第59話 リリアの封印
封じ場が鳴ったのは、三度目だった。
ゴン、と地の底へ石を落としたような音がして、小屋の壁に吊られていた薬草束がかすかに揺れる。炉の煙が一瞬だけ横へ流れ、寝台で眠っていたレンの喉から苦しげな息が漏れた。
レオナは椅子を蹴るように立ち上がり、黒い筋の浮いた右手を握る。
「レン。聞こえるか」
閉じた瞼が震えた。
「……白い、のが……来る」
「どこからだ」
「分からない。下……深いところから、引っ張られる」
フィオナが胸元へ術式を重ねる。柔らかな白光が触れた途端、黒い筋が手首から肘へ走りかけ、彼女は小さく息を呑んだ。
「鎮まらない。外から何かが接続を押し広げてる」
戸口に立っていた長老が、顔を伏せたまま言った。
「封じ場を開ける」
アリアが振り返る。
「長老、でも、あそこは里の者でも入ってはいけないって」
「入らずに済む時は終わった。白い冠の連中が持ち込んだものが、封じの奥へ届いておる。このままなら、この子は眠っていても呑まれる」
レオナはレンを抱き起こした。青年の身体は熱い。
黒仮面で戦っていた時の焼けるような熱ではなく、身体の芯だけが冷たく燃えているような嫌な熱だった。
「私が連れていく」
「レオナ、その手で支えるのは――」
「離す方が悪い」
フィオナは言い返さず、外套の下から細い包帯を取り出した。レオナの右手に新しい布を重ねる間にも、レンの息は浅くなる。
小屋の外では、白冠隊が武器を下ろしたまま待機していた。砕かれた白冠環を掌に載せ、ルーファスは封じ場の方角を見ている。
レオナがレンを黒い外套で深く包み、外へ出ると、ルーファスが一歩だけ前へ出た。
「その人を、どこへ」
「お前に答える義理はない」
「追うつもりではありません。ですが、砕いたはずの白冠環が、まだあちらへ信号を送っています」
掌の破片が、淡い白光を点滅させていた。まるで、山の奥にある何かへ返事を求めているようだった。
長老の目が険しくなる。
「それを里の中へ持ち込むな」
「分かっています」
ルーファスは破片を布へ包み、地面へ置いた。その動きに迷いはあったが、敵意はなかった。
「俺たちは入口に残ります。王都から次の部隊が来た場合、時間は稼ぐ。ただし、黒い騎士が再び隊員へ刃を向けるなら、俺は止めます」
レオナはレンを支えたまま、男を睨んだ。
「止められるならな」
「止められなかったから、知る必要があるんです。何を相手にしているのか。俺たちが何に使われたのか」
答える代わりに、レオナは踵を返した。
白い木々の奥に、霧で濡れた黒い岩壁が立っている。レンが最初に吐き出された場所。
母の故郷であり、黒い火を鎮めるための傷口でもある場所へ、一行は足を速めた。
◇ ◇ ◇
封じ場の前に組まれた古い木枠は、以前より黒ずんで見えた。
岩壁の亀裂には細い石段があり、長老が杖の先で苔を払うと、その下から淡い文様が浮かぶ。アリアが息を呑んだ。
「道があったの……?」
「守る者にも、忘れさせてきた道だ。リリアが出ていってからは、なおさらな」
長老は胸元から小さな銀の留め具を取り出した。以前、木箱の中に収められていた、リリアの髪留めだった。
それを岩壁の窪みへ差し込む。
カチリ。
軽い音に続いて、重い石が腹の底へ響くように動いた。亀裂の奥から、冷えた空気が流れ出す。
湿った土の匂いに混じって、金属を雨に晒したような匂いがした。
レンがレオナの腕の中で目を開ける。
「……ここを、知ってる」
アリアが顔を寄せる。
「思い出したの?」
「違う。身体が……帰れと言ってる」
レオナは支える腕に力を入れた。
「なら帰れ。途中で余計なものに捕まるな」
「無茶を言う」
「お前に言われたくない」
その応酬に、ほんのわずかだけ以前のレンが混じった気がした。レオナは顔には出さず、岩の内側へ足を踏み入れる。
通路は人一人が通れるほど狭かった。壁には古い配線のような金属筋が埋め込まれ、ところどころで青白く点滅している。
旧文明の施設だと分かる一方で、足元には里人が置いた小さな灯皿や、乾いた花が残っていた。
機械を、祈りで押さえてきた場所。
最奥の部屋へ辿り着くと、中央に丸い石台があった。奥の壁には、黒い割れ目を囲むように銀色の環が埋まっている。
環の前には一枚の薄い板が置かれ、表面を埃が覆っていた。
長老が板を取り、袖で静かに拭う。
「リリアが残したものだ。あの娘は、お前を抱いて戻った夜、これを置いていった。いつか黒い火がお前をここへ連れてくるなら、見せてほしいと」
レンの顔が強張る。
「俺に?」
「レンという名の子へだ」
名を聞いても、今回は倒れなかった。ただ、レオナの肩を借りて立つ指が少しだけ強くなる。
「見たいか」と長老が訊いた。
レンはしばらく板を見ていた。
「母だと言われても、まだ分からない」
「分からないままで見ればいい。記憶は命令して戻すものではない」
レンは、ゆっくり頷いた。
長老が石台の窪みへ銀の留め具を置く。フィオナの術式とは違う、弱い光が板の上へ広がった。
やがて、女の声が流れた。
◇ ◇ ◇
『これを聞く人が、レンであることを願っています』
少し掠れた、静かな声だった。
声を聞いた瞬間、レンの呼吸が止まる。
顔は見えない。薄い板に映るのは、明るい髪を肩で結んだ女の影だけだ。
けれどその手は、何か小さなものを抱くように胸元へ添えられていた。
『あなたがここへ戻ったということは、たぶん、私はそばにいません。先に謝ります。母親らしいことを、きっと十分にはしてあげられなかった』
レンの目が、板から離れない。
『あなたの父、アベル・ノワールは、深い場所へ触れられる人でした。それを力と呼ぶ者もいました。兵器として価値があると言った者もいました。けれど、私が初めて会った時のあの人は、熱に苦しんで眠れない、ひどく不器用な人でした』
黒い壁の割れ目が、低く脈を打つ。
レンの頭の奥へ、見知らぬ光景が落ちてきた。
雪の降る夜。
狭い部屋。
床に座り込み、震える手を隠す男。
その前に座る女が、何も怖がらずに手を重ねている。
知らない記憶だ。
自分が見たはずのないものなのに、その手の温度だけは胸のどこかに残っていた。
『あの人を兵器にしたのは、世界でした。危険だから閉じ込める。役に立つから使う。壊れかければ捨てる。誰も、あの人が何を怖がり、何を守ろうとしていたのかを見ようとはしなかった』
レオナの目が、レンの横顔へ動く。
『だから私は、あの人を人間として呼び続けました。力ではなく、名前を。深い場所から戻れなくなりかけるたび、アベルと呼びました。声しか届かなくても、呼ぶことだけはやめませんでした』
レオナの包帯の下が、熱を持った。
黒い光へ手を伸ばし、焼けても離さなかった夜が蘇る。自分が何をしているのか、あの時は考えなかった。
ただ、レンと呼ばなければ本当に消えると思った。
リリアの声は続く。
『私たちの一族が持つものを、里では鎮めの血と呼びます。でも、それは敵を倒す力ではありません。深い場所に落ちる人の手へ、帰り道を残すだけのものです』
レンが自分の胸へ手を当てた。
「帰り道……」
『アベルの血は、あなたを深淵へつなぐかもしれません。私の血は、あなたがそこから帰る助けになるかもしれません。二つを受け継がせてしまったことを、私はずっと恐れています』
映像の影が揺れる。
『でも、レン。力を持つことと、力のために生きることは違います。誰かがあなたを兵器と呼んでも、自分までそう思わないでください。あなたは、帰っていい子です。誰かの声を聞いて、手を取って、ただいまと言っていい人です』
レンの肩が震えた。
はっきりした記憶が戻ったわけではない。
幼い頃の母の顔も、抱かれた感触も、まだ白い靄の向こうにある。ただ、いま聞いている声が他人のものではないことだけが、身体の深い場所で分かった。
「……母さん」
言葉が、小さくこぼれた。
レオナが息を呑む。
レンは自分でも驚いたように唇へ触れた。呼ぼうと決めたわけではない。
痛む胸の奥から、勝手に出た。
板の映像は最後に、ほんのわずかに顔を上げた。
『もしあなたのそばに、名前を呼び続けてくれる人がいるなら、その声を信じてください。私がアベルにしたように、きっとその人も、あなたを力ではなく人間として見ています』
光が薄くなる。
声が消える直前、リリアは優しく笑ったように見えた。
『帰ってきなさい、レン』
記録板の光が消えた。
石室には、レンの乱れた呼吸だけが残った。
◇ ◇ ◇
レオナは何も言わなかった。
リリアの最後の言葉が、自分へ向けられていたように感じたなどとは、口が裂けても言えない。そもそも、母親の役目を引き継ぐつもりなどない。
ただ、レンがこちらを見るまで待った。
長い沈黙のあと、レンが声を出す。
「俺は、あの人の顔を覚えていない」
「ああ」
「父親のことも、まだほとんど分からない。カイの声も、あなたの名前も、浮かぶだけで……何があったのかはつながらない」
「ああ」
「でも、あなたの声を聞くと、戻らなきゃいけない気がする」
レオナは一度だけ目を伏せた。
「気がする、では足りない」
レンの口元に、弱い苦笑が浮かぶ。
「厳しいな」
「今さら知ったのか」
「たぶん、前から知っていた気がする」
その答えだけで、胸の奥へ張り詰めていたものが少し緩んだ。
フィオナが小さく息を吐く。
「会話が続くようになったのは良いこと。でも、黒い筋はまだ消えてない」
レンの右手首には、確かに影が残っている。
長老が銀色の環へ近づき、杖の先で床の文様をなぞった。中央から外へ伸びる線の一部が、白く濁っている。
古い石に、知らない金属が染み込んだような色だった。
「本来、この封じ場は深い場所と人の間を切り離すためのものだ。完全に閉ざすのではない。落ちかけた者が戻るための細い道だけを残し、余計な声を遮る」
フィオナが白い濁りへ膝をつく。
「この色、白冠環の光に似てる」
「似ているのではない。つながっておる」
長老は顔をしかめた。
「昨日まではなかった。白い冠がこの子へ干渉した時、封じ場の奥へも同じものが流れ込んだ。外から深い場所をこじ開け、ここにある遮断の仕組みを逆向きに使おうとしている」
レンが壁の割れ目を見る。
「俺の中へ入るために?」
「お前だけではないかもしれん」
長老は銀色の環へ手を置いた。
「この封じ場は、深淵へ触れたものを眠らせてきた。お前の父が抱えていた残響も、昔ここへ落ちた黒い火の欠片も、その奥には残っている。それを集め、白い何かへ流す者がいるなら――」
言葉が途切れた。
◇ ◇ ◇
封じ場の外では、ルーファスが布に包んだ白冠環の破片を地面へ置いていた。
触れていないのに、破片は一定の間隔で明滅している。切断した通信が生きているのではない。
向こうから、この破片を目印にして何かが脈を送ってきている。
ヘイルが剣を抜く。
「潰しますか」
「待て。潰せば道が一本消えるだけで、相手が何を狙っているか分からなくなる」
「でも、このままなら里へ通します」
ルーファスは唇を噛み、破片の内側へ拘束杭剣の先を添えた。白い光へ触れた瞬間、視界に一行だけ表示が浮かぶ。
『遮断核座標 固定』
「遮断核……?」
黒い騎士を追っているのではない。最初から、この里の奥にあるものを探していた。
ルーファスは顔を上げる。
「全員、里人を岩壁から離せ! 技術顧問の狙いは黒い騎士だけじゃない!」
その声とほぼ同時に、山の奥で低い振動が起きた。
◇ ◇ ◇
石室の床を、白い光が走った。
最初は細い一本だった。それが銀色の環を回り、壁の割れ目へ入り込み、黒かった奥を内側から白く塗り替えていく。
レンが呻いた。
「来る……」
レオナが《アシュラ》へ手をかける。
「何がだ」
「俺じゃない。俺の外にいる。さっきの……人の中に白い冠を入れられたやつが……ここを見てる」
フィオナが術式を広げる。
「接続を切れる?」
長老が石台の下へ手を伸ばすが、文様はもう応じなかった。白い光が指先を弾き、老人の身体が後ろへ倒れかける。
アリアが慌てて抱き止めた。
「長老!」
「触るな! もうこちらの封じではない!」
壁の割れ目の向こうで、何かが動いた。
機械の音ではなかった。
水の中で、眠っていた胎児が初めて身体を返すような、ぬるい動きだった。
白い光が、封じ場の銀環へ染み込んでいった。
新しい核が生まれたのではない。もともとそこにあった封じの装置が、外から流れ込んだ白い光に侵され、別の何かの目へ作り替えられている。
銀環の中央に、閉じた瞼のような線が浮かんだ。
レオナはレンを背へ庇う。
「下がれ」
「違う」
レンはレオナの肩を掴んだ。
「あれはここにいるんじゃない。遠くから……俺を見てる」
石室に、知らない声が響いた。
『黒色深度値、確認』
『帰還因子、確認』
『深淵遮断核、遠隔接続』
リリアの記録板が、石台の上で小さく震えた。
一瞬だけ、母の声が混じる。
『レン――』
その音を押し潰すように、銀環の中央に浮かんだ白い目が開いた。
『白冠統合体、起動済み』
声はこの石室からではない。
もっと遠い場所で目覚めた何かが、封じ場を通してこちらを覗いている。
『個体名――リジェネシス』
白梢の里全体が、足元から揺れた。
そしてレンの手首に残っていた黒い筋が、遠くにいる白冠統合体へ呼応するように、一斉に浮かび上がった。




