第61話 レン・ノワール
「……レン」
口から落ちた名は、石室の冷えた空気へ吸い込まれた。
レオナはすぐに返事をしなかった。返せば、まだ足場のない青年が声の方へ無理に歩こうとする気がした。
レンは寝台代わりに敷かれた厚布の上で半身を起こし、黒い筋の残る右手を見下ろしている。さっきまで自分を呑もうとしていた影は、いまは薄く皮膚の内側へ沈んでいた。
「……俺の名だと思う」
「思う、でいい」
レオナは低く言った。
「いま無理に全部取り戻して、また沈むくらいならな」
「珍しく優しいな」
「口が回るなら元気だ」
その返しに、レンの目がほんの少し動いた。笑い方までは思い出せない。
ただ、前にも似たように怒られた気がする。その感覚だけが、胸の奥に弱く残った。
フィオナが二人の間へ手を差し入れ、レンの脈を取る。
「名前が戻ったのはいい。でも黒い反応は消えてない。自分で合わせてる分、さっきより静かに見えるだけ」
「つまり?」
「次に白い接続が強く来たら、どうなるか分からないってこと」
レンは石室の奥へ顔を向けた。
銀色の環の中央に浮かぶ白い目は、一度閉じたまま、まだ消えてはいない。
深淵遮断核を外から侵し、王都地下で目覚めた白冠統合体がこちらを覗くための窓になっている。
白い光は脈を弱めていたが、眠ったふりをしているだけにも見えた。
戸口の外で、靴音が止まった。
「入ってもよろしいですか」
ルーファスの声だった。
レオナはすぐに答えない。フィオナが寝台の周囲へ薄い結界を重ね、レンの顔が外から見えにくくなるよう光を落とした。
「用件だけ言え」
「白冠環の破片から、まだ生きている送信経路を拾いました。こちらから切ったはずの回線が、王都地下の区画へつながっています」
ルーファスは石室の入口に留まり、布に包んだ白い破片を床へ置いた。近づく気はないらしい。
「地下の何だ」
「正式図面にない研究区画です。俺の権限では入口までしか追えません。ただ、ヘリオスの解析官なら、裏側へ届く可能性がある」
セツナ。
その名前に、レオナは目を細めた。
「繋げられるのか」
「隊長機は壊しましたが、識別鍵は残っています。俺が使用者であるうちは、回線の扉だけは開ける」
「開けた途端、こちらの場所を渡すことになる」
「もう場所は取られています」
ルーファスの声は苦かった。
「俺たちが来た時点で、あの白い装置は封じ場の座標を得た。隠し続けるより、相手が何を起動したのか知る方が先です」
レンは結界の内側で、白い破片を見た。
「俺を測っていた装置か」
ルーファスの呼吸が一度だけ詰まる。
「……そうです。止めるためだと信じていました」
「信じていたなら、あんたのせいじゃない、とは言えないな」
レオナがレンを見る。強い言い方ではなかった。
ただ、自分の中に残った痛みを、嘘で丸めなかっただけだ。
ルーファスも目を伏せなかった。
「はい。だから確かめます。利用されたから無関係だとは言えません」
レンは少し考え、レオナへ向いた。
「繋いでくれ」
「お前は黙って治療されていろ」
「俺の中を使って作ったものなら、俺も知る」
レオナは不機嫌そうに睨んだが、やがて息を吐いた。
「フィオナ。こいつがまた沈みかけたら、話の途中でも落とせ」
「最初からそのつもり」
◇ ◇ ◇
王都中央治療棟の一室で、セツナは端末の警告音に顔を上げた。
寝台の上では、カイが目を閉じたまま息を整えている。先ほど少し喋っただけで胸の傷が開き、フィオナの代わりに詰めていた治癒師から、当分は声を張るなと叱られたばかりだった。
「何か来た?」
「白冠隊の隊長鍵」
セツナは立ち上がり、端末を机へ固定した。見慣れない経路ではない。
むしろ見覚えがあるのが嫌だった。軍務院の白冠計画に提出した観測様式、その裏に隠された別階層が、鍵を受けた途端に薄く浮き上がってくる。
画面に、ルーファスの声だけが届いた。
『白冠隊隊長、ルーファス・エルフォードです。装置の秘匿記録を送ります。解析官セツナ・クレインで間違いありませんか』
「合ってる。そっちにレオナとフィオナはいる?」
『います。治療対象も、まだ生きています』
治療対象という言葉を選んだことに、セツナは気づいた。彼はまだ、名を聞かされていない。
「送って」
記録が流れ込む。
黒色反応の数値。感情音声への反応。
殺傷判断の移行速度。白冠環から深淵遮断核へ向けた接続経路。
どれも、黒仮面を拘束するための作戦記録ではなかった。
カイが枕から顔を向ける。
「……嫌な顔してますね」
「黙って。いま、怒鳴りそうだから」
セツナの指が速く走る。白冠環の設計記録へ、ルーファスの識別鍵を重ねる。
表に出ていた仕様書が剥がれ、その下から赤い封印印の付いた文書が開いた。
黒色適合者接触試験。
帰還因子抽出。
深淵遮断核掌握。
統合素体への遠隔転送。
最後の欄に、セツナの指が止まった。
白冠統合体。
所在、王城旧地下管制区画。
起動済み。
さらに、その認証記録の末尾に、削り損ねた識別符が残っていた。かつて再生派の制御針から拾ったものと、同じ並びだった。
「……再生派が、白冠計画の中にいる」
通信の向こうで、ルーファスの息が止まる。
『俺たちは、最初からそいつらに装置を運ばされていたんですか』
「少なくとも技術顧問の経路は、再生派とつながってる。そして本体は――王城の下にいる」
カイの目から眠気が消える。
「何が」
「人間を土台にして、ケイオスの破片と白冠の制御系を植えたもの。黒仮面を止める装置じゃない。レンの力と、戻るための因子まで奪って完成するつもりの兵器」
通信越しに、フィオナの息を呑む音が聞こえた。
『その記録を、軍務卿は知っているの?』
「分からない。承認欄は白冠環の対黒仮面運用まで。人体統合と遮断核接続は、技術顧問の認証で別に走ってる」
レオナの声が落ちる。
『なら、そいつを引きずり出せ』
「やる。でも、私一人で開けば改竄扱いにされる。軍務卿と終局戦の生存者を同時に繋ぐ。隠したまま戦う段階は終わった」
カイが、胸を押さえたまま笑う。
「ようやくですか。悪友の秘密、ずいぶん高くつきましたね」
「声を出さない」
「今のは小声です」
セツナは答えず、緊急回線を開いた。
◇ ◇ ◇
王城西棟の会議室で、軍務卿オルディスは端末に浮かんだ記録を無言で読んでいた。
通信板には、各国の治療区画と観測室が繋がっている。
全身の裂傷をまだ包帯の下に残すシオン。寝台から上体だけを起こしたイヴァン。
顔色の薄いミレーヌ。肩を固めたサナと、腹へ厚い固定帯を巻いたボリス。
片腕で観測端末を支えるエリナ。脚を固定したまま長椅子に座るリゼット。
そして、王都中央治療棟の寝台で、息を抑えながら通信を聞くカイ。
誰も万全ではない。
だが終局戦の奥まで進み、黒い騎士の刃が味方へ向いた瞬間を知る者たちだった。
「説明しろ、セツナ・クレイン」
オルディスの声は静かだった。
「白冠環は、軍務院が承認した対黒仮面装備。その部分は事実。でも、その実証試験を利用して、技術顧問が別計画を動かしていた。黒仮面の反応を刺激し、深度を測り、白梢の封印装置へ接続するための計画」
「白梢?」
「黒仮面個体が現在いる場所。そこには、深淵との接続を鎮める旧文明装置がある」
オルディスの目が鋭くなる。
「君は、黒仮面の所在を把握しながら秘匿していたのか」
「していた」
セツナは即答した。
「公表すれば、その人は保護ではなく、白冠計画の材料にされると判断したから」
「その人?」
問いが落ちた。
会議室が静かになる。
セツナは、通信の向こうのレオナを見た。映像はない。
だが、言うなとも、止めろとも声は届かなかった。
セツナが端末へ触れる。
黒い騎士の戦闘反応。
アビス・ルートで消息を絶った一人の兵の座標傷反応。
アベル・ノワールから移行した《ソーラーフレア》の残響。
それらが、一つの線で重なっていく。
「黒い騎士の生体反応は、レン・ノワールの反応と一致する。座標傷の残響も同じ。ソーラーフレアを継承した記録と、アベル・ノワールとの血縁反応も一致した」
カイが目を閉じた。
シオンはただ一言、静かに言う。
「やはりか」
イヴァンが寝台の上で短く息を吐いた。
「小僧、あの面倒なもんまで背負ってやがったのか」
ミレーヌは扇を持てない手を膝に置いたまま、少し寂しそうに笑う。
「秘密にするには、あまりにも派手に助けられすぎましたわね」
サナが眉を吊り上げた。
「ならなおさら、討伐命令なんか取り消しなさいよ。命を張った味方でしょ」
ボリスが低く続ける。
「兵器だろうが何だろうが、あいつがこっち側で踏ん張ったのは事実だ」
エリナは端末へ表示された波形を、左手で拡大した。
「黒仮面の暴走波形と、白冠環の干渉波形は別です。現場で接続が悪化した原因の一部は、白冠側にあります」
リゼットが薄く目を細める。
「守る名目で毒を注いだのなら、趣味の悪さは私以上ですわね」
オルディスの拳が、卓上でゆっくり握られた。
「人体統合は承認していない」
オルディスの声は低かった。
「人を作り替え、黒仮面と同じものを白く塗って飼う計画など、許可した覚えはない」
セツナは端末から目を上げない。
「でも、黒い騎士を制御する装置は承認した。白冠環がなければ、ここまで接続は広がっていない」
オルディスは返さなかった。
机の上で握られた拳が、ゆっくり開く。
「……そうだ」
その声から、先ほどまでの怒りが落ちた。
「私は、あの黒い騎士に鎖を付けたかった。王都を守るためだと考えた。その判断が、奴らに入口を渡した」
短い沈黙のあと、オルディスは立ち上がる。
「責任は後で取る。技術顧問を拘束しろ。旧地下管制区画を封鎖。白冠計画の全記録を凍結する」
一度だけ、ルーファスの通信表示へ目を向けた。
「白冠隊への討伐命令は解除だ。以後、黒い騎士を救出対象として扱う」
会議室の兵が走り出す。
しかし、すぐに別の通信が割り込んだ。
『報告! 旧地下管制区画、隔壁が内側から封鎖されています! 技術顧問の所在確認できず! 地下から不明な白色反応が上昇中!』
セツナの画面へ、白い線が一本、王城地下から北西の山へ伸びた。
白梢の里へ。
《リジェネシス》が、止められる前に動き始めている。
◇ ◇ ◇
封じ場の石室では、ルーファスが長く黙っていた。
薄い結界の向こうにいる青年の顔は、まだはっきり見えない。それでも、聞いた名だけで十分だった。
レン・ノワール。
終局戦の後方支援任務で消息不明となった兵。黒い騎士と同じ戦場で消えた、公式記録の中の人間。
自分が追ってきたのは、管理不能な兵器ではなかった。危うい力を抱えたまま、それでも市民を救い、最後には自分の隊員へ刃を止めかけた一人の青年だった。
「俺は、あなたを捕らえに来た」
ルーファスが言う。
「それが正しいと思っていた。黒い騎士が暴走すれば、人が死ぬ。いまでも、その危険が消えたとは思っていない」
結界の内側で、レンは黙って聞いていた。
「だが、暴走させるために自分たちが使われたのなら、順番が違う。俺がまず止めるべきは、あなたではない」
レオナが腕を組む。
「信用しろと?」
「求めません。俺自身、何を信じていいか分からない。ただ、白冠隊を、これ以上あちらの目にはさせない」
ルーファスは、砕けた白冠環を床に置き、拘束杭剣で一息に貫いた。
白い火花が飛び、破片に残っていた光が消える。
「隊員の装置も、すべて破棄します」
レンが初めて口を開いた。
「それを捨てたら、あんたは力を失う。《ロック・フィールド》も使えない」
「借り物の異能で誰かを壊すくらいなら、俺はAランク剣士のままでいい」
その言葉に、レンは何も返せなかった。
黒仮面を捨てるのではなく、自分で持つと決めたばかりの自分とは、違う選択だ。だが、どちらも同じ場所を見ている気がした。
力に決めさせない。その一点だけは。
石室の奥で、白く侵された深淵遮断核が脈を打つ。
ドン、と地面が揺れた。
白い目が再び開く。
『黒色適合者、識別完了』
『対象名、レン・ノワール』
『帰還因子、回収処理へ移行』
レンの胸が苦しく締まった。
レオナがすぐに手を掴む。
「聞くな。そいつに名前を決めさせるな」
「でも、合ってる」
レンは自分の声を確かめるように言った。
「レン……そこまでは、もう分かる」
「なら、残りも自分で言え」
レオナの手は熱かった。焼けた痕が包帯の下に残り、いま握るだけでも痛いはずなのに、その力は緩まない。
通信石から、カイの掠れた声が届いた。
『名字まで忘れてるとか、本当に世話が焼けるな。お前、俺に自己紹介した時、もう少し真面目な顔してただろ』
「覚えてない」
『じゃあ覚え直せ。レン・ノワール。俺の悪友で、格好つけて一人で消える大馬鹿だ』
「説明がひどいな」
『文句が出るなら上出来だろ』
胸が痛む。
痛いのに、その痛みを捨てたくないと思った。
赤い髪の女。寝台で無理に笑う男。
冷たい声で記録を守り続けた少女。傷を見て兵器ではなく患者として手を伸ばした治癒師。
自分を疑いながらも、白い冠を砕いた男。
まだ記憶は戻りきっていない。
黒い剣を託した誰かの背中も、帰らなかった仲間たちの顔も、父と交わした言葉のすべてさえ、欠けたままだ。
それでも、自分がその名から逃げてはいけないことは分かった。
レオナが真正面からレンを見る。
「お前は誰だ」
短い問いだった。
まだ、すべてがつながったわけではない。
そう思った瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
白く塞がれていた記憶が、一気に流れ込んでくる。仲間たちの声も、黒い剣の重みも、悪友の軽口も、失った痛みも。
だが、何より鮮明に蘇ったのは、黒い光の中へ踏み込んできた赤い髪だった。
両手を焼かれ、血を流し、それでも自分の腕を掴んで離さなかった人。
――レン。戻ってこい。
あの声が、自分を繋いでいた。
名前を失っても胸が痛み続けた理由も、白梢の里で初めて彼女を見た時に目を逸らせなかった理由も、ようやく分かった。
「……レオナさん」
掠れた声が、自然に以前の呼び方へ戻る。
レオナの目が大きく見開かれた。レンは握られている手へ視線を落とす。
包帯の下にある火傷は、自分を止めるためについた傷だった。
申し訳なさと、戻れた安堵で、胸が詰まる。
レオナの目の縁が、わずかに光った。けれど彼女は泣く代わりに、いつもの不機嫌そうな声で繰り返す。
「もう一度聞く。お前は誰だ」
レンは息を整え、しっかりとその目を見返した。
「レン・ノワールです」
今度は迷わなかった。
レオナは唇を噛み、少しだけ顔を歪める。
「……敬語まで戻ったのか」
レンは一瞬、目を瞬いた。
そして、白梢の里で目を覚ましてからの自分の言葉を思い返し、見る間に顔を引きつらせる。
「……すみません。俺、レオナさんに、かなり生意気な口を利いてませんでしたか」
レオナは、泣きそうな目のまま呆れたように息を吐いた。
「今さら気にするところが、そこか」
「いや、でも……四天王相手に、あれはさすがに」
「ため口のままでよかったのに」
冗談めかした声だった。
けれど、その最後がかすかに震えたことで、レンの胸が詰まる。
レオナの手には、自分を止めるために焼けた傷がある。包帯の下に残る痛みも、消えかけた自分を何度も呼び戻した声も、いまはもう分かる。
レンは笑みを消し、まっすぐにレオナを見た。
「……すみません」
「今度は何だ」
「忘れたことも、刃を向けたことも……ずっと、呼ばせたこともです」
レオナの指が、レンの胸元を強く掴んだ。
「本当に遅い」
「はい」
「遅すぎる」
「……はい」
「もう、勝手に消えるな」
黒仮面も、《リジェネシス》も、まだ消えてはいない。
それでも、レンは自分の名を取り戻した。
「もう消えません」
レオナは涙を落とす寸前の目で、睨むようにレンを見る。
「その言葉、忘れるな」
「はい。今度は、覚えています」
石室の奥で、白く侵された深淵遮断核が大きく脈打った。
『黒色適合者、識別完了』
『対象名、レン・ノワール』
『帰還因子、回収処理へ移行』
白い光が石室を満たす。
だが今度は、その光の中でも、レンは自分の名前を手放さなかった。




