134話 はじめてカレーと出会った守護神
意味をポピーに聞いたところ、「無窮の深淵」とは、あちらの世界の「地獄」にあたる言葉のようだ。
まあ、そうだろうなあ、としずくが何度もうなずいていると、何故か子供のように顔を輝かせたメーナが、半ば虚脱状態のゼーヴァにしなだれかかった。
「まあ! ゼーヴァ様はそんなに素敵な声をしていらしたのですね! ふふっ、思わず声が出てしまうほどに、わたくしの料理が美味しかっただなんて、手間暇をかけて作った甲斐がありましたわ!」
まだ少し痙攣が残る帝国の守護神は、端正な顔を引きつらせながら、自分に張り付くメーナを見下ろした。
『一体何をどう見たらそう思えるんだ? お前という女は、本当に自分が見たいものしか見ないのだな』
「? それはどういう意味ですの?」
『神殿に居た時分から、お前が俺に食わせる料理は、この世の物とは思えないようなひどい味がした。お前はこんな危険物が、本当に美味いと思っているのか?』
ゼーヴァは心底うんざりした顔で一瞥すると、メーナを乱暴に突き放した。
「ゼーヴァ様?!」
声を上げるメーナを無視して、ふらつきながら隣のテーブルに移動したゼーヴァは、崩れ落ちるように椅子に座ると、しずくに向かって切実に懇願した。
『無窮の深淵にいた記憶を消し去りたい。一刻も早く料理長が作ったものを食わせてくれ!』
「──すぐに温かいものと取り替えるから、少しだけ待っていてね!」
すっかり冷めてしまったカレーを下げ、新しいカレーを用意しに行くしずくの後ろ姿を、呆然としたメーナが目で追っている。
護衛のウルガが動揺して立ち尽くす横では、姉のシェイラが、困った顔でため息をついていた。
カレーに火を入れようと鍋の蓋を開けた途端に、食欲を掻き立てる複雑で濃厚なスパイスの香りが店内に漂い出す。
ゼーヴァは思いっきりその香ばしい匂いを吸い込むと、幸せそうな笑みを浮かべ、うっとりと目を閉じた。
「お待たせ致しました! 〈喫茶シルエ〉特製、バッフェン肉のスパイスカレーです。どうぞ召し上がれ!」
『おお、待ちかねたぞ!』
ゼーヴァは、カッと薄水色の目を見開くと、ほかほかと湯気が立つカレーの香りを確かめた。
『北方には、よく似た色のシチューがあるが、香りは全くの別物だな。香辛料を使った料理は帝国でもよく食べられているが、こんなにも複雑でありながら調和した香りは嗅いだことがない』
興奮と期待で目を爛々と光らせた帝国の守護神は、お手伝いゴーレムのごーちゃんたちがピカピカに磨き上げたスプーンを手に取った。
『さて、一体どんな味なのか……』
ごくりと唾を飲み込んだゼーヴァは、まだ震えが残る手で、カレールウを慎重にすくい上げ──
そして、ゆっくりと口に入れた瞬間に、ピタリと動かなくなった。
「……虎さん? どうしたきゅるか?」
「目を見開いたままで、完全に動かなくなったきゅる」
「何だか、体が細かく震えているきゅるよ?」
シュクレドラゴンたちが心配そうな顔で騒ぎ始めると、メーナが先程までとは別人のように勝ち誇った顔になって笑い出した。
「やっぱり、ゼーヴァ様があなたの料理を気に入っていただなんて、大嘘だったのね! ほら、良く見てごらんなさいよ。あまりの不味さに驚いて、ゼーヴァ様が固まっていらっしゃるわ!」
「……」
何も言い返してこないしずくを、メーナが聞くに堪えない言葉で口汚く罵り始める。
シェイラが諫めても耳を貸そうとしない彼女を見て、メーナを崇拝しているウルガでさえも眉をひそめている。
黙ったままでいるしずくに代わり、怒ったシュクレドラゴンたちが抗議しようと口を開いた時、罵詈雑言を垂れ流すメーナを一喝したのは、カレーを食べて固まっていたはずのゼーヴァだった。
(*゜Д゜*)




