その時──
突然家の外から、身の毛がよだつような恐ろしい咆哮が聞こえてきた。
「お父さん! いま、とってもこわい声が聞こえたよ!」
「まさか──」
顔をこわばらせた父親は、怯えてしがみついてきた娘を強く抱きしめた。
「お父さん、もしかして今のが竜の声? 竜がここに来るの? わたしたち、みんな食べられちゃうの?」
「大丈夫だよ。そうならないように、お祭りを開くんだ。だから、お祭りが終わるまでは、お母さんの言うことをよーく聞いて、いい子にしているんだよ? わかったかい?」
「うん、わかった。テナ、絶対いい子でいる!」
祭が行われるのは四日後だから、こうして家の中で息を潜めて過ごすのも、あともう少しの辛抱だ。
あのおぞましい神事さえ終わってしまえば、恐ろしい竜は山に帰る。そうしたら、またこれから先の百五十年間はシグベルムの安寧が守られるのだ。
幼い頃からずっと、神殿に礼拝に行くたびに聞かされてきた、竜の話や教訓を思い出し、父親は我知らずぶるりと震えた。
──祭が行われる年には、絶対に子をもうけてはならぬ。
今までに幾度となく聞いたその言葉は、古くからこの国で言い伝えられてきた教訓である。
この言葉を軽んじて子をもうけてしまった夫婦たちは、きっと今頃、自分たちの行いを悔やみながら涙を流していることだろう。
(俺だって、もし、じいちゃんから話を聞かされていなかったら、教訓を信じられずに取り返しのつかないことをしていたに違いない……)
テナの父親は、彼の祖父に結婚の報告をしに行った際、前回の神事が行われた年に祖父の妹夫婦が戒めを破って子をもうけてしまった話を聞かされた。
その際、いつもの穏やかさが嘘のように怖い顔をした祖父は、「祭りが行われてからしばらくすると、妹は夫と離縁して国を出た」とだけ語り、思わず気圧されるほどの鋭い眼光でテナの父親を射た。
──神竜様は実在する。だから、戒めを破って神竜様を煩わせてはならぬ。
祖父はそう重々しく告げると、絶対に戒めを破らないことを、テナの父親に約束させたのだった。
今しがた怖ろしい咆哮を聞いた父親は、不意にこの時のことを思い出し、祖父の話は真実だったのだと確信した。
そして、幼い頃から神殿で聞かされてきた竜の話は、決しておとぎ話などではなく、この国の平和と繁栄は、数え切れぬほどの尊い犠牲の上に成り立っているのだと思い知らされ、心の底から恐怖した。
まるで目に見えぬ恐ろしい災いから守るように、愛するわが子を強く抱きしめた父親は、何度も祈りの言葉をつぶやきながら、きつく目を閉じたのだった。
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