26話 【間章】大切なあの子のために
「いってきます!」
「いってらっしゃい! 気を付けてね」
笑顔で出かけて行くしずくに、天音は微笑みながら手を振った。
最愛の姪の後ろ姿がだんだんと遠ざかり、やがて曲がり角の向こうに消えるまで、彼女はずっと目を逸らさずに見つめ続けていた。
(ああ、行ってしまった……。これでもう二度と、あの子には会えないのね……)
これが今生の別れだということを、しずくはまだ知らない。
もし、真実を知った時、彼女は、何も言わずに自分を送り出した天音を責めるだろうか?
彼女の古い知人である、羽を生やした白蛇から、大切な姪のしずくを異世界に迎え入れたいと打診された時、天音が真っ先に問い質したのは、『そちらの世界で、しずくは幸せになれるのか?』という点についてだった。
だが、厳しい顔の彼女に疑問を投げかけられた白蛇は、一切の迷いもなく即答した。
──必ず幸せになれます! しずくさんの残りの人生は、このぼくが全力を尽くして、幸せに満ちたものにするとお約束します!
真っすぐに天音を見て、そう言い切ってみせた。
(彼は、自分の恩人であるあの子のことを、とても大切に思っている)
天音はそのことを良く知っている。だから、その言葉に嘘はないと確信できた。
──あなたもご存じの通り、今現在、しずくさんには、いつの世でも不幸に見舞われ、若くして生涯を終えるという運命が紐づけられています。ですが、ぼくのいる世界に来れば、その残酷な運命から逃れることができるのです!
その主張には、確たる根拠があることも分かっている。
(あの子を手元に引き取った時から、近い将来、彼がこの申し出をしてくることは予想していたというのに──)
だが、共に暮らすうちに、すっかりしずくに情が移り、別れを想像することすら嫌になって、ずるずると決断を先送りにしてしまった。
彼女のとある感傷がきっかけで始めた家族ごっこだったが、両親を事故で失った三歳のしずくを引き取ってからの約十六年間、彼女の叔母として過ごす日々は思いがけず新鮮で、とても満ち足りたものだった。天音がこれほどまでに満ち足りた気持ちを得たのは、今まで生きてきた中で初めてのことだった。
あの白蛇もそのことを良く理解していたからこそ、しずくの命が燃え尽きるぎりぎりまで我慢して、何も言わずにいてくれたのだろう。
(──でも、もう潮時ね)
愛しいしずくが、残り僅かな生を幸せに過ごすためには、白蛇の提案を飲むことが最善策なのだ。
そう。たとえ二度と会えなくなるのだとしても、しずくが不幸と失意の中で生涯を閉じる運命から逃れ、幸せに包まれて命を全うできるのなら、彼に託すべきなのだ。
天音は、砕けたガラスの破片を飲み込むような思いで、覚悟を決めた。
「わかったわ。あなたの提案通り、あの子には新しいバイト先を紹介する体で話をしておきましょう」
「! ありがとうございます!」
「おそらく、あの子はバイトの話を断らないと思うわ。余命宣告を受けたあとも、私の前では平気そうに振る舞っているけれど、実のところは、残された時間も神社と病院の往復だけで終わるのかと、かなり落ち込んでいるみたいだしね」
それに来月には、二人がこの神社で共に過ごし始めた記念日を控えている。しずくが、大好きな叔母に贈り物をするための資金をどう調達するか思い悩んでいることに、天音はちゃんと気付いていた。
そして後日。
果たして彼女が予想した通りに、しずくは喜んでバイトの話を受け入れた。そのことを報告した時、白蛇は文字通り飛び上がって喜んでいた。
だが、天音はそんな彼に、一つだけ条件を出した。
「しずくちゃんには、あなたの正体を明かさないでいてほしいの。もちろん、自然な成り行きで正体がバレた場合は目をつぶるわ。でも、決して自分から進んで正体を明かすような真似はしないと約束してちょうだい」
──あの子の性格だと、白蛇の正体を知ったら、きっと、変に気を遣って残りの人生を素直に楽しめなくなるわ。
そう説明すると、白蛇も納得して、素直に条件を受け入れてくれた。
──これでいいわ。これできっと、あの子はあちらの世界で幸せに過ごしていけるでしょう。
白蛇の元に向かうしずくを見送ってから神社に戻り、ふと喉の渇きを覚えて台所に行くと、朝に洗ったばかりの二人分の食器が、水切りかごの中に伏せられていた。
しずくの使っていた茶碗から、ぽたりと水滴が落ちるのを見た瞬間、天音の心は耐え難い淋しさで染め上げられていた。
おそろいの箸や、色違いのマグカップ、壁に貼られた二人の写真──ここには、至る所に大切な姪との思い出がちりばめられている。
しばらくの間、天音は大切な記憶の一つ一つを思い返すように目を閉じていた。
やがて、ゆっくりと目を開けて、住み慣れた我が家を目に焼き付けるように辺りを見回し、深いため息をつくと、ぱん、と高らかに柏手を打った。
すると次の瞬間、しずくと二人で共に過ごして来た神社は、地上からも人々の記憶からも、跡形もなく消え失せていた。
雑草で覆い尽くされた何もない空き地に一人きりで佇みながら、天音はこの上なく優しい声で、愛しい姪に向けて囁いた。
──しずくちゃん。どうか残りの人生は、自分の望むままに幸せに生きてちょうだいね。
その言葉が終わらないうちに、天音の姿はその場から掻き消えていた。
残されていたのは、真夏に特有の草いきれと、所々でむき出しになっている土の匂いだけで、つい先程まで彼女がいた気配は、もはやどこにも残っていなかった。
次の話から第二章が始まります。




