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俺だけ【リミットブレイク】―最底辺Fランクが黒仮面で無双するたび壊れていく―  作者: スドタケ


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第60話 人間のまま来い

白い核が目を開いた瞬間、レンの身体から力が抜けた。


膝が石床へ落ちるより先に、レオナが腕を回して抱き留める。右手首に浮かんでいた黒い筋は、いまや腕の内側を這い、胸元へ向かって細く伸びていた。


黒い火が外へ溢れるのではない。白い核に引かれ、身体の奥へ道を作られているように見えた。


「レン!」


呼びかけても、青年の瞳は開いたまま動かない。


石室の奥で、白く侵された深淵遮断核が淡く脈を打つたび、封じ場の銀環が鈍く軋んだ。


その向こう側には、王都地下で目覚めた白冠統合体リジェネシスがいる。封じ場は今や、レンを深淵から戻すための装置ではなく、遠くの怪物が彼へ手を伸ばすための通路へ変えられようとしていた。


フィオナが床へ術式を広げた。


「レオナ、手を離さないで。でも引っ張らないで。身体だけ無理に戻したら、中にいるレンが切れる」


「そんな器用なことを言うな!」


「分かってる! だから声をかけ続けて!」


レオナは歯を噛み、冷たくなり始めた指を握った。


「聞こえるか。戻れ。今度こそ勝手に消えたら、本当に斬るぞ」


返事はない。


だが、握った指先がほんのわずかに震えた。


◇ ◇ ◇


レンは、黒い水の上に立っていた。


水面に映るはずの自分の顔はなかった。代わりに、黒い影がゆっくり集まり、仮面の輪郭を作っている。


その向こうには、白い筋が幾本も垂れていた。根のようでもあり、誰かの指のようでもある。


触れた場所から黒い水が白く濁り、音のない波が広がっていく。


『接続経路、侵入』


頭の奥で、聞き慣れたはずの声が鳴った。


『外部統合個体、干渉開始』


「お前は……黒仮面か」


『応答可能』


声は同じだった。けれど以前より割れている。


言葉の端へ砂嵐が混じり、何かに引き裂かれながら答えているように聞こえた。


「さっきの白いものは何だ」


『識別不能……訂正。白色演算統合体。黒色適合者を……回収対象として認識』


「俺を取る気か」


『黒色戦術系統を回収。自我領域は不要と推定』


不要。


その言葉が、妙にすんなり胸へ落ちた。


ここ数日、何度も感じていたことだった。戦える身体だけあればいい。


敵を壊せる判断だけあればいい。自分が誰を知り、誰を失い、誰の声に痛むのかなど、戦場では余分なのだと。


黒い仮面が水面から浮かび上がる。


『同調を受諾すれば、外部統合個体を排除可能』


「受諾したら、俺はどうなる」


少し、間があった。


『生存率、上昇』


「答えになってない」


『守護対象の生存率、上昇』


レンは拳を握った。


それは、嫌になるほど甘い答えだった。


自分を失っても、誰かを守れるならいい。以前の自分なら、そう考えた気がする。


いや、考えたからこそ、いまここにいるのかもしれない。


遠くで、赤い炎が揺れた。


誰かが自分の名を叫んでいる。


けれど白い筋が水面を叩くたび、声はノイズに呑まれ、遠ざかっていく。


『選択を推奨。力を解放し、対象を排除』


「力を使えば、あの女も守れるのか」


『レオナ・ヴァレンハイト。高位戦力。保護対象として再登録可能』


名前を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。


赤い髪。焼けた手。


怒鳴る声。自分を知らないはずの場所まで追ってきて、何度斬られかけても退かなかった女。


「……保護対象、か」


その呼び方が、どうしようもなく気に入らなかった。


「お前は、あの人のことを知らない」


『記録、保有』


「記録じゃない」


黒い仮面は答えなかった。


白い根がまた一本、水へ刺さる。足元から身体が沈み、レンは膝をついた。


黒い水は冷たいのに、手首の奥だけが焼けるように熱い。


その熱の向こうで、ひとつの声がした。


『……レン』


白い音ではない。


黒い仮面の声でもない。


低く、疲れていて、それでも静かな男の声だった。


レンは顔を上げる。


◇ ◇ ◇


黒い水の向こうに、半身を機械へ埋め込まれた男が立っていた。


片側の顔は青い線に覆われ、左腕は黒い金属へ変わっている。胸の中央には、白金の光が小さく残っていた。


顔を見た覚えはない。


だが、名前だけはすでに聞いている。


「アベル……」


男はわずかに目を細めた。


「ようやく、私をそう呼ぶところまで戻ったか」


「父親だと言われた。まだ、それを思い出したわけじゃない」


「それでいい。血は記憶の代わりにはならない」


声は弱かった。身体の端から黒い水へ溶け、ところどころ白い線に食われている。


目の前にいるのは生きた人間ではない。アベルの意志の残りなのか、黒仮面へ刻まれた記録なのか、それさえ分からなかった。


「黒仮面は、お前が残したのか」


「私だけが作ったものではない。元は、人を戦わせるための器だ。迷わず、恐れず、壊れるまで戦うためのものだった」


アベルは胸の白金の光へ触れる。


「だが、私はあれに一つだけ命令を残した。守れ、と」


「誰を」


「お前を。私が守れなかったものを」


レンは黙った。


水面に、知らないはずの光景が滲む。


幼い手。


白い木の枝。


自分を抱く女性の腕。


そして、背を向けたまま振り返れない男。


すぐに消えた。


「……今の光景も、黒仮面の中に残ってるのか」


「残っている。だが兵器は、守るという言葉を正しく理解しない。危険を消せば守れる。感情を切れば迷わない。最後には、お前自身さえ不要だと判断する」


黒い仮面の声が、低く割り込んだ。


『守護命令、継続中』


「なら、なぜ俺を消そうとする」


『自我領域が戦闘効率を低下。守護達成率に影響』


レンは笑いかけて、笑えなかった。


「本当に、救いようがないな」


『否定。守護を継続』


それは反論というより、必死に残された命令を繰り返しているように聞こえた。


アベルが言う。


「憎む必要はない。あれは、お前を壊そうとして生まれたわけではない。守れという命令を、壊れたまま守っているだけだ」


「だから受け入れろと?」


「違う」


アベルの声が初めて強くなった。


「従うな。捨てるな。お前が持て」


白い水が押し寄せ、男の膝から下が崩れ始める。


レンは一歩踏み出した。


「待て。俺はどうすればいい。あれが俺を取ろうとしてる。黒仮面を使わなければ、レオナたちまで巻き込まれる」


「だからこそだ」


アベルの片目だけが、人間の色を取り戻した。


「人間のまま来い」


その言葉に、胸の奥で何かが痛んだ。


以前にも聞いた。


暗い部屋で目を覚まし、握った黒剣の重さに怯えながら、それでも深淵へ行こうと決めた夜。自分はこの声を聞いていた。


記憶の断片が、少しだけつながる。


「力を使え。だが、力に使われるな」


アベルの輪郭が白い光へ呑まれていく。


「そんな簡単に言うな!」


レンは手を伸ばした。


「俺は、まだ自分が誰かも分からない。あの人がなぜ俺を呼ぶのかも、俺が何を守ろうとしていたのかも、まだ何も――」


「なら、呼ぶ声を聞け」


男の声が、遠くなる。


「お前は一人で人間になる必要はない」


次の瞬間、白い根がアベルの姿を貫いた。


レンは叫んだ。


声にならない。黒い水が大きく波立ち、父の姿は散った白金の光だけを残して消えた。


◇ ◇ ◇


石室で、レンの胸から黒い影が噴き上がった。


レオナは吹き飛ばされそうになりながら、手を離さなかった。焼けた右手の包帯へ黒い熱が噛みつき、布の奥で皮膚が焦げる匂いがする。


「レオナ、離して! そのままだと右手が――」


「うるさい!」


「意地で治療の邪魔をしないで!」


フィオナが結界を重ねるが、白冠統合体リジェネシスから流れ込む光が、石室の床を通って何度も術式を乱した。アリアは長老を壁際へ避難させ、銀の留め具を握ったまま石台へ駆け戻る。


「お母さんの記録が……まだ動いてる!」


石台の上で、消えたはずの記録板が淡く明滅していた。


途切れ途切れに、リリアの声が漏れる。


『レン……帰って……』


白い核がそれを潰す。


『帰還因子、解析』


『黒色適合者、自我領域を切除』


『統合処理、開始』


レオナの目が吊り上がった。


「ふざけるな。誰が渡すか」


彼女はレンの身体を胸元へ引き寄せた。黒い影が腕へ絡み、痛みに一瞬だけ息が止まる。


それでも顔を近づけ、届くように声を叩き込む。


「聞こえているなら答えろ。お前はあんな白いものに持っていかれるために、ここまで生きたのか」


レンの瞼は開かない。


「私を置いて消えるなと言った。カイも起きた。フィオナも、セツナも、お前を道具として渡す気などない。戻ってこい。戻る場所が分からないなら――」


レオナの声が、そこでわずかに震えた。


「私の声を辿れ」


石室の音が、一瞬だけ消えた。


白い核の脈動も、床を走る光も、レンの荒い息も、すべて遠のいたように感じた。


◇ ◇ ◇


黒い水の中で、レオナの声だけが落ちてきた。


戻る場所が分からないなら、私の声を辿れ。


レンは膝まで沈んだ水の中で、顔を上げた。


父の白金の光は消えかけている。白い根はさらに増え、黒い仮面を覆い、同時にレンの身体へも絡みついていた。


『統合を受諾せよ』


白い声が響く。


『感情領域は苦痛を生成する』


『自我領域は判断を遅延させる』


『適合者は、力のみを保持すればよい』


確かに、苦しかった。


名前が分からないまま泣きそうな目で見られることも、誰かを傷つけた感触だけが手に残ることも、自分の中に父と母の知らない想いが流れ込んでくることも。


全部捨てれば、楽になる。


敵を倒し、守るべきものを計算し、壊れるまで戦うだけなら、迷わなくて済む。


黒い仮面が、レンの前に浮かぶ。


『力を解放すれば、レオナ・ヴァレンハイトを保護可能』


「また、それか」


レンは、水の中でゆっくり立ち上がった。


白い根が腕を締める。痛みが走る。


それでも、今度は膝をつかなかった。


「あの人は、俺が守る対象じゃない」


『矛盾。生命保護が必要』


「そうじゃない。あの人は、俺を引っ張ってる。俺が勝手に沈まないように、焼けた手でまだ掴んでる」


黒い仮面の声に、ノイズが混じった。


『理解不能』


「だろうな。俺も、まだ全部は分からない」


水面に、母の影が映る。


名前を呼び続けた女。


その隣に、輪郭だけの父が立つ。


力を使えと言った男。だが、力になれとは言わなかった男。


そして赤い炎の向こうで、怒鳴りながら手を伸ばす女がいる。


「黒仮面」


『応答……可能』


「お前を捨てる気はない」


仮面の輪郭が揺れた。


「お前の中に、父さんが残したものがあるなら。それが壊れた守り方しかできないとしても、俺が持つ」


『自我領域による制御は、非効率』


「知るか」


声が、自然に出た。


少しだけ、以前の自分が言いそうな返しだった気がした。


「守る相手を決めるのも、刃を止めるのも、戻る場所を選ぶのも俺だ。お前じゃない。あの白いやつでもない」


白い根が一斉に締まる。


『統合拒絶を確認』


『黒色系統、回収強制――』


「断る」


レンは仮面へ手を伸ばした。


触れた瞬間、焼けるような痛みが腕を走った。だが離さない。


仮面を被るのではない。砕くのでもない。


自分の手で、掴む。


「俺が使う。人間のまま」


黒い仮面が、音もなく崩れた。


砕けた影は消えず、レンの右腕へ流れ込む。力に身体を渡す感覚ではない。


暴れる黒い火を、胸の奥で押さえ、引き寄せ、こちらへ向かせる。痛みは消えない。


怖さも残る。それでも、初めて自分の意志で立っている感覚があった。


遠くで、レオナの声がする。


レンはその声へ向かって、黒い水を踏み出した。


◇ ◇ ◇


レンの指が、レオナの手を握り返した。


弱い。けれど確かに、自分から握った。


「レン?」


レオナが顔を近づける。


黒い影が、レンの胸元から手首へ引いていく。完全に消えたわけではない。


むしろ腕の奥へ沈み、静かに形を変えただけだった。だが、先ほどのように白い核へ引かれて暴れる様子はない。


フィオナが術式を読み取り、信じられないように呟く。


「黒い反応が……本人の脈に合ってる。押さえ込んだんじゃない。合わせてるの?」


深淵遮断核を侵していた白い光が、初めて大きく乱れた。


遠くで接続している《リジェネシス》が、レンの拒絶に反応したのだ。


『黒色回収、失敗』


『帰還因子、阻害』


『適合者、自律――エラー』


石室の銀環が、バチンと白い光を弾いた。


レオナはレンの身体を支えたまま言う。


「聞こえるか」


ゆっくり、瞼が開く。


目の奥にまだ靄はある。すべてを思い出した顔ではない。


けれど、昨日までの何も知らない目でもなかった。


レンは、レオナを見た。


「……あなたは、ずっとそうしていたのか」


口調はまだ、記憶を失ってからのままだった。以前の距離も戻っていない。


ただ、聞いている相手が誰なのかを知ろうとする目があった。


「何の話だ」


「俺が戻れなくなるたび、声を……」


レオナは視線を逸らさなかった。


「今さら気づくな。遅すぎる」


レンはわずかに笑おうとして、苦しげに息を詰めた。


「そうか。遅いのか」


「遅い。何もかも遅い。だから、これ以上待たせるな」


「……分かった」


返事は小さかった。


フィオナが苛立った声を入れる。


「感動してるところ悪いけど、まだ治ったわけじゃない。白い核も消えてない。立つのは禁止」


「立たないと駄目な気がする」


「患者が一番言ってはいけない台詞」


「すみません」


「謝れば許されると思わないで」


そのやり取りを聞きながら、レンは自分の右手を見る。黒い筋はまだ残っている。


力も、痛みも、消えてはいない。


けれど、あれが自分を使うためにいるのではなく、自分が背負って歩くものだと、今は思えた。


レオナの手が、まだ離れていない。


レンはその手の包帯が焦げ、赤く濡れていることに気づいた。理由までは思い出せない。


ただ、胸が痛む。


「俺は……」


言葉を探す。


名前が必要だった。


母が呼んだ名。父が最後に残した名。


赤い炎の女と、遠くで怒鳴った悪友が、深い場所まで落としてくれた名。


白い核が、もう一度光を増した。


それでも、レンは目を逸らさなかった。


「……レン」


自分の名だけが、ようやく口から戻った。

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